宮永甲太郎
思わず笑ってしまった。ありえない風景に出合ったとき人は笑うのだ。池にプカプカと大きな壺や甕が浮かんでいる。良く見ると壺の大きさや浮かべる間隔を工夫している。簡単な手法で風景の意味を変えてしまうやりかたは反則的におもしろい。
大里資料館の作品は収蔵品収蔵品を使ったインスタだったが、古家具を斜めに設置していて家具が傷むと思った。大里会館詰所の作品はタタミの上に土を盛ったもので、家が傷むと思った。傷つけることは対象を否定する表現になる。そうした表現はアートの重要な役目だが、ここではそういう意味で使っているのではなかろう。どちらも痛ましい気持ちが先に立って作品をよく見ることができなかった。
渡邊あい
共同浴室でカラフルなリボンを使った作品。入り口に色のついた洗面器がひとつ置いてあり、リボンが水を表してていることを教えてくれる。男風呂は蛇口から湯船までリボンがつながり、それが湯舟いっぱいになりつつある。女風呂はスプリンクラーの放水のように天井からいっせいにリボンが垂れ下がる。カラフルな水のしぶきが明るい浴室を満たすのは夢のように美しかった。
加藤史江
和紙で作られた虹がかかる。厚手の和紙は綿毛のように軽やかで、繊維が植物的にからみあう。アーチの下へもぐれば光にすかされた和紙が美しくマユの中にいるような不思議な気持ちになる。森敦の鳥海山にこういうシーンがあったことを思い出した。
三浦さんの展示はよく分からなかった。樹木をテーマにした活動のようで興味があるのだが、写されるスライドは木津川とは関係なさそうに見えた。瀧さんの作品はどこにあるのか分からなかった。
古屋崇久
手作りのアースオーガは見ごたえがあっておもしろかった。それを器用に操縦する様子も見飽きない。説明はさっぱり理解できなかった。髪の毛を取られそうだったので早々に退散した。
谷川夏樹
小さなキャラバントラックが里山を走る。映写される風景は今見てきた集落内であることが分かる。犬目線くらいで風景が過ぎていくのがおもしろい。トラックもよくできていた。これが走るというパフォーマンスが作品なのだろう。それにしても「歌姫」とは何なのか。それは木津川と関係があるのだろうか。
楠本衣里佳
カラフルな絵が土蔵の壁にはまりこんでいる。くずれた土壁とよくなじんで何の違和感も無い。土壁は世界的に見ても珍しい発酵建材で、仕上がった後も微生物の棲家となる。つまり土壁は生きているのだ。古い土蔵の息遣いと絵は同期しているように見えた。
小林正樹
船上の宴会を再現している。船の上にいっせいに伸びた真鍮製のよつ葉のクローバーが、水上にきらめく光とさざなみの音を象徴している。なんと楽しそうな宴会だろうか。不思議の国のアリスに出てきそうだ。
ヤマモト+ワダ
大きな額縁。ここで観客自らが記念写真を撮るとことで完成する絵だ。おもしろいと思う。
木俵元樹
古民家で作戦遂行中の小さなコンバットたち。何の作戦なのか想像するのが楽しい。よく見るとよほど混乱しているようすで、歩哨の位置や狙撃手の配置がちぐはぐだ。ある程度の陣地構築を優先したほうが良かろう。写真はどこにあるのか気づかなかった。
井上隆夫・浅山美由紀
神社境内のキノコ系造形。境内の白い菌類と屋内の赤い浮遊キノコ。別々の作品だとは思わなかった。井上さんが白菌で浅山さんが赤キノコだ。どちらも大地から湧き出た生命体のように見えておもしろい。平日の夕暮れ時、誰もいない境内で風も無いのにふらふら揺れる赤いキノコをただひとり見ていると別の世界にまぎれこんだような不安感が湧いてきて少し怖かった。
小杉俊吾
町角に人形が立っている。遠目には本当の人に見える。近づいてみると実物よりわずかに小さいので人形だと分かる。現実だと思っていたものが人形だと気づく瞬間がスリリングだ。現実と虚像とがひっくりかえる気持ちがする。作品は人形のほうではではなく、それを実物だと思い込んでいた観客のほうにあるのかも知れない。おもしろくて楽しい。
NTTは時間切れだった。とりあえず入ったが5分しか無かったので残念ながら感想を書けるほど見ていない。こっちからまわれば良かったとこのとき気づいた。
林直
100年前のカメラで日常風景を撮りそれを100年後の世界に残す試みだ。古い納屋がその上映館となる。壁に写された不鮮明な画像はまるで100年前の写真を見るようだ。つまりわたしはいつのまにか100年後の人となって100年前の写真を見ているわけだ。今回のテーマが100年の邂逅(かいこう)であったことをここでようやく思い出した。林さんの写真は前回も良かった。若いころに撮った木津川周辺の写真で、そのころから彼の写真は人の笑顔であふれて暖かい。
思えば木津川アートもよくここまで続けてこられたものだ。いくつもの困難を潜り抜け、そのあいだに得たものはとても大きい。とくに運営を支えるボランティアの広がりは当初では考えられないほどだ。ボランティアのみなさんありがとう。
わたしが場所性にこだわるのは自分が建築探偵だからかも知れない。昔の人の記憶に想いをはせずともアートを楽しむことはできる。しかし木津川アートは企画の段階から人の記憶と結びついていた。当初案のひとつに木造校舎を舞台にアートを使った模擬学校を開くというのがあった。それは校舎に対する地域の人たちの記憶をベースにアートを組み立てるという試みだ(その企画は前回の旧当尾小学校で実現した)。わたしはその話を聞いたときとてもワクワクした。
こうした試みはイギリスのグラウンドワークに似ている。知られているようにグラウンドワークは失業にあえぐ地方再生のためのNPO運動で、地域史調査や風景復元のワークショップを通して地域像を再構成する教育プログラムも含まれている。木津川アートが合併した3町の住民交流を進めるためにアートを使おうとしたこととよく似ている。わたしの感想が場所性に偏るのは木津川アートの目的のひとつが地域像の再構成にあったからかも知れない。
今回もとても楽しかった。作家のみなさん、地域のみなさんありがとう。
< 木津川アート感想まとめ >
第4回(2014) (1)、(2)、(3)、(4)
第3回(2012) (1)、(2)、(3)
第2回(2011) 出展していて見てまわれず感想なし
第1回(2010) 出典していて全部を見ていないが多少感想が含まれている。http://tanuki.la.coocan.jp/kizugawa-art.html
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