たぬきの異界案内

2017年5月20日 (土)

ユズルハ神社について

 ユズルハ神社について考えたことをメモしておく。

 社殿前のコマ札によれば、桓武朝初期の延暦年間にユズルハの森を神領と定めた。社殿造営はさらに遅れて849年のことだという。なぜ神領が先で社殿が後なのか。神領としたときに熊野修験道系の寺院が建ったのだと私は思う。それは明治期の神仏分離で失われ、寺院の歴史は社伝から除かれた。だから社伝が分かりにくくなっているのだ。

 ユズルハ嶽とかユズルハ峯とは六甲山を指すと社伝にある。六甲山へは飛鳥時代から修験者が入り鉱物資源の採掘に当たったと考えられる。その拠点のひとつが六甲山系の主峰のひとつ摩耶(まや)山だったのだろう。当時は摩耶に修験道系の大寺院があり、そのふもとの住吉は鉱物資源の積出港として機能していたようにわたしには見える。

 桓武朝になって動きがあるのは、そのころに山岳修験道の大再編があったとみるべきだ。ユズルハ神社の創建はその一端を示している。再編を指揮したのは民部卿の和気清麻呂だったと私は思う。なぜなら彼は鉄の一大産地である吉備の出身だからだ。

 道鏡事件で彼が流罪になったのも吉備の鉄資源を東大寺が独占したかったからではないか。多くの鉱山起源は東大寺大仏造営と結びついている。それは地方豪族の手にあった鉱物権益を東大寺が吸収したことを示す。桓武朝はそれを再編して権益を国へ直結させようと考えたのだろう。

 もともと鉱山権益を握る豪族は新来の百済難民たちだった。百済系の桓武帝はかれらを再編して対東大寺包囲網を作り上げていった。朝廷と東大寺との確執は非常に激しいもので、それが種継暗殺につながったようにも見える。暗殺事件で最初に疑われたのが旧来の土着豪族大伴氏だったのは、彼らが反百済系だったからだろう。

 最澄と空海の対立もこの延長線上で考えれば分かりやすい。百済系の山民の大本山として延暦寺が開かれた。それは鉱物資源の新しい国家戦略の始まりだった。一方、東大寺は新進の空海を抱き込むことで巻き返しを図る。この対立はj桓武朝では解けず、嵯峨朝になって空海が東大寺に戒壇院を設けることで手打ちとなった。このとき仏教的権威と鉱物資源の権益の分離もしくは折半が行われたとみるべきだろう。

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2017.05.19

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2017年5月19日 (金)

矢に乗ったカー助

 神戸の弓弦羽(ゆずるは)神社へ行ってきた。ご神紋が矢に乗ったカー助でかわいい。ここは神功皇后が熊野権現をお祀りしたところだそうだ。そのおかげで忍熊王を討つことができた。だから熊野神の御使いであるカー助が矢に乗っているわけだ。お供えの色鮮やかなバナナがカー助用に見える。

 住吉は海民スミ族の領域なので、スミ族の姫である神宮皇后(オキナガタラシ姫)関係の伝説が多い。住吉はスミヨシと読むが、本来はスミエ(スミ江)だったようだ。スミ族の砂浜という意味だ。谷川健一によればスミは沖縄の方言で潜ることをいうそうだ。そう考えるとオキナガ(息長)という名前もふさわしい。

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2017.05.19、神戸市東灘区住吉

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2015年8月 2日 (日)

祇園祭りの山と鉾の配置

立ち飲みの「たつみ」でお昼をしている。目の前に今年の祇園祭りのうちわがあった。何気なく見ていたところ、山と鉾の配置に規則性があることに気づいた。これって既知のことなのかな。

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規則性とは図のとおり。白丸が鉾、黒丸が山。町の中央に白丸が集まっている。これってどう読むのが正しいかわからないが、旧京都の中心を示しているのではなかろうか。

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2014年10月20日 (月)

中国旅行記(3)市内観光・西湖めぐり

 シンポジウム3日目は見学会だった。現代建築コースと市内観光のふたつが用意されていた。わたしは迷わず市内観光を選んだ。ともかく古いものを見たかったからだ。現代建築組はバス3台で意気揚々と出発していった。我々のコースはバス1台に11名だった。少人数だったので他国の人と交流ができた。まさか外国の人と話ができるとは思っていなかったのでうれしかった。

 午前中は中国随一の観光地にして世界遺産2011年登録の西湖周辺をまわった。これがとてもおもしろかったのでメモしておく。

 湖には小型の屋形船から竜をかたどった大型遊覧船までさまざまな船が行きかっていた。私たちは北岸から入ったが、そのあたりには20世紀初頭と思われる洋館が立ち並んでいた。そこから南岸まで天橋立そっくりの湖上の遊歩道がつないでいる。ああこれは天橋立と同じような信仰があったのだろうと思ってわくわくした。

 西湖の地形は「一山三堤三島五湖」と呼ばれるらしい。一山は自然の島である孤山、三堤は今述べた湖上道路、三島も人工島の3つ、五湖は西湖も含めて5つの湖があるという意味らしい。三堤は人工堤だというが、おそらく元々は自然の砂州が道路状に伸びていたのを整備したものだろう。

 我々は西湖北岸の孤山付近の船着場から40人乗りほどの遊覧船で南岸をめざした。この日は霧が出ており風景がかすんでとても不思議な感じがした。湖上は少し寒かった。デッキのベンチにあぐらをかいて呆然と風景を眺めているとき筑波大の留学生ハン君が話しかけてくれた。これをきかっけに参加者と話すことができるようになった。ハン君ありがとう。

 ここが有名なのは中国4大説話と言われる白蛇伝の舞台だからだ。私は全く知らなかったがハン君が白いヘビの物語があると教えてくれた。帰って調べてみるとこんな話だった。

 白蛇とその伴の青蛇が人間になって西湖へやってきた。白蛇は薬を商う若い男と恋に落ち結婚する。しかしとある坊さんが白蛇の正体に気づき男に告げる。男は半信半疑ながら飲めば正体を現すという酒を白蛇に飲ませたところ、坊さんのいう通り白蛇に変化したので驚いて死んでしまう。白蛇は崑崙山へ行き特別な薬草を奪ってきて男を蘇生させた。その後ふたりは幸せに暮らしていたが、白蛇を退治すべしと考えた坊さんが男を寺に連れ去ってしまう。白蛇はみもごっていたが男を連れ戻すため寺を水攻めにした。しかし戦に負け箱に詰められて雷峰塔の下に閉じ込められてしまった。白蛇は封じられる直前に男と再会することができ、そこで男児を出産した。西湖の水が干上がり雷峰塔が倒れるまでは封じ込まれているという。

 船は三島を次々と通過した。最後の小瀛洲(ショウエイシュウ)が最も不思議なかたちをしていた。地図で見ると湖上道路を田の字プランにまとめた人工島らしい。その南側に有名な「三潭印月(サンタンインゲツ)」がある。3つの灯籠が湖上に建っており、ハン君の話によればここで月を見るらしい。私はそこが龍穴なのだと思った。雷峰塔の「雷」は龍のことだし、この湖の底に竜宮があって白蛇はそこに棲む龍女なのだろう。湖上から見る塔は霧にかすんでとてもきれいだった。

 我々は南岸の雷峰塔のほとりで上陸した。雷峰塔は王子誕生を祝って977年に建てられたという。この塔は1924年に倒壊し現在のものは2002年の再建だ。世界遺産登録へ向けての環境整備の一環であろう。現在の塔は元の倍の高さがあるように見える。エレベータで昇る展望台になっており宗教色は無かった。八角五重の塔だが、階上でiPhoneのコンパスアプリを起動してみると方位がずれていた。方位なんて何とも思っていないのだろう。

 この塔が八角形なのは。8が誕生を意味する木気の数字だからだろう。木気は3、8、11が象徴するが、龍穴の灯籠が3なのも木気を示すと思われる。3は生数と言って生まれたての木気だ。まだ生まれたてなので完全ではない。3は土気の5が加えられて完全な木気8となる。では5はどこにあるのか。3つの灯籠が指し示す方角は南南西だ。これは最大の土気の方角なのだ。

 これも帰ってから分かったことだが、月を見るのは仲秋8月のことらしい。仲秋の名月は最強の金気だ。深夜3つの灯籠にともされた火は湖水に映って6つに見えるだろう。6は水気の完全数である。このとき金と土と水とが揃う。これは五行説の「金生水」を応用した子安と再生の呪術だと思う。龍女の8に対して最大の水気をお供えすることで誕生と再生への祈りをささげる聖地を用意するのだ。考えてみれば西湖を構成する「一山三堤三島五湖」も、水気の生数1と木気の生数3と土気5の組み合わせなのだ。雷峰塔は5重であることも土気を象徴している。

 わたしはここで室生寺の塔を思い出す(参照)。この塔にも龍が封じられていた。その後背地には賽の河原が広がる。誕生せずに亡くなった命を水子と呼ぶのは誕生を用意する水の状態のままだという意味ではないか。三途の河原で子が積む石は本当は土気を示すレンガで、それが5つ積みあがったとき生数の1から6へ昇格し木気を生み出す力が発動するのだろう。

 ちなみに白蛇の白は一白水星の水気を象徴し、青蛇の青は三碧木星の木気を示す。白青の組み合わせで水生木の関係を示しているようだ。三碧木星は洛書の雷に当たることも辻褄が合う。今回の読み解きは結構分かりやすかった。よい旅ができたことと、現地で親しくしてくれた友人たちに感謝する。


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西湖から望む雷峰塔

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龍穴と思われる小瀛洲(ショウエイシュウ)

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雷峰塔

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元の雷峰塔の遺跡

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雷峰塔から眺めた西湖、奥に湖上道路、左に小瀛洲(ショウエイシュウ)の半分が写っている。

 

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2014年9月29日 (月)

室生寺へ行った

 初めて室生寺へ行った。モミジのシーズンには観光バスが連なるらしいが、今は観光客も少なく静かな境内をゆっくりお参りすることができた。わたしは大好きな金堂が目当てだったが、行ってみると建物の良さもさりながら堂内の彫刻群のすばらしさに息をのんだ。


 室生寺ホームページに仏像の紹介あり 
 http://www.murouji.or.jp/index.html

 中央はお釈迦さまで、その左に十一面観音と文殊菩薩、右に薬師如来と地蔵菩薩が整列し、その前に運慶作というフィギアのように小さな十二神将が躍るように並んでいた。そのいずれもが見事な仏さまで自然と手が合わせる気持ちになったが、なかでも十一面観音は他では見たことのない神々しさと不思議な美しさがあった。ここへ来て本当に良かった。考えがまとまっているわけではないが感想などをメモしておきたい。

 ここは役行者が開いた霊場とも言われ、その後弘法大師が女性のための道場として整備したという。おそらくここは古代からの聖域でそれを役行者や弘法大師が仏教的に整備したのだろう。元は沖縄のセーファウタキ(斎場御嶽)のような巫女の領域だったと思う。女性は高野山へ入れなかったので、そのかわりここへお参りするそうだ。ここが女人高野と呼ばれる由縁である。今も女性の参詣者を大事にする雰囲気があり信仰が生きているのを感じた。

 境内の主要な堂塔はほぼこけら葺きで、ここが木気の世界であることを示している。ご本尊は如意輪観音さま。わたしは観音は木気だと考えているが、とくに如意輪観音は雨乞いと出産に関係が深い。室生寺はすぐ近くの竜穴神社と神仏習合していたようだ。そこは雨乞いの霊場として有名で、このあたり一帯が龍神の聖域だったのだろう。室生寺の本尊・如意輪観音は龍神の化身だったわけだ。次回は龍穴神社まで行ってみたい。


Img_2748 2014.09.17、室生寺の塔


 塔は基壇に立てば軒先に手が届くほど小さい。普通の塔の縮尺の半分しかないミニチュアだ。なぜこんなに小さいのか説明を聞いたことがない。こけら葺きの木気の塔で小さいのだから木気の陰気側という意味だろう。塔の上の九輪の上に小さなツボが載っている。ツボには龍が封じられているとも言う。ツボの上には天蓋がかかり、ツボがご神体であることを示す。

 八卦では震(しん)と巽(そん)が木気に当たり、陰気なのは巽のほうだ。巽は「タツミ」とも読み十二支の辰(たつ)と巳(み)に相当する。辰は龍のことだから塔が陰気なのは龍神を祀るからではないかと思う。辰月は旧暦の3月(新暦4月)だ。田植えの準備で水のほしい季節なので龍神を祀るのにちょうどよかろう。


Img_2753 奥ノ院へ通じる賽の河原


 塔の脇から賽(さい)の河原へ行ける。薄暗い杉木立のなかの急な石段で、その左右にさまざまな供養の跡があった。今もそうした供養をしているようで、岩陰に新しい供え物が散見された。石段を上り詰めると大きな舞台づくりのお堂の下へ出る。舞台づくりは清水寺や円教寺マニ殿のようにそこが観音信仰の霊場であることを示すことが多い。舞台の後ろに巨岩が露呈し、その脇に木瓦の弘法大師御影堂があった。私は木の瓦を初めて見た。どこまでも木気で統一したいらしい。

 室生寺は「龍神=観音」の領域で、そこでは先祖崇拝と子安信仰が行われたのだろう。古代人は死ぬと命が山へ帰ると考えた。同時に山から命をもらうことで子供が生まれる。人の命が行ったり来たりする境目が坂で、そこには恐ろしい坂神がいる。坂の上にはあの世に通じる大きな穴があって、それを大きな岩が塞いでいる。

 塞がれてはいるが穴が無くなったわけではない。古事記では黄泉の国から逃げてきたイザナギが「よもつひらさか」に大きな岩を置いたという。追いかけてきたイザナミはイザナギをうらんで一日に100人を殺すと言った。イザナギはそれじゃあ一日に1000人産もうと答える。岩をはさんで命のやりとりをするわけだ。そういう古い信仰が今もここには生きている。


Img_2768 木製の瓦

 

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2014年8月19日 (火)

小島地名と墓場について

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2014.08.14、大阪府岬町小島漁港、正面の島の上に小島住吉神社がある

 小島と書いて「こしま」と読むらしい。「こじま」と濁音になる地名より「こしま」と濁らないほうが地名としては古い。今は地続きになっているが湾内に小さな島がありその頂上に小島住吉神社がある。小島がこの神社のある島を指していることは明らかだ。小島とは何だろうか。

 検索してみてもっとも近いと思ったのは博多湾の能古島(のこのしま)だ。金印出土で有名な志賀島の手前に浮かぶ小島だ。能古島は残島とも書き、神功皇后が三韓征伐の際に住吉神社を残したからだという伝承があるという。ほかに残島(のこしま)という地名はあるようで、高潮でも頂上が海面に残るからだというような地名伝承もあった。創世神話で有名な大阪湾のおのころ島も残島だろう。

 私は「こしま」は墓場だと思う。海民は島の洞窟などに遺体を置いたのではないか。京都の鳥野辺は古代からの墓場だったが、山の中腹に葬ることにより、死者を山へ送るという観念があったらしい。同じように小島に葬ることで死者を海へ送るのだろう。沖縄では海の果ての先祖霊の国をニライカナイと呼んだが、その死生観は日本海側や太平洋側など海つながりで広範に残っている。

 神功皇后は応神天皇を腹に宿したまま三韓征伐に赴き勝利を得た軍神だ。彼女は出産をコントロールできたと言う。軍神と出産とがどう繋がるのかよく分からないが、神功皇后は子安信仰によく出てくる。だから先祖霊の帰る小島に住吉神社が祀られていることは辻褄が合う。 

 鳥野辺へ続く清水坂が死者を送ると同時に、子供を授かる子安の聖地でもあることは以前にも書いた(参照)。命は死ねば山へ送るし、山からもらってくれば子供が生まれる。墓場と子安とが隣合わせなのは、古代人が命というものをそう考えていたからだろう。だから私は小島の「小」は「子」なのだろうと思う。「こ」とか「のこ」とは命もしくは誕生を示す言葉なのではないか。

 

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