理想の建築

2021年12月26日 (日)

和田山の黄色い壁

中塗り仕上げが風化したものだと思う。鮮やかな黄色がとてもきれいだ。土壁の表面が荒いことで壁面の小さな穴に影が細かく入り込んで表情に深み作っている。わたしはこんな表情のある荒い壁が大好きだ。窓まわりの縁飾りをコテでていねいに仕上げているのもとてもよい。伸びやかな置き屋根も美しい。わたしにとって理想的な建築である。

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2021.11.20、兵庫県養父市竹田

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2021年12月25日 (土)

土壁の納屋がとてもいい

荒壁に見える。中塗り仕上げが風化して荒壁風に見えるのかも知れない。この土の感じがわたしは好きだ。

シンプルな壁面構成が土壁のテクスチャーを引き立てている。シンプルな軸組も理想的だ。瓦屋根のむくりや妻側の横軸回転の換気窓などディテールもよい。わたしもこういう建築を作りたい。

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2021.12.11、兵庫県養父市養父広谷

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2021年11月10日 (水)

和中庵のバランスの良さ

和中庵の座敷から角のほうを見ると柱がほとんどない。ここへ来る前に田所さんに写真を見せてもらったがどうなっているのだろうと不思議に思った。現場へ来ることができたので確かめてみた。外から見ればよく分かる。母屋の屋根はさほど大きくない。大きいのは庇なのだ。庇は瓦を少なくして軽くしている。だから縁側の柱は少なくて済む。さらに見事に左右対称となっている。このバランスの良さが建物を強くしているわけだ。よくできている。こういう建築を作りたい。
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2021.11.06、京都市東山区「和中庵」

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2021年11月 9日 (火)

和中庵(和館)の土壁がきれいだった

和館の外壁は赤い土壁でとてもきれいだった。中塗り仕上げなのだと思うが、ざらっとした仕上げも表情があってよい。渡り廊下の垂れ壁が雲形になっていた。遊び心があっておもしろい。こうしたディテールは数寄屋風なのだが広間は長押のまわった端正な書院風だった。すっきりとしたモダンなようすでかっこよかった。こうした建築を作りたい。

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2021.11.06、京都市左京区鹿ケ谷「和中庵」

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2021年10月16日 (土)

まっすぐな梁は城造りが由来か(2)

戦国時代の飛騨は木材の既製品を技術指導込みで供給していたことを前回考えた。続きをメモしておく。

飛騨で木材の規格化が進んだのは全国で都市化が進んだためだろう。経済発展と木材の大量供給が背景にある。これは飛騨の隣国・木曽でも同様だったろう。三大美林と称される木曽ヒノキも戦国時代に流通を拡大させたのではないか。

木材の輸送は水運である。飛騨からは飛騨川を、木曽からは木曽川を下った。ふたつの川は美濃でひとつになり、羽島で長良川と合流し桑名で揖斐川と合流する。この河川沿いの武将たちが戦国時代に優勢なのは、木材を中心とした物流を抑えていたからだろう。経済力を背景に相場を操り旧来の支配階級を駆逐したのが戦国時代だったと思う。

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2021年10月15日 (金)

まっすぐな梁は城造りが由来か

飛騨の工(たくみ)について少し考えたのでメモしておく。

1.小屋組みの貫

まず、小屋組(屋根の骨組み)の貫について。

伝建地区の旧村田邸(村半、明治期)には小屋組に貫はなかった。小屋組に貫が入るのは関西では江戸時代後半とされている。村半には貫の入る前の時代の様式が残っているのだろう。

一方、桃山期の高山御蔵には貫が入っていた。これは高山城の遺構なのだから、高山城天守閣の小屋組みには貫が入っていたのかもしれない。

2.まっすぐな梁

ふたつめは、まっすぐな梁について。

村半も御蔵も梁はまっすぐだった。そして姫路城の梁もまっすぐなのだ。おそらく高山城や姫路城のような桃山期の城造りの現場では、まっすぐで太い梁が使えるようになったのだろう。

そうした木材の一大供給源が飛騨であった。「まっすぐ」というのは規格材、ようするに既製品であることを示しす。つまり発注時に長さと太さと本数を指定するとき、形はまっすぐであることが前提となる。まっすぐな材は桃山期に飛騨材が既製品として流通していたことを示すのだろう。

元来、木挽きも大工もひとりで行った。鎌倉時代の重源は東大寺再建のための材を探して山口県まで杣(そま)入りした。杣入りとは山で用材を探すことだ。材は製材されたうえで奈良へ運ばれた。伐採>搬出>製材>運搬>現場という流れのすべてを重源が行ったということになる。ところが桃山期には伐採>搬出>製材>運搬までを産地側が担っている。城下町造りによる木材の大量消費が流通形態を変化させたのだろう。

3.日本建築の継承者

ここからは私の仮説である。

建築工程が製材と建築に分かれたとき、重源の保有していたような建築技術は産地と都市のそれぞれに分かれて受け継がれたろう。産地側で建築技術を受け継いだのが飛騨の工だったわけだ。

もちろん飛騨以外の産地にも工はいたろうが、地方ではそれほど都市と産地の分離は進んでいなかったのではないか。飛騨と同様の産地として分離したのは奈良県の吉野などがそうだったかも知れない。

飛騨には重源以来の日本建築の伝統が残ったわけだ。それを飛騨の工と称したのではないか。城造りの際に飛騨の工は木材供給だけではなく技術指導も行ったのではないか。江戸期になって城造りは禁止され飛騨の工は幕府直轄となった。高山陣屋は飛騨の工の取り締まりの拠点として整備された。幕府は木材供給の独占だけではなく、城造り技術の独占をもくろんだように見える。

大きな材を吊ったり建てたりする高い技術を飛騨の工はもっていた。古くから伝えられた日本建築の技能の継承者として飛騨の工は尊敬されていたのだろう。

長くなったので続きは次回に。

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2021.08.18、岐阜県高山市、若者等活動事務所「村半」
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2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(旧高山城遺構)
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2021.07.23、兵庫県、姫路城天守閣

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2021年10月13日 (水)

飛騨の御蔵は築400年だそうだ

床柱になりそうなまっすぐな梁を使っているのは伝建地区の村半と同じだ。あれは明治だったが、これは高山城の遺構で築400年は経っているらしい。飛騨の梁はまっすぐなのが初期設定なのかも知れない。

土壁のようす、板葺きの屋根、シンプルな構造などわたしの理想の建築に近い。御蔵を見ることができて、ここまで来たかいがあったというものだ。

ひとつ不思議なのは小屋束に貫が入っていることだ。関西でこれが耐震補強として普及するのは江戸時代後半と聞いていた。飛騨ではすでに桃山時代に使われていたのだろうか。それともある時期に付加されたものなのだろうか。だれか教えてください。

1 まっすぐな梁、束を貫で固めている
2 やりがんなの跡
3 美しい土壁

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2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(おんくら)

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2021年10月12日 (火)

飛騨高山の御蔵の壁は斜めである

よくご覧になってほしい。庇を支える柱は垂直に立っている。その横の土壁との隙間が上にいくほど広がっているのがお分かりだろうか。古民家などはわざと柱を斜めにして安定を増すと聞いたことがある。聞いたことがあるが見たのは初めてだった。ほんとだろうかと驚いたが、現地説明でもそう書いてあった。 さすが飛騨工(たくみ)の国である。

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2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(おんくら)

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2021年10月 4日 (月)

飛騨の高山御蔵でクレ葺き屋根を見た

ようするに「板葺き」なのだが「こけら葺き」のように見える。なんだろうと思ったが、これは「くれ葺き」というそうだ。こけら葺きのようにきっちり先端を揃えた葺き方ではなく、もっとおおらかに重ね並べた上に横桟を敷いて重し石をのせている。この小板のことを「くれへぎ」というが、いったいどうやって屋根に留めているのだろうか。釘を使っているのだろうか?

飛騨の現在の街並みはほぼトタン屋根なのだが、高山御蔵(おんくら)の屋根を見れば飛騨の元の風景を想像できるのがうれしい。農業国なら農産物のワラ葺き屋根、林業国なら林産品のクレ葺き屋根と地域産業によって風景が変わるのが興味深い。

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高山御蔵のくれ葺き屋根
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新旧混じっている「くれへぎ」
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ストックされている「くれへぎ」

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2019年11月22日 (金)

工場建築が大好きだ

 わたしは工場建築が好きだ。工場には必要に応じて自由に作られた建築の楽しさがここにある。この鉄工所は川沿いでその楽しさがよく見えるのでワクワクするじゃないか。

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2019.10.19/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.5、固形透明水彩/兵庫県養父市関宮

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