建築研究

2024年12月22日 (日)

西大寺愛染堂

1768年に近衛家邸宅を移築したという。本堂再建に先立って復興されたわけだ。寝殿造だというからには、当初は檜皮葺きだったのかもしれない。

南中東に3室に分かれている。南室に叡尊像がある。中室には叡尊が招来した愛染明王が本尊として祀られている。北室は客殿というが公開されていなかった。西大寺HPによれば床の間付の桃山風の座敷である。

わたしは叡尊像に出会えたのがうれしかった。生前に作られた像である。慶派の手になるのであろう。写実的な彫刻で、息遣いまで聞こえてきそうだ。

末法の代にあって僧侶の戒律をリバイバルさせた謹厳実直な僧侶なのだが、思っていたより柔和で優しい面影であった。そうかぁ、これが叡尊かぁ、と認識を新たにした。

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2024.12.17、奈良市

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西大寺四王堂(1674)

西大寺は藤原仲麻呂の乱のおり、孝謙天皇は四天王に戦勝を祈願した。乱の平定後に四天王を祀ったのが寺の始まりだという。その四天王像はその後戦火で損傷するが、足元の餓鬼などは奈良自時代のままだという。金銅製の餓鬼は表面が焼けて姿がよく分からないが、それでも奈良時代の彫刻が遺っているのはすごい。

四王堂は江戸時代の再建だが、中へ入ると大仏様なので驚いた。東大寺大仏殿の再建が1709年なので、こちらのほうが古い。大仏様リバイバルの初期作品と位置付けられると思う。

屋根が二重に見えるが、下層は裳階(もこし)だそうだ。裳階とは建物本体のまわりに取り付けられた庇(ひさし)のことだ。だから、本体はけっこう背が高い建物なのだ。これも大仏殿と似ている。

なぜ、背が高いのかといえば、四天王が守護するご本尊・十一面観音立象の高さが6メートルもあるからだ。これは平安時代の仏さまで、もとは京都にあったものを叡尊が四王堂の本尊として祀ったものと言われる。1145年のものとされ、定朝式のふっくらしたご尊顔の仏像だった。

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2024.12.17、奈良市

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2024年12月21日 (土)

西大寺東塔跡(平安期末)

そもそもなぜ東大寺は東大寺というのか。それは西大寺があるから、相対的に東大寺が東大寺と呼ばれるようになったわけだ。

東大寺のそれまでの名称はなにか。大仏は金鐘山寺境内で747年に鋳造が始まった。つまり東大寺の旧名は金鐘寺である。大仏は752年に開眼供養した。担当した役所は金光明寺造仏司という。つまり金鐘寺は747年には金光明寺と改名していたのだろう。

一方、西大寺は765年に、前年の藤原仲麻呂の乱の戦死者を弔うために金銅製の四天王像を本尊として建立された。このときに東大寺は金光明寺から東大寺に改名したというわけだ。

ー747 金鐘山寺
747-765 金光明寺
765ー 東大寺

写真は西大寺東塔跡である。写真のとおり四角形平面の塔だが、これは平安末の再建時の礎石だ。当初、西大寺は東大寺同様の八角形平面の七重の塔にする予定だったが、なんらかの事情で四角形平面の五重塔として建てられたという。

しかし、発掘調査により基壇まわりから八角形の基礎が見つかっており伝聞と異なることが分かっている。このあたりややこしいので、もう少し調べてみる。

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2024.12.21、奈良市

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2024年12月20日 (金)

西大寺本堂(江戸時代中期)2

本堂の柱の足元に変わった形のソロバン石が据えられていた。表面をえぐりとって水はけをよくしているように見える。四隅に削り残された爪型が柱をつまんでいるように見えておもしろい。

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2024.12.17、奈良市

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2024年12月17日 (火)

西大寺本堂(江戸時代中期)

本堂は江戸時代の寛政年間(1789-1801)の作品だった。大きな寄棟屋根が雄大である。軒下を活き活きとした彫刻が飾る。これほど見事なお堂だったと改めて知った。

鎌倉時代の1235年、叡尊(えいそん)が西大寺に入ったとき、伽藍は荒廃を極め戒律は乱れていたという。それを立て直して西大寺流と呼ばれる土木建築の技術者集団を作った。東大寺再建(1195)を果たした重源(ちょうげん)が南宋から招聘した技術者集団が西大寺に引き継がれたのではないかと思っている。

西大寺中興の祖と仰がれている叡尊の座像を拝してきた。生前に造られたものなので、こんな風貌の方だったのだろう。彼は東大寺を最初に造った行基(ぎょうき)を尊敬していた。行基と同じように文殊を信仰していた。叡尊の造らせた文殊菩薩王が遺っている。文殊を載せる唐獅子がかわいい。そっくりな文殊像を京都黒谷の金戒光明寺でも見た。運慶や快慶のはじめた慶派の作品である。これが浪花型狛犬の遠い祖先である。

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2024.12.17、奈良市

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2024年10月 8日 (火)

神戸メリケンビルの新旧比較< 続報2 >

北面と西面の2階にアーチ窓が遺っている。これらの面はほぼ元のままなのではないか。なかでも北面の中央あたりだけデザインが違っていて、その最上部に装飾が遺っている。これは当初のものかも知れない。

北面、西面は簡略化されているのであまり注目されてこなかった。公道からあまり見えないので当初から簡略化されていたとも思う。戦後の改造にあたっても白タイルを貼っただけで手を入れなかったのではないか。だから当初のデザインがそのまま遺っている可能性は高い。そうであれば北面、西面は元設計を考えるよすがとなる。朗報である。

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2024.10.06、神戸市中央区

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海岸ビルヂング研究

40年くらい前の学生時代に、ここの3階のいるか設計でバイトをしていた。模型製作のために幾晩もここで徹夜した。だからよく知っていると錯覚していた。恥ずかしながらこのポイントからこの建物を見たのは初めてだった。ここはベストポイントである。

スケッチしてみて、わたしは初めて河合浩蔵の設計意図が分かった……気がする。これは海からの見え方を意識している。いつも近くで見ていたので装飾の派手さにばかり目がいっていた。しかしここから見れば装飾はむしろ控えめで上下の窓の間だけに収まっている。装飾を抑えて壁面を短冊状に分割した簡素なデザインであることが分かる。ドームを復元すればどう見えるかを検討してみたい。

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2024.10.06、神戸市中央区、海岸ビルヂング

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2024年10月 7日 (月)

神戸メリケンビルの新旧比較<続報>

先日東面を比較したので、今度は南面を比較してみた。判明したことは次のとおり。

・1階はほぼそのまま。1階窓と2階窓の間の装飾もそのままである。特に玄関まわりは意識的に遺したように見える。
・2階は窓の形をアーチから方形に変更。玄関上の装飾は取り除かれている。
・3階は列柱が遺るが、列柱の根本のバンド状の装飾は取り除かれている。玄関上の装飾やアーチはない。

整理すると次のとおり。

(南面)
2階のアーチ窓は方形に改造する。3階の列柱は残すが根元のバンドは削り取る。
南玄関まわりは記念として遺す。ただし三角の破風には手を入れて簡素化する。
(東面)
全面的にやりかえる。
(全体として)
元の設計はウイーン分離派風の華麗なものだった。元の壁体をほぼ使っていることから復元は技術的に可能だったと考えてよい。意匠が変更されたのは施主の意向が強かったのだろう。施主の意を汲んで安井は2階、3階を簡素化し、ウイーン分離派からシカゴ派風のモダニズムへ意匠を変更した。それなりにお金をかけているので、積極的な変更だったと思う。ウイーン分離派よりモダニズムのほうがよいとする風潮があったのかもしれない。わたしとしては残念である。

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2024.10.07、神戸メリケンビル(旧日本郵船神戸支店)

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2024年10月 5日 (土)

神戸メリケンビルの新旧を比較してみた

神戸メリケンビルは戦災に遭ったが、1953年に安井武雄が修復し再生させたという。正面のドームは焼け落ちて再生されなかった。そのほかも安井が手を入れたが、だいたいデザインとしては古いまま残っているようなニュアンスで聞いていた。全然違った。新旧を描いてみてはっきりした。正面に関しては古いものはほぼ無い。

デザインどころか窓の位置まで変えている。レンガ造の場合、屋根が焼け落ちるとき外壁上部が崩れることがある。ここも激しく燃えて外壁の一部が崩壊したのではないか。そこで安井は復元するに当たって新たにデザインし直したように見える。
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2024.10.05、神戸メリケンビル(旧日本郵船神戸支店)

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2024年6月16日 (日)

旧長島家住宅のインナーフレーム

兵庫県養父市の旧長島家住宅の内部にも能登半島と同じようなボックス状の構造があった。ここには何度も来ているが今回ようやくその構造に気づいた。

能登の「枠の内造り」は、民家中央に貫と土壁で固めたボックスを入れ込み、建物のねじれを防止していた。ボックス内の中空を大梁が飛び交っており、それもボックス各面のふくらみやねじれを防止している。それと同じ構造がここにもある。

但馬は豪雪地帯であることや鉱山町であることとなど能登半島との共通点も多い。枠の内造りが金沢城を手本としたのなら、ここは出石城と関連があるのかもしれない。

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2024.06.15、兵庫県養父市、大庄屋記念館(旧長島家住宅)

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