たぬきのまちさがし

2016年10月16日 (日)

1杯200円のラーメンのある町(建築探偵の考えていること)

 ちょっと不思議なロケーションだった。やけに歩道の広い道があったので歩いてみた。歩道の幅が5メートルもある。計画道路か何かなのだろうか。寝屋川市の電通大沿いの道だ。まわりは新興住宅地で、60年代以降に農地を開発した地域であることが分かる。ところがそこに市場があった。これは少しおかしい。市場の設置は戦後すぐから50年代にかけてが多い。市場ができた時点で、それを必要とする住宅地が開かれていなければならない。これでは風景と歴史とが合わない。これを整理するとこうなる。

終戦  農地
50年代 市場<市場が宅地開発より前なのがおかしい
60年代 計画道路・宅地開発 

 アーケードの入り口に白看板に黒いペンキ塗りで「日之出商店街」とある。これって稲葉喜美子の「日ノ出町ブルース」じゃないか。急に古い歌の中に入り込んだ錯覚に陥った。歌に出てくる日ノ出町は横浜の場末の飲み屋街だった。これも50年代から60年代に成立した風景だ。日ノ出という地名そのものが戦後の新興地を思わせる。
 おもしろいのは市場が鉄筋コンクリート造りであること。京都の堀川住宅とよく似ている。あれも50年代前半だった。2階建てで間口が3メートルほどしかない。この狭さも50年代を思わせる。1階が店舗で2階が住宅だ。アーケードは両側の建物から鉄骨で架け渡されている。鉄筋コンクリート造りということは、これが公共事業として建てられたことを示す。道路がらみかも知れない。ここまでを整理するとこうなる。

終戦  農地
60年代 計画道路・宅地開発・市場<市場は50年代に見えるのでおかしい

 最近の市場は空き店舗が多いものだが、ここは全部埋まっていた。なかなか活気があって楽しい。市場の中ほどに食堂があった。大きな赤のれんに「みなさまの台所、兼六食堂」と白抜きで染められている。ガラス戸に手書きのメニューがずらっと並んでいて、そのなかに「ラーメン 200円」があった。200円? 思わず足が止まってメニューを2度見した。たしかに200円とある。ほかのメニューも安い。

 中はお客でいっぱいだった。テレビがお昼のバラエティを流している。いきなり200円ラーメンを頼むのはどうだろうと躊躇していると日替わりランチを勧められた。こういう初見の客を見分けて世話をしてくれるところがうれしい。よい店を見つけた。ランチはオムレツがうまかった。カニ玉に似た甘辛い優しい味でフワトロの食感だった。ここは中華料理店なのではないか。そしてこの薄味の中華はやはり50年代の味だろう。

 ここまでで判明したことは次のとおり。

50年代 兼六食堂開業
50年代 日ノ出商店街
60年代 計画道路・宅地開発

 ここでヒントになるのが、道路沿いの電通大が1961年に立地していること(これは帰ってから検索した)。だから本当はこうではないか。

戦前  大工場(おそらく繊維系)の立地、借家街の形成、
    市場の成立、日ノ出町成立、農地と宅地の混在
戦後  工場再稼働、闇市
50年代 兼六食堂開業
50年代後半 計画道路工事、道路敷地となった市場の移転建て替え
60年代 道路開通、大学の誘致、兼六食堂の学食化、道路沿いの農地の宅地化
60年代 繊維業の構造不況、大工場の閉鎖

 年表上の大工場はまだ私の推理の産物でしかない。しかし戦前にすでに工員街であったと考えればいろいろ説明がつく。ひょっとすると大学は大工場の跡地なのかも知れない。こうして考えてくると、兼六食堂の優しい味わいは工員街から学生街への変化に寄り添ってきたことが分かる。長年続いた食堂の味は大切な歴史資産だと私は思う。

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2016.10.14、大阪府寝屋川市「兼六食堂」

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2016年10月12日 (水)

【伊予旅行】16.内子の旭館

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 けっこう大きい。正面の壁が平面的に彎曲しており、バロック様式の教会堂を思い起こさせる。木造でよく作ったものだ。さすが伊予の建築文化は奥深い。今のオーナーは近所の造り醤油屋さんで映画会などに使っているそうだ。こうしたものを残そうとする気概もすごい。

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2016.08.25

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2016年10月11日 (火)

【伊予旅行】15.内子の出格子窓

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 内子にも大洲と同じような出格子があった。下部に雲形の持ち送りがある。その雲形があふれ出したように写真のような雲形の飾り板がついている。このくどいほど過剰な装飾をほどこす傾向は道後温泉本館に似ている。このあたりが伊予建築の特性なのかもしれない。もちろん私はこの饒舌な感じは好ましいと思う。楽しそうでいいじゃないか。

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2016.08.25

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2016年10月 9日 (日)

【伊予旅行】14.臥龍山荘(4)

 不老庵のロケーションは下図のようになっている。神棚の後ろは青石の露呈した崖で、その上に大洲神社がある。神社は大洲城の完成した1331年にその守りとして開かれたという。ご祭神は大国主の命と事代主の命の二柱だ。これは大黒天と恵比寿天に習合される。ようするに不老庵の床の間に飾られる神様は大黒天と恵比寿天の二神なのであろう。

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 ちなみに大黒と恵比寿の陰陽の組み合わせはこの時代に成立したのかもしれない。鎌倉末期から室町初期にかけて、つまり後醍醐天皇の時代の修験道が聖地を再生してまわったのではないか。

 陰陽のセットになっているのは神様だけではない。大洲神社のある青い磐座である神楽山は、肱川を挟んだ対岸の山を冨士山(トミスヤマ)とセットになっている。ここには江戸時代に如法寺が開かれている。如法寺の開かれる前の冨士山も行場の点在する仏の領域であったろう。神社は陽気、寺院は陰気のセットだからだ。

 おもしろいのは方角と社寺の陰陽が入れ替わっていることだ。日の昇る東側が陽気、火の沈む西側は陰気だ。大洲では肱川をはさんで陰気の西側に陽気の神社、陽気の東側に陰気の寺院が配置されている。これは陰陽の交合を意識した配置なのだろう。こうした意図的な逆配置も中世的な感じがする。

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 東の空に満月が昇る。月は陰気そのものであり満月は陰気の絶頂である。陽気である東側は月光に包まれる。月光は陰気の作用であろう。それがまず肱川を照らす。川面がキラキラ光る。その反射光が不老庵の天井を白々と照らし出す。この場合の白は水を表わす。水気は木気を生む。従って不老庵に肱川の白光が届くとき、木気は発動するわけだ。不老とは再生を意味し、不老庵はそれを視的に表現するための呪具なのだ。それはここが再生を願うための祈りの空間であることを示している。

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2016年9月11日 (日)

【伊予旅行】13.臥龍山荘(3)

 なぜ懸け造りなのか
 懸け造りはたいがい磐座に懸けられる。清水寺が筆頭だが、千葉県の笠森観音、鳥取県三仏寺の投げ入れ堂などいずれも岩に懸けられている。これは磐座に降りた天神に舞を奉納するための舞台だ。ここ大洲神社のある丘が神楽山というのも、ここが奉納舞の聖地であったことを示すのだろう。不老庵が懸け造りになっているのは、それを模倣したものだが、元からそういった舞台があったと考えた方が自然だろう。

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 生きた柱とはなにか
 違い棚の無い床の間は神棚だろう。床の間の中心に床柱を置くのは床柱を神に見立てた神棚の形式だと思うが、これは床板そのもを神棚になぞらえている。従ってここを使うときには神明を書いた掛け軸をかけるか神格を表す唐物を置くはずだ。左右にはもちろん供花があるがこの場合は右側だけでよい。なぜなら左側の壁の向こうにすでに生きた槙の木の柱があるからだ。槙は高野山系が使うコウヤマキだろう。これは生きているのではなく活けてあるのだ。

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生きた柱

 再生のための茶室
 茶室は床の間の北側に置かれる。北は水気の領域だ。茶は知られているように土気だ。五味のうち苦味が土気に配当されるからだ。茶に用いる水は背後の岩にうがたれた穴から汲むようだ。岩は磐座であり神気に満ちる。しかも岩の青は龍を示し、臥龍の名のとおり龍脈が露呈していることを示す。

 岩は金気であり水気を生むが、そこで生まれた水は龍脈と神気によって真の水となる。真の水とは木気を生み出す力のある水気のことだ。この茶室が「怡性」と名付けられたのは「怡性养神」つまり怡(悦び)の性(本性)により神(神気もしくは精神)を养(養)うという意味だろう。この悦びとは本来は舞であったはずだが、ここでは茶がそれに代わる。土用で強められた水気が木気を生み出す。神気に満ちた木気によって精神は再生される。 

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茶室裏の穴

 生きた柱のもうひとつの意味
 捨て柱の方角は床の間から見て南西に当たる。これは二黒土星の方角で大黒天の方角だ。大黒天は土気でもある。従って、この方角に生きた木気を置けば土用によって木気が完成する形となる。それは大黒天そのものの完成でもあったろう。

 生きた柱、青い岩、龍、こうしたものは全て強力な木気を示す。おそらく大黒天は観音と習合していたはずだが、明治期に修験道が廃された今となってはよく分からない。しかし観音信仰の篤い四国ならではの何かがあったのだろうと想像できる。トミス山に冨士の字を当てたのは不死の山を連想した行者たちだろう。そこへ不老庵を向けることで不老不死が完成する。つまり茶の力によって増強された最強の木気が再生を行うという筋書きだっただろう。

 長くなったので続きは次回。月光について考える。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月10日 (土)

【伊予旅行】12.臥龍山荘(2)

 清水の舞台のような懸け作りの草庵があった。眼下に肱川が一望できる。名を不老庵という。ここは藩政時代からの庭園だったそうだ。吉野の桜、龍田の楓などはそのころのものだというので、庭園の骨格はそのままなのだろう。崖の中腹にしがみつくように作られた細長い庭園で茶室が点在する。ここは茶庭なのである。

 明治以降荒廃していたのを木蝋で財を成した神戸の河内家が復興した。建物はすべて河内の再興したもので、あちこちに呪いめいた趣向がこらされており、数寄屋造りというよりもゴシック趣味である。なかでもこの不老庵が極め付きだ。

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 天井が網代貼りのヴォールトになっている。こんなの初めて見た。船底天井との説明があるが、わたしは南方の高床式民家を思い出した。河内家は南方とも交易していたのではないか。驚くことに対岸から仲秋の名月が登るとき川面に反射した月光がヴォールト天井に踊るのだそうだ。まるで銀閣ではないか。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

 この茶室を特徴づけているのはそれだけではない。ひとつは違い棚を設けない2間幅の大きな床の間。こういうのも見たことがなかった。この床の間の右側に小さなお茶室がある。

 もうひとつは床の間左の裏にある生きた捨て柱だ。捨て柱とは軒を支える独立柱のことで、ここには3本ある。そのうち1本だけが生えたままの槙の木を上端を切って軒桁を載せているのだ。生きた柱は初めてみた。今も青々と葉を茂らせているのを見て背筋が寒くなった。これって横溝正史の世界ではないのか。

 いったい謎がいくつあるのか。
 まず、なぜ懸け作りなのか。そしてなぜ床の間に違い棚がないのか。そして生きた柱とは何なのか。謎解きは次回。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月 9日 (金)

【伊予旅行】11.臥龍山荘(1)

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 石垣がすばらしい。こまかくシワの入った岩を積み上げている。これを磨くと美しい縞模様になるが、ここは租面仕上げのままだ。出汁巻き玉子のようで柔らかそうだ。細長い石材もあるので粘板岩系なのだろう。それを積んだだけでもおもしろいのに、そこから木が生えている。木を取り込んだ石垣を初めてみた。これは仕方なくこうしているのではなく、おもしろがってわざとやっている。石垣にぽっかり穴を開け、木に負担をかけないようにする高等技術だ。なぜそこまでするのか。ここは木気の庭園だからだろう。

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 臥龍(がりゅう)山荘は肱(ひじ)川沿いの絶壁にある。中国の墨絵にあるような桃源郷の風景そのままだ。肱川が大きくS字カーブを切っており、その下流に大洲城、上流に臥龍山荘がある。山荘は大洲城の砦でもあったのだろう。

 山荘前には広い河原が広がっている。S字の上流側のカーブだが、これが「大洲」なのだと思う。五色の石で覆われた美しい浜だ。この対岸で毎年秋に「芋炊き」という行事がある。夕涼みをしながら里芋の鍋をつつくらしい。東北の「芋煮会」とよく似ている。里芋は金気の象徴だろうから、これは金気を剋し木気を助け子安を祈る呪術に見える。だから木気の強い場所で行う必要があった。

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 河原には青石が露出している。よく見ると臥龍山荘の岸壁そのものが青石であり、崖下にある大岩の島も同じだ。青は龍に色であり木気を示す色でもある。だからここを木気の霊地とし臥龍、つまり龍が伏せる場所と名付けたのだろう。しかも大洲城の東に当たり、方角としても青龍にふさわしい。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月 7日 (水)

【伊予旅行】10.洋館の飾り格子

 曲げた丸鋼を組み合わせて格子にしている。丸鋼をつなぐのに、直径の細い丸鋼で巻いてかしめているのがアクセントになってかっこよい。この格子は時々見かけるので半既製品だろう。窓の大きさに合わせて切り取り四周を曲げて長方形の枠に溶接する。とてもきれいなので、こういう半既製品が今もあるのなら使ってみたい。

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 窓が大きな額縁に納まっているのは古いやり方だ。大正時代あたりか。元は下見板張りだったようにも見える。大洲は滞在時間が短く写真もあまり撮っていないが、昭和初期の医院建築などが残っていた。なかなか魅力的な町だった。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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【伊予旅行】9.軒下の持ち送り

 軒下に彫り物の入った持ち送りが並んでとてもきれいだ。この形式はいつできたのだろう。見た感じでは案外新しくて幕末から明治にかけてかも知れない。

 持ち送りが支えている梁は天秤梁なので下がることはなかろう。これは装飾的な、もしくは呪的な意味が強いように見える。彫り物は雲形が多いようだ。雲形はその部分が天であることを示す。法隆寺の雲肘木と同じ意味だ。そう高くもない庇がなぜ天なのか。謎深い。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月 6日 (火)

【伊予旅行】8.大洲の出格子窓

 背の高い土壁との取り合わせがちょうど良い。視線高さの下側だけ格子にして上は透かしているのもかっこいい。窓台下のくり型の支えが並ぶようすも好ましい。支えの間を土壁ではなく板で押さえているのも利いている。細部の納まりも自然に見える。簡単なようでいてなかなか精巧なつくりである。

 わたしはこういう出格子が大好きだ。以前金沢でも同じものを見たが(参照)、こうした出格子は腰掛窓の変形と考えたほうが良いのかも知れない。外と中のあいだのあいまいな領域は建築を豊かにする。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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