たぬきのまちさがし

2017年6月12日 (月)

【西京めぐり】 3.山口家住宅長屋門

 「GOうえすとっ!」の後、上桂あたりをぶらついていて偶然行き当った。これほどすばらしい茅葺きが住んでいる近くにあったとは知らなかった。早速スケッチしてみた。これで20分くらい。

 文化遺産オンライン(参照)によれば江戸時代後期のものらしい。山口家は代々庄屋の家筋だった。だから長屋門がある。長屋門は家の格式を示している。

 わたしは長屋門を見ると武家を連想してしまう。もともと長屋門は馬屋だったと考えているからだ。このあたりは平安時代以来、桂川水運と老い坂の峠越え陸運との交易中継点として栄えた。つまり武家の本拠のひとつであったわけだ。山口家もそうした古い武家の系譜に連なる家筋なのかも知れない。

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2017.05.28/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/

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2017年6月10日 (土)

【猪名川町めぐり】 4.多田銀銅山の古い露頭掘り跡

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 露頭掘りの跡を初めて見た。なかなか迫力がある。この採掘跡は古いことは分かっているが、どこまで古いのかは分かっていない。わたしは秀吉のころではないかと思う。

 多田の銅山は奈良の大仏建設のために奉納されたという伝説がある。わたしはそういうこともあったろうと思う。思い返せば丹波高原は鉱物資源の宝庫であるし、丹波勢は神話時代からの一大勢力だ。よく考えれば丹波の「丹」が鉱物だ。丹波=丹庭は鉱山を指すのかも知れない。

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 こちらが新しい坑道で中が見学できる。この坑道は削岩機を使ったものなので新しい。露頭掘り跡はこのすぐ上にある。

 坑道の岩肌に鉱脈が筋となって見える。鉱脈とは岩のあいだに挟まった薄い紙のようなものだ。地上の露出した部分から掘り始め、深くなると山腹から横穴と竪穴をつないで鉱脈までショートカットして掘り続ける。そのことがよく分かった。

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2017.05.25、兵庫県猪名川町多田銀銅山青木間歩

 青木間歩の横の川は底の岩が平に削られていた。これは高瀬船を通すための大掛かりな整備だろう。これだけ大掛かりでありながら誰も気づいていないのは、地域調査が甘いとしか言いようがない。

 採掘された鉱石は小規模ならばその場で精錬されたろうが、規模が大きくなると精錬所まで船で降ろすしかない。これはそのための遺跡であって、そのスケールの大きさから秀吉を思わずにはいられない。

 わたしは今まで多田源氏がなぜ川西にいるのかよく分かっていなかった。これは多田銀銅山の猪名川舟運の利権を握った水賊なのだ。戦国時代の丹波勢の強さは鉱物資源の運搬を担っていたことによるのだろう。

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2017年6月 9日 (金)

【西京めぐり】 2.浄住寺庭園の石を見ていた

 見学勉強会「GOうえすとっ!」で訪れた浄住寺ではお庭も見せてくれた。赤い腹のイモリがたくさんいる。水がきれいな証拠だ。モリアオガエルの卵を住職が教えてくれた。もう小さなオタマが孵ったそうだ。

 このような池泉式は禅寺では珍しいそうだ。方丈が伊達家の寄進なので、それと同時だとも言われている。庭の寓意はよく分からないと言う。池のなかの島石を釈迦の歯だと言った方があるそうだ。それはこの寺の中心が釈迦の歯を納めた寿塔だからだ。そう言われてみれば歯のようにも見える。

 わたしは斜面に並ぶ石列に気が付いたのでスケッチしてみた。池から山へ点々と続いていく。この先は山号ともなった衣笠山だ。

 石は龍脈を表すのだろう。衣笠山に発した龍脈が池のほとりの四角い台のような石に至る。これは座禅石だとも言われるが、わたしは船に見える。気はそこから歯の島へ渡るのだろう。つまり寿塔に祀られる釈迦の歯は衣笠山に降りた神に直結しているという寓意ではないかと思った。

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2017.05.28/クロッキー帳、2Bシャーペン0.5/京都市西京区浄住寺

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2017年6月 8日 (木)

【西京めぐり】 1.お地蔵さま

 京都市西京区の見学勉強会「GO うえすとっ!」に参加してきた。近所でありながら行ったことのない場所に連れていってもらって楽しかった。これは浄住寺境内のお地蔵さま。工事中に出てきたものが持ち込まれて次第に増えていくのだそうだ。きれいにお祀りしてあって、ぎゅうぎゅう詰めでも楽しそうだ。

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2017.05.28/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/京都市西京区浄住寺境内

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2017年5月29日 (月)

【猪名川町めぐり】 3.平安精錬所跡

 精錬所の遺跡はもうひとつあった。なぜかレンガの構造物がバラバラになっている。これは真吹炉と呼ばれるものらしい。江戸時代以来の伝統的な精錬法で、ふいごが送風機に機械化されている。

 こうした小規模な精錬所が多田銀銅山周辺に点在したのだろう。鉱山は住友のような大規模なものを想像しがちだが、こうした家内工業的な精練は昭和初期まで広く行われたと考えてよい。

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2017.05.25、兵庫県川西市「川西市郷土館」

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2017年5月26日 (金)

【猪名川町めぐり】 2.レンガの刻印

 堀家精錬所跡からは溶鉱炉跡も出土し、それは岸和田レンガの×マークが付いていたと説明版にあった。展示されていた出土レンガ壁の一部には岸レンのマークのほか大阪窯業のもあった。

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(左)岸和田レンガ会社の×マーク(右)大阪窯業の〇にYマーク

Img_9721 展示されていたカラミレンガと鍋型カラミ

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2017年5月25日 (木)

【猪名川町めぐり】 1.多田銀銅山に来ている

 こんな近くに鉱山系の産業遺跡があるとは思わなかった。なかなかカッコいいレンガの遺構である。来て良かった。

 これは1908年に建設された堀家精錬所の選鉱場跡で動力を使って鉱石の上げ下ろしをしたらしい。詳細は不明。建設翌年の銅値暴落で操業停止となった。

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2015.05.25、兵庫県猪名川町

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2016年10月16日 (日)

1杯200円のラーメンのある町(建築探偵の考えていること)

 ちょっと不思議なロケーションだった。やけに歩道の広い道があったので歩いてみた。歩道の幅が5メートルもある。計画道路か何かなのだろうか。寝屋川市の電通大沿いの道だ。まわりは新興住宅地で、60年代以降に農地を開発した地域であることが分かる。ところがそこに市場があった。これは少しおかしい。市場の設置は戦後すぐから50年代にかけてが多い。市場ができた時点で、それを必要とする住宅地が開かれていなければならない。これでは風景と歴史とが合わない。これを整理するとこうなる。

終戦  農地
50年代 市場<市場が宅地開発より前なのがおかしい
60年代 計画道路・宅地開発 

 アーケードの入り口に白看板に黒いペンキ塗りで「日之出商店街」とある。これって稲葉喜美子の「日ノ出町ブルース」じゃないか。急に古い歌の中に入り込んだ錯覚に陥った。歌に出てくる日ノ出町は横浜の場末の飲み屋街だった。これも50年代から60年代に成立した風景だ。日ノ出という地名そのものが戦後の新興地を思わせる。
 おもしろいのは市場が鉄筋コンクリート造りであること。京都の堀川住宅とよく似ている。あれも50年代前半だった。2階建てで間口が3メートルほどしかない。この狭さも50年代を思わせる。1階が店舗で2階が住宅だ。アーケードは両側の建物から鉄骨で架け渡されている。鉄筋コンクリート造りということは、これが公共事業として建てられたことを示す。道路がらみかも知れない。ここまでを整理するとこうなる。

終戦  農地
60年代 計画道路・宅地開発・市場<市場は50年代に見えるのでおかしい

 最近の市場は空き店舗が多いものだが、ここは全部埋まっていた。なかなか活気があって楽しい。市場の中ほどに食堂があった。大きな赤のれんに「みなさまの台所、兼六食堂」と白抜きで染められている。ガラス戸に手書きのメニューがずらっと並んでいて、そのなかに「ラーメン 200円」があった。200円? 思わず足が止まってメニューを2度見した。たしかに200円とある。ほかのメニューも安い。

 中はお客でいっぱいだった。テレビがお昼のバラエティを流している。いきなり200円ラーメンを頼むのはどうだろうと躊躇していると日替わりランチを勧められた。こういう初見の客を見分けて世話をしてくれるところがうれしい。よい店を見つけた。ランチはオムレツがうまかった。カニ玉に似た甘辛い優しい味でフワトロの食感だった。ここは中華料理店なのではないか。そしてこの薄味の中華はやはり50年代の味だろう。

 ここまでで判明したことは次のとおり。

50年代 兼六食堂開業
50年代 日ノ出商店街
60年代 計画道路・宅地開発

 ここでヒントになるのが、道路沿いの電通大が1961年に立地していること(これは帰ってから検索した)。だから本当はこうではないか。

戦前  大工場(おそらく繊維系)の立地、借家街の形成、
    市場の成立、日ノ出町成立、農地と宅地の混在
戦後  工場再稼働、闇市
50年代 兼六食堂開業
50年代後半 計画道路工事、道路敷地となった市場の移転建て替え
60年代 道路開通、大学の誘致、兼六食堂の学食化、道路沿いの農地の宅地化
60年代 繊維業の構造不況、大工場の閉鎖

 年表上の大工場はまだ私の推理の産物でしかない。しかし戦前にすでに工員街であったと考えればいろいろ説明がつく。ひょっとすると大学は大工場の跡地なのかも知れない。こうして考えてくると、兼六食堂の優しい味わいは工員街から学生街への変化に寄り添ってきたことが分かる。長年続いた食堂の味は大切な歴史資産だと私は思う。

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2016.10.14、大阪府寝屋川市「兼六食堂」

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2016年10月12日 (水)

【伊予旅行】16.内子の旭館

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 けっこう大きい。正面の壁が平面的に彎曲しており、バロック様式の教会堂を思い起こさせる。木造でよく作ったものだ。さすが伊予の建築文化は奥深い。今のオーナーは近所の造り醤油屋さんで映画会などに使っているそうだ。こうしたものを残そうとする気概もすごい。

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2016.08.25

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2016年10月11日 (火)

【伊予旅行】15.内子の出格子窓

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 内子にも大洲と同じような出格子があった。下部に雲形の持ち送りがある。その雲形があふれ出したように写真のような雲形の飾り板がついている。このくどいほど過剰な装飾をほどこす傾向は道後温泉本館に似ている。このあたりが伊予建築の特性なのかもしれない。もちろん私はこの饒舌な感じは好ましいと思う。楽しそうでいいじゃないか。

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2016.08.25

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