京都モダン建築祭

2026年1月 3日 (土)

初めての尊攘堂(9)玄関ポーチの鋳鉄飾り

ポーチは2本の鋳鉄製の柱で支えられている。柱に取り付く手摺などの鋳鉄製の飾りもよくできていて楽しい。

手摺は中央でふたつに分割されている。同じものを4つ鋳込んで左右2か所の手すりとしたのだろう。柱上の湾曲した補強金物も鋳物のようだ。鍛造では鋳造であるところが特徴である。送付とも鋲ではなくボルトナットで留めているは珍しいと思う。

Img_9761_20260103103801
Img_9727
Img_9729
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月31日 (水)

初めての尊攘堂(8)松下村塾の四天王と呼ばれた勤王志士たち

丸窓のように見えるが窓ではない。丸いアルコーブ(壁のへこみ、壁龕(へきがん)ともいう)の下に台がある。この台上にブロンズ製の胸像を置くのだろう。それはもちろん勤王の志士たちだ。いったい誰が載るのか。

アルコーブは4つある。つまり4つで1セットなわけだ。それならもう吉田松陰の弟子の四天王しかなかろう。久坂玄端、高杉晋作、吉田稔麿、入江久一の4人は、獄死した松陰の遺志を継いで泥沼の倒幕闘争に明け暮れながら、その成就を見ずに死んだ。

この「堂」は彼らの鎮魂の館なのだ。わたしは4人の胸像は完成していたと思う。ひょっとするとそれはここへ飾られていたのかもしれない。戦時の金属供出で堂内の松陰像とともに持ち去られて帰ってこなかったのではないか。復元しなくてもよいので、せめて元の姿はどうだったのか明らかにしてほしい。

Img_9725
Img_97252
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月30日 (火)

初めての尊攘堂(7)ニワトリの顔に見えるのはなぜか

ニワトリの顔に見える。屋根にトサカのような飾りもついているしな。夜の闇にあって日本の夜明けを告げた吉田松陰にちなんでいるのか。いや、それは考えすぎだろう。

一見、新古典主義建築に見えながら違和感があるのは入り口上部の角が丸いことである。アーチなのではない。角が丸いのだ。そんなことってある? 
 
それは風除け室から展示室へ入る扉の上もそうなっていて、この意匠がたまたまではなく確信的に行われたことを示す。ただし、他に角丸の出入り口はない。それもまた、主動線のみ角丸にしたという設計者の意思がうかがえる。

なぜそうしたのかは分からない。でも、そのおかげで正面がますますニワトリの顔に見えるのだった。やはり日本の夜明けがテーマなのか。いやいやそれは考えすぎだろう。

Img_97192
Img_9724
Img_97352
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月29日 (月)

初めての尊攘堂(6)古き良き展示ケース

展示ケースも古い。クラシック風に見せながら余分な装飾をはぶいた足元はセセッション的でかっこよい。使いやすそうなよくできた展示ケースだと思う。メンテもよいので修理なさったのだろう。大事にされているのが好ましい。

これは元からここにあったものだろうか。それとも文学部陳列館から持ってきたのか。陳列館のものであれば武田デザインの可能性はあるが、武田らしさはない。シンプルでセセッション的なところは尊攘堂インテリアと共通するようにも見えるので、元からここにあったのかもしれない。

いまもって設計者不詳なのはなぜか。石田潤一郎先生は文部省関係者ではなかろうという。もし省の関係者であれば跡をたどれるはずだということだろう。それがないということは設計者は寄贈者側の選定ということになる。やはり品川弥二郎の事績を当たるべきか。

Img_9760_20251229101201
Img_9748
Img_9747
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月28日 (日)

初めての尊攘堂(5)内倒し窓の正しい開け方

縦長の窓がリズミカルに並びインテリアの端正な美しさを調えている。ランマは内倒し窓だ。この頃の内倒し窓は、窓上部にあるラッチ(かんぬき)を長い棒で引き下ろすことで開く。ここではそうなっていない。

手もとの金属棒を引き下ろすと開くらしい。なぜ引き下ろすと窓が開くのだろうか。操作すれば分かるのだろうが、それはしてはならない。しばらく見ていたが分からなかった。とりあえず珍しい金物であることを指摘しておく。

上げ下げ窓の鍵はクレシェント錠が多いが、ここはなぜかネジ締め錠だった。これも珍しい。錠には「完全」と刻印されている。

Img_9750
Img_9759
Img_9755
Img_9758_20251228092301
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月27日 (土)

初めての尊攘堂(4)ドアのツボミ飾り

玄関まわりのドアにだけミニキャベツのような木彫りの飾りがついている。バラのツボミに見える。小さな飾りだが、あるのと無いのでは大違いだ。すばらしい。

大正時代だとそうしたユーゲントシュテール(ドイツ世紀末芸術)風のバラ飾りがあるが、明治36年だと少し早い気がする。わたしが知らないだけで普通にあるのかもしれない。

Img_97372
Img_97363
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月26日 (金)

初めての尊攘堂(3)漆喰装飾のつくりかた

天井と壁の境い目に等間隔で並ぶ装飾は石膏製だと思う。換気口や天井枠ラインの交点に取り付けられた花模様の装飾も石膏製だろうか。こうしたものは、そのつど作るのだろうか。手もとの資料を見ても詳細が分からない。もっとよく調べてみたい。そうしないと自分で作るときに困る。

おそらく粘土で作ったモデルの型を石膏でとって、その型に漆喰かプラスター(西洋漆喰)を流し込んで作るのだろう。小さなものだとモルタルでひっつくが、重い場合は鉄線が麻ヒモを仕込んでおいて下地にくくりつけるのではないか。

Img_9751
Img_97422
Img_9752
Img_97412 
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月25日 (木)

初めての尊攘堂(2)エビに見える

シャンデリアの吊元の飾りがエビに見える。動き出しそうでおもしろい。おそらく外縁の綱模様までが石膏製の円盤だ。二重のライン枠は現場で仕上げたコテ仕事だろう。枠仕事がきっちりしてブレがないからエビ装飾が映えるのだ。見事である。

天井仕事はどこまでがオリジナルなのだろうか。天井そのものが水面のようにまっ平なのもすごい。下地板の継ぎ目がまったく見えない。こういう左官仕事の設計をわたしもしたい。

Img_9743
Img_9745
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月24日 (水)

初めての尊攘堂(1)勤王志士の資料館として

初めて中へ入った。左官仕事が見事で見飽きない。修復が丁寧なのも気持ちがよい。つい長居をしてしまった。

正面の壇にはトスカナ式の柱が4本立つ。トスカナ式はシンプルながら端正な美しさのある柱頭飾りでわたしは好きだ。ここでは円柱ではなく四角柱なのでなおさら端正に見える。とてもよき。

尊攘堂は吉田松陰と勤王志士の資料館だ。最初京都市内に設けられたが、1903年に建物付きで京大に寄贈された。尊攘堂を設立したのは長州出身の政治家・品川弥二郎だ(寄贈されたのは彼の死後)。品川も松陰の教えを受けた勤王の志士のひとりであった。

イタリアのトスカナ地方は騎兵の本場なので、陸軍系の建物に多い気がする。また、銀座レンガ街や大阪造幣局など明治初期の近代建築もトスカナ式が多い。トスカナ式は尊王攘夷の資料館にふさわしいと思う。設計施工はいまもって不詳である。なぞ深い。

Img_9738
Img_9739
Img_9740
2025.11.08、京都モダン建築祭にて

| | コメント (0)

2025年12月23日 (火)

八竹庵はだれが設計したのか(13)都会の別荘プロジェクト

八竹庵連載は今回で終わる。多少メモしておきたい。

八竹庵は婦人服雑貨商の美濃利(井上利助)の本宅兼迎賓館として1926年に竣工した。その後、襦袢商の川崎家が所有し紫織庵として公開されてきた。川崎家からデベロッパーに所有が移りマンションに建て替えられそうになったところをくろちくが救った。現在は八竹庵として公開されている。

設計施工は数寄屋大工の上坂(こうさか)浅次郎でよいと思う。洋間は武田、和室は上坂という分け方は意味がないと思う。記録には上坂は大工、武田は参与とあるのだから、そのとおり読むべきだろう。設計施工は上坂で、武田はアドバイザーとして八竹庵に関わった。

武田は全体の平面図を描いたほか主要室のインテリア図を描いたと思う。武田と上坂はそれまでにも一緒に仕事をしたことがあるのではないかと思う。いま手もとに資料がないので確かめられないが、そのうち調べてみたい。

洋間は高島屋が担当したとどこかで読んだ。高島屋の建築部門には武田の教え子がいたから、さもありなんと思う。

もうひとりの参与である塚本与三次(京都商事株式会社)は南禅寺かいわいの別荘街開発で知られている。武田は南禅寺かいわいに作品がいくつかあるので、一緒に仕事をしたことがあったのではないか。

美濃利の迎賓館造りの相談相手は塚本だったのだろう。敷地は郊外の別荘地ではなく町中の業務地帯だった。塚本にとって都会の迎賓館づくりは初めてだったのではないか。そこで武田と上坂に声をかけたのだと思う。こうして最強のチームが誕生し八竹庵ができたというわけである。

Dscf0375
2011.05.29、京都市中京区

| | コメント (0)

より以前の記事一覧