たぬきのまちさがし

2024年4月 4日 (木)

ゆえあって瀬戸内海の島にきた

木造5階建て旅館の調査のために広島県大崎上島にきた。木造3階建ての旧松本旅館に投宿した。旅館廃業ののち島内の有志が購入して再生なさっている。その取り組みのようすも聞かせていただいた。地域再生の動きがここにはある。
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2024.04.03、広島県大崎上島、旧松本旅館

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2024年1月27日 (土)

北方貨物線跨線橋

借家街の近くには、必ずと言ってよいほど戦前の都市計画道路がある。戦前の計画道路には路面電車を走らせることが多い。市内へのアクセスが良くなるので沿線の開発が進むわけだ。この跨線橋は昭和7年竣工だそうだ。借家街もそのころ一気にできたのだろう。

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2024.01.20、大阪市淀川区

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2024年1月22日 (月)

牛乳屋さん

昭和初期に都市に流入した人たちは県人会を頼って職を得た。関西の銭湯に石川県出身者が多いのはそのためと言われている。同様に牛乳店は香川県小豆島出身者が多かったと聞く。ここもそうなのかもしれない。

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2024.01.20、大阪市淀川区十三

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2023年9月22日 (金)

養父市梁瀬の旅館街

旅館か料亭、貸座敷のようなものではないか。これが集中して建っている場所が残っていた。昭和初期のものに見える。2階座敷の濡れ縁の手すりがなかなかよい。通り全体が60年台の風貌を保っていて、トトロに出てくるボンネットバスがやってきそうだった。

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2023.09.16、養父市梁瀬

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2023年9月12日 (火)

旧平安邸ディテール(4)

平安家の精錬所は昭和初期まで稼働していたそうだ。精錬所跡は芝生広場となっていてレンガ造りの炉の跡が残っていた。まわりにはカラミ石が並べられている。カラミは鉱滓のことで金属を採った残りかすのことだ。ルツボの形をしている。精錬所の横の谷は鉱滓捨て場だった。一面カラミで埋められているようすが壮観だ。

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2023.07.30、兵庫県、川西市郷土館

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2023年9月 9日 (土)

旧平安邸ディテール(1)

旧平安邸をゆっくり見たと思っていた。機会があってそれが叶った。再訪した座敷には初夏の風が吹いていた。よしずを張った建具が涼やかだった。

母屋は大正時代の民家づくりだ。大黒柱は松だという。松の大黒柱を始めて見た。塗籠(ぬりごめ)造りなのは隣接する精錬所の火の粉を避けるためだろう。平安(ひらやす)家は江戸時代から続く精錬家だ。

精錬所は炉の炎を上げるために風の強い場所に建てた。平安家は風を知り尽くした一族だった。座敷を吹き抜ける風は銅を吹き分けるための風邪でもあった。

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2023.07.30、兵庫県、川西市郷土館

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2023年8月18日 (金)

神戸の高架下商店街は戦災復興住宅ではなかろうか

木造に見えるが、戦後復興期の軽量鉄骨の遺構かもしれない。JRの高架下は三宮駅から神戸駅までの1.8キロほどが商店街となっている。三宮駅から元町駅まではピアザ神戸(三宮高架商店街)、元町駅から神戸駅まではモトコー(元町高架通商店街)と呼び名は変わるが、ほとんど同じ形の長屋が続く。歴史的には闇市がらみらしいが、建物を見る限り計画的なものに見える。JRと神戸市共同の戦災復興住宅ではないか。

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2023.08.10、神戸元町

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2023年8月17日 (木)

池田で酒蔵アパートを見つけた

未確認ではあるが、このアパートは元酒蔵だろう。池田は今でこそ酒造家は2軒だが戦前にはもっとあったようだ。町を歩いているとまだ残っている酒蔵を見つけることができる。酒蔵をたどることで町の構造が見えてくるように思う。元酒蔵はたいがい細い道に面しており、どうやって出荷したのか興味深い。運河があったのではないかとも思うがそれも未確認である。

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2023.07.30、大阪府池田市

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2023年6月14日 (水)

中津商店街あたりの風景がよい

最近、中津にコワーキングスペースを借りたので周辺をよく歩いている。ものすごくおもしろい。

商店街は屋根が失われて久しいようだ。店舗はほぼシャターが締まっているがところどころカフェやギャラリーや建築事務所などが入っておもしろくなっている。

建物はほぼ昭和初期の木造2階建てだ。しかも商店街を軸に1.5キロ四方ほどの街区全体が昭和初期のままの姿で残っている。これはもう街区全体を登録文化財にしてもよいと思う。

まだすみずみまで歩いていないので、これからゆっくり町の成り立ちをひも解いていきたい。楽しみである。

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2023.06.01、大阪市北区中津3丁目

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2023年3月 1日 (水)

30年前の町が残っている

旭区を歩いて気づいたことがあるのでメモしておく。

1 商店街の活気
古い用品店や荒物屋がいまも営業している。店主も客筋も高齢者が多いがまだ活気が残っている。これは無人化の進む大正区とは対照的だ。旭区は大正区よりも30年遅れで過疎化が進んでいる。つまり30年前の風景が残っている。

2 大宮八幡宮の玉垣
玉垣に書かれた企業は鉄工所や製紙場などさまざまな業種の中小企業が名を連ねる。玉垣を新しくしたときの氏子エリアに存在した企業一覧が作れるだろう。旭区は中小企業の工員町だったのだ。

3 残った人々
町工場の多くはもう操業していないかも知れない。操業をやめたとき若い工員は転職しただろう。年金生活のできる熟練工はそのまま町に残っただろう。いま大宮の商店街を歩いている70~80代の高齢者はそうした人々ではなかろうか。そうだとすれば町工場が閉鎖されたのは10ねんから20年ほど前だといえよう。

4 想定される年表

  旭区 大正区
1960年代

開発が進み多数の町工場が操業する。
工場主は30代。
工員のための商店街を備えた借家街の形成。

高度成長期に入り、戦前に創業していた大手メーカーと下請けの町工場が再稼働する。
1970年代 中小企業は海外移転もできず経営難に陥る。 オイルショックを契機に大手のメーカーは生産基盤を海外へ移した。
大手の下請けをしていた町工場の閉鎖が続く。
これは経営者の高齢化が原因のひとつかもしれない。
若年工員が転職し町には年金生活者が残る。
2000年代

工場主の多くが70才を超える。
後継者がいないため閉鎖される町工場が続出する。
若年工員は転職し町には定年退職した元行員が残る

年金生活者が減り街の無人化が進む。
借家街が崩壊し商店街が役目を終える。
長屋がマンションに建て替わる。
2020年代 元行員の年金生活者の高齢化が進む。
借家街の無人化が進み、長屋がマンションに建て替わる。
転入するマンション住民が増え始める。
     


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2023.02.16、大阪市旭区、大宮八幡神社の浪速型狛犬

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