たぬきのまちさがし

2019年11月12日 (火)

古代の井堰と神社の関係を考える(2)

 京都市の白地図で水路を調べてみた。ほぼ予想通りだった。図から分かることをメモしておく。

1.賀茂川左岸流域の農地(緑色部分)を感慨する用水は上流のAで取水し下流のDで排水する。水路が賀茂川に沿っているのは河岸段丘を利用したためと考えられる。
2.取水地点に上賀茂神社(B)、排水地点に下鴨神社(C)を祀った。
3.神社に隣接してそれぞれに社家町を形成した。
4.賀茂川と高野川にはさまれた三角形地帯は現在3つの水路系に分かれる(仮に賀茂川用水、深泥池用水、高野川用水と名付ける)。深泥池用水と高野川用水には神社との関連が見られないことから比較的新しい開発と考えられる。
5.賀茂川に沿って排水地点が点々とあるのは上流から範囲を区切って開発した名残りに見える。

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2019年11月10日 (日)

古代の井堰と神社の関係を考える

 上賀茂神社の社家町を訪れて気づいたことがあるのでメモしておく。今後の課題としたい。

 古代に賀茂氏が賀茂川流域に入植し土地を拓いたとされる。川をせき止めた井堰を設け、そこから取水した用水を農地に配水した。水路は給水と排水を兼ねていたのだろう。賀茂川が山から出てくる北ノ原町あたりで取水し6~7キロ下った高野川との合流地点で排水された。それは今でも当時のまま流れている。

 地域は用水を軸として造られていたように見える。取水口から少し下がったところに上賀茂神社を祀りその門前の水路沿いに社家町を開いた。そこから各農地へ配水し最終の排水地点に下鴨神社を置いた。これが流域の構造だ。

 同じことが桂川流域でも見られる。嵐山の大井堰と松尾大社、長岡京市滝ノ町の井堰と向日神社など。桂川流域でも井堰と神社がセットになっている。ようするに水利施設の一環として神社が創建されたわけだ。

 課題はふたつ。ひとつは大河川の流域開発は戦国時代以降だという通説への疑問。もうひとつは水利と神社のセットで古代の地域構造を読み解くことができるのではないかということ。よく考えてみたい。

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2019年10月11日 (金)

豊島のタバコ乾燥蔵のある風景

 瀬戸内海の豊島(てしま)へ渡ってスケッチしていると屋根に換気用の小屋根を載せた2階建ての土蔵があちこちにある。タバコの乾燥蔵らしい。小屋根を載せたシルエットがかわいらしい。背が高いのでこれが斜面集落に点々とあると風景の良いアクセントになる。対岸の岡山県は江戸時代からのタバコの産地だが、豊島でタバコ栽培が始まりこの風景が成立したのはいつのことだろう。

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2019.09.29/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.5、固形透明水彩/香川県豊島唐櫃地区
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タバコ乾燥蔵(香川県豊島)

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2019年10月 3日 (木)

からとの清水とはなにか(3)

 この積み石は緑色の凝灰岩で豊島石というのがこれだろう。これは採石時のくず石の転用だろう。江戸時代から豊島は石灯籠の産地として栄えたそうだ。唐櫃(からと)の集落が豊島石でできているということは、ここが石灯籠産地の中心のひとつであることを示すと考えてよい。

 唐櫃の清水を整備したのは村出身の中野喜三郎という人物だった。公民館前に銅像が立っている。彼は東京へ出て石工業で名をあげ国会議事堂工事にもかかわったという。明治期には瀬戸内海は全国でも有数の石材産地を形成しており、中野組は産地をバックに大きくなったと思われる。その恩返しに故郷の水場を整備したというわけだ。

 そういえば建築史学者の村松貞次郎だったかが瀬戸内海の島まで調べにきたときのことを書いていた。石切り場を訪ねて国会議事堂で使った石材はどこから採ったかと聞くと石工が中空を指さしてあのあたりだと答えたという。わたしはそれは議事堂の列柱のことかと思っていたが、議事堂の外装全体の話と考えてもおかしくない。それほど良質の石材が大量に採れたということだ。

 塩業地としての瀬戸内海は17世紀後半に全盛を迎え18世紀には急速に衰退した。供給過多のため塩価が暴落したためだ。それに代わって豊島では石材業が盛んとなった。唐櫃は17世紀に棚田開発が始まり、石材業の盛んとなる19世紀前半から中ごろにかけて豊島石による地域の再整備が行われたのだろう。いまのところわたしはそのように想像している。

 昭和初期に唐櫃地区は清水再整備とともに村の中心に水くみ場を整備した。唐櫃の清水からサイフォン式の水路を引いたそうだ。今は無くなってどのような水場だったのか分からないが、きっと唐櫃の清水のコンパクト版があったのだろう。それは水を使ったポケットパークとしてすばらしい。唐櫃は石材業の好調を背景に新しい地域計画に取り組んだ。それは地域特性である石と水をふんだんに使ったものだった。いまわれわれはそんな風景を見ているのである。

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豊島石の矢羽根積み。採石時のくず石の再利用と思われる。小さいので女性やこどもでも運べる。村人総出で積んだと思われる。

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路傍祠も石造り。左ふたつの緑色の石が豊島石だろう。
2019.09.29、唐櫃(からと)香川県豊島

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2019年10月 1日 (火)

からとの清水とはなにか(2)

 棚田は数百年にわたって規模を拡大してきた。中山千枚田でもっとも開発の進んだのは江戸時代の前期だったとわたしは考えている。なぜならこの時期小豆島は塩業地として発展するからだ。塩を作るためにも薪炭が必要だ。塩業でもうけた資金を薪炭採取後の森林跡の棚田開発に投下したのだろう。垣花樋川も同時代であり沖縄も極東アジア有数の製塩地域だった。だから唐櫃(からと)棚田の発生も同時代だったろうと思う。

 古い棚田は給水と畔に特徴がある。古い給水方法は田入れといって田から田へ水を入れていく。最上部から満水になっていくタイプだ。この方式では田の土が下へ流れるのでその後水路タイプに変わった。唐櫃棚田は水路タイプのようだ。

 畔は1メートル前後の石垣となる。古いタイプは石垣のままだ。これは高野山周辺で見たことがある。江戸時代後期には石垣に土をかぶせた土手タイプに変わる。理由は不明だがわたしは雪害防止が目的ではなかったかと想像している。唐櫃棚田も土手タイプだ。石垣タイプを土手タイプに改修したのか、それとも開発自体が江戸時代後期なのかは分からない。

 集落も棚田状に造られていることが唐櫃の特徴だ。棚田の一番上にひな壇造成された集落がある。これは棚田と集落がセットで開発されたことを示す。古い集落を作り直したのかもしれないが、湧水井戸、棚田、集落をワンセットにした計画は珍しい。集落は矢羽根積みの美しい石垣でできている。おそらく棚田も同じ積み方だろう。

 さて、この特徴的な石はいったい何を語るのか。長くなったので続きは次回。

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2019.09.29、唐櫃(からと、香川県豊島)

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2019年9月30日 (月)

からとの清水とはなにか

  訳あって瀬戸内の島へ渡った。

 香川県豊島(てしま)の唐櫃(からと)地区に見事な水利施設があった。唐櫃の清水と呼ばれ弘法大師が開いたという伝説がある。手前の大きな水場は洗濯場だそうだ。奥に祠の下は飲料水で、左の壁際に足洗い場もあった。そのほかさまざまな大きさの水場があり、それぞれ用途が決まっているらしい。これは沖縄県の垣花樋川(かきはなひーじゃー)とよく似ている。大小の石製の水槽に水が流れ落ちるようすは涼やかで美しい。 ここが現在の姿に整備されたのは昭和4年だそうだが、もともと用途別の水場だったのだろうとわたしは思う。

 こうした湧水をわたしは小豆島の中山千枚田で見た。小豆島は豊島の隣の島である。中山千枚田は棚田の最上部に小屋があり中に湧水井戸があった。垣花樋川も棚田に給水しており、もちろんここも眼下の唐櫃棚田に給水しているのだろう。湧水井戸と棚田とはセットなのだ。

 唐櫃棚田の起源は分からないが、中山千枚田は室町期には開発が始まったとされる。当時高野山が小豆島の鉱物利権を握っており中山に出張所があったという。採掘した鉱物は精錬してから出荷されるがそのためのエネルギー源として森林が伐採され、その跡地利用として棚田を開発したとわたしは考えている。

 長くなったので続きは次回。

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唐櫃の清水

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唐櫃の清水

 

 

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唐櫃棚田、2019.09.29、香川県豊島

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2019年9月29日 (日)

からとの清水がすばらしかった

 これほどのものが残っているとは思わなかった。沖縄の垣花樋川 (かきのはなひーじゃー)に似ている。現在のかたちになったのは昭和4年だそうだ。昭和の御大典記念の石碑があり周囲に寄進者の名前が刻まれていた。水を飲むところ、足を洗うところ、洗濯をするところと用途に応じた手水鉢が上下に並べられていて、水が順番ににながれ落ちる。そのようすがとてもきれいだった。行ってよかった。

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2019.09.29/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.5、固形透明水彩/香川県豊島、唐櫃(からと)

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2019年9月24日 (火)

アウトレットモールは滅びるだろう

 イケア神戸へ行った。アウトレットモールへ初めて入った。1週間ほどたってようやく印象がまとまったのでメモしておく。

 これは商店街の中間系だろう。商店街>大型小売店舗>コンビニ>アウトレットモール>ネットの流れでよいと思う。年代を入れると(戦後)商店街>(1960年代)大型小売店舗>(1980年代)コンビニ>(1990年代)アウトレットモール>(2010年代)ネットとなるかな。ここに考えが至るまで1週間かかった。これを前提に印象をまとめるとふたつある。

 印象のひとつは地域を考えるとき商店街の活性化をテーマとするのは不適切だということ。この巨大なアウトレットモールに人があふれているのを見ると、今さら商店街に回帰してもどうしようもないことがよく分かる。

 理由はふたつあって、ひとつは小売店舗には人と人とのふれあいがあるという幻想、もうひとつは計画系でいまだ商店街を中心とした近隣住区論が幅をきかせていることだ。

 人と人とのふれあいは幻想であろうし、もし存在しても地域を再構成する力にはなりえない。コミュニティの存在意義はふれあいではなく利害調整能力だとわたしは思う。ふれあいが無くてよいと言っているのではない。それはコミュニティ発生の原点であるのは間違いないが、地域再生を考えるならコミュニティをいかに組織するのかがキーとなると私は思う。

 もうひとつの近隣住区論はジェイコブスが「大都市の生と死」で明らかにしたように地域の緩慢な死を準備するものでしかなかった。わたしたちはそれをニュータウンで体験したはずだろう。

 そもそも商店街は昔からあったわけではない。明治以降鉄道の敷設につれて新たなビジネスモデルとして成立したものだとわたしは思っている。とくに戦前の公設市場の展開と戦後のアーケード化を経て1950年代の高度成長期に大衆の購買意欲の受け皿として爆発的に普及した。商店街の成立要件は「消費は美徳」とまで言われた購買意欲にあるだろう。それから大型小売店舗に王国を譲り渡すまで10年ちょっとしか無いわけだが、その流れから考えれば地域再生を商店街にゆだねることの不自然さがはっきりする。

 印象のふたつめは今後小売業はどうなるかということ。

 これはすでに始まっていてひとつは道の駅のような生産者直販マーケット。もうひとつは行商だ。道の駅については他で書いたこともあるが、1990年代に始まってからすぐに成果を出し始めた。大きな集客力から雇用を生み地域食の再発見など地域文化の再生にまで影響を与えている。車で1時間圏内という広域を対象とすることが特徴だ。

 行商形態の歴史は古いが、今は大型トラックで地域を巡回する形式のものが多い。コンビニの移動型と考えることもできる。ネットとコンビニの一体化が進めば新たな業態に整理されるのではないか。そうなればアウトレットモールの命脈は絶たれるだろう。生者必衰の理である。

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2019.09.15、神戸市ポートアイランド

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2019年7月18日 (木)

さて景観的にどこがおかしいでしょうか

 電線が地中化されたおかげで街並みがよく見えるようになった。こうしたゴチャゴチャした感じが欧米人の思い浮かべる日本のイメージだ。統制がなく個別のデザインが群れている。それはアジア諸都市の特徴だが、その延長線上に日本文化があることをまず自覚せねばならないだろう。

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2019.06.13、京都市左京区下鴨

 さて、いま京都で行われている景観規制は屋根の形状に関する規制と外装材の色と素材の規制の二本立てだ。ここは沿道美観地区なので形状規制はなく色彩規制だけだ。今の条例に基づいてこれを修正すれば下のようになる。

 単に彩度(色の鮮やかさ)を落としただけである。これでいいのか。

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 さらに過激な景観論者は沿道美観地区といえども高さを揃えさせることは当然だと主張するだろう(しかも声高に)。高さがそろっていないことが都市景観の混乱の根源であり、個々のデザインをわざわざ規制しなくともスカイラインを揃えるだけで最低限良好な景観を手に入れることができると。

 するとこうなる。

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 これはこれでおもしろいが、景観論者を納得させるほど統制がとれているわけではない。むしろ個性が並列化されたがゆえの混乱がある。これは「九龍城現象」と名付けてもよいかも知れない。

 長くなったので続きはいずれ(ニーズはないと思うが)。

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2019年5月 2日 (木)

尾道雑感(13)浄土寺の庫裏

 居宅だったものを庫裏へ復元修理したそうだ。見事な梁組に驚いた。中央の大黒柱へ四方から梁をかけ渡し、その上に貫で刺し固めた小屋組みを載せている。そのスペーストラスのような細かい架構とそれを支える龍のような太くてうねる梁組みとのコントラストが美しい。こうした貫で刺し固める耐震法は幕末に普及したからこれもそれ以降の建物なのだろう。

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 かまども復元されていた。磨きあげられた黒漆喰のやさしい光沢が心なごませてくれる。

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2019.04.05、広島県尾道市浄土寺

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