陰陽五行説

2017年12月 2日 (土)

【閑谷学校の風水】 03.洛書後天図で設計された学校

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 先に四神に照らして講堂が西にある理由を見た。それは金言である孔子の学び舎として金気の領域である西が適当だという理由であった。

 五行を方角に当てはめると下図のようになる。添えた数字はそれぞれの気を象徴する数字である。


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 おもしろいのは水の領域にある孔子廟に6があふれていたことだ。

 まず釘隠しが六葉だった。次に中の間の床が塼(せん)の亀甲張りだった。亀甲とは正六角形のことだ。

 6は水を象徴する数字だから、孔子廟が水の領域に建っていることを示すのだろう。6について儒教的な意味があるだろうが、それとは別に五行説にも則っているはずだ。


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 方角の五行配置を発展させたものが九星図の元となる洛書後天図だ。

 これに閑谷学校を当てはめると講堂や孔子廟のほかに椿山や御納所も当てはまる。御納所は閑谷学校を開学した池田光政の遺品を納めた塚で、椿山はその参道であるツバキのトンネルのことだ。

 東は木気の領域だ。木気は季節でいえば春となる。椿は字のなかに春を含むように木気を象徴する花と考えられる。

 また御納所は円墳である山をかたどっていることは明らかだ。

 このことから閑谷学校は洛書後天図に照らして配置されていると推定できる。


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 おもしろいのは、この図によれば講堂は「兌(だ)」に当たることだ。これは巫女の象形文字で天の言葉を口にするという意味となる。また、兌が悦(よろこび)に通じることから喜びを表す言葉だ。講堂は学問の喜びを知る場所となる。

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2017年11月29日 (水)

【閑谷学校の風水】 02.蔵風得水の地

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 風水という言葉は「蔵風得水」の略だ。これは風を蓄えて水に遮られた場所という意味で、気が溜まりやすい場所のことをいう。上図のように山に囲まれて川で画されたところが気が溜まりやすい。

 気が豊富だということは穀物の育成にも人体の健康にも良好な環境だと考えられてきた。占地とはこうした場所を探すことで、そのための知識のことを「風水」と呼んだ。


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 そんな場所に泉があれば、それは気の出入りする龍穴だと考えられた。古来より都はそんな泉を起点として設計されてきた。平安京の神泉苑などはその代表格である。

 この蔵風得水の地に閑谷学校はぴったり当てはまる。校地選定にあたり念入りに占地した証拠だろう。受付近くに井戸があったが、それが龍穴なのかも知れない。


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 山の懐深く抱かれるという表現は、気持ちが安らぎ落ち着く地形を言う。そうした場所は蔵風得水の地であり、気が豊富であることから人体も精神にもよい影響があると考えられた。閑谷学校の良さはそうした自然の綿密な観察による占地のおかげだと言えるだろう。


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2017年11月26日 (日)

【閑谷学校の風水】 01.四書五経はなぜ4と5なのか

 閑谷学校がとても良かった。まだ余韻にひたっている。講堂がすばらしいのだが、今回はその建築単体というより講堂も含めた学校全体の配置計画がおもしろかった。

 なぜ講堂は学校敷地の西にあるのか。

 それを考えるためのヒントは四書五経にある。

 四書五経は論語などの4書と易経などの5経のことで、東洋の古典的な儒教書のことだ。閑谷学校のテキストはまずこの四書五経であったことは間違いなかろう。ちなみにわたしは四書五経のうち易経しか読んだことがない。もっと勉強せねば。

 さて古典は他にもあるだろうに、なぜ4と5にまとめたのか。

 この答えは案外簡単だ。4は金気の生数、5は土気、合わせた9は金気の成数である。つまり四書五経は金気であることを示す。それは言葉が金気とされたからだ。

(生数と成数)
 金気を象徴する数字は4と9だ。4は生まれたばかりの金気でまだ金気の作用を発動することができない。金気の作用とは水気を生んだり木気を殺したりすることだ。金気の本領を発揮するためには土気の援けがいる。5は土気を表し土気の援けのことを土用と呼ぶ。金気の生数(なますう)4に土用5が加わり金気の成数(なりすう)の9となる。四書五経の4と5は金気作用の発動を意味している。

(五事)
 人間の言動を五行に当てはめたのが五事だ。一般に貌(表情)=木気、視る=火気、言う=金気、聴く=水気、思う=土気とされる。他説もあるが、ここではこの配当でよい。人を動かす理に適った言葉は刃のように鋭いわけだ。金言とはそういう言葉を言う。もちろん四書五経こそ金言である。

 西は四神で言えば白虎、五行で言えば金気の領域だ。だから金言を置くとすれば校地の西がもっとも相応しい。これが講堂が西に置かれた理由である。

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2017年11月 2日 (木)

フィボナッチ数と五行説

 思いついたことがあるのでメモしておく。

 1、1、2、3、5、8、13、21……

 この数列は前のふたつの数字を足したものが並んでいて13世紀のイタリアの数学者フィボナッチが研究したことからフィボナッチ数と呼ばれている。これを図化した螺旋が自然界に多数存在する。

 たとえば貝殻の断面やバラの花や松ぼっくりを上から見たときなどだ。このことから、フィボナッチ数は生命が形を得る上で特別な役割があるのだろうと言われてきた。ただしそれが何なのかはまだ分かっていない。

 陰陽五行説は自然観察から生まれたもので、このフィボナッチ数をなぞっている。

 1 最初の混沌(太乙)
 2 陽気と陰気(陰陽)
 3 天と地と人(三才)
 5 五つに分かれた気(五行)
 8 八つに分かれた気(八卦)

 13以降はない。本当はあるのかも知れない(13は十二支+中心かも知れない)。

 フィボナッチ数は6世紀のインドでは知られていたそうだ。陰陽五行説が現在の形になり紀元前5世紀の古代中国でも知られていたのではないか。陰陽五行説は数学的な側面があるので、それを理論化に利用したのだと思う。


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2017年10月29日 (日)

古事記の創世神話の謎を解いてみた

 茶道と陰陽五行説の関係を書いた本を読んでいたら三皇五帝の話が出てきた。これは中国の神様だ。三皇と五帝の組み合わせはさまざまあるが、たとえば三皇ならフッキとジョカと神農という具合だ。フッキとジョカは大洪水で人類が滅亡したときに生き残り新天地のアダムとイブになったという人間の始祖神だ。

 三皇五帝の数字は三才と五行を表すと本にあった。
 三才は天地人のことで世界が天地に分かれて人の住む地平が現れたことを表わす。
 五行はその進化系で、天である陽気がさらに木気と火気に、地である陰気が金気と水気に分かれた。
 人は土気なのでこれで五行が揃う。そして5つの気が循環して世界は生きると考えられた。茶道にもそうした考えが染み込んでいるという。

 ならば古事記の創世記もそうなっているのではないかとさっそく調べたところその通りになっていた。古事記の創世部分の最初に出てくる神様たちは現れるとすぐ消えてしまう。神格の説明もなくただ名前だけが突然出てきて、いったい何のために出てくるのか謎とされてきた。

 しかし三皇五帝に当てはまるのなら、古事記の作者が中国の創世記をまねて神話に書き加えたのだろう。

 最初の「造化三神」が三皇に相当する。

 その次の「別天津神(コトアマツカミ)」は四神だろう。これは四象(シショウ)に当たる。四象とは五行から土気を除いた4つの気のことだ。

 残った五組の双び神(ナラビカミ)が五行だ。男神と女神のセットなので、これで十干(じっかん)にもなる。よくできている。

 世界は最初、天地人の3つに分かれた。次に天地それぞれがさらに陰陽に分裂して4つに分かれた。その4つに人間の土気を加えて5となった。3,4,5という順序で世界が生まれたことを古事記の創世神話は語っているのだ。

 そう考えると不明とされた神様の名前の意味も分かってくる。

 造化三神
 アメノミナカヌシはその名のとおり天だろう。タカミムスビは地だと思う。高天原の大地を調えた神という意味に思える。最後のカミムスビが人だ。高天原の住民は神だからだ。

 別天津神
 このグループは世界の誕生する過程を示している。

 最初にウマシアシカというカビのようなものが生まれた。混沌とした世界は発酵を始めるのだ。そして最初に天ができた。アメノトコタチのトコタチは固まるという意味ではないか。次に大地が固まった。クニノトコトチのクニとは国家ではなく大地のことだ。最後にトヨクモノ(豊雲野)となる。豊かな雲の湧く地平が生まれた。

 雨あがりの山を見ていると、山間から雲が立ち上るのを見ることができる。たいがいその下には池がある。もしくは豊富な湧水地だ。稲はそうした場所に植えられた。八雲立つ野という言葉は豊かな国土を表現している。

 おもしろいことに、この四神は四象の4つの気に配当することもできそうだ。アシカビは誕生を象徴する木気だろう。次のアメノトコタチは太陽を表す火気だ。次のクニノトコタチは良く分からない。順序から言えば金気となる。最後のトヨクモノは残った水気ということになる。

 四神の上のふたつを別天神グループとし、下のふたつを神代七代グループとしている。これは上のふたつが陽気で下のふたつが陰気だと考えればわかりやすい。別天神グループは陽気で神代グループは陰気だというわけだ。

 双び神
 双び神の神名は生命誕生の過程を表しているそうだ。ウイッキにあった説明を紹介しておく。

 ウイジニ・スイジニのウは泥、スは砂。つまり最初に中州のような柔らかい大地が現れた。
 ツノグイ・イクグイのクイは芽。泥砂のなかから生命が芽生えた。
 オオトノヂ・オオトノベ。これは意味が分からないらしい。ウイッキでは凝固した大地と紹介されていた。
 オモダルは完全なという意味で、アヤカシコは「あなかしこ」つまり素晴らしいという意味らしい。
 そして最後に万物を生んだイザナギ・イザナミの登場となる。

 双び神も五気に配当されているのだろうがよく分からない。
 単純に上から木火土金水かとも思うが、そうするとイザナギ・イザナミが水気になってしまう。このふたりは誕生を象徴する木気がふさわしいように思うが、ナギとかナミとか海と関係がありそうな名前なのでやはり水気かも知れない。

 3,4,5の3つの数字はこのように世界創世を表わしている。おもしろいのは3,4,5は直角三角形を作る比率でもあることだ。直角によって大地は四方に分かれる。四方は四象でもある。

 直角は四象を導くための聖なる幾何学と考えれた。だから3,4,5も聖なる数列とみなされたのだろう。古事記の創世記はそうした陰陽五行説の考えをベースに調えられていると考えられる。


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2017年7月 3日 (月)

風水本の続編を企画している

 「京都の風水地理学」がジワジワ売れている(らしい)。ということで続編を企画中だ。ネタはいくらでもあるが推論をもっと深めておきたい。今考えていることをメモしておきたい。

1.格子状プランの世界観は中国北方系

 長安(大興城)を設計した宇文愷(ウブンガイ)は宇文・愷で名字は宇文だ。こうした二文字の名字は辺境諸国の出である証拠で、実際宇文は内モンゴルの王家の家柄だそうだ。
 長安の格子状プランの元となった鄴(ぎょう)は曹操孟徳が造った都だったが、この後開かれた魏(ぎ)という国もどちらかと言うと北方系だ。

 よく勘違いされているが、格子状プランはもともと世界の写しとして考え出されたもので、産業や軍事上の効用はあくまで二義的なものだ。それはルネサンス以降の都市計画でも同様であって、格子状プランは必ず中心と構造を備えていた。ベルサイユ宮殿などがその良い例で、鏡の間という中心と、そこから伸びる直線に添って整備された庭園という構造を備えている。

 オースマンのパリ改造なども同じで、放射状道路という構造の中心には必ず凱旋門やらオベリスクがある。分かりやすいゲームのダンジョンのような構成だが、これが格子状プランというものだ。現代日本では構造も中心もない格子状プランが蔓延しているが、それは本来的な姿ではない。

 長安以降この方法は流行らなかった。これは格子状プランの示す世界観が中国本来のものではなく、多分に北方的のものだったからではないかと考えている。砂漠で眺める満天の星空のような圧倒的な力で迫る世界観が格子状プランにはある。

 中国本国では流行らず、文明の進んでいたはずの朝鮮半島でも行われなかった。これを受け継いだのは辺境の日本と渤海だけだった。日本と渤海は国家としてはまだ呪的な段階で、律令制のような文明に浴していない発展途上地域だった。

 このふたつの地域は憑りつかれたように格子状プランの都を造り続けた。お互いが影響しあったわけでもなく、別々に発展したことは作っているものが微妙に違うことから分かる。おもしろいことに渤海の都は長安よりも魏の鄴(ぎょう)似ている。
 
 渤海は中国の東北地方だ。そこは朝鮮族や倭人も含めた東北系諸族とモンゴル系諸族とが入り乱れて住んでいたようだ。モンゴルから渤海へ至る平原にはシルクロードの北方ルートがあった。だから辺境であっても未開ではなかったのだ。そこで行われた文明は中国的なものとは一線を画し、天と大地とのつながりを重視した多分に呪的なものだったろう。だから天地を結ぶ呪的装置としての格子状プランの都が造られた。

 格子状プランは北方色の強い渤海で受け入れられたが、同じ世界観が日本でも流行ったのを見ると、やはり古代日本も北方系文化の一端を担っていたと考えざるを得ない。魏の国とのさかんな交流はその証拠となりうるのではないか。また、秦氏の秦は始皇帝の秦ではなく五胡十六国の秦であろうと思うが、そうだとすればやはり北方系とのつながりは否めない。

2.古墳の代わりに寺院を建てよう

 古代寺院の平面計画は都城と同じ考え方で造られているようだ。今はその意味を考えている。前著の平安京推論のように三合であるのは間違いないと思うが、もう少し別のそうでなくてはならないような絶対的な意味があるように思う。

 都城は火の三合を使って格子状プランを構造化したが、これは天地の結びつきを視覚化したものだった。同様のものとして前方後円墳がある。これは沖縄の亀甲墓に見るような天円地方を具象化したものだという考えが民俗学の世界では通説化している。ようするに天地を結ぶことは先祖とわたしたちを繋ぐことでもあるわけだ。この考え方が古代寺院にも引き継がれたように見える。古墳のかわりに寺院を造ろう。日本では憑りつかれたように寺院を作り始める。

 前方後円墳>古代寺院>都城

 わたしは都づくりの考え方を探るところから歴史を逆にたどっている。そこにはさほど難しい理念があるとは思わない。もっと素朴でもっと根源的ななにか。

 王は天と地とをつなぐ者であり天の声を聴くものだ。天の声は先祖の声でもあった。天の声を聴くものが女性であったときには、天と大地との結婚がテーマであったろう。婚姻によって大地は生まれ変わりそして新たな穀物と子孫を生み出す。呪的な先祖崇拝と穀物生産のための文明とのハイブリッド(異種混合)が天地をつなぐ祈りの形式を生み、それが古代寺院や格子状プランへと変化していったのだ。

 これも勘違いされているが、格子状プランは律令制の前提条件ではない。これは朝鮮半島や長安以後の中国で格子状プランが流行らなかったことを見ても明らかだ。長安のような都を持たなくたって律令国家は成り立つのだ。だから格子状プランに熱中したのは律令制を取り入れるためではなく、先祖崇拝を基とした呪的国家の形式から逃れられなかったからと考えたほうがいい。そう考えれば聖徳太子による仏教移入の経過も分かりやすい。

3.仏教の立ち位置と世界の書き換え

 仏教は律令制とは直接関係がない。日本がお手本にした隋や梁が仏教国だったことの影響はあるだろうが、むしろ農地開拓ための呪的手法として必要だったからと考えたほうがよい。役行者のころの仏教は、山谷に跋扈する精霊を呪的に封じ込める先兵として使われた。弥生時代の農地の大規模な開発は縄文時代的な呪的な世界と深刻な軋轢を生んだはずだ。それを克服するために修験者は使われたというわけだ。

 弥生時代の後期に古墳時代が重なるのは、こうした開発の規模拡大と技術革新が行われたからだろう。農耕のための土木と建築の技術は神々との交流を縄文式から弥生式へと書き変えることを目的としていた。世界の書き換えである。この段階でヘビ神は悪しき龍神と書き変えられ仏僧によって封じられるのだ。このあたりの考察は吉野裕子の「蛇」に詳しい。

 奈良時代に八省が整備されても工部省はできなかった。工部省ができるのは明治になってからだ。なぜ工部省が無かったのかといえば寺院が技術を独占していたからだ。技術は農地を増やすための土木建築技術と山野の悪霊を鎮撫する呪的な信仰とのハイブリッドだった。だから信仰と技術を切り離すことは怖くてできなかったのだろう。

 それを逆手にとったのが聖武帝の菩薩皇帝化だったのだろうと思っている。この話は格子状プランとまったく関係がないわけでもない。仏教を文明の先兵として使った時点からはらんでいた矛盾が最悪なかたちで噴出するのが菩薩皇帝化計画から道鏡事件までの数十年であったろうと思っている。いずれ東大寺西大寺の平面を検討すればもっと詳しく分かるだろう。

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2016年12月 5日 (月)

トランプカードはなぜ1から13までなのか

 カードの図柄の4種類は四季なのではないか、と思ったのが考えるきっかけだった。春と夏が赤で秋と冬が黒なのだろう。五行説で言えば赤は火気の夏、黒は水気の冬なのでうまく当てはまる。

 ♥ハート  春
 ♦ダイヤ  夏
 ♣クラブ  秋
 ♠スペード 冬
 
 こんな感じか。ではなぜ各図柄は13枚づつなのか。もしトランプが四季を表しているのだとすれば、十二宮や二十八宿などの星座の数に対応しているなら説明しやすいのだが13というのは半端だ。つまり月とは関係が無い。それではひょっとすると週なのではないかと思って計算してみた。するとぴったり当てはまった。

 13 × 4 = 52

 おもしろいのは52週を日に換算すると364になることだ。

 7 × 52 = 364

 つまりジョーカーの1枚を足すとちょうど1年になる。

 7 × 52 ∔ 1= 365

 通常トランプにはジョーカーが2枚入っていて1枚は予備なのだろうと思っていたが、それはうるう年用の1枚なのかも知れない。

 トランプが1年を表すカレンダーだとして、さてそれをどうやって使ったものやら。暦を使った占いのような本当の使い方があるのだろう。いったいそれはどんなゲームなのだろうか。

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2016年10月 9日 (日)

【伊予旅行】14.臥龍山荘(4)

 不老庵のロケーションは下図のようになっている。神棚の後ろは青石の露呈した崖で、その上に大洲神社がある。神社は大洲城の完成した1331年にその守りとして開かれたという。ご祭神は大国主の命と事代主の命の二柱だ。これは大黒天と恵比寿天に習合される。ようするに不老庵の床の間に飾られる神様は大黒天と恵比寿天の二神なのであろう。

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 ちなみに大黒と恵比寿の陰陽の組み合わせはこの時代に成立したのかもしれない。鎌倉末期から室町初期にかけて、つまり後醍醐天皇の時代の修験道が聖地を再生してまわったのではないか。

 陰陽のセットになっているのは神様だけではない。大洲神社のある青い磐座である神楽山は、肱川を挟んだ対岸の山を冨士山(トミスヤマ)とセットになっている。ここには江戸時代に如法寺が開かれている。如法寺の開かれる前の冨士山も行場の点在する仏の領域であったろう。神社は陽気、寺院は陰気のセットだからだ。

 おもしろいのは方角と社寺の陰陽が入れ替わっていることだ。日の昇る東側が陽気、火の沈む西側は陰気だ。大洲では肱川をはさんで陰気の西側に陽気の神社、陽気の東側に陰気の寺院が配置されている。これは陰陽の交合を意識した配置なのだろう。こうした意図的な逆配置も中世的な感じがする。

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 東の空に満月が昇る。月は陰気そのものであり満月は陰気の絶頂である。陽気である東側は月光に包まれる。月光は陰気の作用であろう。それがまず肱川を照らす。川面がキラキラ光る。その反射光が不老庵の天井を白々と照らし出す。この場合の白は水を表わす。水気は木気を生む。従って不老庵に肱川の白光が届くとき、木気は発動するわけだ。不老とは再生を意味し、不老庵はそれを視的に表現するための呪具なのだ。それはここが再生を願うための祈りの空間であることを示している。

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2016年9月11日 (日)

【伊予旅行】13.臥龍山荘(3)

 なぜ懸け造りなのか
 懸け造りはたいがい磐座に懸けられる。清水寺が筆頭だが、千葉県の笠森観音、鳥取県三仏寺の投げ入れ堂などいずれも岩に懸けられている。これは磐座に降りた天神に舞を奉納するための舞台だ。ここ大洲神社のある丘が神楽山というのも、ここが奉納舞の聖地であったことを示すのだろう。不老庵が懸け造りになっているのは、それを模倣したものだが、元からそういった舞台があったと考えた方が自然だろう。

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 生きた柱とはなにか
 違い棚の無い床の間は神棚だろう。床の間の中心に床柱を置くのは床柱を神に見立てた神棚の形式だと思うが、これは床板そのもを神棚になぞらえている。従ってここを使うときには神明を書いた掛け軸をかけるか神格を表す唐物を置くはずだ。左右にはもちろん供花があるがこの場合は右側だけでよい。なぜなら左側の壁の向こうにすでに生きた槙の木の柱があるからだ。槙は高野山系が使うコウヤマキだろう。これは生きているのではなく活けてあるのだ。

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生きた柱

 再生のための茶室
 茶室は床の間の北側に置かれる。北は水気の領域だ。茶は知られているように土気だ。五味のうち苦味が土気に配当されるからだ。茶に用いる水は背後の岩にうがたれた穴から汲むようだ。岩は磐座であり神気に満ちる。しかも岩の青は龍を示し、臥龍の名のとおり龍脈が露呈していることを示す。

 岩は金気であり水気を生むが、そこで生まれた水は龍脈と神気によって真の水となる。真の水とは木気を生み出す力のある水気のことだ。この茶室が「怡性」と名付けられたのは「怡性养神」つまり怡(悦び)の性(本性)により神(神気もしくは精神)を养(養)うという意味だろう。この悦びとは本来は舞であったはずだが、ここでは茶がそれに代わる。土用で強められた水気が木気を生み出す。神気に満ちた木気によって精神は再生される。 

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茶室裏の穴

 生きた柱のもうひとつの意味
 捨て柱の方角は床の間から見て南西に当たる。これは二黒土星の方角で大黒天の方角だ。大黒天は土気でもある。従って、この方角に生きた木気を置けば土用によって木気が完成する形となる。それは大黒天そのものの完成でもあったろう。

 生きた柱、青い岩、龍、こうしたものは全て強力な木気を示す。おそらく大黒天は観音と習合していたはずだが、明治期に修験道が廃された今となってはよく分からない。しかし観音信仰の篤い四国ならではの何かがあったのだろうと想像できる。トミス山に冨士の字を当てたのは不死の山を連想した行者たちだろう。そこへ不老庵を向けることで不老不死が完成する。つまり茶の力によって増強された最強の木気が再生を行うという筋書きだっただろう。

 長くなったので続きは次回。月光について考える。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月10日 (土)

【伊予旅行】12.臥龍山荘(2)

 清水の舞台のような懸け作りの草庵があった。眼下に肱川が一望できる。名を不老庵という。ここは藩政時代からの庭園だったそうだ。吉野の桜、龍田の楓などはそのころのものだというので、庭園の骨格はそのままなのだろう。崖の中腹にしがみつくように作られた細長い庭園で茶室が点在する。ここは茶庭なのである。

 明治以降荒廃していたのを木蝋で財を成した神戸の河内家が復興した。建物はすべて河内の再興したもので、あちこちに呪いめいた趣向がこらされており、数寄屋造りというよりもゴシック趣味である。なかでもこの不老庵が極め付きだ。

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 天井が網代貼りのヴォールトになっている。こんなの初めて見た。船底天井との説明があるが、わたしは南方の高床式民家を思い出した。河内家は南方とも交易していたのではないか。驚くことに対岸から仲秋の名月が登るとき川面に反射した月光がヴォールト天井に踊るのだそうだ。まるで銀閣ではないか。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

 この茶室を特徴づけているのはそれだけではない。ひとつは違い棚を設けない2間幅の大きな床の間。こういうのも見たことがなかった。この床の間の右側に小さなお茶室がある。

 もうひとつは床の間左の裏にある生きた捨て柱だ。捨て柱とは軒を支える独立柱のことで、ここには3本ある。そのうち1本だけが生えたままの槙の木を上端を切って軒桁を載せているのだ。生きた柱は初めてみた。今も青々と葉を茂らせているのを見て背筋が寒くなった。これって横溝正史の世界ではないのか。

 いったい謎がいくつあるのか。
 まず、なぜ懸け作りなのか。そしてなぜ床の間に違い棚がないのか。そして生きた柱とは何なのか。謎解きは次回。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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