建築研究

2021年10月29日 (金)

ガーディナーの設計術

数年前の台風で木が倒れたので教会がよく見えるようになってうれしい。この立面は屋根の斜めのラインの途中に四角い飾りが突起しているのが特徴だ。他ではあまり見たことがないが、それがあることで立面が引き締まって見えてかっこいい。

帰って写真を眺めていて気が付いた。これは正方形をもとにして描いている。ステンドグラス窓の左右にある丸窓も正方形の対角線上に載ってくる。おもしろい。

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2021.10.21、京都市、聖アグネス教会(1923)

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2021年10月16日 (土)

まっすぐな梁は城造りが由来か(2)

戦国時代の飛騨は木材の既製品を技術指導込みで供給していたことを前回考えた。続きをメモしておく。

飛騨で木材の規格化が進んだのは全国で都市化が進んだためだろう。経済発展と木材の大量供給が背景にある。これは飛騨の隣国・木曽でも同様だったろう。三大美林と称される木曽ヒノキも戦国時代に流通を拡大させたのではないか。

木材の輸送は水運である。飛騨からは飛騨川を、木曽からは木曽川を下った。ふたつの川は美濃でひとつになり、羽島で長良川と合流し桑名で揖斐川と合流する。この河川沿いの武将たちが戦国時代に優勢なのは、木材を中心とした物流を抑えていたからだろう。経済力を背景に相場を操り旧来の支配階級を駆逐したのが戦国時代だったと思う。

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2021年10月15日 (金)

まっすぐな梁は城造りが由来か

飛騨の工(たくみ)について少し考えたのでメモしておく。

1.小屋組みの貫

まず、小屋組(屋根の骨組み)の貫について。

伝建地区の旧村田邸(村半、明治期)には小屋組に貫はなかった。小屋組に貫が入るのは関西では江戸時代後半とされている。村半には貫の入る前の時代の様式が残っているのだろう。

一方、桃山期の高山御蔵には貫が入っていた。これは高山城の遺構なのだから、高山城天守閣の小屋組みには貫が入っていたのかもしれない。

2.まっすぐな梁

ふたつめは、まっすぐな梁について。

村半も御蔵も梁はまっすぐだった。そして姫路城の梁もまっすぐなのだ。おそらく高山城や姫路城のような桃山期の城造りの現場では、まっすぐで太い梁が使えるようになったのだろう。

そうした木材の一大供給源が飛騨であった。「まっすぐ」というのは規格材、ようするに既製品であることを示しす。つまり発注時に長さと太さと本数を指定するとき、形はまっすぐであることが前提となる。まっすぐな材は桃山期に飛騨材が既製品として流通していたことを示すのだろう。

元来、木挽きも大工もひとりで行った。鎌倉時代の重源は東大寺再建のための材を探して山口県まで杣(そま)入りした。杣入りとは山で用材を探すことだ。材は製材されたうえで奈良へ運ばれた。伐採>搬出>製材>運搬>現場という流れのすべてを重源が行ったということになる。ところが桃山期には伐採>搬出>製材>運搬までを産地側が担っている。城下町造りによる木材の大量消費が流通形態を変化させたのだろう。

3.日本建築の継承者

ここからは私の仮説である。

建築工程が製材と建築に分かれたとき、重源の保有していたような建築技術は産地と都市のそれぞれに分かれて受け継がれたろう。産地側で建築技術を受け継いだのが飛騨の工だったわけだ。

もちろん飛騨以外の産地にも工はいたろうが、地方ではそれほど都市と産地の分離は進んでいなかったのではないか。飛騨と同様の産地として分離したのは奈良県の吉野などがそうだったかも知れない。

飛騨には重源以来の日本建築の伝統が残ったわけだ。それを飛騨の工と称したのではないか。城造りの際に飛騨の工は木材供給だけではなく技術指導も行ったのではないか。江戸期になって城造りは禁止され飛騨の工は幕府直轄となった。高山陣屋は飛騨の工の取り締まりの拠点として整備された。幕府は木材供給の独占だけではなく、城造り技術の独占をもくろんだように見える。

大きな材を吊ったり建てたりする高い技術を飛騨の工はもっていた。古くから伝えられた日本建築の技能の継承者として飛騨の工は尊敬されていたのだろう。

長くなったので続きは次回に。

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2021.08.18、岐阜県高山市、若者等活動事務所「村半」
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2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(旧高山城遺構)
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2021.07.23、兵庫県、姫路城天守閣

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2015年3月21日 (土)

建築探偵の写真帳 戦後ビル編 出雲屋ビル

 よく知られたビルなのでどこかにデータがあるかも知れないが調べていない。鴨川に面して大きな窓を開け、夕方には赤い電球色の照明がともる。それが川面を照らしてとてもきれいだ。この風景そのものが設計者の意図なのだろう。

 

 夏になれば出雲屋ビルにも納涼床が出るが、ビル全体がすでに立体的な納涼床であるようにも見える。床のおもしろさは視線が交差することにある。たとえば芸妓さんが床へ出るとそこだけがパッと花やいでまわりの視線を集める。そうしたことが床では再々起こる。観るものと観られるものとが刻々と入れ替わるわけだ。そんな床のおもしろさをこのビルは受け継いでいる。

 

Img_3927 2015.03.20、京都市四条大橋西詰

 

 

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2015年2月 6日 (金)

旧山邑邸を描いてみた

図面と写真を見て描いた。よく分からないところが多い。3段になっているが半階ずつ上っていくのだろうか? A2のケント紙に描いている。この紙に絵の具を塗ったのは初めてだけど結構うまく塗れた。6時間ほどかかった。


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2015.02.06/ケント紙、シャーペン0.5-2B、4Bホルダー、透明水彩

 

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2013年7月17日 (水)

ベネティア・サンマルコ広場のドゥカーレ宮殿を描いてみた

 大運河に面したドゥカーレ宮殿が前から気になっていたが、適当な資料も無いのでネット上の写真を集めて立面図を描いてみた。これはサンマルコ広場側の立面だ。大鐘楼前なので引きがなく全景を正面から捉えた写真はほとんどなかった。描いてみて分かったことがいくつかあるのでメモしておく。


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2013.07.17/ワトソン紙、2Bシャーペン、透明水彩

・ 2階回廊の円窓の右から12番目に彫刻がはまっている。それが何かは知らない。
・ 両端の円窓はスパッと半分になっている。その角に彫像を置いてごまかしている。その下の1階円柱は他より太い。まあデザイン上そうなる。
・ 3階の壁面はレンガ色と白の2色化粧レンガ張りらしい。テラコッタかもしれない。
・ 3階の窓は改変されているようなので、運河側の古い窓枠を描いてみた。
・ 1階回廊列柱の足下が50㎝ほど埋まっているように見える。
・ 1階と2階でバルコニーのデザインが違う。1階のが古いのだろう。
・ コの字型平面の建物で中庭側にも廻廊がある。教会堂の南側に廻廊をめぐらせた中庭を設けるのは修道院の平面プランに似ている。
・ 描く前はなんとなく女性的なイメージをもっていたが描いてみると黄金比で構成する男性的な建築であることが分かった。すでにルネサンスの領域に踏み込んでいる。もしくはルネサンス期に大きく改造されたかだろう。
・ 正面玄関がどこにあるのかとても興味深い。この面ではなく運河側かも知れない。


Ducale_2


 お絵描き実況は次のとおり。


01
2013.07.14/11:10

きょうは写し描きで遊ぶよ。さて何ができるのかな。


02
2013.07.14/12:53

ポインテッドアーチの中心が1階と2階とで違っていることを発見。何を基準にしているのかよく分からない。下描き途中だけどプール行ってくるので一旦中断する。


03
2013.07.14/15:22

作業再開。その前に抜栓。「極ゼロ」うまし。


04
2013.07.14/16:39

けっこうめんどくさいことになっている。しかも汗がポタポタ落ちる。ドライジンを飲みながら続行。「ボンベイサファイア」うまし。


05_2
2013.07.14/18:11

下描き完成。晩ごはんにする。


06
2013.07.14/19:56

ペン入れ中。コーナーにも彫像があることを発見。エンピツ描きは適当に省略して彩色に移りたい所存。


07
2013.07.14/21:16

彩色を始めた。安野光雅が10年以上前にNHKの講座で色塗りは楽しいと言っていて、そのときは色塗りは苦しいと思っていたが、今は楽しい。なんでだろう。ちょっと休憩する。ドライジンを100mlほど飲んじゃったので寝るかも。


08
2013.07.14/22:43

影をもっと濃くしても良いかな。とりあえず今日は終了する。ベネティアのサンマルコ広場に面するドゥカーレ宮殿。とても大好き。

 

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