たぬきのまちさがし

2023年9月22日 (金)

養父市梁瀬の旅館街

旅館か料亭、貸座敷のようなものではないか。これが集中して建っている場所が残っていた。昭和初期のものに見える。2階座敷の濡れ縁の手すりがなかなかよい。通り全体が60年台の風貌を保っていて、トトロに出てくるボンネットバスがやってきそうだった。

2309162
Img_7856
2023.09.16、養父市梁瀬

| | コメント (0)

2023年9月12日 (火)

旧平安邸ディテール(4)

平安家の精錬所は昭和初期まで稼働していたそうだ。精錬所跡は芝生広場となっていてレンガ造りの炉の跡が残っていた。まわりにはカラミ石が並べられている。カラミは鉱滓のことで金属を採った残りかすのことだ。ルツボの形をしている。精錬所の横の谷は鉱滓捨て場だった。一面カラミで埋められているようすが壮観だ。

Img_7143_20230912062501
Img_7146_20230912062501
Img_7147
2023.07.30、兵庫県、川西市郷土館

| | コメント (0)

2023年9月 9日 (土)

旧平安邸ディテール(1)

旧平安邸をゆっくり見たと思っていた。機会があってそれが叶った。再訪した座敷には初夏の風が吹いていた。よしずを張った建具が涼やかだった。

母屋は大正時代の民家づくりだ。大黒柱は松だという。松の大黒柱を始めて見た。塗籠(ぬりごめ)造りなのは隣接する精錬所の火の粉を避けるためだろう。平安(ひらやす)家は江戸時代から続く精錬家だ。

精錬所は炉の炎を上げるために風の強い場所に建てた。平安家は風を知り尽くした一族だった。座敷を吹き抜ける風は銅を吹き分けるための風邪でもあった。

Img_7110 Img_7109 Img_7111_20230908064101 Img_7153 Img_7151
2023.07.30、兵庫県、川西市郷土館

| | コメント (0)

2023年8月18日 (金)

神戸の高架下商店街は戦災復興住宅ではなかろうか

木造に見えるが、戦後復興期の軽量鉄骨の遺構かもしれない。JRの高架下は三宮駅から神戸駅までの1.8キロほどが商店街となっている。三宮駅から元町駅まではピアザ神戸(三宮高架商店街)、元町駅から神戸駅まではモトコー(元町高架通商店街)と呼び名は変わるが、ほとんど同じ形の長屋が続く。歴史的には闇市がらみらしいが、建物を見る限り計画的なものに見える。JRと神戸市共同の戦災復興住宅ではないか。

Img_7310
Img_7309
2023.08.10、神戸元町

| | コメント (0)

2023年8月17日 (木)

池田で酒蔵アパートを見つけた

未確認ではあるが、このアパートは元酒蔵だろう。池田は今でこそ酒造家は2軒だが戦前にはもっとあったようだ。町を歩いているとまだ残っている酒蔵を見つけることができる。酒蔵をたどることで町の構造が見えてくるように思う。元酒蔵はたいがい細い道に面しており、どうやって出荷したのか興味深い。運河があったのではないかとも思うがそれも未確認である。

Img_7203
2023.07.30、大阪府池田市

| | コメント (0)

2023年6月14日 (水)

中津商店街あたりの風景がよい

最近、中津にコワーキングスペースを借りたので周辺をよく歩いている。ものすごくおもしろい。

商店街は屋根が失われて久しいようだ。店舗はほぼシャターが締まっているがところどころカフェやギャラリーや建築事務所などが入っておもしろくなっている。

建物はほぼ昭和初期の木造2階建てだ。しかも商店街を軸に1.5キロ四方ほどの街区全体が昭和初期のままの姿で残っている。これはもう街区全体を登録文化財にしてもよいと思う。

まだすみずみまで歩いていないので、これからゆっくり町の成り立ちをひも解いていきたい。楽しみである。

Img_6465_20230614093601
2023.06.01、大阪市北区中津3丁目

| | コメント (0)

2023年3月 1日 (水)

30年前の町が残っている

旭区を歩いて気づいたことがあるのでメモしておく。

1 商店街の活気
古い用品店や荒物屋がいまも営業している。店主も客筋も高齢者が多いがまだ活気が残っている。これは無人化の進む大正区とは対照的だ。旭区は大正区よりも30年遅れで過疎化が進んでいる。つまり30年前の風景が残っている。

2 大宮八幡宮の玉垣
玉垣に書かれた企業は鉄工所や製紙場などさまざまな業種の中小企業が名を連ねる。玉垣を新しくしたときの氏子エリアに存在した企業一覧が作れるだろう。旭区は中小企業の工員町だったのだ。

3 残った人々
町工場の多くはもう操業していないかも知れない。操業をやめたとき若い工員は転職しただろう。年金生活のできる熟練工はそのまま町に残っただろう。いま大宮の商店街を歩いている70~80代の高齢者はそうした人々ではなかろうか。そうだとすれば町工場が閉鎖されたのは10ねんから20年ほど前だといえよう。

4 想定される年表

  旭区 大正区
1960年代

開発が進み多数の町工場が操業する。
工場主は30代。
工員のための商店街を備えた借家街の形成。

高度成長期に入り、戦前に創業していた大手メーカーと下請けの町工場が再稼働する。
1970年代 中小企業は海外移転もできず経営難に陥る。 オイルショックを契機に大手のメーカーは生産基盤を海外へ移した。
大手の下請けをしていた町工場の閉鎖が続く。
これは経営者の高齢化が原因のひとつかもしれない。
若年工員が転職し町には年金生活者が残る。
2000年代

工場主の多くが70才を超える。
後継者がいないため閉鎖される町工場が続出する。
若年工員は転職し町には定年退職した元行員が残る

年金生活者が減り街の無人化が進む。
借家街が崩壊し商店街が役目を終える。
長屋がマンションに建て替わる。
2020年代 元行員の年金生活者の高齢化が進む。
借家街の無人化が進み、長屋がマンションに建て替わる。
転入するマンション住民が増え始める。
     


Img_5147
2023.02.16、大阪市旭区、大宮八幡神社の浪速型狛犬

| | コメント (0)

2022年7月30日 (土)

四条通りは曲がっている

四条大橋東詰めで信号待ちをしていて気づいた。菊水ビルの階段塔が四条通りと並行でない。写真で見るように階段塔の屋根のトップのラインとその下の四条通りに面した外壁上端のラインの角度がずれている。つまり菊水ビルの平面が台形であるということだ。菊水ビルは四条通りと川端通りの角地に建つので、すなわち四条通りと川端通りの角が直角ではないということだ。

そんなことあるのかなぁと思って、向いの南座を見たらやっぱり直角ではなかった。写真の右側のビルがそば処「松葉」だが、この外壁上端のラインが四条通りと並行である。その左側の南座は四条通りからひっこんで建っているが、これは川端通りと直角に建っている。南座の平面は台形ではないということだ。

三条通りが平安京を出てから少し斜めになることは聞いたことがある。それと同じ現象が四条でも起こっているわけだ。三条通りの場合は蹴上の坂へ向かって斜めになるわけだが四条通りの場合はなぜ斜めなのか分からない。ちなみに四条通りは八坂神社へ向かって弓なりに曲がっている。なぜこうなっているのかはもう少し考えてみたい。

Img_3756
Img_3758
2022.07.29、京都市四条大橋東詰め

| | コメント (0)

2021年11月24日 (水)

竹田の街並み

見た感じでは、2階の階高が高い町家は戦後建築だと思う。半分以上がそうだ。屋根にお城のようなシャチホコが載るのも戦後のものだろう。この町は戦後の一時期、通りの風景を一変させるほど栄えた時期があったということだ。おそらく生野銀山関係かと思うがよく分からない。いかなる生業があって、それがその後どう衰退したのか知りたい。

211120
2021.11.20/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/兵庫県朝来市竹田

| | コメント (0)

2021年10月16日 (土)

まっすぐな梁は城造りが由来か(2)

戦国時代の飛騨は木材の既製品を技術指導込みで供給していたことを前回考えた。続きをメモしておく。

飛騨で木材の規格化が進んだのは全国で都市化が進んだためだろう。経済発展と木材の大量供給が背景にある。これは飛騨の隣国・木曽でも同様だったろう。三大美林と称される木曽ヒノキも戦国時代に流通を拡大させたのではないか。

木材の輸送は水運である。飛騨からは飛騨川を、木曽からは木曽川を下った。ふたつの川は美濃でひとつになり、羽島で長良川と合流し桑名で揖斐川と合流する。この河川沿いの武将たちが戦国時代に優勢なのは、木材を中心とした物流を抑えていたからだろう。経済力を背景に相場を操り旧来の支配階級を駆逐したのが戦国時代だったと思う。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧