陰陽五行説

2020年9月17日 (木)

水気の山なみ

山はかたちによって5つの気に分類される。屏風のように立ちはだかり上端が波型になるのは「水気」の山だ。風水地理の本にはたいていその形が図入りで説明されている(下図)。

写真はJR長岡京駅前の再開発ビル6階から北方を撮ったもの。見事な水気の山である。JR京都線は長岡京の朱雀大路の上を走っているので、この水気の山は長岡京の真北に当たる。つまり四神相応の北方守護「玄武」がこれに当たるとみてよい。

四神はもともと山が当てられた。それを川やら道やらに当てたのは鎌倉時代以降だった。そのことは黄永融が「風水都市」(学芸出版社1999)で明らかにした。たとえば平安京の青龍を鴨川に当てたと説明されてきたがそれは鎌倉時代以降の仮説であって、奈良時代においては四神は山であったとした。

このことは学会からは無視されている。しかし古代の風水土木官僚が山を見て都の敷地選定をしたことは間違いないなかろうと私は思う。長岡京の真北にこれほど見事な水気の山なみがあることも四神が山であったことの傍証のひとつになろう。

ではほかの三神に相当する山波もあるのか。これほど明瞭ではないけれど、どれを当てたのかくらいは私にも分かる。それはまた別の機会に。

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JR長岡京駅前バンビオ2番館6Fより北を望む
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ピークが7つある
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呉明初「地理不求人」(E・アイテル「風水、欲望のランドスケープ」青土社1999所収)

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2020年9月 6日 (日)

絶好調の風水講座だった

事務所協会主催の京町家と家相勉強会のときの写真をもらったので記録のためにアップしておく。一般からの参加もあり分かりやすいと好評だった。家相は五行説で説明できることが分かったのがわたしの収穫だった。

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2020.08.21、京都市北区「紫明会館」

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2020年8月24日 (月)

勝尾(かつおう)寺へ初参詣した(3)

二階堂のカメの懸魚。二階堂は開祖であるふたりの僧を祀っている。法然上人が籠ったことでも有名だそうだ。カメは玄武だとか霊亀などと呼ばれるが水を示すことが多い。やはりこここは水の霊地なのだろう。

二階堂と言えば鞍馬寺の転法輪堂を思い起こす。これは斜面に建つ舞台づくりのお堂で大きな阿弥陀様を安置する。阿弥陀様が大きいので須弥壇が半地下となり仏像の胸から上を拝するようになっている。わたしはこれがもともとの二階堂だろうと思う。

ミロクは西方浄土の仏、西方は金気の世界なので「金生水」の相生(そうしょう)の関係により水気を生む。二階堂の存在はここが水の聖地であることを語っているように思えてならない。

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2020.08.09、大阪府箕面市勝尾寺

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2020年8月22日 (土)

「京町家と家相の勉強会」で家相を分析した

家相の勉強会の講師をしたのでメモしておく。

家相を本格的に分析したのは初めてだった。この図はカマドや井戸など住宅設備の配置や向きについての方位グラフだ。思っていた以上に五行説に従って作られていることが分かった。勉強会では五行の説明をしたあとグラフを解説した。また鬼門とはなにかということも五行説にもとづいて説明した。

準備に当たってネット上の情報も集めたが、五行説を知らずに解説しているものが多く見受けられた。ここにある問題点はふたつ。ひとつは知識不足のため家相の本当の意味を見誤る可能性があること。もうひとつは最終的には九星にもとづいた気学的判断、つまり占術的判断となるが、神性のないものがそれを軽々に判断してはならぬということだ。

もちろんわたしにも神性はないので判断はできないので、いまのところ研究対象として向き合っている。それでもなかなかおもしろいということが分かった。今までよく分からなかった城郭の計画手法の解析にも応用できると思う。やってみたい。

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風水グラフ

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2020年8月21日 (金)

勝尾(かつおう)寺へ初参詣した(2)

連載にするつもりはなかったが言い足りないことがあるのでメモしておく。

本堂下を護る石垣がとてもよかった。桃山時代の穴生積みに見える。多少ハラミがあるものの全体としてはしっかりしている。角のラインなどはいまだに健在で力強い美しさを見せている。本堂は秀頼が慶長年間に再建したものなのでそのときの石垣だろう。

本堂は桃山風の装飾がほぼない。最初からこうだったとは思えないので何度かの修理を通じてこうなったのだろう。とくに明治維新後の修験道弾圧のために荒廃したのではなかったか。

ここと聖地の構造の似ている鞍馬寺は戦後天台宗から独立し鞍馬弘教という新興宗教を起こした。終戦により修験道の禁止が解かれたのでもとの神仏混淆の信仰を復興しようとしたのだろう。鞍馬寺はそうやって弾圧の歴史をはねかえした。勝尾寺も同じような歴史を歩んだのではなかったか。

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2020.08.09、大阪府箕面市勝尾寺

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2020年8月20日 (木)

勝尾(かつおう)寺へ初参詣した

西国札所。境内のスピーカーから太鼓の音が響き祈祷の声が流れる。初めて参詣したがそこは活きた札所だった。にぎやかでとても楽しい。気づいたことをメモしておく。

鞍馬寺とよく似ている。街道に面した立地、観音信仰、水が豊富なこと。おそらく鞍馬寺と同じ「水生木(すいしょうぼく)」による子安信仰の霊地だったのだろう。水生木とは水気が木気を生み出す力のことをいい、湧水地は木気である春、芽生え、妊娠などを祈る霊地であることが多い。その後修験道と結びついて独特の信仰を生みだしたのだろう。明治期の廃仏毀釈で神仏分離が行われ信仰の元の形式が分からなくなっているところも鞍馬寺と似ている。

開成(かいじょう)皇子開基とあった。開成皇子は桓武天皇の兄にあたるお方だそうだ。桓武朝は弟といい兄といい神界に通じる人間が多い。興味深い。

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弁天池から本堂方向を望む
2020.08.09、大阪府箕面市、勝尾寺

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2020年4月20日 (月)

【祖山信仰と陰陽論12】前方後円墳と用水の関係

いげのやま古墳は恵解山と書く。「いげやま」「えげやま」という地名は各地にある。「いける」には埋めるという意味がある。この古墳からは大量の鉄器が出土した。鉄を埋めて「金生水」の相生の関係を発動させようとしたのではないか。いげのやまは金気をいける山という意味なのかも知れない。

では前方後円墳と水路との関係を見ておきたい。
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右下の大きな流れが桂川だ。そこへいくつかの支流が流れ込んでいる。右側が犬川、左側を小泉川という。西山連山から降りてきた地脈は桂川に面してふたつに分かれる。右側が長岡で左側が友岡だ。いげのやま古墳は友岡の先端B2にある。

友岡西側の小泉川上流のA地点で取水した用水は友岡の尾根を流れてB地点で犬川に放水される。Aには走田神社、Bにはいげのやま古墳がある。ABふたつの祭祀場は用水の鎮守として配置されたのだろう。友岡周辺の開発は5世紀前半に行われたともいえる。

おもしろいのはこの用水が長岡京の工事が始まったときにはすでにあったことが分かることだ。地図に長岡京の条坊復元を記入しておいたが、いげのやま古墳の手前、西一坊大路と西二坊大路のあいだは街路割にきれいにそろっている。つまり長岡京の工事が始まったときこの用水はすでにあって、その流路を条坊に合わせたからこうなったわけだ。

さらにおもしろいのは西二坊大路より西側の流路は元のままだということだ。これは西二坊大路より西側の条坊が存在しなかった証拠ではないかとわたしは思っている。これはまた別の機会に考えたい。

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2020年4月19日 (日)

【祖山信仰と陰陽論11】おとくに最大の古墳の謎

乙訓(おとくに)地方最大の古墳がJR長岡京駅の南にある。細川氏の居城・勝龍寺城のすぐ近くで天王山の戦いのおりに光秀の本陣があったと言われている。わたしはこの古墳を見ていて前方後円墳と水利施設との関係に気づいた。そのことをメモしておく。
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いげのやま古墳の祖山はアタゴ山でよいだろう。アタゴ山からの地脈は嵐山でふたつに分かれる。ひとつは先にみた西山丘陵で先端に向日神社がある。もうひとつは南側の西山連山につながり、そこから支脈のひとつに流れる。いげのやま古墳はその先端のほぼ平地になったところにある。この古墳は他の西山丘陵の前方後円墳と同じくアタゴ山を祖山とする氏族によって造られたのだろう。

アタゴ山は京都盆地において比叡山とならぶ高い山で盆地の各地から見える。嵐山には秦氏の氏神である松尾大社があるが、これも前方後円墳にこめられた水への祈りを引き継いだものなのだろう。乙訓地方をふくむ桂川流域は秦氏が開墾したとされている。アタゴ山を祖山とする氏族とは秦氏のことだろう。

さて、いげのやま古墳は水利施設とどのようにかかわっているのか。これは次回に。

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2020年4月17日 (金)

【祖山信仰と陰陽論10】円筒ハニワの意味

前方後円墳の特徴の3つ目、墳墓をハニワが囲んでいることについてメモしておきたい。

前方後円墳の復元図を見るといずれも円筒ハニワが墳丘を取り囲んでいる。ハニワと言えば人型、馬型、家型、そのほか器物型と形象埴輪を思い浮かべがちだが、絶対的多数は円筒ハニワなのである。円筒ハニワとはいったい何なのか。

円筒ハニワは土留めのようなものと思われているがそうではない。墳丘斜面の途中に狭い通路のような場所があり、そこに円筒ハニワは並べられている(前回参照)。前方後円墳は普通3段になっているがそれはこの通路部分があるからだ。逆に言えば前方後円墳はハニワを並べるためにわざわざ3段に造られている。なぜそれほど円筒ハニワが大事なのか。

ハニワという言葉は日本書紀の垂仁帝記に出てくる。殉葬の悪弊を取り除くために野見宿祢(のみのすくね)の進言に従って人型馬型の土器を埋めたという。それを埴輪、立物といったと書いてある。これは日本書紀編纂期にハニワという言葉があった証拠である。ではハニワとはなにか。

わたしは言葉の意味通りだろうと思う。ハニとは土のことだ。ワは輪だ。つまり土ものを輪に配置するものという意味だ。ハニワは人型馬型でなく円筒埴輪そのものを指す言葉だろう。

ハニワは土気で金気の陵墓を囲むものだ。これにはどういう意味があるのか。前方後円墳は金気が水気を生む装置だと前回述べた。金気が身水気を生むためには土気の作用、つまち土用が必要となる。わたしはハニワこそこ土用だと考えている。墳墓を石張りとして金気とし、そこへハニワの土気で囲むことで金気の発動を促している。そうすることで「金生水」の形式が整い水利施設は水田に滞りなく水気を送ることができる。

大王はそのめに開墾をしながら自分のための墓を用意した。それは自身の身体が最強の土気であると分かっていたからだろう。陰陽論においてはひとは陽気である魂と陰気である魄(はく)でできている。死ぬと魂は天にかえり魄は大地に帰る。大地は最強の土気だ。したがって死体は最強の土気だと考えられた。しかも大王のものである。一般人よりも強い土用があると考えられたのではないだろうか。

わたしは円筒ハニワは前方後円墳の「金生水」の機能を補強するための呪具であると思う。

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2020年4月16日 (木)

【祖山信仰と陰陽論9】前方後円墳の構造

前方後円墳は次のようなかたちをしている。特徴は3つだ。

1.円墳と方墳を繋ぐ。
2.表面に石を貼る。
3.埴輪(はにわ)で囲む。

このかたちにはどのような意味があるのか。
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1.天円地方を示す
今まで述べてきたように天地を示すと考えるのが自然だろう。これは民俗学の分野から沖縄の亀甲墓との類似から指摘されている。前方後円墳から亀甲墓が生まれたとするのではない。アジアの墓制の基本に陰陽五行論があり、あるときは前方後円墳、あるときは亀甲墓となったわけだ。陰陽五行論は遅くとも紀元前5世紀には成立していたから、墓制と無関係とするほうがおかしい。

わたしは天神と地神を祀る場所としてこのかたちが生まれたと考えている。それは二上山や比叡山、そして生駒山などピークがふたつある山での祭祀を反映させたものだったろう。天神が金気であり地神が土気だとすれば、土気の作用(土用)によって生まれるのは水気だ。前方後円墳が水利施設の一部であるのはこのためだ。

2.石の山は水を生む
葺石(ふきいし)を貼ったのが当初のかたちだ。もっとツルっとしてピカッとしていたわけだ。その点エジプトのピラミッドにイメージは近い。ピラミッドはチグリス・ユーフラテスあたりのアッシリア文明が発祥とされる。ジグラッドと呼ばれる小振りな方墳だが、そのかたちは氏族のやってきた山岳地方の神聖な山を示すとされる。それがエジプトへ移民と同時に持ち込まれピラミッドとなった。墳墓のかたちは神聖な山を示すというのが興味深い。前方後円墳も同じことだと思う。

石は五行説では金気だ。石を全体に貼ることで古墳は金気となる。金気は土用によって水気を生みだす。古墳で天神地神を祀ることで豊富な水を得て水利施設を潤そうとしたのだろう。前方後円墳は重要な祭祀場として水利施設の一部だったとわたしは考えている。

そのことはハニワを見ればよく分かる。長くなったので次回に。

(つづく)

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