建築研究

2026年3月13日 (金)

(5)天沼俊一の見方

「建築と社会」1933年3月号に天沼による傍花閣の解説があった。それによると1階の台は仁王様を置く台で、陶磁器製の仁王像を寺が見せてくれたそうだ。

天沼はこの場所に置くにしては小さすぎると疑念を抱くが、小さいので仁王門みたいにならなくてちょうどよいとほめている。仁王は置いたかもしれないが、それは傍花閣のできた後のことではないか。そもそも浄土真宗に仁王像は不要ではないか。

驚いたのは2階天井の扇だるきの中心に羅盤(らばん)があることだ。羅盤とは方位磁石のことで、風水の基本アイテムとして修験道などで使われる。天沼は「すこぶる美観」とほめるが、この異様さに付いていないのだろうか。なぜ、浄土真宗の庭園に羅盤が必要なのか。渉成園の建物は秀吉の伏見城遺構と言われているので、伏見時代からこうだったのかもしれない。というか、そうとしか考えられない。

さらに、左右の階段に敦盛熊谷の絵がかかっているそうだ。なぜ、阿弥陀堂の門に敦盛熊谷の絵を掛けねばならぬのか。天沼はその理由を追及していない。とくに気にしないのだろうか。

敦盛熊谷とは平家物語の一の谷の合戦で、追い詰めた平家の貴公子・平敦盛を熊谷直実が泣いて切る場面だ。熊谷はこれを悔いて法然上人の弟子となる。のちに浄土真宗を開いた親鸞聖人とは同時期の弟子だった。だからといって、阿弥陀堂の門に熊谷敦盛の絵をかける理由にはならない。

わたしの花台説では、羅盤と敦盛熊谷を説明できない。なんとなく次案も出かかっているのだが、とりあえず保留ということで。

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「建築と社会」第16輯第3号(1933年3月1日)P.30/文章写真とも天沼俊一氏

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2026年3月12日 (木)

(5)不思議なかたちの手すりが示すこと

このスパナのような形の手摺子はなにを表しているのだろう。上下が半円形になっている。上の半円は下のものより少し小さい。

まったく私の思い付きなのだが、これは供花用の華瓶(けびょう)ではないか。球形の上に首があり、先はラッパのように開いている花瓶(かびん)である。

手摺子が華瓶であるのは、2階座敷が花を活ける場所であることを示すのだろう。そして1階に樽型の張り出しがあるのも、この手摺子のように丸い張り出しを作って傍花閣そのものを華瓶に見立てたからではないか。これがいまのところのわたしの推理である。

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2026.03.07、京都市下京区、渉成園

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2026年3月11日 (水)

(4)傍花閣の樽型張り出し2

 もうひとつの特徴は、1階の門の部分の左右に張り出しがあることだ。しかも張り出しの屋根は樽のように湾曲している。日本建築で丸屋根は珍しかろう。これが何のために設けられたのか説明がない。

樽型張り出しの東側には台がある。園林堂側である西側はベンチのようになっている。これはいったい何をするところなのか。

おそらく台は花器をおく場所だろう。周囲を花模様の彫刻が取り囲んでいるのはそのためだ。ベンチは花を活けるための準備スペースではなかろうか。門の左右に花を供えることで、これは阿弥陀物への供花となるのだ。

では、なぜに樽型をしているのか。これは2階勾欄の不思議な手摺子がヒントとなる。

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2026.03.07、京都市下京区、渉成園

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2026年3月10日 (火)

(3)傍花閣の樽型張り出し

傍花閣は2階建ての小楼閣である。2階は四畳半の座敷になっているそうだ。勾欄のある縁側を四周にめぐらせて、いかにも庭園を眺める望楼のように見える。1階は門となっていて、それをくぐると園内の阿弥陀堂である園林堂に至る。

パンフにも傍花閣は園林堂の門であるとし、周囲に桜が植えられているので傍花閣の名があると説明する。そうだろうか。それなら、なぜこのような形になっているのか。

傍花閣の特徴はまず左右に屋根付き階段のあること。左右にあるのは三門形式をなぞっているのかもしれない。東本願寺の御影堂門も左右の外部に屋根付き階段がある。ただし、もし傍花閣が三門形式なのであれば、2階に仏像を祀らねばならない。それはない。2階は畳座があるばかりという。謎めいている。(長くなったので続きは次回)

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2026.03.07、京都市下京区、渉成園

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2026年3月 9日 (月)

(2) 傍花閣の植物模様たち

傍花閣は植物模様にあふれている。扉の左右2か所、樽型の張り出しの丸窓の下に4か所、そして樽型の側面の2か所だ。計8か所である。8は木気の数だから花を供える楼閣を飾る植物の数としてふさわしい。

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2026.03.07、京都市下京区、渉成園

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2026年3月 8日 (日)

(1) 傍花閣(ぼうかかく)をスケッチした

不思議な建物だ。類例がない。なぜこんな形をしているのだろうか? 結論からいえば花を供えるための楼閣なのだろう。謎解きは次回に。 

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2026.03.07/ワトソン紙はがきサイズ、コミック0.3、固形透明水彩/京都市下京区

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2025年9月15日 (月)

姫路城の構造を学生と見てきた

まっすぐな部材を編み込むように組み合わせていて見事だ。能登半島の枠の内づくりのシンプルな構成と似ている。丈夫な床で骨組みを押さえるところも似ている。床を丈夫にすることで骨組みのねじれを抑えるわけだ。

枠の内づくりは金沢城に始まったといわれる。おそらく1592年の前田利長による金沢城改造のときだろう。姫路城は池田輝政が1609年に完成させた。バランスのよいシンプルなフレームを壁や床を強くして変形を防ぐ。合理的な耐震構造の考え方がこの時代にすでにできあがっている。いたい誰が考えたのだろうか。

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2025.09.14、姫路城
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2024.05.16、能登半島「枠の内づくり」

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2025年5月14日 (水)

北前船拠点の三国湊(10)赤い瓦と石の棟瓦

石州瓦かと思ったが、これが越前赤瓦なのだろう。石州のような釉薬瓦ではなさそうだ。塩焼き瓦の一種ではないか。なかなか味わい深い表情を見せている。棟瓦が石なのは風が強いからだろう。コンクリート製のものもあった(写真)。石製のものを瓦と呼んでよいのか分からないが、三国湊に近い丸岡城では石瓦が使われているそうだ。一度見てみたい。

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2025.05.01、福井県坂井市三国湊

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2025年5月13日 (火)

北前船拠点の三国湊(9)木の庇

かぐら造りの町家は見かけは京町家と同じだが、よく見るといくつかの違いがある。雪深く風の強い気候に合わせて進化したのだろう。

ひとつは庇に瓦を使わないこと。銅板張りが多い。庇の上に取り付けられている長い棒は雪止めだ。銅板のほうが雪が落ちやすいのかもしれない。もしくは、瓦葺きだと雪に押されて瓦がずれるのか、あるいは、瓦葺きだと瓦の下へ雪解け水がしみ込んで庇下地の木材を腐らせるのかもしれない。

おもしろいのは湾曲した庇が多いこと。道路側へ向けて丸く垂れ下がっている。これこそ雪を落とすための工夫だろう。丸い庇を初めて見たが、なかなか愛嬌があって楽しい。

1軒だけ木板葺きの庇があった。厚みが5センチほどある板を二重にしている。これが古い形なのだろう。庇先のラインは両端で少し跳ね上がっている。きりっとしたデザインでかっこいい。

湾曲した庇といい、跳ね上がった木製庇といい、まるで船のようだ。三国湊は日本海航路の最大の港湾都市だ。造船技術が建築に影響を与えたのではなかろうか。

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2025.05.01、福井県坂井市三国湊

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2025年5月12日 (月)

北前船拠点の三国湊(8)かぐら造りの民家

旧道沿いの町家が片流れだ。こんなかたちの民家があるとは知らなかった。三国湊特有のかたちだそうだ。なぜこんな半分だけの町家ができたのだろうか。

「かぐら造り」という。一般的に2階に増築することを「おかぐら建て」といっている。だから「かぐら造り」は道路側の屋根を取り除いて、その上に2階を積み増したという意味だろう。屋根を両方へ流れるようにすると、もとからあった屋根との納まりがつかないので、やむなく片流れとしたというところか。

元の形と思われる民家も通りにあった。これは福井県宮津や滋賀県堅田でも見たことのあるかたちだ。能登の枠造りもこの形式の発展形だろう。この民家の道路側の屋根を解体して2階を積み増したわけだ。

機能的には2階はたいして広くないのでさほど意味があるとは思えない。道路側からの外観を町家風に見せたかったというのが動機ではないか。無理やりすぎると思う。それともなにか他に理由があったのだろうか。

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2025.05.01、福井県坂井市三国湊

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