武田的ディテール

2026年1月12日 (月)

府立図書館の階段手摺が傾いている件

これは最近気づいたことだけれど、この外部階段の手すりは内側と外側で厚みが違う。したがって写真に見るように手摺上面が斜めになっている。普通の壁手すりは雨だれが外壁を汚さないように内側に傾ける。ここでは逆になっている。なぜか。

さんざん考えたが、考えられる理由はひとつ。このほうが掴みやすいのだ。内側の角は手のひらが馴染むような丸みを帯びている。武田はそこまで考えて作っていたのか! おもしろ過ぎる。

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2026年1月11日 (日)

武田五一の名栗仕上げ

武田の設計した和楽庵を移築するときに外壁板の仕上げ方(1、2枚目)が分からなかったので、新規追加分はレーザー加工で作ったらしい。でもこれは名栗仕上げだろう(3枚目)。幅広の手斧(ちょうな)を使うとこうなる。武田は建材開発に熱心だったから、これは新しい名栗仕上げなのだと思う。

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2025.05.08、和楽庵、京都市左京区松ヶ崎「和楽庵」
2025.11.08、京都市左京区岡崎、ふつうの名栗仕上げ

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2025年12月23日 (火)

八竹庵はだれが設計したのか(13)都会の別荘プロジェクト

八竹庵連載は今回で終わる。多少メモしておきたい。

八竹庵は婦人服雑貨商の美濃利(井上利助)の本宅兼迎賓館として1926年に竣工した。その後、襦袢商の川崎家が所有し紫織庵として公開されてきた。川崎家からデベロッパーに所有が移りマンションに建て替えられそうになったところをくろちくが救った。現在は八竹庵として公開されている。

設計施工は数寄屋大工の上坂(こうさか)浅次郎でよいと思う。洋間は武田、和室は上坂という分け方は意味がないと思う。記録には上坂は大工、武田は参与とあるのだから、そのとおり読むべきだろう。設計施工は上坂で、武田はアドバイザーとして八竹庵に関わった。

武田は全体の平面図を描いたほか主要室のインテリア図を描いたと思う。武田と上坂はそれまでにも一緒に仕事をしたことがあるのではないかと思う。いま手もとに資料がないので確かめられないが、そのうち調べてみたい。

洋間は高島屋が担当したとどこかで読んだ。高島屋の建築部門には武田の教え子がいたから、さもありなんと思う。

もうひとりの参与である塚本与三次(京都商事株式会社)は南禅寺かいわいの別荘街開発で知られている。武田は南禅寺かいわいに作品がいくつかあるので、一緒に仕事をしたことがあったのではないか。

美濃利の迎賓館造りの相談相手は塚本だったのだろう。敷地は郊外の別荘地ではなく町中の業務地帯だった。塚本にとって都会の迎賓館づくりは初めてだったのではないか。そこで武田と上坂に声をかけたのだと思う。こうして最強のチームが誕生し八竹庵ができたというわけである。

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2011.05.29、京都市中京区

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2025年12月22日 (月)

八竹庵はだれが設計したのか(12)床の間比較

2階の座敷の床の間は1階のものとよく似ている。ただし方眼も黄金比もなさそうだ。ふたつの床の間を重ね合わせてみたところタテ方向はぴったり合う。つまり2階床の間は1階床の間のタテ方向の比率を守りながら両端を切り詰めていることが分かる。

おそらく武田はすべての部屋の設計をしたわけではなさそうだ。彼は主要な部屋のインテリア素案を示しただけだろう。方眼紙に描かれた展開図を弟子の誰かが清書したものが上坂棟梁の手元に届いたろう。上坂棟梁はその素案を活かして八竹庵を設計施工した。

2階床の間については武田図面は無かったので、上坂棟梁は武田の描いた1階床の間の寸法を応用した。ぴったり重なるのはそのためだ。ただし方眼や黄金比のことまでは知らなかった。それでも武田の考えた展示物をひきたてる控えめでシンプルなデザインは実現している。その点については事前に武田と示し合わせていたのだろう。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月21日 (日)

八竹庵はだれが設計したのか(11)天井換気口の図案

この図案は何だろうとずっと思っていた。ひょとしてこれはタマムシではないか。

ずっと板の部分は模様だと思っていたが、穴のほうが模様なのだろう。図と地の関係が反転して見えるので分かりにくかったのだ。そもそも3分割されているのだから、穴のほうが模様だと気づくべきだった。

さて、これがタマムシだとしても方眼に載ってこない。なんだか微妙に合わない。武田の原図は方眼に描かれていただろうが、それを誰かが描き直したときに微妙にずれたように見える。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月20日 (土)

八竹庵はだれが設計したのか(10)漆の布目塗り仕上げの床框を知っていますか

床の間は素材を楽しむ場所である。床柱の次に注目されるのは床框(とこがまち)だ。床框は座敷と床の間の段差を納める水平材のことだ。ここでは布目の漆塗りとなっている。漆塗りの床框は普通にある。しかし布目塗りは珍しいと思う。

どれのくらい珍しいのかということを識者に確かめてみようと思う。もし本当に途方もなく珍しいとすれば、やはりこれは武田の新素材を試さずにはいられない性質の発露であろう。

ちなみに漆塗りは越前塗や能登漆など北陸方面が有名だが、武田は金沢の高等工業学校との関係が深い。おそらく国会議事堂設計チームのなかで武田は素材担当だったのだろう。全国の伝統工芸の建築的応用を考案するという立場は武田にとって水を得た魚だった。それは日本建築を再興する道筋でもあった。その一片が、この床框に顕れているように見える。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月19日 (金)

八竹庵はだれが設計したのか(9)床の間の黄金比

この床の間は黄金比でできている。垂れ壁下の開いている部分が、床の間・床脇とも黄金比である。しかも床脇部分の壁面は黄金比長方形6つで構成されている。
 
地袋そのものも黄金比だ。地袋の幅と天袋の幅は1:2になっている。この整数比も武田っぽい。
 
この床の間は洋間暖炉と同様、黄金比方眼でデザインされている。武田が基本図を描いたとしか考えられない。

床柱が座敷の中央から10センチほど右へずれている。そのため垂れ壁の下端が床の間のほうが若干高くなる。この部分は床脇より少し高くするのが床の間の作法だ。作法を守りながら、それでも黄金比であるところが武田らしい。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月18日 (木)

八竹庵はだれが設計したのか(8)違い棚のない床の間

 大広間の床の間に違い棚が無い。本当に最初からこうなのか。本来なら床脇の天袋と地袋のあいだにあるはずの違い棚が無いのだ。違い棚は床の間の見せ所であるのになぜ省略したのか。

考えられる理由はひとつ。ここは着物の展示場として設計されているので、展示しやすいように違い棚を設けなかったのではないか。思い切ったことをしたものだ。

そのかわりに天袋を左に地袋を右に寄せて違い棚風に見せているのがおもしろい。この処理のおかげで違い棚が無いことに違和感を感じないのだ。おそらく武田と上坂で相談して決めたのだろう。上手いと思う。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月17日 (水)

八竹庵はだれが設計したのか(7)武田の新素材たち

暖炉のタイルは本当にタイルだろうか。居合わせた笠原さんが尋ねるのでふたりでシゲシゲと眺めたが分からなかった。石のように見えるがタイル表面を砕いたものにも見える。岩肌の表面に影が落ちて落ち着いた表情を作っている。武田考案の新素材だろうと思う。

外壁タイルはご覧能ようなものだ。石のようにも見えるが切断面の筋が浮いているので、粘土をカットしたものであることが分かる。厚みがあるので、レンガタイルではなくレンガなのだと思う。素焼きの表情が暖かくて親しみ深いよい素材だ。これも武田考案ではなかろうか。

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暖炉)2025.11.09、京都モダン建築祭にて
外壁)2025.05.07、京都グラフィー
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2025年12月16日 (火)

八竹庵はだれが設計したのか(6)蔓延する名栗仕上げ

名栗(なぐり)とは木の表面を細かく刻む仕上げをいう。それは腰壁パネルだけではなく、腰壁の枠やドア枠そして幅木の角をカットした部分などいたるところにあった。木材表面に影の落ちる加工をして柔らか温かみのある表情を生んでいる。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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