たぬきのまちさがし

2020年3月 3日 (火)

風景の継承者

この季節は卆計を見ることが多い。中山村の限界集落や都市部の戦前までの街並みなどをテーマにした作品が毎年出てくる。そうしたものを見ながら考えたことをメモしておく。

最初に事例を出しておいたほうが分かりやすいかも知れない。30才のころ富山和子にはまったことがある。「水と緑と土、伝統を捨てた社会の行方」(中公新書1974)や「日本の米、環境と文化はかく作られた」(中公新書1993)なんかは今でも名著だと思う。そこには日本の農業や林業そして漁業まで人の営みが密接にからみあいながら風景を作り上げ維持してきたことが書かれている。それが崩れたのは人の営みが文明によって変化したからだ。大切ななにかを失いつつあるという危機感を私も共有することができた。わたしはそれに触発されて鉱山跡の山村ネットワークを探したりや棚田や溜池の観察研究をしてきた。基本的には今でもわたしは富山派だ。

さて京都縦貫道や中国縦貫道を走っているとそこに見える風景はほぼ手作りであることが分かる。山のピークまで植林されたり雑木のままだったり、いずれも人の手が加えられていないところはない。富山のいうとおりではないか。裾野の集落はほぼ建て替わりながらも明治時代以前の風景を色濃く残している。農地は縦貫道建設と同時に田ぽ整理されて水田風景としては変化したが、それでも稲を育てている。田んぼのあぜ道から山のてっぺんまで見える風景パノラマのすべてが手作りなのだ。これをどうやって維持せよというのか。そう思うと途方に暮れる。

建築も同じことで、伝統木構造で新築しようとするとまず天然乾燥材の確保が大変だ。壁土も国内では不足し輸入に頼りつつある。土にまぜるスサも純国産というのは難しいのではないか。畳も減農薬の畳表がせいいっぱいだ。畳床も減農薬のものを探すのにも苦労する。色や形を似せるだけならたやすいだろうが、それを成り立たせていた農業や林業の営みが分断されているので素材や工法をすべて昔のままというわけにはいかない。それでもなんとかしたいともがいているのが実情だ。

さて、ここまでが現状分析である。富山が警鐘を鳴らした1970年代のオイルショックのころとなんら変わっていない。ではどうすればいいのかだが、まず落ち着いて問題を整理する必要がある。昔のとおりに戻すのは難しいというより無理だ。ならばなにを残すのかを考えるべきだろう。もちろん残すものは色や形ではなく人の営みとしての一部である。

たとえば里山をテーマとしよう。残すものは里山で行われていた営み、たとえば薪を集めることでもよい。昔のように大量の薪を使うことはないだろうが、薪ストーブの普及を見込めばある程度の復活は狙えるかも知れない。たとえば炭焼きでもよい。高級な炭は茶道に不可欠だ。炭焼きという営みを残すことで地域の茶道文化と連携することも可能かも知れない。ようするに人の営みのうち何を残すのかをまずはっきりさせる必要がある。それが明確になれば現代文明で使えるものは使ってもかまわない。そうやって残された人の営みが風景を再生させる。それは昔のままではないだろうが、それでも風景を継承したことにはなるのではないか。

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2020年2月13日 (木)

【祖山信仰と陰陽論4】古墳はどこを向いている?

 大阪平野の古市古墳群で調べてみた。ただしどうやっても正確にはならない。正確にならない理由は古墳の形が当初から変わっている可能性があること、地図に落とすときに誤差がでること、見えるピークが地図上の山頂と一致していない可能性があることなどだ。それでもある程度の傾向は出るだろうと思ってやってみたところある程度の傾向は出た。やはり古墳は特定の山とのつながりがあるようだ。

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 古市古墳群の大きさトップ10を使った。古墳の正確な方向は決めづらい。おおよその方向を決めてそれを下の大きな地図に落とし込んだ。

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 各古墳とつながりがあると思われる山は次のとおり。

  古墳名 祖山 築造推定年代
誉田御廟山古墳 金剛山(1125)  420年ごろ
仲津山古墳 信貴山(437)? 400
岡ミサンザイ古墳 生駒山(642) 500
市野山古墳 岩湧山(898) 470
墓山古墳 二上山(517) 410
津堂城山古墳 六甲山(932)? 380
前の山古墳(軽里大塚古墳) 二上山(517) 480
野中宮山古墳 二上山(517)? 400
古室山古墳 和泉葛木山(898) 380
10 野中ボケ山古墳 信貴山(437) 520

 大阪平野にはふたつの大きな古墳群がある。ひとつは今回使った藤井寺市の古市古墳群、もうひとつは堺市の百舌鳥古墳群だ。モズ古墳群で同じことをやってみるとどうなるか。これが結構おもしろい結論になる。それはまた次回に。

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2020年2月10日 (月)

【祖山信仰と陰陽論3】古墳も陰陽になっている


 連載するつもりはなかったが長くなったので共通タイトルをつけてみた。


 比叡山は比較的新しい祭祀形態なので易を使ったのだろう。基本は雄山と雌山の対で陰陽を構成するものだと思う。だから比叡山の祭祀も古くは天神に相当する神がいたはずだ。叡山は天台密教によって聖地の上書きをしたので分かりにくくなっている。


 さて古墳が陰陽でできているというのは民俗学の分野では早くから言われてきた。たとえば渡邊欣雄は「風水、気の景観学」(人文書院1994)で前方後円墳が陰陽でできていると最初に言ったのは松本清張だとしたうえで、中国沖縄の亀甲墓が陰陽で構成されていることとも考え併せて松本説を支持した。


 最初これを読んだときほんまかいなと思ったものだが今では納得している。陰陽論は紀元前5世紀には成立していたわけだから、東洋の墓制が陰陽論からはずれるわけがない。


 ただし松本清張が前方後円墳の方向がまちまちであるのは暦のせいだとするのには賛成できない。古来、暦は木星の運行を中心に考えられた。マヤの暦が金星を中心にしていることとよく似ている。木星の公転周期、つまり太陽を一周するのに12年かかる。東洋ではこの5倍の60年を暦の一巡りとした。木星は暦の神様「大歳神」として祀られ、その位置する方向がその年の干支となった。だから古墳の方角がまちまちなのは干支や恵方など埋葬時の暦によるのだろうとした。

 しかしそれではおかしい。なぜなら大阪平野の前方後円墳で海の側を向いたものが見当たらないからだ。もし暦に従って方角を決めているのなら12方向のすべてがほぼ同数なければおかしいだろう。では暦ではないとすれば何が理由なのか。わたしは前方後円墳は山を指していると考えている。古墳は先祖の帰るべき神山の依り代として造られたのではないか。だから古墳は神山の方角を向いている。

 それを確かめるために古墳の向きと神山の位置をトレースしてみた。長くなったので続きは次回に。

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2020年2月 5日 (水)

【祖山信仰と陰陽論2】比叡山も陰陽になっている

ちなみに大阪工業大学の梅田キャンパスから比叡山もよく見える。そして二上山と同じようにピークがふたつある。左が四明岳(しめいだけ)、右が大比叡だ。大比叡のほうが高いので雄山だろう。

さてこの山も二上山と同じように天地を祀る雨ごいの山かというとそうでもない。それはご祭神を見ればわかる。比叡山は日吉山(ひえやま)が古い言い方だが、日吉大社のご祭神は大物主(おおものぬし)神と大山咋(おおやまくい)神だという。

オオヤマクイの意味はよく分かっていない。ウイッキでは咋は杭であるとし杭を打ち土地の所有を示す意味とする。つまり土地神というわけだ。一方のオオモノヌシは三輪大社のご祭神であり大国主と同一視されることも多い。

オオヤマクイが土地神で地神ならばオオモノヌシが天神だというとそうでもない。オオモノヌシは大国主や大己貴(おおなむち)などいくつも別名がある。各地で祀られていたから名前も多いのだろう。しかしそれを金気の神様になぞらえるのは無理がある。どちらかと言えば土気か木気だと思う。

比叡山のふたつのピークは「地神-地神」のセットで二上山の「天神-地神」とは違う祭祀と考えたほうがよさそうだ。わたしは易でいうところの地山謙(ちざんけん)ではないかと思っている。地と山のイメージがそろうことで謙という答えになる。この場合、地にあたるのがオオヤマクイで山がオオモノヌシなのだろう。

謙とは謙譲のことで戦勝祈願に使うことの多い卦だ。天智天皇は近江遷都に際して三輪大社からオオモノヌシを勧請したという。元から祀られていたオオヤマクイとセットになったのはこのときだ。わたしは対新羅戦の戦勝祈願をしたのではないかと思っている。

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2020.02.01、大阪市北区梅田から眺めた比叡山

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2020年2月 4日 (火)

【祖山信仰と陰陽論1】二上山は陰陽になっている

大阪工業大学梅田キャンパス最上階の菜の花食堂から二上山がよく見える。普通は「にじょうざん」と読むが古くは「ふたかみやま」といったそうだ。つまり「二神山」だ。

名前のとおりピークがふたつある。高いほうが陽気で低いほうが陰気だろう。調べてみると実際に高いほうが雄岳、低いほうが雌岳だった。大阪平野から見てもっとも特徴的な形の山なので難波京の南東守護に使われたのだろうと思っている。

さて、二上山の頂上には葛木二上神社があり豊布都霊神(とよふつのみたまかみ)と大国魂神(おおくにたまかみ)を祀る。フツ神にはいろいろな意味があるがこの場合は雷神とされる。クニタマ神のクニは土地を示す。クニタマとはこの地域の土地神様という意味だ。

この二柱の神を陰陽に当てれば雷神が陽気で国神が陰気だろう。

この構成は向日(むこう)神社と同じだ。向日神社は雷神と向神(むこがみ)の組み合わせだが向神は国神様だ。二上山の大国魂神の向日神社の向神も大歳神のこどもだという点も共通している。ようするに祭祀の原始的な形式として天と地の組み合わせがあるのだろう。もちろん雷神が天神で国神が地神だ。

葛木二上神社は古来より雨ごいの聖地だったそうだ。五行説によれば水を生むのは金気だ。雨ごいをするには金気の神を祀ればよい。雷神は木気と思いがちだが、それが天神だとすれば金気にもなる。雨ごいをするとすれば天神を祀らねばならない。しばしば雷神が刀剣をご神体とするのはそれが天神であるからだろう。一方の国神は大地の神だから土気だ。土気は金気を補強する土用の役割を果たす。

二上山の向こう側は葛木氏、こちら側は物部氏の領域だ。いずれも大規模な農地を開いた古代氏族だ。その農地の給水を司るのが二上山の神なのだ。彼らは大規模な開発を行った総仕上げとして天神を祀ったのだろう。その古い記憶がご祭神や雨ごい儀礼に残っているのだと思う。

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2020.02.01、大阪北区梅田から眺めた二上山

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2019年11月12日 (火)

古代の井堰と神社の関係を考える(2)

 京都市の白地図で水路を調べてみた。ほぼ予想通りだった。図から分かることをメモしておく。

1.賀茂川左岸流域の農地(緑色部分)を感慨する用水は上流のAで取水し下流のDで排水する。水路が賀茂川に沿っているのは河岸段丘を利用したためと考えられる。
2.取水地点に上賀茂神社(B)、排水地点に下鴨神社(C)を祀った。
3.神社に隣接してそれぞれに社家町を形成した。
4.賀茂川と高野川にはさまれた三角形地帯は現在3つの水路系に分かれる(仮に賀茂川用水、深泥池用水、高野川用水と名付ける)。深泥池用水と高野川用水には神社との関連が見られないことから比較的新しい開発と考えられる。
5.賀茂川に沿って排水地点が点々とあるのは上流から範囲を区切って開発した名残りに見える。

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2019年11月10日 (日)

古代の井堰と神社の関係を考える

 上賀茂神社の社家町を訪れて気づいたことがあるのでメモしておく。今後の課題としたい。

 古代に賀茂氏が賀茂川流域に入植し土地を拓いたとされる。川をせき止めた井堰を設け、そこから取水した用水を農地に配水した。水路は給水と排水を兼ねていたのだろう。賀茂川が山から出てくる北ノ原町あたりで取水し6~7キロ下った高野川との合流地点で排水された。それは今でも当時のまま流れている。

 地域は用水を軸として造られていたように見える。取水口から少し下がったところに上賀茂神社を祀りその門前の水路沿いに社家町を開いた。そこから各農地へ配水し最終の排水地点に下鴨神社を置いた。これが流域の構造だ。

 同じことが桂川流域でも見られる。嵐山の大井堰と松尾大社、長岡京市滝ノ町の井堰と向日神社など。桂川流域でも井堰と神社がセットになっている。ようするに水利施設の一環として神社が創建されたわけだ。

 課題はふたつ。ひとつは大河川の流域開発は戦国時代以降だという通説への疑問。もうひとつは水利と神社のセットで古代の地域構造を読み解くことができるのではないかということ。よく考えてみたい。

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2019年10月11日 (金)

豊島のタバコ乾燥蔵のある風景

 瀬戸内海の豊島(てしま)へ渡ってスケッチしていると屋根に換気用の小屋根を載せた2階建ての土蔵があちこちにある。タバコの乾燥蔵らしい。小屋根を載せたシルエットがかわいらしい。背が高いのでこれが斜面集落に点々とあると風景の良いアクセントになる。対岸の岡山県は江戸時代からのタバコの産地だが、豊島でタバコ栽培が始まりこの風景が成立したのはいつのことだろう。

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2019.09.29/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.5、固形透明水彩/香川県豊島唐櫃地区
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タバコ乾燥蔵(香川県豊島)

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2019年10月 3日 (木)

からとの清水とはなにか(3)

 この積み石は緑色の凝灰岩で豊島石というのがこれだろう。これは採石時のくず石の転用だろう。江戸時代から豊島は石灯籠の産地として栄えたそうだ。唐櫃(からと)の集落が豊島石でできているということは、ここが石灯籠産地の中心のひとつであることを示すと考えてよい。

 唐櫃の清水を整備したのは村出身の中野喜三郎という人物だった。公民館前に銅像が立っている。彼は東京へ出て石工業で名をあげ国会議事堂工事にもかかわったという。明治期には瀬戸内海は全国でも有数の石材産地を形成しており、中野組は産地をバックに大きくなったと思われる。その恩返しに故郷の水場を整備したというわけだ。

 そういえば建築史学者の村松貞次郎だったかが瀬戸内海の島まで調べにきたときのことを書いていた。石切り場を訪ねて国会議事堂で使った石材はどこから採ったかと聞くと石工が中空を指さしてあのあたりだと答えたという。わたしはそれは議事堂の列柱のことかと思っていたが、議事堂の外装全体の話と考えてもおかしくない。それほど良質の石材が大量に採れたということだ。

 塩業地としての瀬戸内海は17世紀後半に全盛を迎え18世紀には急速に衰退した。供給過多のため塩価が暴落したためだ。それに代わって豊島では石材業が盛んとなった。唐櫃は17世紀に棚田開発が始まり、石材業の盛んとなる19世紀前半から中ごろにかけて豊島石による地域の再整備が行われたのだろう。いまのところわたしはそのように想像している。

 昭和初期に唐櫃地区は清水再整備とともに村の中心に水くみ場を整備した。唐櫃の清水からサイフォン式の水路を引いたそうだ。今は無くなってどのような水場だったのか分からないが、きっと唐櫃の清水のコンパクト版があったのだろう。それは水を使ったポケットパークとしてすばらしい。唐櫃は石材業の好調を背景に新しい地域計画に取り組んだ。それは地域特性である石と水をふんだんに使ったものだった。いまわれわれはそんな風景を見ているのである。

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豊島石の矢羽根積み。採石時のくず石の再利用と思われる。小さいので女性やこどもでも運べる。村人総出で積んだと思われる。

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路傍祠も石造り。左ふたつの緑色の石が豊島石だろう。
2019.09.29、唐櫃(からと)香川県豊島

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2019年10月 1日 (火)

からとの清水とはなにか(2)

 棚田は数百年にわたって規模を拡大してきた。中山千枚田でもっとも開発の進んだのは江戸時代の前期だったとわたしは考えている。なぜならこの時期小豆島は塩業地として発展するからだ。塩を作るためにも薪炭が必要だ。塩業でもうけた資金を薪炭採取後の森林跡の棚田開発に投下したのだろう。垣花樋川も同時代であり沖縄も極東アジア有数の製塩地域だった。だから唐櫃(からと)棚田の発生も同時代だったろうと思う。

 古い棚田は給水と畔に特徴がある。古い給水方法は田入れといって田から田へ水を入れていく。最上部から満水になっていくタイプだ。この方式では田の土が下へ流れるのでその後水路タイプに変わった。唐櫃棚田は水路タイプのようだ。

 畔は1メートル前後の石垣となる。古いタイプは石垣のままだ。これは高野山周辺で見たことがある。江戸時代後期には石垣に土をかぶせた土手タイプに変わる。理由は不明だがわたしは雪害防止が目的ではなかったかと想像している。唐櫃棚田も土手タイプだ。石垣タイプを土手タイプに改修したのか、それとも開発自体が江戸時代後期なのかは分からない。

 集落も棚田状に造られていることが唐櫃の特徴だ。棚田の一番上にひな壇造成された集落がある。これは棚田と集落がセットで開発されたことを示す。古い集落を作り直したのかもしれないが、湧水井戸、棚田、集落をワンセットにした計画は珍しい。集落は矢羽根積みの美しい石垣でできている。おそらく棚田も同じ積み方だろう。

 さて、この特徴的な石はいったい何を語るのか。長くなったので続きは次回。

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2019.09.29、唐櫃(からと、香川県豊島)

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