陰陽五行説

2024年2月28日 (水)

裏千家住宅(6)龍穴の祖廟

 咄咄斎の見学のあと、その北側の中庭まわりの茶室をい拝見した。いずれも玄々斎よりも新しい時代のものだそうだ。その茶室に挟まれて巨大な松があった。臥龍(がりゅう)の松という。

臥龍とは龍が臥(伏)せる姿をいう。その名のとおり大枝が地面を這った後に再び立ち上がっている。松は大地に吸い寄せられるように枝を下げる性質がある。そのことも松が土気と言われる理由だろう。樹齢は不明だそうだ。見たところ200年くらいか。ならば玄々斎のころだろう。

松は直径20メートルほど枝を伸ばしている。松を囲む咄咄斎と新しいふたつの茶室は巨松の枝の下だ。新しいふたつの茶室は松の枝の下に設けられたといってもよいだろう。松の下に茶席を設ける構成は咄咄斎に倣ったように見える。

さて、この臥龍の松の示す意味はなにか。

これはこの庭が龍穴であることを示すのだろう。この庭は裏千家住宅(今日庵)の長年の建て増しによって狭くなっているが、3代宗旦のころは霊水の湧く森だったろう。その霊水こそ梅の井であり、そのそばに利休を祀り小さな茶室を建てた。これが裏千家の始まりである。

龍穴とは人体のツボのように気の出入りする場所をいう。東洋では大地は人体と同じように生きていると考える。したがって人体と同じように気が出入りして初めて健康を得るのだ。この大地のツボが詰まると大地が病む。ツボはいつでも清浄に保つ必要があるのだ。龍穴を保つために庭として整備するわけだ。茶は人体を強める医療として始まったように思うが、本当は大地を清浄に保つための呪法なのかもしれない。

宗旦は梅の井のまわりに今日庵、又隠、寒雲亭の3つの茶室を編んだ。やはり3である。梅は春、つまり木気を象徴する。したがって茶室も3つになるのかもしれない。それぞれ2畳、4畳半、8畳である。火気、金気、木気と3気が揃う。隣接する溜精軒が6畳なので、これが水気となる。これで5気のうち4気までが揃った。では残りの土気はどこにあるのか。それが臥龍の松なのだろう。この巨松は、ここが龍穴の霊地であることを示すとともに霊水・梅の井のまわりにレイアウトされた5つのカードのうちの1枚でもある。
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2024年2月27日 (火)

裏千家住宅(5)満ちる3と5と8

連載にするつもりはなかったが、つい長くなっている。書いているうちに気がつくことも多いのでつい長くなる。松の絵を描いてみた。茶室が松の巨木の木陰の風景に見える。釜の湯が湧く音を松籟(しょうらい)という。風になびく巨松の音が聴こえるようだ。

(おさらい)
裏千家の御祖堂に隣接する茶室・咄咄斎に土気の5と木気の3と8が満ちていることを書いてきた。五気は次のように巡回する。

木気→火気→土気→金気→水気→木気

五葉松の土用によって茶の火気が発動する。その火気によって御祖堂の利休の土気が強くなる。御祖が強くなればその子孫も盛んになる。そうした先祖礼拝の儀礼が行われたのが茶室・咄咄斎だったろう。

茶室の名の由来である咄咄斎は千家3代目の宗旦だった。五葉松を植えたのは8代目又玄斎(ゆうげんさい)だ。ここにも3と8が出てくる。このふたりを持ち出した時点で3と5と8のコンボはなりたっている。

3+5=8

この数式は、未活性である木気の3に土用の5が加えられて活性化された木気の8になるという意味だ。活性化された木気は誕生と再生を司る重要な気となる。3や8が縁起がよいと言われる所以はここにある。

咄咄斎を示す3は五葉松の5が加えられて活性化した木気の8となる。この茶室は茶を点てなくとも再生と誕生を予祝する装置となっている。

1788年、天明の大火。京都の市街地の8割を焼いた史上最大級の都市型火災と言われている。このときに裏千家住宅(今日庵)も焼失したという。このとき又玄斎手植えの五葉松も焼けたのだろう。その古材で咄咄斎は編まれたわけだ。

又玄斎(1719-1771)が家元となったのは1733年、1758年には宗旦100年忌を行っている。そのころに五葉松を植えたとすれば天明大火時で樹齢30年となる。咄咄斎の床柱の松は直径20㎝くらいなので30年くらいに見える。この床柱は天明大火で焼けたものを切り出したのかもしれない。

大火後すぐに裏千家住宅は再建されたという。 年表をメモしておく。

1733 8代又玄斎が裏千家家元となる
1771 9代不見斎が裏千家家元となる
1788 天明大火
1789 裏千家住宅(今日庵)の再建
1839 利休250年忌に咄咄斎の前身である稽古の間を作る
1856 宗旦200年忌に稽古の間を咄咄斎に改造する
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2024年2月26日 (月)

裏千家住宅(4)なぜ咄咄斎は8畳敷きなのか

茶室・咄咄斎は利休を祀る御祖堂と隣り合わせだ。ここでお茶を点てれば利休に供えることになるという。玄々斎は最初から利休への献茶場としてこの茶室を編んだのだろう。

炉の前には大きな下地窓があって御祖堂とつながっている。常からは障子が立てられていて隣室が見えるわけではない。しかし、なんらかの行事の際には障子が外されて御祖堂とつながるのではないか。たとえば年始のお茶は最初に御祖堂に祀る利休に奉じるという。そうしたときには障子は外されるのかもしれない。

茶は火気である。茶を喫することで土気である人体が強められる。これが喫茶養生の大前提となる。

松は土気である。木偏に公と書く字のほかに木偏に白と書く文字がある。この白は六白土星に通じるので土気だというわけだ。土気の作用を土用という。土用によって土気以外の4つの気は活性化する。さて咄咄斎に満ちる土気はなにを活性化させようというのか。

咄咄斎の松は五葉松であった。葉が5つに分かれる松である。5は土気を象徴する数字だ。その松の床柱には3つの節があり、それを堂々と茶席に向けている。デザイン的に考えれば節のようなものを正面に向けないだろう。やはりこの松はご神木として立てられているように見える。3は木気を示す数字だ。このご神木は土気であると同時に木気でもあるのだろう。

木気の3は土用の5によって活性化した木気となる。活性化した木気を示す数字は8である。咄咄斎が8畳敷きなのは偶然ではない。

活性化した木気にはどのような働きがあるのか。

活性化した木気は火気を生むのである。その火気もまた茶室に満ちる土用によって活性化して土気である人体を強める。その人体とは御祖堂に祀られる利休であろう。利休は今も生きた人体として祀られているように見える。祀られた利休が活性化することによって裏千家の繁栄が約束されるという考え方なのだろう。先祖崇拝の茶による形式化が玄々斎によって行われたように私には見える。
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2024年2月25日 (日)

裏千家住宅(3)茶室「咄咄(とつとつ)斎」

玄々斎(1810‐1877) は1856年に宗旦200年忌のために茶室・咄咄斎を作った。元からあった稽古の間を改造したという。稽古の間も、玄々斎が1839年に利休250年忌のために作ったとされる。咄咄斎とは利休の孫の千宗旦のことだそうだ。彼は千家を現在の3家に分けた人物である。玄々斎は、利休忌のための茶室の名を宗旦にちなんでつけたわけだ。

茶室咄咄斎を見学して一番驚いたのは薄暗がりのなかで怪しく光る野太い松の床柱だった。そもそも松の床柱が珍しいし、これほど太いものもあまり見ない。次に目に入ったのはタテヨコ交互に張られた市松模様の松材の天井である。これも珍しい。デザイン的にもおもしろい。ただしデザイン的に見れば太い床柱の主張が強すぎる。なぜか。

五葉松の床柱は茶室のための部品ではなく、床柱こそ茶室の主役なのだろう。結論から言えば、これは家の繁栄を願う生命の樹であろう。そう思って改めて茶室を見れば、太い床柱が松の巨木の幹であり、市松に張られた天井が空を覆う松の枝葉に見える。

この天井板と床柱の松は裏千家の庭園にあった「又玄斎(ゆうげんさい)お手植えの五葉松」だそうだ。又玄斎(1719-1771)は表千家と協力して茶の稽古法・七事式を作った。稽古法が定まり千家の茶道が町民のあいだで大流行した。又玄斎は裏千家中興の祖と呼ばれる宗匠である。

その手植えの松を主役に玄々斎は茶室を開いた。それは又玄斎の遺風を受け継ぐ意思表明であった。同時にデザイン的にみれば
又玄斎の五葉松は今でも茶室となって生きているという表現となっている。おもしろい。

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2024年2月24日 (土)

裏千家住宅(2)年越しの茶事

畳を敷いた廊下のような場所がおおみそかだけ茶室になるという。そこで使った湯と炭を残しておく。翌元日早朝の初釜では、残しておいたおおみそかの湯と炭に新しい湯と炭を足して使うそうだ。水と火の再生を願う儀礼に見える。水は梅の井を使う。炉は梅の井の真ん前にあった。

おおみそか専用のこの茶室は溜精軒と名付けられている。玄々斎が杓の柄を使った下地窓のある袖壁を作ったという。もともとは炉を切らずに風炉で済ましていたのかも知れない。梅の井に菊花石の手水鉢を据えたのと同時にたたみ廊下を茶室に改造したのではなかろうか。ヒシャクの柄は梅の井の象徴だろう。ならば、この茶室に溜めるべき精とは梅の井の水の精だろう。

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2024年2月22日 (木)

裏千家住宅(1)割れた敷石と3つの玉石

文化財の裏千家住宅を見学した。天明大火後の再建だそうだ。裏千家住宅の風水的な意味について気づいたことがあるのでメモしておく。

増築を重ねた屋敷の狭い中庭に梅の井と呼ばれる井戸があった。梅の花の形の滑車が名の由来との説明だったが逆だろう。梅の井という名前だから滑車が梅鉢型なのだと思う。

井戸と縁側との間に菊花石の手水鉢があった。尾張徳川家から拝領した名石だそうだ。菊花石は菊形の模様の浮き出た石のこと。実際に直径5センチほどの菊模様が点々と浮き出ていた。

菊花石の前の敷石が不思議な配置をしていた。図にあるように短冊形の敷石をふたつに割って、その間に3つの玉石を置いている。最近になって置かれたように見えるが、当初からこのままだったのかもしれない。

この意味は分かりやすい。石を割るとは金気を克す(=減らす)こと。3は木気を表す数字だ。つまり木気が嫌う金気を割ることによって木気を盛んにするという意味だろう。木気は生命誕生を象徴する。石が丸いのは卵をかたどったのだろう。

これは菊花石と梅の井との関係を示している。梅は木気を、菊は水気を象徴する。木気は水気から誕生するから、水気の菊水石を供えれば木気の梅の井は盛んとなるのだ。菊花石は梅の井の木気を盛んにするための供物であろう。

菊花石を据えたのは11代家元玄々斎(1810‐1877)だそうだ。ウイッキによれば、玄々斎は愛知県岡崎市の奥殿藩(幕末に大給藩と改名)藩主である松平家の息子として生まれ9歳のころ10代家元の養子となった。19歳で襲名し、20歳で尾張徳川家に茶道伝授したという。菊花石はそのときの拝領かもしれない。裏千家住宅は玄々斎の代にほぼ現在の形となったという。

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2023年12月 5日 (火)

なぜ天理に天理教があるのか?

まいまい京都の天理ツアーに参加していくつか分かったことがあるのでメモしておく。

天理教の中山みき教祖はこの地を人類発祥の場所と定めて「かんろだい」と名付けた六角柱を据えたという。なぜ中山教祖はこの地を人類発祥の地としたのか。それは周囲を歩けば、ある程度分かってくる。

「かんろだい」の据えられた神殿の前を布留川(ふるがわ)が流れている。ツアーで紹介された地名伝説が興味深い。むかし上流から剣が流れていたという。その剣は川の岩を切り裂きながら流れてきたが、乙女の投げた布に留められて引きあげられた。そのときから布留川と呼ばれるという。この伝説に剣が出てくるのは、すぐ上流に剣神フツミタマを祀る石上神宮があるからだろう。

神宮はフルミタマも祀する。神宮のHPによればフルミタマには生命を再生する力がある。フルとは振動の振(ふる)だろう。魂を震わせることで生命をよみがえらせることができる。そのための鎮魂祭(たまふりのまつり)が神宮には今も伝わる。

こうやって見てくればフル川がどういう場所だったか見えてくるだろう。そこは先祖霊を鎮めるための葬送の地であると同時に新しい生命誕生を願う子安信仰の地でもあった。信仰の中心は石上神宮の鎮座するフル森であり、祭祀の舞台はフル川の河原であった。

中山みき教祖のいう人類の発祥とは、フル川で行われてきた生命の再生をいうのではないか。そうであれば河原を望む地に「かんろ台」を立てたのは、これ以上ないくらいに相応しい選地であるといえる。

ちなみに「かんろ」は甘露だろう。甘き露とは生命をはぐくむ生命の水のことである。五行説で言えば水気が木気を生む相生の関係を示す。木気は生命誕生の季節である春に配当される。天理教のご神紋が春を示す梅花であるのはそのためだろう。また6は水気を象徴する数字である。柱が六角形なのは水を象徴させたからと考えられる。

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2023.12.03、奈良県天理市

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2023年9月 4日 (月)

雷雨の修学院離宮を参観した(4)

窮邃亭の屋根にある切子頭(がしら)の宝珠を以前から見たかった。立方体の角を落とした形で切頂六面体ともいうそうだ。これは一体なにを示しているのだろう。扁額がシンプルな陰陽図だったことから、この切子頭も陰陽図なのだと思う。

切子頭の展開図に十二支を当てはめてみた。写真で見ると菊のご紋章のある面が斜めを向くように置かれている。窮邃亭は東西南北から45度傾いて配置されているので、菊のある面はそれぞれ
子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)を正しく向く。切子頭の宝珠は、ここが陰陽定まった聖域であることを示すための呪術であろう。

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2023.08.24、京都市

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2023年7月18日 (火)

天沢履(てんたくり)の祇園祭

薙刀鉾(なぎなたぼこ)をスケッチして気がついたことがある。赤いのである。たまたまかとも思ったが、描いているうちに、これはわざと赤く見せているのだろうと思い至った。なぜ赤いのか。最初、五行説の火気の赤かと思ったが、それでは成り立たない。なぜなら祇園神である牛頭天皇は金気と言われており、火気を嫌うからだ。ではなぜか。

柱の上方に縄の結び目がある。数えてみると7つだった。ようやく、ああそうか、と気づいた。これは七赤(しちせき)金星の沢(たく)なのだ。だから赤くなければならないのである。薙刀鉾は名前のとおり金気の車で、それは八卦の沢をしめしている。金気の神様・牛頭天皇に奉仕する。ここに天沢履(てんたくり)の易のかたちが成立する。

天沢履は虎の尾を履んでも大丈夫という意味だ。この場合の虎は疫病をさす。天沢履は最上の疫病除けの呪いなのだ。

描き終わって四条通りを見渡すと函谷鉾(かんこぼこ)が目に入った。赤い。そして縄の結び目が7つ。遠目に見ても長刀鉾そっくりではないか。函谷鉾は長刀鉾と表裏なのではないか。これはまた別の謎である。

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2023.07.13/ヴァフアール水彩紙粗目F4、グラフィックペン0.5、固形透明水彩 /祇園祭

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2023年3月 9日 (木)

東金堂の整数比分割について(3)

山水蒙とはなにか。易では山と水とが揃うと蒙という答えが出る。蒙は愚かなというほど意味で決してよい漢字ではない。しかし易経は蒙について次のように説明する。

蒙は亨(とお)る。我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む。初筮(しょぜい)には告ぐ。再三すれば瀆(けが)る。瀆るれば告げず。貞(ただ)しきに利(よ)ろし。

蒙は亨るとある。亨るとは願いがかなうという意味だ。易は64通りの答えが用意されているが、そのうち39通りは亨る。蒙はその39通りのうちのひとつなのでさほど悪い卦ではない。

その次の「我」とは易経を編纂した孔子のこととされる。「我より童蒙に求むるにあらず」とは孔子が愚かなこどもを教えるのではないという意味。「童蒙より我に求む」とはおろかなこどものほうから孔子に問いかけるいう意味。最良の教育は先生が弟子を教えるのではなく、弟子が自発的に先生に尋ねるかたちがよいというイメージを示している。

「初筮には告ぐ。再三すれば瀆る」とは、占いは1回きりのもので何度も尋ねるものではない。それは神を冒涜することになる。そして何度も聞けば神は答えなくなるという。蒙が亨るとは、幼児の純真さをもって祈れば神はそれに応えるという意味にもとれる。その祈りとは聖武帝が母とも慕う元正上皇の病気平癒だというわけである。

とりあえずその解釈で間違いとは言えないが多分にこじつけの感が残る。いまのところ五行説にしたがって水を示すというのは説明がつくが、それと山を組み合わせるというのはピンとこない。病気平癒の願いをかけるのに山水蒙は不適切であろう。

しかしながら、ひとつ気になるのは山水蒙が興福寺の地形と対応することだ。山水蒙とは山の下に泉があって朦朧とした水蒸気が立ちのぼるイメージである。なかなかに幽玄の趣きがある。実はそれは興福寺の立地そのものだ。興福寺は段丘上にあるが、がけ下に猿沢の池がある。池水は春日山から流れ落ちる卒河(そつかわ)をせき止めたものだが、上に山、下に水という形となる。つまり蒙とは興福寺の立地そのもの示す。

泉は神泉なのだろう。その水は薬師が左手にかかげる細首の容器に入った薬水なのだろう。薬師堂が水を示すのならば、その水が育むものは薬師如来であると同時に病床の元正上皇の命なのではなかったか。

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