武田的ディテール

2021年6月17日 (木)

武田的ディテール(39) 府立図書館のイチョウ

府立図書館の館名は正面に取り付けられている。それがまたウイーン分離派風でかっこいい。

中央にイチョウをあしらっている。イチョウの葉を3つ半円に揃えてその下に分離派風の四角い点をふたつ打つ。イチョウの左右にも四角い点が並ぶ。四角い点は画面の埋め合わせに入れたのではなく、イチョウの葉の模様と篆書体の館名とをなじませる役割を負っている。

仮に点がないと想像してみれば四角い点がいかにイチョウと篆書体とをくっつける役割を果たしているかが分かるだろう。こうした幾何学的な植物文様と文字とを融合させるデザイン処理こそウイーン分離派譲りであろう。

篆書体の館名には先行事例がある。武田の先輩である片山東熊の京都国立博物館がそうだった。武田はそれに倣ったともいえるが、むしろ篆書体の幾何学的なおもしろさを好んだと思う。でなければ晩年の遺作「桃山碑」で再び植物と篆書体の取り合わせが出てくるわけがなかろう。

ちなみにイチョウの葉は紙魚(しみ)避けになるのだそうだ。

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2021.05.23、京都市岡崎公園、京都府立図書館

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2021年6月14日 (月)

武田的ディテール(38) 圓教寺食堂の柱

うろ覚えで申し訳ないが次に圓教寺へ行くときのためにメモしておく。

食堂の2階に古い柱が保存してあり戦前に調査したことが記されていた。時期的に摩尼殿復元のころなので調査したのは武田だろう。白アリの害についても書かれていたのでなおさら武田が調査したとしか思えない。当時の武田は文化財の白アリ研究の第一人者だった。

さて圓教寺のHPによれば食堂修理は武田没後の昭和38年なので武田が食堂を修理したわけではない。しかし調査によって食堂は本来2階建てであることが明らかになった。そのころ2階の床は張られていなかったようだ。戦後の修理時にその2階床を復元しているので修理の道筋を立てたのは武田だったといってよかろう。

ちなみに2階建ての食堂は類例がないという。たしかに2階建ての食堂は見たことも聞いたこともない。ただし境内に面した2階建ての建物と言えば出雲大社の観祭楼を思い起こす。境内で行われる舞楽を見下ろすための観客席で平城宮の第1次大極殿にも同様のものがあった。したがって私は圓教寺食堂も祭礼時の観客席だったろうと思っている。

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2011.05.11、兵庫県姫路市、書写山圓教寺(えんぎょうじ)

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2021年6月13日 (日)

武田的ディテール(37) 復元された舞台(2)

興味深いのは舞台を支える柱が八角形であること。元がそうだったのかも知れないが八角形好きの武田っぽい。ちなみに8は木気の数なので観音を象徴しているのかも知れない。摩尼殿のご本尊は如意輪観音だが、観音は生命誕生を意味する木気であることが多いのだ。京都の清水寺のご本尊も観音だが舞台の柱は円形である。八角形の柱の舞台は奈良の二月堂がそうだ。ご本尊はもちろん観音様である。舞台と観音とは関係があるのかも知れない。

清水寺の舞台は柱筋から外への張り出しは小さいが、摩尼殿は写真のように2メートルほど張り出している。これも二月堂と同じだ。張り出しを支える3段の挿し肘木の構造も同じだ。これは大仏様なのかも知れない。大仏様の挿し肘木は一部が貫になっていて奥の柱列とつながっている。張り出したバルコニーを支える構造として合理的だ。この合理性も武田っぽい。

摩尼殿と二月堂はよく似ているわけだが、もともと似ていたのか、それとも復元にあたって二月堂を参考にしたのか分からない。やはり報告書を探すべきだな。


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八角形の柱 (左)摩尼殿、(右)二月堂
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3段の肘木 (左)摩尼殿2011.05.11、(右)二月堂2018.07.01

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2021年6月12日 (土)

武田的ディテール(36) 復元された舞台

まとまらないがメモしておく。夏に教寺を見学する予定なのでよく見てくるつもりだ。

武田は姫路にある西国札所・書写山教寺(えんぎょうじ)の摩尼殿(まにでん)を復元している。見事な懸け造りの建物で、大正10年に焼失したものを昭和3年(現地立て札では昭和8年)に再建された。桃山風の優雅な意匠が巨大な舞台の圧迫感を和らげている。

この復元プロジェクトを一貫してコントロールした委員会が存在したはずだ。武田は京都へ赴任以来、関西の古社寺修理を担当した。彼の古社寺修復における功績のひとつに委員会制度を創設したことがある。番匠と呼ばれて尊敬される伝統技能保持者と大学の研究者や所収者がおたがいに忌憚なく議論できる場があればこそ良い修理ができる。そうした委員会制度をいち早く修理の現場に取り入れたのが武田だった。

だから摩尼殿復元にあたっても委員会があったと思う。復元報告書があるはずなので探してみる。建築課の仕事はプロジェクトを前進させる体制を組みたてて運営することにもある。仕事が完成すれば解散してしまう委員会もまた武田的ディテールなのだ。

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2011.05.11、兵庫県姫路市、圓教寺

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2021年6月 3日 (木)

【 武田的ディテール(35) 舞妓さんの守り神 】

先斗町(ぽんとちょう)歌舞練場の入り口から見上げると鬼瓦のような舞楽面が見えるだろう。これは蘭陵王(らんりょうおう、らりょうおう)の面で舞楽第1番の曲であることから芸能の神様とされている。歌舞練場の舞妓さんの学校なので正面に蘭陵王を掲げるのはふさわしいわけだ。これは釉薬掛けのテラコッタであろう。当時これだけ大きなものが作れたのは常滑だと思うが、案外東山の登り窯で焼いたのかも知れない。

さて注目したいのは蘭陵王の両脇にある鼓である。蘭陵王の曲が雅楽なので当然鼓はある。雅楽の楽器には笙(しょう)、篳篥(ひちりき、タテ笛)、龍笛(りゅてき、ヨコ笛)、琵琶、筝(そう、琴)、和琴、鞨鼓(かっこ、三の鼓ともいう)、太鼓、鉦鼓などがある。ここにあるのは鞨鼓(かっこ)と呼ばれる小鼓だ。なぜ数ある楽器のなかから鞨鼓が選ばれたのか。それは先斗町の地名伝説と関係がある。

先斗町の地名はポルトガル語で港を示すポルトが由来だとするのが有力だ。角倉了以が高瀬川を都の荷上場として作ったときに先斗町は生まれた。だから地名の由来がポルトだというのはある。わたしは単に船頭町の書き換えではないかと思っているが船頭町が先斗町と書き換えられたとしてそれが「ぽんと」とは読めないので、やはりポルトガル語言説に頼るしかない。しかし花街には別の地名伝説があった。

先斗町は鴨川と高瀬川に挟まれた細長い地域だ。川と川とに挟まれている。つまり皮と皮に挟まれている鼓と同じ構造なのだ。鼓は打つと「ポンと」鳴る。だからここは「ぽんと」町なのだ。花街らしいダジャレ地名伝説である。

断っておくがここからは私の推理である。蘭陵王を掲げることは花街の要請だったとして、それをデザインしたのが木村だったとして、その図案を見た武田が楽面の両脇に赤エンピツで鼓を描き入れた。

木村「なんですか、このツヅミは?」
武田「分からないかね君、これは皮と皮にはさまれてポンとなるから先斗町という地名伝説だよ」
木村「それは気づきませんでした! これは一本とられましたなぁ」
一同「わはははは」
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2021.04.21、京都市、先斗町歌舞練場

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2021年6月 2日 (水)

【 武田的ディテール(34) 搬入口を正面にすえる度胸があるか 】

ここは先斗町歌舞練場の正面である。ご覧のように古い門柱が残っている。これはおそらく歌舞練場が木造だったころの門柱だろう。

先斗町歌舞練場は木造だったものを西洋風の劇場に作り替えることにした。そして大林組が設計から施工まで請負うことに決まり設計部の木村得三郎が担当することになった。同じころ木村の担当したスパニッシュコロニアルの東京劇場との関連を指摘する向きもあるが、わたしは同時期に大林組が工事を行っていた神奈川県庁と似ていると思う。この小劇場はスパニッシュの輪郭をもちながら細部は神奈川県庁とよく似た和風ディテールにあふれているのである。

さて武田はこの工事の設計顧問を務めている。それが花街からの要請であったのか、はたまた大林組に就職した教え子からの依頼であったのかは分からない。いったい武田はここで何をしたのか。魅力的な和風ディテールをデザインしたのか。それもあると思うがもっとも武田らしいのはその平面プランである。

この正面に見える鉄扉は舞台の搬入口である。扉をあけるとそこは舞台だ。普通の建築家ならこの正面に玄関ホールを設けるだろう。搬入口を正面に据える度胸はない。ただしそうすれば搬入口が狭い先斗町通り側となってトラックが入れないのだ。ここだとバックで入れば搬出入がたやすくできる。見た目よりも使い勝手を優先する合理性はいかにも武田っぽい。

さらにこのプランのおもしろさは舞台を先斗町通り側に置くことで、鴨川側が全面的にホワイエになることだ。賀茂川ごしに見る東山のパノラマがこの建物の大きな魅力となる。風景を大事にすることは武田が橋梁設計のおりなどによく言及している。やはりこのプランは武田のものだろう。

ちなみに今はホワイエが改変されて東山のパノラマを見ることができない。武田の設計意図を活かしてほしい。

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202104.22、京都市、先斗町歌舞練場
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2021年6月 1日 (火)

【 武田的ディテール(33) 武田の遺作を見てきた・桃山碑3】

武田的なディテールの3つめはこの樹木の絵柄だ。アールヌーボーやユーゲントシュテールにも見えるがウイーン分離派というのが正確なところだろう。自然の動きや柔らかさをモチーフにしながらどこかしら幾何学的な大正期の杉浦翡翠らの仕事にも通じるが、それもまた源流はウイーン分離派だった。

武田は19世紀末のウイーンで分離派のアーチストたちと親交を結び、大きな影響を受けて帰国した。武田は終生、ウイーン分離派から離れなかったわけだ。すでにワーグナー先生は亡く、建築家のホフマンとも音信不通となっていた。栄華を極めたオーストリアハンガリー帝国そのものが消えていた。

なぜ武田がそこまでウイーン分離派に入れ込んだのか。それは分離派がもっとも影響を受けたのが日本美術だったからだろう。日本の絵画や工芸が19世紀ヨーロッパに与えた影響は計り知れない。後進国の留学生として先進国の芸術の都ウイーンを訪れた武田は、そこで日本美術の真価を彼ら分離派のアーチストから教えられたわけだ。

それ以来、武田は日本と西洋との融合を創作の原点としてきた。桃山碑はその集大成といえるのかもしれない。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、TAC桃山

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2021年5月31日 (月)

【 武田的ディテール(32) 武田の遺作を見てきた・桃山碑2】

先の紹介した個人ブログに桃山碑の当初の写真があった。今と違うところはふたつ。ひとつは板碑の下の基壇がもとは3段であったこと。武田は段を作るとき3段にすることが多い。高山彦九郎碑のときもなぜ今は1段しかないのかと思った。高山碑も桃山碑も結局竣工時には3段だったわけだ。そうだろう、そうだろう。もうひとつは左右の花瓶の位置が今より少し前で、しかもドラセナのような観葉植物的なものが植えられていること。これは花瓶ではなく植木鉢だったのだろうか。

さて桃山碑の武田的ディテールは3ヶ所ある。

まず第1に碑のかたちの幾何学的な処理。ご覧のように四角い板碑の角を大きく面取りしている。この板碑を上からみると細長い八角形となるが、板碑を支える基壇も八角形だ。八角形というモチーフを敷衍して全体をデザインするところがいかにも武田っぽい。

次に板碑の盤面が整数比で分割されていること。写真から板碑のタテヨコの比率を計算すると1:1.57となる。黄金比の1.63にも近いが、おそらくここでは2:3でデザインしている。武田は黄金比に近い比率として2:3を常々推奨していた。自身の設計においても平面や立面の比率に多用している。

ここで気をつけたいのは、欧米の墓碑のような横長の板碑に漢字で縦書きしていることだ。それが何の違和感もない。その理由は中央の樹木のイラストが視線をタテに誘導することと、文字の領域が板碑の中央の1/3に収まっていることのふたつだ。このふたつのデザイン処理のうちどちらかが欠けても不自然になってしまうだろう。こうしたデザイン処理を武田は躊躇することなく瞬時に行う。そこがたいへんおもしろい。

文字列に注目すると、中央の1/3列のさらに1/3の幅で刻まれていることが分かる。ようするに武田は盤面を6:9の方眼紙でデザインしているのだ。そう思ってよく見れば板碑の面取りされた斜め部分の幅は方眼紙1マスの1/2のようだ。武田は方眼紙で設計したことが知られているが、桃山碑もまた方眼紙上で誕生したものだったのだ。

長くなったので3つめの武田的ディテールは次回に。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、ヴィータ桃山
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2021年5月30日 (日)

武田的ディテール(31)武田の遺作を見てきた・桃山碑1

武田は昭和13年1月に急死したので、亡くなったときに進行中の物件がいくつかあった。この桃山碑もそのひとつだ。正式には桃山病院殉職者慰霊碑という。碑には「殉職者慰霊碑」と篆書体で刻まれているのが読める。また左右の花瓶の台石に「昭和十三年三月、桃山病院一同」と刻まれている。

これは存在そのものが知られていなかった。「武田五一作品集」が昭和8年10月発行なのでそれから亡くなるまでの4年間と少しの作品リストが無い。この碑を見つけてきたのは武田おっかけの小林さんだが、彼がどうやってこの碑の存在を知りどうやって見つけてきたかは知らない。蛇の道は蛇ということだろう。

桃山病院はすでに統廃合されて移転し桃山碑だけが残されている。小林さんに教えられてここを訪ねたのはもう20年も前のことだが、そのころも今も花が添えられているのは同じだ。桃山病院は大阪市の避病院として創設された。避病院とは伝染病の隔離病棟のことで、この碑はコレラやペストなどで殉職した医師や職員35名を慰霊すると背面に書かれている。背面碑文については個人ブログに拓本があった。

参照 (個人ブログ)桃山病院と巡礼者慰霊https://blog.goo.ne.jp/fureailand/e/96d99166f61cec9fb6380cd8ec8e038a

武田がなぜこの碑をデザインすることになったのかは分からない。武田は宴会などで設計を頼まれるとその場でありあわせの紙にデザインを描いたという。この碑もそうしたおりに依頼されたのかも知れない。碑は見てのとおりの武田的ディテールである。どこが武田なのかは次回。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、TAC桃山

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2021年5月27日 (木)

武田的ディテール(30)高山彦九郎銅像のいきさつ3

新旧を比較してみた。一目瞭然で同じものに見える。詳しく見てみよう。

上は戦前の絵はがき、下は先日(2011.05.23)に撮影したもの。当初3段あった基壇はいまは1段しかない。ただし基壇上の東郷平八郎の揮毫のある大石は同じに見える。昭和24年の駅前整備のときは銅像の代わりに板状の石碑が置かれた状態だった。それを移設するさいに石碑が読みやすいように基壇を低くしたのだろう。

ただし東郷の揮毫のある大石はそのまま使ったと推測できる。なぜならお金をかけてまでほぼ同じものを再現する必要がないからだ。移設が目的なのだから大石はそのまま使ったであろう。

大石正面の比率は写真で測ると上が1:1.54、下が1;1.57とほぼ同率だ。これも同一であることの傍証になろう。ちなみにこの比率は黄金比(1:1.61)かも知れないが、単に2:3のようにも思える。武田は黄金比に近い2:3をよく使う。また揮毫の基準線を大石の高さの1/2に合わせているのも方眼紙でデザインを考える武田っぽい。

大石の角は面取りされているがそれも新旧でよく似ている。通常武田は面取りを入れないことが多いが、この台座は表面が磨き仕上げなので面取りがないと角が砕けてしまうだろう。そのために角の面を取ったわけだ。ただしシンプルな大面にしているところが武田らしい。

いまは銅像と大石のあいだに高さ5センチほどのざぶとん状の石が入っている。これはジャパンアーカイブの板碑の写真には無かったので銅像再建のときに付けたのだろう。おそらく新たに銅像を据えるたけの鉄骨を隠すためのものと思われる。

以上、状況証拠ばかりであるが大石部分は新旧同じものである判断できる。武田の銅像台座は改変されながらも一部が遺されているというのが結論である。
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銅像台座上部の大石の比較
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大石の角の面取り(左)戦前絵はがき(右)現在

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