たぬきのまちさがし

2022年7月30日 (土)

四条通りは曲がっている

四条大橋東詰めで信号待ちをしていて気づいた。菊水ビルの階段塔が四条通りと並行でない。写真で見るように階段塔の屋根のトップのラインとその下の四条通りに面した外壁上端のラインの角度がずれている。つまり菊水ビルの平面が台形であるということだ。菊水ビルは四条通りと川端通りの角地に建つので、すなわち四条通りと川端通りの角が直角ではないということだ。

そんなことあるのかなぁと思って、向いの南座を見たらやっぱり直角ではなかった。写真の右側のビルがそば処「松葉」だが、この外壁上端のラインが四条通りと並行である。その左側の南座は四条通りからひっこんで建っているが、これは川端通りと直角に建っている。南座の平面は台形ではないということだ。

三条通りが平安京を出てから少し斜めになることは聞いたことがある。それと同じ現象が四条でも起こっているわけだ。三条通りの場合は蹴上の坂へ向かって斜めになるわけだが四条通りの場合はなぜ斜めなのか分からない。ちなみに四条通りは八坂神社へ向かって弓なりに曲がっている。なぜこうなっているのかはもう少し考えてみたい。

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2022.07.29、京都市四条大橋東詰め

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2021年11月24日 (水)

竹田の街並み

見た感じでは、2階の階高が高い町家は戦後建築だと思う。半分以上がそうだ。屋根にお城のようなシャチホコが載るのも戦後のものだろう。この町は戦後の一時期、通りの風景を一変させるほど栄えた時期があったということだ。おそらく生野銀山関係かと思うがよく分からない。いかなる生業があって、それがその後どう衰退したのか知りたい。

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2021.11.20/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/兵庫県朝来市竹田

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2021年10月16日 (土)

まっすぐな梁は城造りが由来か(2)

戦国時代の飛騨は木材の既製品を技術指導込みで供給していたことを前回考えた。続きをメモしておく。

飛騨で木材の規格化が進んだのは全国で都市化が進んだためだろう。経済発展と木材の大量供給が背景にある。これは飛騨の隣国・木曽でも同様だったろう。三大美林と称される木曽ヒノキも戦国時代に流通を拡大させたのではないか。

木材の輸送は水運である。飛騨からは飛騨川を、木曽からは木曽川を下った。ふたつの川は美濃でひとつになり、羽島で長良川と合流し桑名で揖斐川と合流する。この河川沿いの武将たちが戦国時代に優勢なのは、木材を中心とした物流を抑えていたからだろう。経済力を背景に相場を操り旧来の支配階級を駆逐したのが戦国時代だったと思う。

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2021年10月15日 (金)

まっすぐな梁は城造りが由来か

飛騨の工(たくみ)について少し考えたのでメモしておく。

1.小屋組みの貫

まず、小屋組(屋根の骨組み)の貫について。

伝建地区の旧村田邸(村半、明治期)には小屋組に貫はなかった。小屋組に貫が入るのは関西では江戸時代後半とされている。村半には貫の入る前の時代の様式が残っているのだろう。

一方、桃山期の高山御蔵には貫が入っていた。これは高山城の遺構なのだから、高山城天守閣の小屋組みには貫が入っていたのかもしれない。

2.まっすぐな梁

ふたつめは、まっすぐな梁について。

村半も御蔵も梁はまっすぐだった。そして姫路城の梁もまっすぐなのだ。おそらく高山城や姫路城のような桃山期の城造りの現場では、まっすぐで太い梁が使えるようになったのだろう。

そうした木材の一大供給源が飛騨であった。「まっすぐ」というのは規格材、ようするに既製品であることを示しす。つまり発注時に長さと太さと本数を指定するとき、形はまっすぐであることが前提となる。まっすぐな材は桃山期に飛騨材が既製品として流通していたことを示すのだろう。

元来、木挽きも大工もひとりで行った。鎌倉時代の重源は東大寺再建のための材を探して山口県まで杣(そま)入りした。杣入りとは山で用材を探すことだ。材は製材されたうえで奈良へ運ばれた。伐採>搬出>製材>運搬>現場という流れのすべてを重源が行ったということになる。ところが桃山期には伐採>搬出>製材>運搬までを産地側が担っている。城下町造りによる木材の大量消費が流通形態を変化させたのだろう。

3.日本建築の継承者

ここからは私の仮説である。

建築工程が製材と建築に分かれたとき、重源の保有していたような建築技術は産地と都市のそれぞれに分かれて受け継がれたろう。産地側で建築技術を受け継いだのが飛騨の工だったわけだ。

もちろん飛騨以外の産地にも工はいたろうが、地方ではそれほど都市と産地の分離は進んでいなかったのではないか。飛騨と同様の産地として分離したのは奈良県の吉野などがそうだったかも知れない。

飛騨には重源以来の日本建築の伝統が残ったわけだ。それを飛騨の工と称したのではないか。城造りの際に飛騨の工は木材供給だけではなく技術指導も行ったのではないか。江戸期になって城造りは禁止され飛騨の工は幕府直轄となった。高山陣屋は飛騨の工の取り締まりの拠点として整備された。幕府は木材供給の独占だけではなく、城造り技術の独占をもくろんだように見える。

大きな材を吊ったり建てたりする高い技術を飛騨の工はもっていた。古くから伝えられた日本建築の技能の継承者として飛騨の工は尊敬されていたのだろう。

長くなったので続きは次回に。

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2021.08.18、岐阜県高山市、若者等活動事務所「村半」
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2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(旧高山城遺構)
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2021.07.23、兵庫県、姫路城天守閣

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2021年9月23日 (木)

飛騨高山は伊勢大神をお祀りする

 街の角々に伊勢神宮がおまつりされている。大きな石に載っているのが特徴だ。伊勢神宮のミニチュアが精巧にできていて見ごたえがある。それと大石とのコントラストが迫力があって美しい。こういう形式は西日本では見たことがない。飛騨高山だけの形式なのか、中部地方では普通にあるものなのか分からない。

高山城の鎮守が伊勢の大神を祀る杉箇谷神明社なのでその分祀なのだろう。ただし元は違うものをお祀りしていたように感じる。社殿部分がほぼ同じで一斉に作ったように見えるからだ。明治の神仏分離でこうなったのではないだろうか。

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破風上の突起は「むちかけ」だ。再現度が高い。
2021.08.18、岐阜県高山市

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2021年6月 4日 (金)

商店街の将来について

今朝考えたことをメモしておく。

1.小売店の衰退

・銭湯や理髪店など地域の近代建築が失われていく現状がある。その理由として老朽化、耐震性、相続税など言われているが、もっとも大きいのは後継者がいないことだろう。それは書店屋や電器店であっても同じでシャッター商店街現象の主たる原因である。

・後継者がいないのは、オーナーが自身の身内しか後継者として認めないからだ。これは資産を回収できなくなるという不安が大きな理由だろう。

・資産を担保しながら業態を別人に委託できる制度があれば少しはマシになるだろう。そうした試み、たとえば商店街の株式会社化などの取り組みは始まっている。ただしオーナーが複数人あれば全員同意は難しくなるだろうし、そこまでして業態を維持するメリットがないことも事実だ。ただし個々の商品や小売業そのもののニーズが無くなったわけではない。新しい業態で生き残ることは可能だろう。

・商店街地域の地価の高さがシャッター商店街現象の遠因としてある。

2.業態の変化

・大量生産も大量消費も無いのに小売店の業態だけが半世紀前のままの状態では機能しない。

・経営として成立しなくても、なんらかの副収入があれば店を開けておくこともできた。それもいつまでも続けるわけにはいかないだろう。収入を度外視した経営はオーナーや地域住民の愛着が原動力となっている。それは地域の資産である。

・新業態として注目したいのは道の駅や朝市、フィッシャーマンズワーフのような生産者の直売である。消費者が直接産地に赴く業態で、これは1970年代からの取り組みの実績がある。フリーマーケットも同じジャンルかも知れない。そこでしか買えないものを生産者が直接エンドユーザーに販売する形態といえよう。

3.高度成長期は良かったのか

・ものを並べればなんでも売れた時代。お客様は神様と呼ばれた時代。公害を撒き散らかしながら馬車馬のように突進していた時代。大量生産大量消費に反発しながらも、心のどこかで猥雑でパワフルだった世相を懐かしむ思いが残る。それは高度成長期を否定しきれていないからだろう。

・わたしは時代のありかたを否定する必要はないと思っている。公害と収益を同時に受け取った時代だったわけで、今となっては良いも悪いもない。ただしそこになんらかの愛着が残るとすれば、それは地域の資産である。

4.大量消費の生き残り

・アウトレットモールやショッピングモールも業態としては高度成長期モデルから出ていない。もし違いがあるとすれば不動産も含めた流通部門での収益が見込めるくらいだろう。それさえも高度成長期モデルの一部だったと考えることもできる。

・コストコのような会員制モールは産地直送という部分が新しいが競合には弱いだろう。ネット通販もやはり大量消費を前提とした商品が並んでいる限り競合には弱く長続きしないだろう。

・やはり「そこでしか買えないもの」を揃えた小売店が集って市場をなすフリーマーケット風の商店街モデルが一番良いのではないか。そこで生まれた活力が古い建物を活かすならとてもうれしい。

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2021年5月13日 (木)

常滑時間旅行16最終回、煤煙のまち

わたしは旅に出るとき、行先のことを事前に調べない。歩きながら手掛かりを見つけ、そこから町の歴史を推理するのが楽しいからだ。それをわたしは時間旅行と称している。

常滑はレンガ煙突が丘陵地に林立するという相当特異な姿をしている。なぜこのような姿になったのか。それは登り窯から倒焔式角窯へという技術革新がこの町で行われたからだった。J・ジェイコブスのいうように技術革新と輸入代替とが都市経済の証しだとすれば、たしかに昭和40年代までの常滑は都市であったといえる。

今回の旅で風景の復元が完成したのはこの門柱を見たときだ。ご覧のように黒ずんでいる。わたしは最初、空襲の名残りかと思った。でもすぐに思い直した。これは石炭燃料による煤煙だと。そう考えれば常滑に多く残る工場群がなぜ黒いのかも分かる。煤で汚れるので最初から黒くしているのだ。この町は技術革新による経済成長を享受するとともに煤煙による環境悪化をも受容していたのである。

洗濯物も外へ干せないような煤の降るまちで鼻の奥まで真っ黒にしながらこの町の住人は生きてきた。この町が操業を止めたのはおそらく大気汚染に対する法規制によるのだろう。ある程度大きな工場は生産拠点を海外に移したろうが、そうでない中小の工場は窯の火を消した。道が狭いため建築基準法によって建て替えのできない工場群がそのまま残ったのだ。これがこの町の特異な風景の生まれた理由だろう。

いまではどこへ行っても空気はきれいだ。そのかわり、かつてのようなエネルギッシュな技術革新はどこにもない。きれいな空気と引き換えに私たちが都市を失ってしまったのではないか。活気のある町を取り戻そうと考えるためには昭和40年代のまま時を止めた常滑の町の風景こそ貴重な手掛かりになるように思う。

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2021.04.21、愛知県常滑市

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2021年5月12日 (水)

常滑時間旅行15、とうとう土管坂にやってきた

以前から見たかった土管坂にやってきた。切り通しなのだろう。思った以上に擁壁が高いし道幅も狭い。この坂を通ると常滑焼に囲まれて不思議な思いがする。とくに右側の焼酎ビンの口が目に見えてこわい。かなりおもしろい場所だった。

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2021.04.21、愛知県常滑市

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2021年5月11日 (火)

常滑時間旅行14、まるで道端ミュージアムだ

昭和初期ころ生産されたタイルのうち半分くらいは出荷検査ではねられると聞いたことがある。さらに現場へ納入しても半分くらいは受け入れ検査ではねられるとも聞いた。同じことが常滑の工業製品でも起こっていたのかも知れない。あとで見る土管坂のような廃棄物利用がいたるところで行われて興味深い。

焼酎ビンは石垣代わりに使いやすいようで坂の随所に見られた。土管をタテに使うのもある。四角い電纜(でんらん)管は塀になっていた。歩いているだけでどんなものが作られていたのかが分かってしまうのがおもしろい。

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焼酎ビンの擁壁

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土管の擁壁
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電らん管の塀

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2021年5月10日 (月)

常滑時間旅行13、坂の町の小さな窯たち

丘陵地の尾根筋に小さな角窯が点在している。1枚目は上屋もないし煙突も短くなっているが保存状態はよい。窯のかたわらに焼酎ビンの部品の石膏型が積んであった。焼酎ビンは筒状の部分はローラー式土管製造機で作るけれども、注ぎ口の部分は手作りだったらしい。こうした小規模な角窯は手作りの各種小部品を作っていたのだろう。

その向いにも木々になかば埋もれながら角窯が残っていた。尾根筋には上屋がいくつもあるので、おそらく中に中規模クラスの角窯が残っているのだろう。この町は操業の停止した昭和40年のころの姿のまま時の止まったように残っている。

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2021.04.20、愛知県常滑市

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