立ち飲み屋
初めての立ち飲み屋へ入った。細長い店でカウンターの端から壁まで1.2メートルしかない。しかも壁際に45センチ角の小テーブルが点々とあり、そのため通路スペースがほぼ無い。外からうかがうと満席に見えたが、めざとい店員に見つかってどうぞと言われた。
「奥に席がありますから」
「奥?」
画材屋で買ったばかりの大きなボール紙を抱えてすみませんすみませんと拝み手で人を押しのける。人口密度が高すぎる。それからみんなこっちを見るのをやめてほしい。
カウンターにひとり分と思しきスペースを発見し荷物を下す。普通、立ち飲み屋では荷物を降ろさないものだが、ここでは降ろさないとカウンターに立てないし、後ろを行く人のじゃまになる。そもそも立ち飲み屋のカウンターのひとり分の巾は45センチで、身体をタテにして使う。身体をカウンターと平行にするのではなく直角にするのだ。ただしそれもここではできない。直角にすると後ろを人が通れなくなる。ここでは思い切り身体をカウンターに押し付けて酒を呑むことになる。
清酒が飲みたかった。
「日本酒を、冷やで」
店内が騒がしく店員と言葉が交わしにくい。
「冷酒(れいしゅ)ですか」
「冷や酒で」
「冷酒ですね」
言葉が交わしにくいだけでなく微妙に通じにくい。
「じゃあそれで」
「何にします?」
「だからそれで」
意味がよく分からない。酒を呑むのになぜこんな問答をせねばならないのか。怪訝な顔をしていると店員が続けた。
「清酒は3種類ありますので、お選びください」
「ああ」
「そこの棚にあります」
店員が持っていたボールペンで指さしたのはここからの2メートルくらい離れた棚だ。棚の上に一升瓶が3本並んでいる。老眼なのでよく見えない。目をじっと凝らしてようやく見えた。「獺祭」「月桂冠」「英勲」の3本だ。棚の奥に液晶テレビがかかっており大相撲中継をが始まった。店内の騒がしさに輪がかかる。
「じゃあ月桂冠で」
「すみません、月桂冠は冷酒できないんです」
「うっ」
さっき3種と言ったじゃないか。なんだかどうでもよくなってきた。それにしても獺祭は高いだろうな。獺祭なんて飲んだことないよ。飲みたいけどここはがまんだ。慣れない店で慣れない酒は飲まないほうが良い。
「英勲で」
注文が通りただちに冷酒が突き出された。酒係りの店員は無言だ。升のなかにガラスコップが載っており表面張力で酒が盛り上がっている。いくら店員が不愛想でも酒を差し出されると顔がほころぶ。
「ありがとう」
思わずお礼を言ってしまった。しっかり受け取ってまず盛り上がった部分を吸い取る。当然コップの上にかがみこまねばならない。そうすると、カウンター前の仕切り棚にひたいをぶつけそうになった。やっぱり狭いのだ。それでもそっと飲むと英勲独特の甘い香りがのどを滑り落ちていく。うまい。
英勲の香りに包まれながら、ようやく周囲を観察し始めた。後ろには私に続いてOLふたり組が入ってきた。生ビールに刺身3種盛り、揚げカレイ、おでん盛り合わせ、しめサバ、唐揚げ、カキフライ。揚げ物多いな。隣はわたしと入れ代わりにおやじが勘定をして出ていった。表から店員の声がする。
「おふたりですか。奥に席がありますよ」
奥に席ってここじゃないか。ひとり出ていって二人入れるのかよ。と思ったらふたり入れた。どうなっているんだろう。学生風の男女でさっそく注文を始める。みんな慣れてるな。生ビールと酎ハイ、マグロ刺身、牛筋煮込み、唐揚げ、エビフライ、コロッケ。後半揚げ物オンパレードだ。ダイエット中の自分には食べられないものばかりだ。まあ勝手に揚げ物喰ってりゃいい。私は私の酒を飲む。
自分に対して無関心な騒がしさはひとりになるのに都合がよい。自分だけのバリアを張ってその中でひとり酒を呑む。これが立ち呑み屋の楽しみだ。ところがそれがこの店ではできないと分かった。なぜなら、壁際の客へカウンター越しに料理を渡すからだ。
「はい、後ろのお客さん、唐揚げ」
唐揚げの皿が目のすぐ横を通る。バリアが破れるだけではなく、揚げ物の匂いが酒の香りを乱す。
「はい、後ろのお客さん、揚げカレイ」
揚げカレーの皿が通り過ぎる。カラッと揚げられた魚の香ばしい香りが鼻をつく。カレイのから揚げは好物だ。いいなぁ。
「はい、カキフライ」
絶え間なく目のすぐ脇を料理が過ぎる。しかもほとんどが揚げ物だ。不思議なもので、それも何度か繰り返されると気にならなくなってきた。ある種の感覚遮断が行われるのだろう。それなりにバリアが形成されるわけだ。でも落ち着かないことに変わりない。あまり長くはいられないな。そう思ったところでコップが空になった。これは潮時だな。顔を上げると棚に並ぶ一升瓶が目に入った。
「すみません、獺祭ください」
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