建築研究

2025年5月14日 (水)

北前船拠点の三国湊(10)赤い瓦と石の棟瓦

石州瓦かと思ったが、これが越前赤瓦なのだろう。石州のような釉薬瓦ではなさそうだ。塩焼き瓦の一種ではないか。なかなか味わい深い表情を見せている。棟瓦が石なのは風が強いからだろう。コンクリート製のものもあった(写真)。石製のものを瓦と呼んでよいのか分からないが、三国湊に近い丸岡城では石瓦が使われているそうだ。一度見てみたい。

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2025.05.01、福井県坂井市三国湊

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2025年5月13日 (火)

北前船拠点の三国湊(9)木の庇

かぐら造りの町家は見かけは京町家と同じだが、よく見るといくつかの違いがある。雪深く風の強い気候に合わせて進化したのだろう。

ひとつは庇に瓦を使わないこと。銅板張りが多い。庇の上に取り付けられている長い棒は雪止めだ。銅板のほうが雪が落ちやすいのかもしれない。もしくは、瓦葺きだと雪に押されて瓦がずれるのか、あるいは、瓦葺きだと瓦の下へ雪解け水がしみ込んで庇下地の木材を腐らせるのかもしれない。

おもしろいのは湾曲した庇が多いこと。道路側へ向けて丸く垂れ下がっている。これこそ雪を落とすための工夫だろう。丸い庇を初めて見たが、なかなか愛嬌があって楽しい。

1軒だけ木板葺きの庇があった。厚みが5センチほどある板を二重にしている。これが古い形なのだろう。庇先のラインは両端で少し跳ね上がっている。きりっとしたデザインでかっこいい。

湾曲した庇といい、跳ね上がった木製庇といい、まるで船のようだ。三国湊は日本海航路の最大の港湾都市だ。造船技術が建築に影響を与えたのではなかろうか。

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2025.05.01、福井県坂井市三国湊

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2025年5月12日 (月)

北前船拠点の三国湊(8)かぐら造りの民家

旧道沿いの町家が片流れだ。こんなかたちの民家があるとは知らなかった。三国湊特有のかたちだそうだ。なぜこんな半分だけの町家ができたのだろうか。

「かぐら造り」という。一般的に2階に増築することを「おかぐら建て」といっている。だから「かぐら造り」は道路側の屋根を取り除いて、その上に2階を積み増したという意味だろう。屋根を両方へ流れるようにすると、もとからあった屋根との納まりがつかないので、やむなく片流れとしたというところか。

元の形と思われる民家も通りにあった。これは福井県宮津や滋賀県堅田でも見たことのあるかたちだ。能登の枠造りもこの形式の発展形だろう。この民家の道路側の屋根を解体して2階を積み増したわけだ。

機能的には2階はたいして広くないのでさほど意味があるとは思えない。道路側からの外観を町家風に見せたかったというのが動機ではないか。無理やりすぎると思う。それともなにか他に理由があったのだろうか。

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2025.05.01、福井県坂井市三国湊

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2025年3月18日 (火)

大仏様を見た(5)

長くなったのでこれで最後にしたい。

大仏様の念の入っているところは、角に45度斜めの貫が入っているところだ。斜めにかかる様子が美しい。図のように建物が平面的に変形したとき、斜めの材は引っ張り力を発揮して変形を抑える働きがある。このことによって大仏様はさらに強くなる。これが大仏様のふたつめの特徴だろう。

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2025.03.11、奈良市

もうひとつの特徴は、引っ張り力を利用すれば大きなアーチを作ることができることだ。南大門は両端に庇がある。それがヤジロベイのように左右から引っ張りあって釣り合っている。それは南北方向だけではなく東西方向でも同じだ。だから軒の出は四周同じなのだ。そうやって屋根の重さで釣り合っているのが大仏様なのだ。

そのつり合いを応用すれば大きなアーチが作ることができる。レンガや石のアーチだと上からの重さでアーチが締まって強固になるが、引っ張りあっていても同じことができるわけだ。こういう発想はなかった。ほんと頭がよいと思う。
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ということを踏まえて現代式大仏様を考えてみた。

1 引っ張り力を発揮する挿し鴨居で固める
2 建物の角は斜めの材で補強する
3 小屋組み(屋根の骨組み)にも引っ張り力を利かせる

次にわたしに設計依頼する者は、大仏様の優位性について説かれることになるであろう。ではまた。
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2025年3月15日 (土)

大仏様を見た(4)

大仏様の貫(ぬき)の働きについて書いてきたが、深い軒も貫を強化するのに役立っている。つまり、瓦が載って軒が下がると挿し肘木(さしひじき)は柱から抜けようとするだろう。しかし車知栓が利いて抜けはしない。逆に貫にテンション(引っ張り力)がかかって骨組み全体が締まるのである。よくできていると思う。

1.瓦が載って軒先が少し下がる
2.挿し肘木の上側が伸びる(引っ張られる)
3.挿し肘木が柱から抜けようとするが車知栓で留められているので抜けない
4.おそらく柱は外側へ倒れようとするのだろう。実際に少し傾くのかもしれない。
5.貫は挿し肘木に引っ張られて伸びようとする(引っ張り力が加わる)。
6.貫に引っ張り力が加わることで、貫の緩みやガタツキがなくなる。
7.6本の貫のうち5本までが瓦の重さの影響を受けて伸びきる。

結果的に建物をロープで縛ったような状態となり建物が安定する。風や地震などで建物が揺れたとしても貫が張り詰めているので大きく変形しない。これが大仏様が構造的に強い理由だと思う。

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2025.03.11、奈良市

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2025年3月14日 (金)

大仏様を見た(3)

大仏様は「貫(ぬき)で挿(さ)し固める」構造だと習った。その意味が少し分かった気がする。貫とは柱同士をつなぐ水平材のことだ。南大門は6本の貫で挿し固められている。重要なのは柱と貫のつなぎ目である。

Aは内側の貫が外へ飛び出している。この貫は1本の材ではなかろう。〇印で継いでいると思われる。したがって貫は4つの部材を継いだものでだろう。実際にどのように継いでいるのか知らないが、おそらく車知栓(しゃちせん)留めのようなつなぎ方だと思う。この継ぎ方だと貫は柱と一体化して決して抜けない。風や地震で建物が揺れたとき建物は変形するが、貫が引っ張られて変形を抑える。引っ張りによって構造体の変形を防ぐ。これが大仏様の構造的な特徴のひとつである。

大仏様は庇が深い。これは軒下の三角形の組み物が支えているのだと思う。瓦が載って軒が下がると三角形の組み物が締まって堅くなる。瓦の重さで組み物を固めるのが大仏様の構造特徴のふたつめであろう。

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2025年3月13日 (木)

大仏様を見た(2)

秀吉は東大寺南大門を元にして方広寺の大仏殿が建設したのだろう。その経験を活かして東大寺大仏殿は作られたわけだ。東大寺の大仏殿は南大門と構造的には同じだがデザインは異なる。そこを整理しておきたい。

1.大仏殿は柱間に組み物があるが南大門にはそれがない。
柱の間隔が大仏殿のほうが大きいからそうなっているようにも見える。でもそうではなかろう。大仏様は小部材を組み立てて大建築を作る工法だ。したがって柱間隔には限度がある。大仏様ならば中間に組み物を入れて柱間隔を伸ばすようなことはしないだろう。この組み物は飾りとしても役割が大きいと思う。

2.大仏殿は貫(ぬき)にも組み物がある
南大門では貫は柱にささっているだけ。大仏殿では柱につながる水平材のほぼ全てに組み物を取り付けている。

3.庇を支える組み物をつなぐ水平材の簡略化
庇を支える組み物どうしを繋ぐ水平部材が南大門初層は2本だが、大仏殿初層では1本しかない。

こうした大仏殿のデザイン的な処理は、大仏様の合理性からは外れている。なぜ大仏様の見た目ではいけないのか。そもそも重源の大仏殿は焼失するまでに372年経過している。建設当初は嫌われたかもしれないが、300年も経てばそれなりに馴染んでいたのではないか。

やはり大仏殿のデザインには安土桃山時代らしい派手さが表れていると考えるのがよさそうだ。構造的には利点のある大仏様を採用したが、そのそっけなさは時代に合わなかったのかもしれない。大仏殿再興という一大ページェントにふさわしいスタイルが模索された結果こうなったと考えるのが妥当なところか。

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2025年3月12日 (水)

大仏様を見た

上方探索倶楽部で学生たちと東大寺に行ってきた。気づいたことがあるのでメモしておく。まず大仏殿再建についてまとめておく。

(大仏様という不思議なスタイル)
ご承知のように南大門は源平合戦で焼けたものを重源(ちょうげん)を勧進僧として再建したものだ。奈良時代のとおり復元すべしというもっともな意見もあったが、主に予算上の都合で新工法で再建することになった。宋の亡命技術者が指導したとある。天竺様(よう)とも大仏様とも呼ばれた。

この工法は、比較的小さな部材を組み合わせて大きなものを作ることができた。建材調達、建材運搬、現場での組み立てとも大きな部材を扱うより格段に容易だった。ただし見かけがそれまでの和様とまったく異なった。直線が際立つ大型機械のような外観となった。

わたしは構造部材をそのまま見せるデザインはいさぎよくてかっこいいと思う。だた当時の識者のあいだでは不評だったようで大仏様は次第にすたれていった。

(大仏殿は方広寺をまねたのか)
戦国時代に大仏殿は再び焼け落ちた。現在の大仏殿はそのあとの再建である。その再建工事に先立って京都の方広寺大仏殿が完成している

1195 重源が東大寺大仏殿を再建
1567 東大寺大仏殿焼失
1568 秀吉が方広寺建築発願
1595 方広寺創建
1603 方広寺初代大仏殿失火により焼失
1610 方広寺2代目大仏殿立柱
1612 方広寺2代目大仏殿完成
1694 東大寺大仏殿の再建工事始まる
1708 東大寺大仏殿再建

方広寺の初代大仏殿がどのような形だったのかよく分からないらしい。2代目の大仏殿は正面に唐破風を据えており東大寺大仏殿とよく似ている。だから東大寺大仏殿は方広寺のものをまねたのだと思う。

(大仏様リバイバル)
実際に東大寺大仏殿の構造を見れば、南大門と同じ大仏様であることが分かる。意匠的には多少の違いがあるが、構造的にはまったく同じものと考えてさしつかえない。

先行していた方広寺大仏殿が大仏様だったのだろうか。唐破風が似ているのだから構造自体も同じだったのかもしれない。方広寺が大仏様だったとすれば、それが大仏様リバイバルの最初となる。

400年ものあいだすたれていた様式をどうやって再現したのだろう。さいわいに焼け残った南大門をモデルにしたのは間違いない。しかし実物があるからといって、その何倍もの大きさの建物を本当につくることができるのか誰にも分からなかったはずだ。その困難をどうやって乗り越えたのか興味深い。おいおい調べていきたい。

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2025.03.11、奈良市

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2024年12月22日 (日)

西大寺愛染堂

1768年に近衛家邸宅を移築したという。本堂再建に先立って復興されたわけだ。寝殿造だというからには、当初は檜皮葺きだったのかもしれない。

南中東に3室に分かれている。南室に叡尊像がある。中室には叡尊が招来した愛染明王が本尊として祀られている。北室は客殿というが公開されていなかった。西大寺HPによれば床の間付の桃山風の座敷である。

わたしは叡尊像に出会えたのがうれしかった。生前に作られた像である。慶派の手になるのであろう。写実的な彫刻で、息遣いまで聞こえてきそうだ。

末法の代にあって僧侶の戒律をリバイバルさせた謹厳実直な僧侶なのだが、思っていたより柔和で優しい面影であった。そうかぁ、これが叡尊かぁ、と認識を新たにした。

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2024.12.17、奈良市

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西大寺四王堂(1674)

西大寺は藤原仲麻呂の乱のおり、孝謙天皇は四天王に戦勝を祈願した。乱の平定後に四天王を祀ったのが寺の始まりだという。その四天王像はその後戦火で損傷するが、足元の餓鬼などは奈良自時代のままだという。金銅製の餓鬼は表面が焼けて姿がよく分からないが、それでも奈良時代の彫刻が遺っているのはすごい。

四王堂は江戸時代の再建だが、中へ入ると大仏様なので驚いた。東大寺大仏殿の再建が1709年なので、こちらのほうが古い。大仏様リバイバルの初期作品と位置付けられると思う。

屋根が二重に見えるが、下層は裳階(もこし)だそうだ。裳階とは建物本体のまわりに取り付けられた庇(ひさし)のことだ。だから、本体はけっこう背が高い建物なのだ。これも大仏殿と似ている。

なぜ、背が高いのかといえば、四天王が守護するご本尊・十一面観音立象の高さが6メートルもあるからだ。これは平安時代の仏さまで、もとは京都にあったものを叡尊が四王堂の本尊として祀ったものと言われる。1145年のものとされ、定朝式のふっくらしたご尊顔の仏像だった。

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2024.12.17、奈良市

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