武田的ディテール

2021年3月17日 (水)

武田的ディテール(22)和風な洋風

玄関まわりに雷紋がある。これはギリシャ雷紋をアレンジしたものだ。一方、法隆寺には卍くずしの高欄がある。それは卍(まんじ)を崩したものだと言われている。ためして組み合わせてみた(下図)。あまりうまくできない。なぜこれが卍くずしなのか誰か説明してほしいものだ。

ともかく雷紋は東洋と西洋に共通の紋様であり、なんらかの東西交流の痕跡と考えられていた。武田が繰り返し使う風車模様も雷紋だったのかも知れない。東西両文明の融合を考えていた武田らしいではないか。実はこの建物は正面に雷紋を張り付けているのである。それはあした。

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2011.05.24、旧京大建築学教室
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2021年3月16日 (火)

武田的ディテール(21)和風な洋風

これは建築学教室の入り口両側に立つ柱だ。門の守護神のように左右に控え来るものに謎をかける。一見洋風に見えるこの柱頭飾りの一体どこが和風だというのか。答えは簡単。下図のとおり和風の組み物をアレンジしている。さてこれがどこの寺の組み物なのか分かるだろうか。わたしとしては法隆寺だろうと思う。なぜなら門のまわりに「くずし卍模様」があるからだ。それは明日。

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2011.05.24、旧京大建築学教室1922
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2021年3月12日 (金)

武田的ディテール(20)銅像台座

武田はえてして記念碑を演劇的に作る。これはその典型といってよい。こうした動作を伴った銅像は珍しい。この記念碑は歴史のワンシーンを演劇的に再現することによって三条大橋東詰めのこの地が尊王思想の発祥地であることを示している。ウイーンのワーグナー先生は都市における記念碑を個人崇拝の祭壇にしてはならないと言ったが、まさにこの記念碑はワーグナー流の都市型記念碑といえよう。

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2011.05.09、高山彦九郎先生皇居望拝像台座1928

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2021年3月10日 (水)

武田的ディテール(19)京大の矢車模様

(2)で紹介した同女のレンガ飾り積み(1914年)のデザインはタイル貼りに継承された。レンガ造が鉄筋コンクリート造に変わっても相変わらず飾り貼りをしている。よほど好きだったのだろう。

この矢車模様はおそらく鯉のぼりをイメージしている。肝心の鯉が描かれていないが、鯉はこの講堂に集う学生たちだ。鯉の滝登りのように京大は学生たちの登竜門なのだ。いかにも武田好みのシャレである。

当初は学生のあいだでそう言い伝えられていたがそのうちに忘れられてしまったようだ。いまは誰もこの矢車の意味を知らない。

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2011.05.24、京大「100周年記念時計台」1925年竣工

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2021年3月 9日 (火)

武田的ディテール(18)コンパスの跡

武田は方眼紙とコンパスで設計することは知られている通りだ。実際それがよく分かるのがこの図書館だ。立面を分析すれば図のように方眼紙と円が浮かび上がる。おもしろい。

さらにおもしろいのは円の中心が窓に残っていることだ。写真をよく見てほしい。1段目と2段目の窓のあいだの横桟に小さな丸があるのがお分かりだろうか。

これはおそらくコンパスの芯を立てるための目印であって装飾ではなかろう。この工事のとき武田は海外出張中だった。武田に確かめることができないので装飾として作ってしまったのだろう、と私は思っている。

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2011.05.24、京都府立図書館
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2016.04.20、京都府立図書館

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2021年3月 8日 (月)

武田ディテール(17)武田邸アトリエ

 武田は自宅にアトリエを作った。そこには学生や卒業生たちが住み着いて武田が依頼されたさまざまなプロジェクトの図面を描いていたという。なんともうらやましい限りだ。武田邸はいまはもう無いがアトリエはある。沖縄民家を思わせる赤瓦の宝形屋根だ。沖縄びいきの武田らしい。おもしろいのはいろんな実験の跡が見えることだ。窓はライト風のステンドグラスがはまっているし、その横にはタイルの模様貼りをしている。アトリエは図面や模型を作るだけではなく、さまざまな試作を行っていたようだ。なんとも楽しそうなアトリエである。

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2011.05.31、京都市北区

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2021年3月 6日 (土)

武田的ディテール(16)記念碑のベンチ

鈴木博之のせいで有名になってしまった。台座の上の段々が国会議事堂に似ているのでこれは議事堂の習作ということになった。まあそう言われればたしかに習作かも知れない。武田は議事堂設計チームの主任格としてたいそう尽力したが、できあがった建物はちっとも武田らしくなかった。それに比べてこの習作のほうは武田らしさにあふれている。

和風くずしの柱頭まわりを取りざたする者は多い。それはそれでおもしろいのだが、私がもっとも武田らしいと思うディテールは柱のあいだのベンチである。

武田は記念碑を街角のポケットパークとして作ることが多い。それはウイーンのワーグナー先生の教えでもある。ワーグナーはウイーン改造にあたって記念碑は都市散策者の憩いの場とするべきだとした。改造されたウイーンの大通りには劇場や美術館やカフェが並び都市散策者の楽しみの場として整備された。記念碑は街路を楽しむための主要なストリートファニチャーのひとつとして機能していたのである。

武田は同じことを日本でもしようとしたことがこのベンチを見れば分かる。いまこの記念碑はフェンスに囲まれて近づけない。ベンチに座らせてほしい。

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2011.08.13、神戸市大倉山「伊藤博文公銅像台座」1911

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2021年3月 5日 (金)

2001年「分離派建築会100年展」メモ

分離派展を見てきた。収穫は堀口捨巳の住宅が思いのほか「かわいい」ということだ。木造としては納まりが悪いが、欠点を補ってあまりある「かわいさ」だった。たいへん興味深い。

多少苦言を呈すると武田五一をプレ分離派として登場させないでほしい。武田は分離派と関係がない。それは展示を見てもよく分かる。

かつて武田はデザインが下手だと見下されてきた。京都へ左遷されたと公然と言われていた。根も葉もないデマで、東大を主流派とするための言説の犠牲になっただけだ。私たちがそうじゃないとさんざん言ってきたので、さすがに今ではそんなことを言う不届き者も無くなった。それでも武田は駆逐されるべき古き様式主義者側と捉える考えが生き残っているわけだ。ひどい話だ。

かつて分離派史観とも呼ぶべきものがあった。様式主義を脱して近代合理主義建築へ至る歴史の道程こそ正義とする考え方で、元をただせばペブスナー流の近代建築史観に行きつくのだろう。そんな古臭いものはとっくに無くなったと思っていたが結構しぶとく生き残っていたわけだ。わたしとしては武田さえ巻き込まなければ文句はない。何を正義としていただいても結構だ。武田を分離派から分離してほしい。それだけは言わせてもらおう。

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武田的ディテール(15)銀橋の階段塔

橋上から下へ降りる階段塔を備えた橋も珍しい。大川沿いのこのあたりは桜の名所だ。橋の西詰めには桜の季節だけ「通り抜け」のできる造幣局の入り口があり、土手下の河岸は広い遊歩道となっている。東詰めの土手下の河岸は桜並木で有名な毛馬桜之宮公園がある。

つまり桜宮大橋は東西の桜の名所をつなぐために、わざわざ河岸へ降りる階段塔を備えているわけだ。この橋は交通施設であるとともに都市散策を楽しむための施設ともなっている。武田はいつも橋を楽しむことを考えている。

橋からのヴューは町をよく見通すことができる。橋が散策のための中心的な施設である理由はそこにある。その意味で橋はその町を象徴するポイントとなる。武田はそのことをよく理解していたからこそ階段塔を設けたわけだ。

そもそも3ヒンジアーチを使ってまで橋脚を川へ置きたくなかった理由は花見客のための遊覧船を安全に通すためだった。武田の設計は桜の名所を守ることを第一目的としている。武田らしいと私は思う。


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2011.12.18、大阪市「桜宮大橋」1930年

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2021年3月 4日 (木)

武田的ディテール(14)銀橋の3ヒンジアーチ

銀橋は3ヒンジアーチという珍しい橋だ。ヒンジとは蝶つがいのことでアーチの3ヶ所に蝶つがいがある。図のようになっており、もし片方の岸が低くなってもヒンジが働いてアーチが伸びて橋は壊れないという優れものだ。武田のころには工業用水の汲み上げで地盤沈下することが予測されていた。両岸で沈下スピードが違うだろうから図のような状態になる。それを見越して武田は3ヒンジを採用したという。武田らの予想通り両岸で激しい地盤沈下が起こったが銀橋は壊れなかった。武田の読みは当たったのだ。武田の合理主義が銀橋の構造によく表れている。

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2011.06.14、大阪市「桜宮大橋」
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