陰陽五行説

2024年7月11日 (木)

下鴨神社メモ(4)三井社の存在

土気の作用にはふたとおりある。ひとつは「土克水」の相克の関係だ。土気は水気を制御する(克す)という意味で、水防のための働きはこれだ。もうひとつは「土生金」の相生の関係で、土気が金気を生み出すという意味となる。

水防のために土気の女神を祀れば、副作用のように「土生金」の働きも作動するいうわけだ。「土生金」とは商売繁盛の働きだ。西宮社のエビス神も伏見稲荷本社のイナリ神も土気の神だが商売繁盛の御利益で知られるのはそのためだ。三井家は土気の神を祀るのはそのためだろう。

つまり、こういうことになる。三井家はかねてより元タダスの森の土気の女神を崇敬していた。それは土気が金気を産み商売繁盛につながるからだ。その後、三井家は下鴨のタダスの森に社地を求めて土気の女神を祀った。それはタダスの森も土気の女神タマヨリヒメの統べる聖地であったからだ。

下鴨メモとしてはここで終わる。ただし違和感が残る。今後のためにそれもメモしておく。

(三井神社の存在)
河合神社の門前に三井社がある。三井家との関係は不明だが無関係とは思えない。三井社は蓼倉郷の祖社とある。蓼倉とは下鴨の高野川よりの地域でいまも蓼倉町や蓼倉通りの地名が残る。3神を祀るので元は三身社と言ったのが訛って三井社となったという。ご祭神は鴨氏の祖カモタケミツヌの命、その妻イカコヤの姫命、その娘タマヨリ姫の3柱だ。

(三井改名の理由とされる3つの井戸の伝説)
まだ藤原姓だった三井家が赴任したのが滋賀県のどこか明記されていない。わたしは三井寺のあたりではないかと思う。なぜ三井寺なのか。何の任務を帯びて赴任したのかは分からない。三井寺には、天智、天武、持統の三帝の産湯をつかった井戸があるという。その井戸に尊称の「御」を当てて御井(みい)と呼んでいたのが三井となった。木島神社のご祭神も日向三代の三帝であった。

(わたしの未完成な推理)
三井家はもともと鴨氏の一族ではないか。三井という言葉はタダスの森にある泉をいうのだろう。三帝誕生の産湯であるというのは、そこが神産み儀礼が行われる泉であること示す。3は木気の数なので、伝説にはなにかと3が登場する。

三井寺にも三井のある神産みの森があるのだろう。神産みの籠り森はタマヨリ姫の領域だ。タマヨリ姫は誕生を象徴する木気の神であると同時に、洪水を制御する土気の神でもあった。三井家はタマヨリ姫を祀り、家運隆盛を木気の神徳に、商売繁盛を土気の神徳に願ったのではないか。

三井家は下鴨の火の三合の頂点に池の庭園をつくり木島神社の分霊を祀った。池にはミタラシ川の水を引き入れた。つまり三井別邸はタダスの森の写しなのだろう。正三角形と池との組み合わせが三井そのものを象徴している。

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2024.07.06、京都市下鴨神社

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2024年7月10日 (水)

下鴨神社メモ(3)タダスの森の火の三合

タダスの森は神産み儀礼のために巫女が籠る森だということをみてきた。木島神社の元タダスの森も同じであろう。元タダスの森には三柱鳥居の据えられた泉があった。その泉はミタラシ池と呼ばれ夏の土用にミタラシ祭が行われる。これも下鴨社と同じだ。下鴨ではミタラシ川でミタラシ祭を行う。

下鴨社には三柱鳥居はないが、正三角形をした土手がある。これは拙著「京都の風水地理学」で紹介した火の三合である。本を書いた7年まえには気づかなかったが、ちょうど三井別邸が頂点となる。底辺は河合神社前の東西道だろう。河合神社と三井別邸は正確に正三角形の中心軸上にある。

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円満字洋介著「京都の風水地理学」より引用
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グーグルマップを使って作図

この正三角形は南を指すので火の三合(さんごう)といいう。三合とは4つの季節の気の生(生まれる)・旺(さかんとなる)・墓(死ぬ)の時期を示したものだ。

火気である夏は暦の上では4~6月である(旧暦)。しかし4月にいきなり火気の季節に移行するのではない。火気は1月に発生して次第に盛んとなり5月に頂点を迎える。その後は下降し9月には死ぬ。1、5、9を12ヶ月の円環上にプロットすると火の三合となる。

季節を地上に写せば冬至が北、春分は東、夏至が南、秋分が西だ。したがって火の三合を地上に描けば南を頂点とし東西軸を底辺とする正三角形となるのだ。

下鴨社のタダスの森の南側に火の三合を造成したのは、土気を増やすために火気を供えたのだろう。火生土の相生の関係を使った予祝儀礼だ。この場合の土気とは土気の女神であるタマヨリヒメを指し、土気の神を盛んとすることで鴨川流域の治水の安定を願ったのだろう。

ではなぜ三井別邸は、この正三角形の頂点に別邸を設けたのか。長くなったので続きは明日。

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2024年7月 8日 (月)

下鴨神社メモ(2)三井とはなにか

三井家は呉服を商っていたので、蚕の社として知られる木島(このしま)神社を信仰していた(三井広報委員会HP)。境内に三井家のための小祠を設けて顕名霊(あきなれい)社と称したのが1751年。その後明治維新の廃仏毀釈の嵐を避けるため、顕名霊社は京都市内の三井総領家内に避難させた。

その後下鴨の地に社地を得て移築(1909)し、別邸(1914)を設けた。戦後に三井家は財閥解体され、顕名霊社は三井総領家内に引き取る。

昭和33年京都の総領家邸は処分され、顕名霊社は親戚である旧福井藩主松平家の佐佳枝廻社(福井城内)へ移った。その後、佐佳枝廻社周辺開発により立ち退きとなり東京西麻布の三井総領家邸へ移る。平成6年に総領家邸解体にあたって顕名霊社は向島の三囲(みめぐり)神社境内に移り現在にいたる。

江戸時代に三井家は向島の三囲神社を信仰していた。三囲の文字に「三井」が入っているからだという。三囲神社は稲荷社である。明治になってから三井家は木島神社の三つ柱鳥居を模してものを寄進している。

このあたりまでが三井家広報委員会HPに載っている。詳しいので助かる。さて、ここまで読めば「三井」の意味が分かってくる。

結論から言えば木島神社にある三つ柱鳥居が三井なのだろう。
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円満字洋介著「京都の風水地理学」より引用

三井家は当初藤原姓だった。平安時代末期に近江へ赴任するにあたり三井姓に改めた。任地で財宝の隠された三つの井戸を発見したからだという。三井の意味が三つ柱鳥居であるならば、改名の理由は三つの井戸の発見ではなく木島神社への信仰が動機となる。

木島神社のご祭神は5柱ある。アメノミナカヌシ神、オオクニタマノの神、ニニギの命、ホホデミの命、ウガヤフキアエズの命。アメノミナカヌシは世界誕生時に顕現した神のひとつ。オオクニタマは神格不詳ながら国土を示す神だろうとも言われている。残りの3命は天孫降臨後の日向三代だ。系図を書くとこうなる。
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ようやくタマヨリ姫が出てきた。ただしこのタマヨリ姫は鴨氏のタマヨリ姫とは別だ。ウガヤフキアエズの命の妻のタマヨリ姫は母のトヨタマ姫の妹で海蛇神である。下鴨者のタマヨリとは別神なのだが、結局神産みの巫女という立場は同じだ。トヨタマやタマヨリとは神の依り代となる巫女というほどの意味なのだろうと思う。

繰り返すが、出産や誕生は木気の作用である。神産みの森は木気の聖地なのだ。したがって木島神社の元糺の森も下鴨社の糺の森も同じ木気の女神の統べる霊地となる。ならば三井家が元糺の森に代えて下鴨の糺の森に顕名霊社の社地を求めたのもうなづける。

長くなったのでラストは次回に。

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2024年7月 7日 (日)

下鴨神社メモ(1)木気の霊地に土気の女神が降りるとき

久しぶりに下鴨神社を参拝した。気づいたことがあるのでメモしておく。

下鴨神社のご祭神は鴨氏の祖・カモタケツヌミの命とタマヨリヒメの命の二柱である。タマヨリ姫は丹塗り矢によって妊娠し雷神を生んだ。そのワケイカヅチ神は上賀茂神社に祀られた。

平安遷都の際に西の松尾社と東の鴨社は都城を守護する祭祀場となった。西の松尾社は七赤金星の沢、東の鴨社は三碧木星の雷と易によって読み替えられたのだろう。

鴨氏は天皇家と並ぶほどの旧家である。彼らの祭祀する糺の森は、もともとは氏神である雷神を再生させる霊地だったはずだ。再生や誕生は木気の役割だ。都の東は木気の領域なのだから、糺の森は王城守護の再芝としてふさわしい。

ただし鴨社には水防のための土気の神の役割もあった。この場合、土気なのは神を産んだタマヨリ姫のほうだろう。人体は最強の土気であるからだ。タマヨリ姫は賀茂川‐鴨川流域の水防を司る土気の神であろう。

下鴨神社の楼門は真っ赤だった。境内に入ると素木造りのモノトーンなので、そのコントラストがおもしろい。赤い門は土気の神にささげられた供物である。なぜなら土気は火気によって強められるからだ。赤は火気の色である。

神産みの呪具である矢が赤いのも同じ理由だろう。さらに糺の森では競馬が行われる。馬(午)は火を示す動物だ。

極め付きは賀茂川と高野川の合流地点を60度に造っていることだ。糺の森の南側に正三角形の土手があることになる。南向きの正三角形は火の三合である。

火気のものを供えることでタマヨリ姫の人体を強め、神産みの安全を祈願するのだろう。糺の森は神産みのための木気の霊地であり、そこには土気の女神タマヨリ姫が降臨する。糺の森は水防治水を祈願する霊地でもあった。

要約すると、糺すの森には雷神再生を願う木気の信仰と、水防を祈念する土気の信仰のふたつが両立していた。


さて、ここまでが前書きである。

火の三合については拙著「京都の風水地理学」でも述べた。今回、三井別邸と糺の森の関係について気づいたことがある。続きはあした。

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2024.07.06/ワトソン紙、グラフィックペン0.5、透明水彩/京都市、下鴨神社

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2024年5月27日 (月)

大安寺をお参りした(3)

大安寺の広大な境内は住宅地となっている。杉山古墳は住宅地のなかに残っていた。これを見たかった。古墳は大安寺の旧境内の北東角を押さえている。古墳を起点として大安寺を配置したことは明らかだ。この古墳が大安寺の位置を定めたのなら、そこから敷衍して平城京全体の配置を決定したのかもしれない。

墳丘の南西側に瓦窯(がよう)があった。復元された窯がおもしろい。燃焼室の下部から炎が吹きあがるかたちとなっていた。瓦用の土は古墳から採ったようで、瓦窯のある古墳の南西角がかき取られている。この発想はなかった。

土気の作用は土用と言って、各気を活発にさせる触媒としての効果がある。寺院の東北角を押さえる守り神のような古墳の土には霊力が備わっているのかもしれない。その土で作られた瓦が大安寺の観音力を強化すると考えたのだろう。

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2024.05.23、奈良市大安寺

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2024年5月26日 (日)

大安寺をお参りした(2)

大安寺門前に森があり八幡様が祀られていた。社殿におびただしい数の鳩の土人形があった。おそらく安産祈願にひとつ借り受けて、無事出産が済むと倍にしてお返しするような願掛けがあったのだろう。もしそうであれば、大安寺は今でも子安の寺だということになる。

森を抜けたところに広場あった。七重塔の礎石が残っていた。金の九輪をいただいた大塔が2本並んでいたそうだ。7は火の数ではあるが、水気の数の1と6を合算した数でもあるので水気をも表す。したがってこの場合は水気の塔と考えるべきだろう。観音は木気なので水気を喜ぶ。そこで七重塔を供えたのであろう。

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2024.05.23、奈良市大安寺

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2024年5月25日 (土)

大安寺をお参りした

大安寺は薬師寺とセットで藤原京から引っ越してきた寺院だ。官立の仏教大学のようなところで空海もここで学んだとある。南大寺とも呼ばれた広壮華麗な堂宇は失われ今は小堂を残すのみだが、ガン封じの寺として信仰を集めている。

わたしは大安寺は観音信仰の道場だったと思っている。薬師寺が防疫、大安寺が子安をそれぞれ担当したのではないか。子安とは安産とこどもの健康を願う祈りのことだ。防疫と子安は今でも人々の願いの2大テーマだろう。平城京はこの2種の祈りを2寺に託して国家鎮護のかたちを整えたのだ。

境内は緑が深く、木気である観音の道場に相応しい。境内の諸所にかつての堂宇の礎石が転がるのもおもしろい。大安寺は今も奈良時代の観音様を多く祀る。楊柳観音、馬頭観音、不空羂索観音、聖観音など観音像のオンパレードだ。このことも、かつてここが観音道場だったことの傍証にならないか。

ガン封じは光仁帝が大安寺の竹酒で無病息災を願ったのが最初だという。これは人体の再生を観音に願う修法だろう。蛇が脱皮して再生するように、人も生まれ変わることで永遠の生命を得ると古代の人々は考えた。だから出産もまた再生の一部なのだ。

子安信仰の元をたどれば、安産だけでなく人体再生を願う祈りでもあった。大安寺でガン封じの信仰が盛んなのは、奈良時代の観音力が今も生きている証だろう。申し遅れたが、現在のご本尊は奈良時代作の十一面観音である。

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2024.05.23、奈良市大安寺

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2024年5月24日 (金)

薬師寺をお参りした

久しぶりに薬師寺を訪れた。平日の午前中だったので人も少なく、ゆったりと参拝できた。西岡棟梁の手によって復元された金堂(1976)はとても美しい。堂内は大きな白鳳仏にちょうどよい広さと高さで、天井に描かれた花模様が楽し気だ。外観は東塔を模した特異な形式で、折り重なる庇が打ち寄せる波のように見えて、心地よいリズムを感じさせる。とてもよい。

西岡棟梁は長年にわたって日本全国の社寺を実測なさって誰よりも日本建築の造詣が深かった。どういう経緯でこの特異な形式が採用されたのか興味深い。

ちなみに金堂正面の2階は7間、1階は9間。7-9の数列は易の「火水未済(かすいびさい)」を示す。未済とは未完成という意味だ。でも未済と薬師寺との関係が分からない。そう思って自分の過去研究を読むと、これは易ではなく五行説で解けとあった。

薬師寺の棟の謎を解く(2)http://www.tukitanu.net/2022/01/post-92f932.html

なるほど。7は火気、9は水気なので合わせると水克火を示す。薬師は金気の仏様だから火を嫌う。そこで水をもって火を滅ぼし、金気の薬師を喜ばせるわけだ。忘れていたがそのとおりだと思う。西岡棟梁もこのことをご存知だったろうか。
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2024.05.23、薬師寺金堂

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2024年3月 5日 (火)

花は春を示さない

五行説がらみで気がついたことがあるのでメモしていく。

桜などの開花が春を示すように思われる向きがあるが、開花は春を示さない。五行説では春は発芽の季節であり、開花は夏を示す。ちなみに秋は結実で、冬は種子となる。

そもそも春とは旧暦の1月から3月(新暦2月から4月)だ。この期間に咲く花として桜のほかにツバキや梅がある。花見は開花を寿ぐ重要な祭祀だが、古代では梅を使っただろう。天神が梅と結びついているのは、梅が古代の天神(水神)信仰と結びついていたなごりだと思う。沖縄ではツバキが聖なる花とされている。ツバキ(椿)は木偏に春と書くのでいかにも花見で使う花としてふさわしかろう。東アジアの広い範囲でツバキの開花を祝う祭祀が残っているのかもしれない。

なぜ春の開花を寿ぐのか。それは「火の三合」と関係していると思う。五行は4つの季節に割り当てられているのは御存じだろう。春=木気、夏=火気、秋=金気、冬=水気となる。各季節の最終18日間は土用という5つ目の季節として配置されている。これで五行すべての気がカレンダー上を埋めることにある。

土用は土気の作用という意味だ。土用は他の4つの気を育てて活性化させる力があるとされる。さて、春は木気なので発芽の季節なので、基本的には開花とは関係がない。ただし「三合」となれば話は別である。

夏は4月から6月までの3ヶ月(新暦では4月から7月)だ。4月は初夏、5月は盛夏、6月は晩夏となり火気のピークは5月(新暦6月)にある。これに合わせるようにして植物は開花する。では火気は4月に生まれるのかというと、そうではない。火気が生まれるのはピークである5月の4か月前の1月とされる。1年を通して考えたとき、火気は1月に生まれて次第に成長し、5月に最盛期を迎える。その後次第に衰えていき、9月には死滅する。火気はこうして1年周期で死と再生を繰り返すと五行説は考える。

カレンダーを円環で表現したとき、1月と5月と9月を結べば図のような正三角形となる。これを火気の三合と呼ぶ。すなわち1月(新暦2月)は火気の誕生月であり、春にもかかわらず開花する花は、火気の赤ちゃんとして尊ばれるのだ。これがもともとの花見の祭祀的な意味だったろうと思う。

ちなみに花は火気を示す「赤」が基本となる。梅やツバキは、赤い花のなかに黄色がある。黄色は土用を示す色なので火気を土用によって育てる意味となる。火気は5つの気のうちもっとも陽気が強い。火気を育てることは陽気を伸長させることだ。世界は陰陽それぞれの気が大きくなることで元気になる。開花の祭祀は陽気の満ちた明るく活性化した世界を願う予祝儀礼だと思う。
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2024年2月29日 (木)

裏千家住宅(7)兜門=甲門か

名前は兜といかめしいが、なかなか愛らしい門である。名前の由来は敷地の内側から見ると兜に見えるからだという。ただし、なぜこうしたのか分からないという。玄々斎が大徳寺龍光院の兜門を模して造った。

兜は甲とも書くので、わたしは甲(きのえ)門なのだと思う。甲とは木の兄(え)のことで活性化した木気をいう。裏千家が利休を祀ることで茶道の再生を祈る家であることを示すのだろうと思う。

もしくは唐破風の変種なのかもしれない。もしそうであれば破風を道路側に向けねばならない。なぜなら唐破風は神仏の通り道をだからだ。そうしていないのは茶道再生を祈るのは千家の裏の営為であることを示すのかもしれない。

(追記)
実質的に千家を起こしたのは3代宗旦だった。かれが千家を3家に分割したのも、3が木気の数字だからだったような気がする。

はしなくも裏千家住宅(今日庵)を訪れる機会に恵まれた。連載はこれで終わるが、数寄屋建築は思いのほかおもしろい。今後も勉強を続けていきたい。
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