陰陽五行説

2016年12月 5日 (月)

トランプカードはなぜ1から13までなのか

 カードの図柄の4種類は四季なのではないか、と思ったのが考えるきっかけだった。春と夏が赤で秋と冬が黒なのだろう。五行説で言えば赤は火気の夏、黒は水気の冬なのでうまく当てはまる。

 ♥ハート  春
 ♦ダイヤ  夏
 ♣クラブ  秋
 ♠スペード 冬
 
 こんな感じか。ではなぜ各図柄は13枚づつなのか。もしトランプが四季を表しているのだとすれば、十二宮や二十八宿などの星座の数に対応しているなら説明しやすいのだが13というのは半端だ。つまり月とは関係が無い。それではひょっとすると週なのではないかと思って計算してみた。するとぴったり当てはまった。

 13 × 4 = 52

 おもしろいのは52週を日に換算すると364になることだ。

 7 × 52 = 364

 つまりジョーカーの1枚を足すとちょうど1年になる。

 7 × 52 ∔ 1= 365

 通常トランプにはジョーカーが2枚入っていて1枚は予備なのだろうと思っていたが、それはうるう年用の1枚なのかも知れない。

 トランプが1年を表すカレンダーだとして、さてそれをどうやって使ったものやら。暦を使った占いのような本当の使い方があるのだろう。いったいそれはどんなゲームなのだろうか。

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2016年10月 9日 (日)

【伊予旅行】14.臥龍山荘(4)

 不老庵のロケーションは下図のようになっている。神棚の後ろは青石の露呈した崖で、その上に大洲神社がある。神社は大洲城の完成した1331年にその守りとして開かれたという。ご祭神は大国主の命と事代主の命の二柱だ。これは大黒天と恵比寿天に習合される。ようするに不老庵の床の間に飾られる神様は大黒天と恵比寿天の二神なのであろう。

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 ちなみに大黒と恵比寿の陰陽の組み合わせはこの時代に成立したのかもしれない。鎌倉末期から室町初期にかけて、つまり後醍醐天皇の時代の修験道が聖地を再生してまわったのではないか。

 陰陽のセットになっているのは神様だけではない。大洲神社のある青い磐座である神楽山は、肱川を挟んだ対岸の山を冨士山(トミスヤマ)とセットになっている。ここには江戸時代に如法寺が開かれている。如法寺の開かれる前の冨士山も行場の点在する仏の領域であったろう。神社は陽気、寺院は陰気のセットだからだ。

 おもしろいのは方角と社寺の陰陽が入れ替わっていることだ。日の昇る東側が陽気、火の沈む西側は陰気だ。大洲では肱川をはさんで陰気の西側に陽気の神社、陽気の東側に陰気の寺院が配置されている。これは陰陽の交合を意識した配置なのだろう。こうした意図的な逆配置も中世的な感じがする。

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 東の空に満月が昇る。月は陰気そのものであり満月は陰気の絶頂である。陽気である東側は月光に包まれる。月光は陰気の作用であろう。それがまず肱川を照らす。川面がキラキラ光る。その反射光が不老庵の天井を白々と照らし出す。この場合の白は水を表わす。水気は木気を生む。従って不老庵に肱川の白光が届くとき、木気は発動するわけだ。不老とは再生を意味し、不老庵はそれを視的に表現するための呪具なのだ。それはここが再生を願うための祈りの空間であることを示している。

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2016年9月11日 (日)

【伊予旅行】13.臥龍山荘(3)

 なぜ懸け造りなのか
 懸け造りはたいがい磐座に懸けられる。清水寺が筆頭だが、千葉県の笠森観音、鳥取県三仏寺の投げ入れ堂などいずれも岩に懸けられている。これは磐座に降りた天神に舞を奉納するための舞台だ。ここ大洲神社のある丘が神楽山というのも、ここが奉納舞の聖地であったことを示すのだろう。不老庵が懸け造りになっているのは、それを模倣したものだが、元からそういった舞台があったと考えた方が自然だろう。

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 生きた柱とはなにか
 違い棚の無い床の間は神棚だろう。床の間の中心に床柱を置くのは床柱を神に見立てた神棚の形式だと思うが、これは床板そのもを神棚になぞらえている。従ってここを使うときには神明を書いた掛け軸をかけるか神格を表す唐物を置くはずだ。左右にはもちろん供花があるがこの場合は右側だけでよい。なぜなら左側の壁の向こうにすでに生きた槙の木の柱があるからだ。槙は高野山系が使うコウヤマキだろう。これは生きているのではなく活けてあるのだ。

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生きた柱

 再生のための茶室
 茶室は床の間の北側に置かれる。北は水気の領域だ。茶は知られているように土気だ。五味のうち苦味が土気に配当されるからだ。茶に用いる水は背後の岩にうがたれた穴から汲むようだ。岩は磐座であり神気に満ちる。しかも岩の青は龍を示し、臥龍の名のとおり龍脈が露呈していることを示す。

 岩は金気であり水気を生むが、そこで生まれた水は龍脈と神気によって真の水となる。真の水とは木気を生み出す力のある水気のことだ。この茶室が「怡性」と名付けられたのは「怡性养神」つまり怡(悦び)の性(本性)により神(神気もしくは精神)を养(養)うという意味だろう。この悦びとは本来は舞であったはずだが、ここでは茶がそれに代わる。土用で強められた水気が木気を生み出す。神気に満ちた木気によって精神は再生される。 

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茶室裏の穴

 生きた柱のもうひとつの意味
 捨て柱の方角は床の間から見て南西に当たる。これは二黒土星の方角で大黒天の方角だ。大黒天は土気でもある。従って、この方角に生きた木気を置けば土用によって木気が完成する形となる。それは大黒天そのものの完成でもあったろう。

 生きた柱、青い岩、龍、こうしたものは全て強力な木気を示す。おそらく大黒天は観音と習合していたはずだが、明治期に修験道が廃された今となってはよく分からない。しかし観音信仰の篤い四国ならではの何かがあったのだろうと想像できる。トミス山に冨士の字を当てたのは不死の山を連想した行者たちだろう。そこへ不老庵を向けることで不老不死が完成する。つまり茶の力によって増強された最強の木気が再生を行うという筋書きだっただろう。

 長くなったので続きは次回。月光について考える。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月10日 (土)

【伊予旅行】12.臥龍山荘(2)

 清水の舞台のような懸け作りの草庵があった。眼下に肱川が一望できる。名を不老庵という。ここは藩政時代からの庭園だったそうだ。吉野の桜、龍田の楓などはそのころのものだというので、庭園の骨格はそのままなのだろう。崖の中腹にしがみつくように作られた細長い庭園で茶室が点在する。ここは茶庭なのである。

 明治以降荒廃していたのを木蝋で財を成した神戸の河内家が復興した。建物はすべて河内の再興したもので、あちこちに呪いめいた趣向がこらされており、数寄屋造りというよりもゴシック趣味である。なかでもこの不老庵が極め付きだ。

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 天井が網代貼りのヴォールトになっている。こんなの初めて見た。船底天井との説明があるが、わたしは南方の高床式民家を思い出した。河内家は南方とも交易していたのではないか。驚くことに対岸から仲秋の名月が登るとき川面に反射した月光がヴォールト天井に踊るのだそうだ。まるで銀閣ではないか。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

 この茶室を特徴づけているのはそれだけではない。ひとつは違い棚を設けない2間幅の大きな床の間。こういうのも見たことがなかった。この床の間の右側に小さなお茶室がある。

 もうひとつは床の間左の裏にある生きた捨て柱だ。捨て柱とは軒を支える独立柱のことで、ここには3本ある。そのうち1本だけが生えたままの槙の木を上端を切って軒桁を載せているのだ。生きた柱は初めてみた。今も青々と葉を茂らせているのを見て背筋が寒くなった。これって横溝正史の世界ではないのか。

 いったい謎がいくつあるのか。
 まず、なぜ懸け作りなのか。そしてなぜ床の間に違い棚がないのか。そして生きた柱とは何なのか。謎解きは次回。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年9月 9日 (金)

【伊予旅行】11.臥龍山荘(1)

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 石垣がすばらしい。こまかくシワの入った岩を積み上げている。これを磨くと美しい縞模様になるが、ここは租面仕上げのままだ。出汁巻き玉子のようで柔らかそうだ。細長い石材もあるので粘板岩系なのだろう。それを積んだだけでもおもしろいのに、そこから木が生えている。木を取り込んだ石垣を初めてみた。これは仕方なくこうしているのではなく、おもしろがってわざとやっている。石垣にぽっかり穴を開け、木に負担をかけないようにする高等技術だ。なぜそこまでするのか。ここは木気の庭園だからだろう。

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 臥龍(がりゅう)山荘は肱(ひじ)川沿いの絶壁にある。中国の墨絵にあるような桃源郷の風景そのままだ。肱川が大きくS字カーブを切っており、その下流に大洲城、上流に臥龍山荘がある。山荘は大洲城の砦でもあったのだろう。

 山荘前には広い河原が広がっている。S字の上流側のカーブだが、これが「大洲」なのだと思う。五色の石で覆われた美しい浜だ。この対岸で毎年秋に「芋炊き」という行事がある。夕涼みをしながら里芋の鍋をつつくらしい。東北の「芋煮会」とよく似ている。里芋は金気の象徴だろうから、これは金気を剋し木気を助け子安を祈る呪術に見える。だから木気の強い場所で行う必要があった。

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 河原には青石が露出している。よく見ると臥龍山荘の岸壁そのものが青石であり、崖下にある大岩の島も同じだ。青は龍に色であり木気を示す色でもある。だからここを木気の霊地とし臥龍、つまり龍が伏せる場所と名付けたのだろう。しかも大洲城の東に当たり、方角としても青龍にふさわしい。

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2016.08.25、愛媛県大洲市

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2016年8月17日 (水)

朝堂院の研究(8)

 平城宮と平安宮とを比べると長堂が4棟並んでいることが共通する。さらに平城宮では4棟の北側(図では下側)の門の両脇に2階建ての観覧席があった。同様の建物は出雲大社の観祭楼が有名で、それは境内で行われる祭祀を観る楼閣だ。つまり平城宮の4つの長堂で囲まれた場所は祭祀場であり、大極殿は神社の本殿に当たる。

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 平安京の豊楽院では五節会が行われたが、それは奈良時代を通して整備されたという。平城宮の大極殿中央区では元旦・白馬・踏歌・端午・豊明の五節会が開かれたわけだ。とくに豊の明かりとは新嘗会・大嘗会後の饗宴のことで、酒で顔が赤くなるから明かりと称したという。豊楽院の豊はこれに由来する。だから平城宮中央区の朝堂院は五穀豊穣を祈るためのものだったと考えてよい。

 平城宮ではこの祭祀場を宮廷の中心に置き、政治のための朝堂院を脇に配置した。これは統治機構のありかたを示す。祭祀と政治はセットであり、どちらかと言えば祭祀が統治を主導することを表している。もう少し端的に言えば、祭祀を司る大巫が統治を主導し、それを男王が補佐する形式だ。皇統譜を見るとそれに見合う時代がいくつか見受けられる。

 推古     ー 聖徳太子
 皇極(=斉明)ー 中大兄
 持統     ー 草壁・文武
 元明・元正   ー 聖武

 こうしてみると平城京遷都時9歳だった首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を聖徳太子になぞらえていることが分かる。法隆寺の再建は670年の火災後で確かな年代は不明だが、塔内の塑像は711年作とされ奈良時代に入っている。再建は被災直後であったとしても、遷都時に法隆寺は整備されたわけだ。わたしは遷都とは都城を築くことだけではなく、国内の神仏再編を目的としていると考えている。だから、首皇子を聖徳太子になぞらえたのは、単に皇太子を神格化したいがためではなく、律令システムの完成に当たって再び聖徳太子の持ち込んだ仏教の力を借りようとしたのだと考える。

 女帝や皇后が大巫であるとすれば、大巫ー皇子、男王ー皇后(大巫)の2セットを繰り返すことで統治システムは永遠に更新されていくはずだった。ここで注意しておきたいのは、大巫が立つのは戦時であるということだ。風水的に言えば、大巫と皇子の関係は易でいう「地山謙」に当たる。これは軍事行動が成功するという易卦だ。聖徳太子が皇太子のままいつまでも即位しないのは「地山謙」の易卦をくずしたくなかったからだろう。

 律令システムによる統治、仏教による国土開発、そして大巫による軍事力の呪的増強、こうしたものを平城宮朝堂院の配置はよく示している。豊楽院を中央に置くプランがその後継承されなかったのは、大巫を中心とした統治システムがうまく機能しなくなったことが原因であろう。しかし、私はその機能は後宮に残ったと考えている。たとえば清少納言が描く後宮の華やかさは奈良時代の五節会のままだ。そして歌にしても舞にしても決して呪的要素が失われたとは思えない。それはまた別の機会に検討したい。

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2016年8月16日 (火)

朝堂院の研究(7)

 なぜ奈良の都に朝堂院がふたつあるのかについては、さまざまに言われてきたが今泉説が出てほぼ決着がついた。つまり中央区は後の平安宮の豊楽殿のような儀典のための施設で、東区が本来の朝堂院だというものだ。建物配置を見ると平城宮・平安宮とも儀典用朝堂院は長堂が4つ並ぶ形式でありそっくりだ。だからわたしも今泉説で良いと思う。

※今泉隆雄「平城京大極殿朝堂再論」(同左「古代宮都の研究」吉川弘文館1993年)

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 問題なのは、なぜ平城宮だけ儀式用の朝堂院を正面に据えたのかということだ。これについては今泉説も歯切れが悪く、国家的儀式を通して国家の権威を高めるためだとする。まあそれはそうだけれど、それでは数ある都城のなかで平城宮だけが儀式用朝堂院を正面としていることの説明がつかない。

 今回は風水を使っての分析をするつもりだったが、今のところ単純な事実しか分からなかった。それは平城宮も平安宮も儀式用朝堂院が西に、政治中枢である朝堂院が東にあるということだ。つまり儀式は陰気側、政治は陽気側なのだ。これは儀式用朝堂院は巫女の領域であることを示しているのではないか。国家的祭祀の多くは巫女が主導するものだったのではないか。

 さて、奈良時代は女帝の時代と言われるが、それはもう少し古く飛鳥時代から始まっている。おもしろいのは、男帝と女帝とがほぼ交互に立っていることだ。

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 よく言われるように女帝は単なる中継ぎだったと私は思わない。時代は下るが琉球王朝の聞得大君(きこえのおおきみ)のような大巫の系譜が古代大和にもあったと考えている。つまり飛鳥時代の統治は大巫と男王のセットで行われていたが、記録上は大巫が女帝と記されたのではないか。

 もしそうだとすれば、平城宮のプランニングも当時の統治状況を反映したものであって、以後このプランが採用されないのは、統治状況が変化したためだと考えれば説明がつく。称徳天皇以降、女帝が長く途切れるのは偶然でなく、称徳前と後とで統治システムが大きく変化したためだろう。そのために、平城宮で実現した儀式用朝堂院を正面に配置するプランは以後放棄されたのだ。

 では、儀式用朝堂院を正面に配置するプランにはどんな意味があるのか。それは風水的にどのように読み取れるのか。そして、それは当時の律令国家のあり方とどのように関係するのか。それは次回に検討する。

 

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2016年8月13日 (土)

朝堂院の研究(6)

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 朝堂院を易で読む
 朝堂院を易で読むとどうなるか。易は上に3爻(こう)下に3爻の計6爻で構成される。爻とは陽気か陰気のどちらかで、それが3爻揃うことで八卦のイメージの内のどれかひとつを示す。それが上下ふたつ重なって占いの答え(易卦)となる。

 まず朝堂院をどこで上下に分けるかだが、これは先に見たように東西の中門を結ぶ横軸で良いだろう。逆に言えばこの中門は易の上下の卦(か=イメージ)を示すためにここに配置されているとみるべきだ。この区切りの下エリアには大極殿と4つの朝堂、上エリアには朝集堂(朝集院)と8つの朝堂がある。図のようにちょうど6段となる。ここへ陰陽を当てはめれば朝堂院は易で読める。

 どう当てはめればよいか。これはウブンガイが大興城(後の長安)で当てはめたように王と太夫は陽気、そのほかは陰気でよかろう。そうすると左図のように上は陰気ばかりでイメージは「地」、下は陽気ばかりでイメージは「天」、すなわち易の答えは「地天泰」となる。「地天泰」は天下泰平の良い易卦だ。

 これでも良いのだが、別の考え方もできる。それは中国の三省のひとつである中務省も陽気ではないかということだ。中務省は八省の上級組織であり、中務卿は貴族や皇族から任命された。これは陽気扱いとするほうがよい。そうすると上イメージは雷となり易の答えは「雷天大壮」となる。大壮の解釈はいくつかあるが、もっともポピュラーなのは大いに壮ん(さかん=盛ん)というもので、ここはそれでよいだろう。つまり新都の前途を寿いでいるのだ。

 この読みは12堂が8堂に減っても変わらない。うまくできている。こう考えてくると三省のひとつであった中書省を一段低い中務省に落としたのも、この易卦を完成させるためにわざとやったようにも見える。

 ちなみに工部を六部からはずし仏教勢力の独占としたのは国土開発のためではないかと思う。それは聖武朝になって東大寺ー国分寺の全国展開となる。各地の仏教勢力は地方の原始宗教によるタブーを破り、神々の領域とされた谷や野を最新鋭の土木技術によって切り拓いた。僧侶が龍を封じる伝説はほとんどこのときの開発を背景としているように見える。そして最後の抵抗を封じるために宇佐八幡神を東大寺に帰依させ神仏合体をもくろんだわけだ。まあこれは別の話になるので、また他の機会に考えてみたい。

 さて、朝堂院研究は最後の謎に取り組みたい。それはなぜ平城京には朝堂院がふたつもあるのか、ということだ。朝堂院がふたつあるのは奈良だけで、そのときの特殊な事情があったのは確かだ。その理由についてはいろいろ言われているが、まだ通説となるものはない。これを風水で考えるとまた別の見方ができるのではないか。

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2016年8月12日 (金)

朝堂院の研究(5)

 三才について
 三才というのはおもしろくて、2と3の違いについて考えさせてくれえる。太極が陰陽のふたつに分かれて世界が誕生したというのが東洋の創世記だ。その後、天(陽気)と地(陰気)のあいだに人が生まれることで世界は活動を始める。人は陽気でもなく陰気でもなく、両方の気を持った第3の存在だというのが三才論だ。太極が1、陰陽が2、三才が3というわけだ。世界は1>2>3と成長する。

 これは認識論と考えると分かりやすい。二項対立だけでは認識は成立せず、そこに認識主体としての人間が加わって初めて世界は認識される。攻殻機動隊のゴーストみたいなものだ。もしくはキリスト教の父と子と精霊というのが近いか。正三角形が神聖視されるのは、この認識論が由来しているのだろう。

 三朝制は家形埴輪にも見られるとする研究がある(どこで読んだのか思い出せない。今探しているところ)。たしかに同じような三段構成になっている。古代神道の場合も3はよく使われる数字で、たとえば宗像大社は辺津宮、中津宮、沖津宮の三段となっている。また、伏見稲荷は上座、中座、下座の尾根上の3つピークをご神体としている。

 古代神道における3の意味をもっともよく表しているのは上鴨、下鴨神社だ。上鴨には賀茂別雷神、下鴨には雷神を生んだ巫女である玉依姫と彼女の父であり賀茂氏の租・賀茂建角命が祀られている。神は天、母は地、賀茂氏は人というわけだ。わたしは奈良時代以降の外戚が祭りごとを行う権利があるとする考えはここから来ていると思う。

 話を戻そう。わたしは風水思想は古墳時代には日本に入っていたと考えているので、神社の祖型や古墳に三朝制が表れていても不思議ではないと思う。1は点、2は線、3は面をつくる。天地に人が加わり面が発生して始めて世界が生まれるのだろう。
 
 三才論はアリストテレスの三段論法と似ているかもしれない。とりあえず易は三才論の延長上にある。易で使う8つのイメージを天人地の3つの枠に当てはめる。これを2回行って6つのイメージの並び方で占うのが易だ。2回行うのは陰陽の2であろう。朝堂院が三才の応用でできているとすれば、易で読むことができるはずだ。

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2016年4月 8日 (金)

朝堂院の研究(4)

 三朝制については吉田歓の「古代の都はどうつくられたか」(吉川弘文堂2011年)が分かりやすい。彼によれば周礼などに記載された古代都城設計法は「燕朝、治朝、外朝」もしくは「内朝、中朝、外朝」の三朝に分類できるという。 

 燕朝は皇帝が政治を内覧する場所、治朝は皇帝が臣下を謁見する場所、外朝とは皇帝を臣民を朝見する場所だという。

 内朝は皇帝の居住する場所、中朝は燕朝、外朝は治朝だという。

 三朝制にはこの二通りの解釈があり複雑で難解だとするが私はもっと平易な解釈で良いのではないかと思う。ようするに三朝とは天地人の三才の応用だろう。天は神々の天空の領域、地は地母神の領域、その間に人間の領域が広がるというのが古代中国の天地創造の神話の世界観だ。都城はその写しとなっているのだろう。風水的検討を加えれば、複雑と思われている事柄も案外簡単に解ける。
 
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 唐の大明宮の含元殿と平安京の応天門は同じものだ。左右の楼閣がともに鳥の名前となっているが、天の領域は火の世界だから鳥名はふさわしい。難波京前期の朝堂院が14堂だったとすれば、火の数字である7の2倍と言う意味なのかも知れない。それはともかく、含元殿や応天門は天を受け止める呪術装置であったろう。含元殿と応天門との類似は、日本の皇宮が唐の大明宮を下敷きにしている証拠だ。

 こうやって比較してみれば朝堂院と大極殿はセットになっていて天地人の「人」を担当していることがよく分かる。平安京は平城京の写しだから、平城京建設の時点で大唐帝国の大明宮に表れている三才を応用することは既定の事実であったわけだ。これはやはり遣唐使の持ち帰った知識と考えるべきだろう。

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