庭園巡礼

2022年6月13日 (月)

赤い庭の謎

孤篷庵(こうほうあん)の庭がなぜ赤いのか分かったのでメモしておく。

図のように赤い庭は方丈側と書院側に分かれている。それぞれ意味があると考えるべきだろう。意味が分かったのは方丈側の長方形の庭のほうだ。これは五行で考えるのが常套だろう。方丈前の禅庭は五行で読むことが多いように思う。

北条は釈迦如来を祀った本堂である。その南側に小堀家の墓地がある。ここは小堀家の菩提寺として遠州のよって作られたのだ。その墓地の前に赤い庭が横たわっている。庭は墓地とセットになっている。

赤は五行説で言えば火気に当たる。火気には土気を生む力と金気を殺す力のふたつの働きがある。すなわち火気を供えるとすれば土気の神さまを喜ばせるか、金気を殺して木気を援けるかのどちらかだ。

この場合は金気を殺すほうだろう。金気には木気を殺す力があるので、金気を殺しておけば木気が喜ぶわけだ。

木気は春を象徴する。生命誕生を象徴する気である。この場合は小堀家の子孫繁栄を願ったものだろう。

遠州の略歴を見ておく。

小堀家は豊臣家の寵臣でありながら関ケ原では徳川方についた。戦功に応じて小堀家は備中松山領を拝領した(1600)。父親の跡をついで大名になったのが1604年。そのころには古田織部の高弟のひとりとして知られていた。1615年大阪夏の陣で織部は豊臣方として捕縛され切腹。このときが小堀家の最大の危機だったろう。

遠州は畿内に呼び戻され徳川方の行政官として手腕を振るい1624年には伏見奉行となった。二条城や水口など彼の主要な作庭はこの時期に集中する。1643年、孤篷庵を菩提寺として整備。1645年ごろ公金横領の嫌疑がかかるが酒井忠勝や細川忠興らの茶道遠州流を遺すべしという工作によって助かる。1647年69才で死没、孤篷庵に葬られる。

小堀家は豊臣から徳川へと綱渡り的な処世のみちをたどった。遠州自身、何度も切腹の危機を乗り越えてきた。遠州は自分が死んだあと、これ見よがしに小堀家がつぶされることを予見したのだと思う。だから遠州流を茶道として確立させることに心をくだいた。それと同時に菩提寺には子孫繁栄の願いをこめて赤土の庭を作ったわけだ。

庭の東の隅に小さな木立がある。樹齢数百年でありながら高さが2メートルくらいしかない。底に岩が敷いてあって大きくならないようコントロールしているそうだ。直植えの盆栽といってよいだろう。東側は木気の領域なのでこの盆栽は木気を象徴している。ここを見ても赤土の庭が金気を殺して木気を援ける意味であることは瞭然だろう。以上、現時点での推理をメモしておいた。
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2022年6月12日 (日)

小堀遠州の孤篷庵を見学した

特別公開していたので見学した。40分間のガイドツアーだったが分かりやすい解説だった。撮影スケッチとも不可だったので画像はないが印象に残ったことをメモしておく。

まず方丈前の庭が赤土のテニスコートのようで驚いた。赤い庭は初めて見た。刈込が波を表し赤土が海を写すと説明があったが、なぜ海が赤いのか。八卦では赤は悦びの色だが、五行では燃え盛る炎の色だ。火気を供えて土気を増すか、金気を滅ぼして木気を援けるか、そのどちらかだろう。孤篷庵を開いた理由と関連していると思う。ただの隠居所ではないような気がする。

ふたつめは茶室・忘荃(ぼうせん)席の明かり障子が美しかったこと。障子の下がにじり口になっているとは知らなかった。西向きであるので日除けの障子だと説明があった。障子に夕陽が映って真っ赤になるのではないか。障子のむこうには真っ赤な庭が広がる。赤土の庭と赤い光に染められた茶室、これは阿弥陀来迎の浄土を示すのではないか。

3つめは重ねられる月のイメージ。まず門の敷石が月の形に見えたこと。次に忘荃席の明かり障子の下に「露結」という臼型の手水鉢があること。露結耳とはうさ耳のことだそうだ。臼はウサギが餅をつく臼なのだろう。3つ目は忘荃席の床の間に月が描かれていること。これらの月は何を示しているのだろうか。忘筌席の月のなぞかけが解ければ赤い庭の意味も分かるだろうか。これから少しずつ考えてみたい。

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2022.06.09、孤篷庵への途

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2021年7月18日 (日)

宝厳院庭園の謎の巨石群

宝厳院庭園も美しかった。

庭は広い。元は建物があったような平地があるので、建物が失われたあと複数の庭が連結されて現在のような形になったように見える。美しい庭園だったのでメモしておく。
 
奥のエリアは獅子吼(ししく)の庭と呼ばれている。釈迦の説法をライオンの咆哮にたとえた言葉だそうで獅子岩という巨石がある。たしかにライオンが吠えているように見える(写真)。

Img_1296 獅子岩

碧岩という巨石もあった(写真)。これは表面に縞模様の浮き出た珍しい岩だった。ほかにも巨石が見え隠れしたが、いったいいくつあるのかよく分からなかった。

Img_1289Img_1290 碧岩
2021.06.27、京都市「宝厳院庭園」

作庭は策彦周良(さくげんしゅうりょう)禅師による。1501ー1579なので夢窓国師(1275ー1351)より200年ほど後のことになる。ウイッキによれば武田信玄や織田信長と交流があったというから小堀遠州などの桃山時代の作庭のひとつということらしい。策彦禅師は2度にわたり中国へ渡り最先端の作庭を学んだようだ。かの地にこのような巨石庭園があったということだろうか。

策彦禅師は晩年に天龍寺の塔頭の妙智院に隠棲したという。妙智院はいまも天龍寺門前にあるが策彦禅師のころはここ宝厳院の場所にあったそうだ。おそらく方丈があり、その前に獅子吼の庭があったのだろう。方丈が失われ巨石群も樹林に沈んで獅子吼の庭の全貌が分からなくなってしまった。それでも巨石の配置を丁寧にたどれば策彦禅師の作庭を復元することは可能だと思う。

獅子岩は白虎、碧岩が青龍を示すのではなかろうか。陰気である獅子岩が陽気の領域の東側、陽気である碧岩が陰気の領域の西側にある。つまり獅子は東へ帰ろうとし、龍は東へ戻ろうとするので、その中間で陰陽がまじりあう。竜虎混合は桃山時代によく使われたモチーフだが、この庭も同様の分かりやすい意味だったように見える。

ふたつの巨石の中間に樹林に埋もれた巨石があった。近寄れなかったが、これが3つ目の巨石・響岩ではないか。竜虎混合により庭が響くという意味なのだろう。そこに本来は瀧口があって響くのは水音だったのかも知れない。樹林にひびく水音こそ獅子吼にたとえられた釈迦の説法だったのだろう。
Map

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2021年7月10日 (土)

蓑笠垣がかわいい

たしかに蓑笠(みのかさ)に似ている。竹枝を並べて吊るすことで柔らかい曲線を作りだしている。なかなかよい。こんな垣根をどこかで作ってみたい。宝厳院垣ともいうようだ。大正期の茶室・青嶂軒(せいしょうけん)を囲っていたので茶庭のディテールなのだろう。茶庭も楽しそうだな。

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2021.06.27、京都市嵐山、宝厳院

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2021年7月 9日 (金)

宝厳院庭園の土橋がよかった

土橋を見たのは初めてかも知れない。表面はタタキ仕上げに見えるが土に漆喰を混ぜて固めているのかも知れない。土色の橋が水の上を軽やかにわたる景色が美しい。表面の雨に洗われて小石の浮き出たようすもとてもよい。

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2021.06.27、京都市、宝厳院

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2021年7月 7日 (水)

天龍寺庭園の夢(6)

夢窓国師の作庭がどのようなものだったかを追ってきた。ひとまず分かったことは3つあった。

ひとつは後醍醐天皇鎮撫のようなテーマがあること。もうひとつは、一抱えほどの小振りな石を多用すること。あとひとつは斜面を使った作庭手法があったこと。ここでは斜面庭園の遺跡の存在を確かめてこの天龍寺編を終えたい。

瀧石組みから直線距離で30mほど上の斜面に古い庭の跡があった。ひとかかえほどの石が散在している。これは瀧石組み周辺の石と大きさが共通するので夢窓国師作庭の名残りではないかと思う。

夢窓国師の作庭には、おそらく山中の湧水から瀧石組みまでの斜面庭園が重要なパートとして存在したように思う。この遺跡はそのパートの存在を示すものだろう。

桃山時代以降は瀧石組みから上を作ることはあまり聞かない。しかし夢窓国師のころは瀧へ至るまでの水流のほうにも重点があったように思う。斜面全体を瀧に見立てた立体的な造園構成が存在したのではないか。それは平安時代の寝殿造の庭園にはない新しい風景だったろう。

斜面庭園の跡は金閣寺や銀閣寺でも見た。いずれも石が小振りなのでさほど注目されてはいない。しかし夢窓国師の作庭を考えるならば、こうした今は失われた斜面庭園について注意する必要があるのではないかと考えている。

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2021.06.27、京都市、天龍寺

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2021年7月 6日 (火)

天龍寺庭園の夢(5)

現在の天龍寺庭園は夢窓国師の作庭のままではないと言われている。わたしもそう思う。庭としておかしなところがふたつあるからだ。

ひとつは鶴島・亀島がありながら肝心の蓬莱島がないこと。

鶴島・亀島はそれぞれ陽気と陰気を示し、蓬莱島の東西もしくは南北に配置することによって蓬莱島が正しくレイアウトされていることを示す役割がある。したがって鶴島・亀島がありながら蓬莱島がないことはあり得ない。

蓬莱島のない原因として考えられるのは、蓬莱島がなんらかの理由で失われたか、もしくは現在鶴島・亀島と呼ばれているものが実は鶴島でも亀島でもないということ。わたしはその両方がからんだ複合的な原因だろうと考えている。なぜか。それは二つ目の違和感に関わる。

どう考えても瀧石組みが小さすぎるのだ。正面であるはずの書院から眺めても鯉魚石の判別つかないし、瀧の周囲にある夜泊石も鶴島もよく見えない。

これは今の書院の位置が瀧石組みと離れすぎていることが原因だ。本来はもっと近かったに違いない。瀧石組みがきれいに見えるのは今の距離の3分の1くらいだろうと思う。だから池はもっと小さかったはずだ。

秀吉のころ天龍寺は慶長伏見地震に被災したがただちに再建されたという。家康も天龍寺をあつく保護し伽藍は復興した。現在の庭はそのときに今の姿に再整備されたのだろう。しかし夜泊石から瀧石組み、鶴島あたりが古いままに見える。

とくに三段の瀧の周囲にひとかかえほどの比較的小さな石が散在しているが、これこそ夢窓国師の作庭の名残りなのだと思う。なぜなら同じようなものは苔寺にもあったからだ(瀧石組みと潭北亭北庭)

夢窓国師の作庭は桃山時代のものと比べるとずいぶん小さくてこじんまりとした箱庭のようなものだったのではないか、というのが今のところのわたしの結論である。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園の瀧石組み、瀧のまわりにも小振りな石が散在する。
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2021.06.20、京都市、西芳寺庭園の潭北(たんほく)亭北庭、小振りな石組みが残る。

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2021年7月 5日 (月)

天龍寺庭園の夢(4)

曹源(そうげん)池の名の由来は禅宗の法灯の系譜を示す。図示すると次のとおり。

 仏の世界 > ダルマ > 慧能(えのう) > 禅宗各派

夢窓国師はこの法灯系譜に王統を重ねたのだろうと思う。

 神々の世界 > 天皇家とりわけ亀山天皇 > 後醍醐天皇

したがって天龍寺庭園は後醍醐天皇こそ天皇家の正統であることを主張している。つまりいずれ後醍醐天皇の末裔が皇位に復帰することを暗示する。

ただし天龍寺を開いた北朝側がそのような
ことを微塵も思っていないはずなので、それはあくまでこの庭園のなかだけの話だ。夢窓国師は後醍醐天皇のもっとも喜びそうな主題を庭にこめた。だからこの庭は、天竜となった後醍醐天皇をなぐさめるための装置と化したわけだ。これが夢窓国師の公案だったとわたしは思う。

天龍寺庭園の書院に座して、このたてラインの利いた風景を眺めたのは足利尊氏だった。

彼はこの庭を見せられてどう思ったろうか。南朝こそ正統という主題は庭を見ればすぐに分かったろう。そのことを苦々しく思ったろうか。

それとも、後醍醐天皇と過ごした変革の日々を遠い夢のように思い出していただろうか。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園

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2021年7月 4日 (日)

天龍寺庭園の夢(3)

書院から庭を眺めると嵐山が正面に見える。その手前には亀山という丘がある。そして嵐山のピークと曹源池の瀧石組みとが上下に並ぶ。つまりこの庭の構成は、嵐山ー亀谷ー曹源池の瀧石組みとタテにつながることにあるのだろう。ではこのタテの軸線はなにを示しているか。

嵐山は松尾神の降りた聖地であり神々の領域である。亀山には亀山天皇と御嵯峨天皇の火葬塚がある。火葬塚とは墓ではなく火葬場のことだが墳墓に準じた扱いをする。その位置は写真の嵐山ピークと瀧石組みとのちょうどあいだにある。もちろん偶然ではなかろう。

後嵯峨天皇の皇子たちのうち後深草天皇が持明院統となり亀山天皇が大覚寺統となって南北二朝の原因となった。亀山天皇は亀山の地に離宮を営み本拠としたので亀山天皇のおくり名がある。天龍寺は大覚寺統である後醍醐天皇を祀るために亀山天皇ゆかりのこの地を選んで開かれたわけだ。

さらに瀧石組みのなかには滝登りをする鯉を模した鯉魚石(りぎょせき)が立っている。遠くてどの石なのかよく分からないのだが、鯉魚石は瀧石組にはつきものだ。鯉は滝を登り切ったとき龍となり天に昇るという故事にちなむ。だからこの庭の鯉魚石は後醍醐天皇になぞらえて語られることが多い。もちろん夢窓国師がそう言ったという確証はないのだが、寺の名前が天龍寺なのだから座りのよい話だ。

そう考えてくるとタテのラインはこう置き換えられる。

   神々の世界 > 天皇家とりわけ亀山天皇 > 後醍醐天皇

これがこの庭のコンセプトなのである。ではなぜ曹源池という名前なのか。長くなったので続きは次回に。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園
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2021年7月 3日 (土)

天龍寺庭園の夢(2)

池の名前は「曹源(そうげん)池」という。曹源の「曹」は曹渓という場所を指す。そこで慧能(えのう)という僧侶が禅を体系化した。そのおかげで禅宗はさまざまに枝分かれしながら盛んになった。まるで源流の水の一滴が大海を成すように。つまり曹源とは曹渓こそ禅宗の源流だというほどの意味なのだ。

曹源池をL字型に囲むように東側に大方丈、北側に書院がある。これは二条城の二ノ丸庭園の配置と同じだ。二ノ丸庭園は東側に大広間、北側に黒書院がある。家康の座所は黒書院である。つまり二ノ丸庭園は北側の黒書院から見るのが正面となる。

だからこの庭園も北側から見るのが正しいのではないか。と思って書院側から写真を撮ってみた(ちなみに天龍寺庭園は撮影可である)。北側から見渡す庭には途方もない奥行きが備わって吸い込まれるような景色となる。そしてここから眺めれば、この庭の意味も、なぜ曹源池という名前なのかも分かってしまう。これは夢窓国師の残した大いなる公案(禅問答)なのだろう。その謎解きは次回に。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園

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