建築研究

2022年11月22日 (火)

彫刻師・中井喜一郎の作品を見た

喜一郎(昭和33年没)は中井家9代目の彫刻師だそうだ。中井家は法隆寺大工から江戸幕府の建築を取り仕切る棟梁家として知られるが、この中井家は柏原藩お抱え大工だったと「養父市を飾るまちの彫刻」にある。柏原藩とは今の兵庫県丹波市柏原で養父市と近い。

柏原中井家はもともと大工棟梁家だったが、4代目中井君音(天明7年・1787年没)から彫刻師を名乗りはじめた。大工職は親族の別の中井家が継いだというから、君音は彫刻の専門職だったのだろう。

これは諏訪立川(たてかわ)家と似ている。立川家はもとは江戸幕府系の大工棟梁家であったが、その別れの諏訪立川家のほうが有名になった。豊富な彫刻が目をひいたからだ。彫刻で有名な諏訪松本の旧開智小学校も立川家の作品である。諏訪立川家の初代・立川和四郎は1744年生まれ、1807年没という。つまり柏原の中井家4代君音と同時代人なのだ。彫刻師が大工職から分離したのは諏訪と但馬だけではなく、おそらく18世紀なかごろの全国的な動きだったのだろう。

「養父市を飾るまちの彫刻」(養父市教育委員会編2019年)
この本は養父市内のすべての神社を調査して中井家をはじめとする神社彫刻の全貌を明らかにした。見て楽しく読んでためになる本である。
https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/2/2406.html

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2022.11.19、兵庫県養父市八鹿町伊佐、船山神社

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2022年9月16日 (金)

記憶のなかのサンタマリアノヴェッラ

かみさんに知ったかぶりをして描いたサンタ・マリア・ノヴェッラが左だ。本当は右のような姿をしている。記憶とはことほどさように頼りないが、それでもなんとなく似ているのがおもしろい。会堂は13世紀に着工したが、正面は1470年に建築家アルベルティが完成させた。遊び心にあふれた楽し気な建築である。
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2022年9月12日 (月)

鳳凰堂は舞台装置だった

鳳凰堂を建てた藤原頼通は死に際して極楽往生を願うため阿弥陀と自分とを糸でむすんだという。おそらく頼通は池のこちら側に寝かされて糸を握りながら夕闇に沈みゆく鳳凰堂を見たのだろう。日が鳳凰堂の裏側へ没し鳳凰堂は夕映えの朱に染まる。回廊には天女に扮した楽士がならび妙なる楽曲を奏でた。鳳凰堂は阿弥陀の来迎のイベントのための舞台装置だったわけだ。

わたしは池の水位を上げて左右の翼廊の足元を水没させたと思う。2階の床が高いのは、厳島神社の海中回廊のように水中に立ち上がる形式なのではないか。そのあたりが闇に沈みかがり火に照らしだされた鳳凰堂は水面に映った鏡像と一体になって、まるで宙に浮いたように見えたと思う。

武田五一が尾廊は鳳凰の尾を模したのではないと言ったが、それは尾廊が裏側で見えないからだろう。あくまで鳳凰堂は池の側から見える部分が重要なのであって、尾廊は裏通路としての役割を担ったのだろう。

いずれにしても、一夜のイベントのための施設がその後1000年残るとはだれも思わなかったのではないか。

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2022.09.02、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)

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2022年9月10日 (土)

法界寺はいいぞ

屋根葺き師研修の受講生らと法界寺へ行った。ここはいつ来ても静かでとてもよい。来るたびに発見があるが、今回は外陣と内陣とのあいだに梁がないことに気づいた。まさか外陣と内陣とがつながっていないわけがなかろう。化粧垂木の上に隠れているだけだと思ったが本当にないらしい。いったいどういうことなのだろう。

続けて平等院を見学した。このふたつのお堂はよく似ていると思っていたが続けて見れば似ていることがよく分かる。お堂のまわりに庇をまわして回廊としていることや庇の正面を一段上げているところなどが似ている。大きく違うところは内陣が省略されていることだが、これはお堂内に人を入れることをあまり意識していないからだろう。

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2022.09.02、法界寺(京都市)
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2022.09.02、平等院(宇治市)

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2022年7月 5日 (火)

中之島図書館のあっさり感

図書館の目の前に大きな市役所が建っているために、正面からしみじみ見たことが無かった。今回3時間ほどながめていて、今までこの建物のことを勘違いしていたことがよく分かったのでメモしておく。

結論から言えば、古典主義建築としてはいろいろ省略されている。そのために古典主義のこてこて感が薄れてあっさりとした清楚な建築に仕上がっているのだ。

省略のもっとも目立つのは三角形の三角形の破風にアカンサスの屋根飾りが無いことだ。これが無いのは珍しい。わたしは最初、壊れて無くなったのかと思ったが建設当初の写真を見ても無い。屋根飾りが無いために耳のないネコのようになっている。これはこの建物のもっとも大きな特徴と言っても過言ではなかろう。

もうひとつあげれば柱にタテの筋がない。コリント式の場合は柱に筋が入るのが正式だ。日本の近代建築の場合、筋を省略することはよく行われる。ここは建築家の考え次第なわけだ。筋が無ければ影が入らずあっさり感が増す。設計者の野口はやはりこの建物をあっさりとした清楚なものに仕上げたかったのだろう。

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2022.07.02、大阪府立中之島図書館
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2021年10月29日 (金)

ガーディナーの設計術

数年前の台風で木が倒れたので教会がよく見えるようになってうれしい。この立面は屋根の斜めのラインの途中に四角い飾りが突起しているのが特徴だ。他ではあまり見たことがないが、それがあることで立面が引き締まって見えてかっこいい。

帰って写真を眺めていて気が付いた。これは正方形をもとにして描いている。ステンドグラス窓の左右にある丸窓も正方形の対角線上に載ってくる。おもしろい。

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2021.10.21、京都市、聖アグネス教会(1923)

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2021年10月16日 (土)

まっすぐな梁は城造りが由来か(2)

戦国時代の飛騨は木材の既製品を技術指導込みで供給していたことを前回考えた。続きをメモしておく。

飛騨で木材の規格化が進んだのは全国で都市化が進んだためだろう。経済発展と木材の大量供給が背景にある。これは飛騨の隣国・木曽でも同様だったろう。三大美林と称される木曽ヒノキも戦国時代に流通を拡大させたのではないか。

木材の輸送は水運である。飛騨からは飛騨川を、木曽からは木曽川を下った。ふたつの川は美濃でひとつになり、羽島で長良川と合流し桑名で揖斐川と合流する。この河川沿いの武将たちが戦国時代に優勢なのは、木材を中心とした物流を抑えていたからだろう。経済力を背景に相場を操り旧来の支配階級を駆逐したのが戦国時代だったと思う。

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2021年10月15日 (金)

まっすぐな梁は城造りが由来か

飛騨の工(たくみ)について少し考えたのでメモしておく。

1.小屋組みの貫

まず、小屋組(屋根の骨組み)の貫について。

伝建地区の旧村田邸(村半、明治期)には小屋組に貫はなかった。小屋組に貫が入るのは関西では江戸時代後半とされている。村半には貫の入る前の時代の様式が残っているのだろう。

一方、桃山期の高山御蔵には貫が入っていた。これは高山城の遺構なのだから、高山城天守閣の小屋組みには貫が入っていたのかもしれない。

2.まっすぐな梁

ふたつめは、まっすぐな梁について。

村半も御蔵も梁はまっすぐだった。そして姫路城の梁もまっすぐなのだ。おそらく高山城や姫路城のような桃山期の城造りの現場では、まっすぐで太い梁が使えるようになったのだろう。

そうした木材の一大供給源が飛騨であった。「まっすぐ」というのは規格材、ようするに既製品であることを示しす。つまり発注時に長さと太さと本数を指定するとき、形はまっすぐであることが前提となる。まっすぐな材は桃山期に飛騨材が既製品として流通していたことを示すのだろう。

元来、木挽きも大工もひとりで行った。鎌倉時代の重源は東大寺再建のための材を探して山口県まで杣(そま)入りした。杣入りとは山で用材を探すことだ。材は製材されたうえで奈良へ運ばれた。伐採>搬出>製材>運搬>現場という流れのすべてを重源が行ったということになる。ところが桃山期には伐採>搬出>製材>運搬までを産地側が担っている。城下町造りによる木材の大量消費が流通形態を変化させたのだろう。

3.日本建築の継承者

ここからは私の仮説である。

建築工程が製材と建築に分かれたとき、重源の保有していたような建築技術は産地と都市のそれぞれに分かれて受け継がれたろう。産地側で建築技術を受け継いだのが飛騨の工だったわけだ。

もちろん飛騨以外の産地にも工はいたろうが、地方ではそれほど都市と産地の分離は進んでいなかったのではないか。飛騨と同様の産地として分離したのは奈良県の吉野などがそうだったかも知れない。

飛騨には重源以来の日本建築の伝統が残ったわけだ。それを飛騨の工と称したのではないか。城造りの際に飛騨の工は木材供給だけではなく技術指導も行ったのではないか。江戸期になって城造りは禁止され飛騨の工は幕府直轄となった。高山陣屋は飛騨の工の取り締まりの拠点として整備された。幕府は木材供給の独占だけではなく、城造り技術の独占をもくろんだように見える。

大きな材を吊ったり建てたりする高い技術を飛騨の工はもっていた。古くから伝えられた日本建築の技能の継承者として飛騨の工は尊敬されていたのだろう。

長くなったので続きは次回に。

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2021.08.18、岐阜県高山市、若者等活動事務所「村半」
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2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(旧高山城遺構)
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2021.07.23、兵庫県、姫路城天守閣

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2015年3月21日 (土)

建築探偵の写真帳 戦後ビル編 出雲屋ビル

 よく知られたビルなのでどこかにデータがあるかも知れないが調べていない。鴨川に面して大きな窓を開け、夕方には赤い電球色の照明がともる。それが川面を照らしてとてもきれいだ。この風景そのものが設計者の意図なのだろう。

 

 夏になれば出雲屋ビルにも納涼床が出るが、ビル全体がすでに立体的な納涼床であるようにも見える。床のおもしろさは視線が交差することにある。たとえば芸妓さんが床へ出るとそこだけがパッと花やいでまわりの視線を集める。そうしたことが床では再々起こる。観るものと観られるものとが刻々と入れ替わるわけだ。そんな床のおもしろさをこのビルは受け継いでいる。

 

Img_3927 2015.03.20、京都市四条大橋西詰

 

 

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2015年2月 6日 (金)

旧山邑邸を描いてみた

図面と写真を見て描いた。よく分からないところが多い。3段になっているが半階ずつ上っていくのだろうか? A2のケント紙に描いている。この紙に絵の具を塗ったのは初めてだけど結構うまく塗れた。6時間ほどかかった。


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2015.02.06/ケント紙、シャーペン0.5-2B、4Bホルダー、透明水彩

 

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