たぬきのまちさがし

2021年4月19日 (月)

萩旅行、小さなコンクリート灯台

幕末の恵比須ヶ鼻造船所跡で小さな灯台を見つけた。戦前のものに見える。シンプルなかたちがモダンだ。コンクリートが風化したようすが美しい。

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2021.03.18、山口県萩市

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2021年4月16日 (金)

萩旅行、通りすがりに鉄筋コンクリート造の橋を見つけた

最近、アーチが路面の上にある鉄筋コンクリート造の橋があることを知った。聖橋のような上路式なら分かるが路面がアーチの下にある下路式だとアーチが壊れるのではないか。本当にそんな橋があるのだろうか、などと思っていたところ目の前にあった。うわっ本当にあるんだ、鉄筋コンクリート橋って。すごいなぁ。かっこいいなぁ。

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2021.03.18、山口県萩市

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2021年4月15日 (木)

萩旅行、左瓦を見つけた

城下町で左瓦を見つけた。瓦桟が右にある。これを左瓦というらしい。左へ左へと置いていくから左瓦なのだろうか。風向きに応じて左右を使い分けるそうだ。瓦に左右があることを知らなかった。

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2021.03.18、山口県萩市

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2021年4月14日 (水)

萩旅行、菊屋家住宅の赤い壁

菊屋という豪商は毛利の家臣で萩城下を造った家柄だそうだ。建物は江戸時代初期だそうだがどこが古いのかよく分からない。小屋組みは貫で挿し固めているので幕末のものに見えた。土壁が独特の温かい赤で中塗り仕上げがとてもよかった。こういう家を造りたい。

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2021.03.18、山口県萩市、菊屋家住宅

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2021年3月20日 (土)

萩の反射炉を見てきた

反射炉を初めてみた。森のなかに煙突だけ残っていたのを1926年に史跡に指定し保存している。安山岩積みの壁がなかなか圧巻だった。来てよかった。

反射炉は図のように炉の天井を凹レンズのように湾曲させて火力を集中させる構造らしい。実物を見て反射炉の仕組みが初めて分かった。現在炉の部分はほぼ崩れているが残った部分を見ると円筒型の焼き物をドーム状に積んでいる。炉内に向けた円筒の頂部が釉薬をかけたように光っていた。反射させるためだろう。萩焼の登り窯の技術を援用しているように見える。そういえばモデルとした反射炉のあった佐賀藩も陶芸がさかんだった。佐賀も萩も、もともと火を使う人々だったわけだ。

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2021.03.20、萩反射炉1856
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2021年2月21日 (日)

旧グッゲンハイム邸で開かれた「塩屋と映画」に参加した

午前中は塩屋(神戸市)歩き。坂道ばかりの町を40名ほどでそぞろ歩いた。映画やCMのロケ地が随所にあっておもしろかった。塩屋は確かに映画になる町だと思う。

午後は実際の映画やCMに出てくる塩屋のワンカットを見せてくれた。そのあとの「架空の映画ロケ地アワード」もおもしろかった。ロケ地案がいずれもマニアックなのが私的にはよかった。

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2021.02.21、塩屋(兵庫県垂水区)歩きのあと旧グッゲンハイム邸に集合

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2020年3月 3日 (火)

風景の継承者

この季節は卆計を見ることが多い。中山村の限界集落や都市部の戦前までの街並みなどをテーマにした作品が毎年出てくる。そうしたものを見ながら考えたことをメモしておく。

最初に事例を出しておいたほうが分かりやすいかも知れない。30才のころ富山和子にはまったことがある。「水と緑と土、伝統を捨てた社会の行方」(中公新書1974)や「日本の米、環境と文化はかく作られた」(中公新書1993)なんかは今でも名著だと思う。そこには日本の農業や林業そして漁業まで人の営みが密接にからみあいながら風景を作り上げ維持してきたことが書かれている。それが崩れたのは人の営みが文明によって変化したからだ。大切ななにかを失いつつあるという危機感を私も共有することができた。わたしはそれに触発されて鉱山跡の山村ネットワークを探したりや棚田や溜池の観察研究をしてきた。基本的には今でもわたしは富山派だ。

さて京都縦貫道や中国縦貫道を走っているとそこに見える風景はほぼ手作りであることが分かる。山のピークまで植林されたり雑木のままだったり、いずれも人の手が加えられていないところはない。富山のいうとおりではないか。裾野の集落はほぼ建て替わりながらも明治時代以前の風景を色濃く残している。農地は縦貫道建設と同時に田ぽ整理されて水田風景としては変化したが、それでも稲を育てている。田んぼのあぜ道から山のてっぺんまで見える風景パノラマのすべてが手作りなのだ。これをどうやって維持せよというのか。そう思うと途方に暮れる。

建築も同じことで、伝統木構造で新築しようとするとまず天然乾燥材の確保が大変だ。壁土も国内では不足し輸入に頼りつつある。土にまぜるスサも純国産というのは難しいのではないか。畳も減農薬の畳表がせいいっぱいだ。畳床も減農薬のものを探すのにも苦労する。色や形を似せるだけならたやすいだろうが、それを成り立たせていた農業や林業の営みが分断されているので素材や工法をすべて昔のままというわけにはいかない。それでもなんとかしたいともがいているのが実情だ。

さて、ここまでが現状分析である。富山が警鐘を鳴らした1970年代のオイルショックのころとなんら変わっていない。ではどうすればいいのかだが、まず落ち着いて問題を整理する必要がある。昔のとおりに戻すのは難しいというより無理だ。ならばなにを残すのかを考えるべきだろう。もちろん残すものは色や形ではなく人の営みとしての一部である。

たとえば里山をテーマとしよう。残すものは里山で行われていた営み、たとえば薪を集めることでもよい。昔のように大量の薪を使うことはないだろうが、薪ストーブの普及を見込めばある程度の復活は狙えるかも知れない。たとえば炭焼きでもよい。高級な炭は茶道に不可欠だ。炭焼きという営みを残すことで地域の茶道文化と連携することも可能かも知れない。ようするに人の営みのうち何を残すのかをまずはっきりさせる必要がある。それが明確になれば現代文明で使えるものは使ってもかまわない。そうやって残された人の営みが風景を再生させる。それは昔のままではないだろうが、それでも風景を継承したことにはなるのではないか。

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2020年2月13日 (木)

【祖山信仰と陰陽論4】古墳はどこを向いている?

 大阪平野の古市古墳群で調べてみた。ただしどうやっても正確にはならない。正確にならない理由は古墳の形が当初から変わっている可能性があること、地図に落とすときに誤差がでること、見えるピークが地図上の山頂と一致していない可能性があることなどだ。それでもある程度の傾向は出るだろうと思ってやってみたところある程度の傾向は出た。やはり古墳は特定の山とのつながりがあるようだ。

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 古市古墳群の大きさトップ10を使った。古墳の正確な方向は決めづらい。おおよその方向を決めてそれを下の大きな地図に落とし込んだ。

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 各古墳とつながりがあると思われる山は次のとおり。

  古墳名 祖山 築造推定年代
誉田御廟山古墳 金剛山(1125)  420年ごろ
仲津山古墳 信貴山(437)? 400
岡ミサンザイ古墳 生駒山(642) 500
市野山古墳 岩湧山(898) 470
墓山古墳 二上山(517) 410
津堂城山古墳 六甲山(932)? 380
前の山古墳(軽里大塚古墳) 二上山(517) 480
野中宮山古墳 二上山(517)? 400
古室山古墳 和泉葛木山(898) 380
10 野中ボケ山古墳 信貴山(437) 520

 大阪平野にはふたつの大きな古墳群がある。ひとつは今回使った藤井寺市の古市古墳群、もうひとつは堺市の百舌鳥古墳群だ。モズ古墳群で同じことをやってみるとどうなるか。これが結構おもしろい結論になる。それはまた次回に。

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2020年2月10日 (月)

【祖山信仰と陰陽論3】古墳も陰陽になっている


 連載するつもりはなかったが長くなったので共通タイトルをつけてみた。


 比叡山は比較的新しい祭祀形態なので易を使ったのだろう。基本は雄山と雌山の対で陰陽を構成するものだと思う。だから比叡山の祭祀も古くは天神に相当する神がいたはずだ。叡山は天台密教によって聖地の上書きをしたので分かりにくくなっている。


 さて古墳が陰陽でできているというのは民俗学の分野では早くから言われてきた。たとえば渡邊欣雄は「風水、気の景観学」(人文書院1994)で前方後円墳が陰陽でできていると最初に言ったのは松本清張だとしたうえで、中国沖縄の亀甲墓が陰陽で構成されていることとも考え併せて松本説を支持した。


 最初これを読んだときほんまかいなと思ったものだが今では納得している。陰陽論は紀元前5世紀には成立していたわけだから、東洋の墓制が陰陽論からはずれるわけがない。


 ただし松本清張が前方後円墳の方向がまちまちであるのは暦のせいだとするのには賛成できない。古来、暦は木星の運行を中心に考えられた。マヤの暦が金星を中心にしていることとよく似ている。木星の公転周期、つまり太陽を一周するのに12年かかる。東洋ではこの5倍の60年を暦の一巡りとした。木星は暦の神様「大歳神」として祀られ、その位置する方向がその年の干支となった。だから古墳の方角がまちまちなのは干支や恵方など埋葬時の暦によるのだろうとした。

 しかしそれではおかしい。なぜなら大阪平野の前方後円墳で海の側を向いたものが見当たらないからだ。もし暦に従って方角を決めているのなら12方向のすべてがほぼ同数なければおかしいだろう。では暦ではないとすれば何が理由なのか。わたしは前方後円墳は山を指していると考えている。古墳は先祖の帰るべき神山の依り代として造られたのではないか。だから古墳は神山の方角を向いている。

 それを確かめるために古墳の向きと神山の位置をトレースしてみた。長くなったので続きは次回に。

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2020年2月 5日 (水)

【祖山信仰と陰陽論2】比叡山も陰陽になっている

ちなみに大阪工業大学の梅田キャンパスから比叡山もよく見える。そして二上山と同じようにピークがふたつある。左が四明岳(しめいだけ)、右が大比叡だ。大比叡のほうが高いので雄山だろう。

さてこの山も二上山と同じように天地を祀る雨ごいの山かというとそうでもない。それはご祭神を見ればわかる。比叡山は日吉山(ひえやま)が古い言い方だが、日吉大社のご祭神は大物主(おおものぬし)神と大山咋(おおやまくい)神だという。

オオヤマクイの意味はよく分かっていない。ウイッキでは咋は杭であるとし杭を打ち土地の所有を示す意味とする。つまり土地神というわけだ。一方のオオモノヌシは三輪大社のご祭神であり大国主と同一視されることも多い。

オオヤマクイが土地神で地神ならばオオモノヌシが天神だというとそうでもない。オオモノヌシは大国主や大己貴(おおなむち)などいくつも別名がある。各地で祀られていたから名前も多いのだろう。しかしそれを金気の神様になぞらえるのは無理がある。どちらかと言えば土気か木気だと思う。

比叡山のふたつのピークは「地神-地神」のセットで二上山の「天神-地神」とは違う祭祀と考えたほうがよさそうだ。わたしは易でいうところの地山謙(ちざんけん)ではないかと思っている。地と山のイメージがそろうことで謙という答えになる。この場合、地にあたるのがオオヤマクイで山がオオモノヌシなのだろう。

謙とは謙譲のことで戦勝祈願に使うことの多い卦だ。天智天皇は近江遷都に際して三輪大社からオオモノヌシを勧請したという。元から祀られていたオオヤマクイとセットになったのはこのときだ。わたしは対新羅戦の戦勝祈願をしたのではないかと思っている。

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2020.02.01、大阪市北区梅田から眺めた比叡山

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