たぬきの異界案内

2019年7月10日 (水)

法金剛院には植物園があった

 早朝開門と聞いたので行ってみたのだがその前日だった。駅前で時間をつぶして9時に入った。池のハスはまだほとんど咲いていなかった。開花済みのハス鉢がたくさん並べられていて珍しいものもあって楽しませてもらった。

 ハスの咲いていない葉っぱだけのハス池も圧巻だった。大きなハスの葉が太陽光で半透明に輝くようすはまるで緑の魔境のようだ。ハスは葉っぱと花とが別々に出てくるので同じ植物には見えない不思議な植物だ。さわさわと風に揺らぐ葉の波の上に数百個の打ち上げ花火のようにつぼみが首を出しているようすは生まれたての銀河を見るようである。

 法金剛院は平安時代の学者にして政治家の清原夏野の別邸だった。彼は植物学の研究をしていたようで別邸に植物園を作った。それが花園という地名の由来だという。わたしは植物に魅入られた人物に興味がある。大山崎山荘でランを作り続けた加賀正太郎のようにどこか人間界から超越したところを持っているように見える。清原夏野も政界で成功しながらも実際はそんな人物だったのではないか。

 いったい「花園」とはどんなものだったのか。今ある庭はそれから300年後に造られた浄土庭園の名残だ。池は今の何倍も大きかったようだ。その浄土式庭園と清原の植物園との関係は分かっていない。わたしは清原の花園は寝殿造り庭園の池のまわりに季節の花や珍しい木を植えたものではないかと思う。今ある浄土式庭園を造るときまだその池は残っていたのではないか。ならばこの池は清原の花園の名残ということになる。

 池の土壌を調べれば大唐帝国わたりの珍しい植物の花粉がひょっとしたら残っているかも知れない。まあそんなことせずとも、このハス葉の圧倒的な迫力を前にすれば清原の見ていた花園もおのずから想像がつくというものかも知れない。


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2019.07.05、京都市花園「法金剛院」

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2019年6月30日 (日)

慈眼(じげん)堂の石燈籠がよかった

 竿の上下がマカロンのような菊花となっている。笠が大きくてキノコのお坊さんたちのように見える。菊花部分が円形なのに竿が四角いので正面性が強まり、きっちりと並んでいるような印象を与えてくれる。なかなかよくできている。

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 慈眼堂は黒衣の宰相南光坊天海として知られている慈眼大師(じげんだいし)をまつる霊廟である。大きな墓があり十三石仏が護っている。13は金気の数字だ。墓地は金気で飾ることが多い。金気か四季で言えば秋であり実りの季節だ。植物が死んで実や種を残す。生が死と入れ替わる季節である。墓地が金気で飾るのはそんな意味があるように思う。

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 さて、図のように慈眼堂だけ南向きとなっているのが謎だ。墓も滋賀院の仏堂も遠州作の庭でさえ東向きなのになぜ慈眼堂だけ南向きなのだろうか。いくつか思いつくことはあるが大切なことであるように思うのでゆっくり考えてみる。

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2019年6月28日 (金)

八坂の塔メモ

 たまたま開いていたので拝観した。拝観したいと思いながら公開が不定期なのでラッキーだった。考えたことをメモしておく。

 ここは聖徳太子が如意輪観音の夢告により創建したという。仏舎利3粒を塔に納めたそうだ。ご本尊は五智如来。正式な寺名を霊応山法観寺という。現在の塔は室町時代に再建された4代目。パンフレットによると主な歴史は次のとおりだ。

589年  聖徳太子創建
1179年 清水寺衆徒と祇園神人の争いにより類焼 1191年源頼朝が再建
1240年 建仁寺八世済翁証救が入山し禅宗となる
1291年 落雷により焼失 1309年後宇多院の援助により北条貞時・山内円成尼が再建
1336年 焼失 1450年足利義教が再建

 水生木の観音の聖地
 聖徳太子関係の寺は「法」がつくことが多い。法は水を去ると書くので水を克す、つまり土気だ。塔は仏舎利という釈迦の骨を埋めた墓なので巨大な土気である。塔に五重が多いのも5が土気を示すからだろう。寺は墓であり土気であることを「法」は示すように見える。ご本尊を五智如来としたのも5にちなんだのかもしれない。

 わたしは飛鳥時代のひとびとは寺を土用と考えていたと思う。土用はほかの4気をさかんにする。金気の薬師を本尊とすれば金気の神がさかんになって疫病除けとなるし、木気の観音を当てれば木気がさかんになって子安に役立つ。この場合は如意輪観音なので子安だろう。仏舎利3粒の「3」は木気を表す数字だし。八坂の八もやはり木気数8に通じる。

 ご本尊と太子堂の関係
 塔内は極彩色の板絵で飾られる。宇治の平等院鳳凰堂と同じ雰囲気だ。柱まわりに五智如来の4体がまつられる。中央の柱が5体目の大日如来なのだろう。仏像はいずれも焦げたような跡があり手がとれていたりするので被災したことが分かる。つまり塔より古い。

 なぜか北側の仏像だけがひときわ大きかった。塔の北側には太子堂があり3歳の聖徳太子像がまつられている。北は水気の領域であり3は木気の数だから水生木の相生の関係を表しているように見える。このことは太子堂創建と塔内に五智如来をまつったときとが同時であることを示す。そのころにはもう金堂や講堂は失われ塔しか残っていなかったのだろう。塔だけを再建して五智如来をまつり小さな太子堂を添えて聖徳太子の遺徳をしのんだわけだ。

 木曽義仲の墓
 驚いたのは木曽義仲の首塚があったこと。平家を京都から追い落とした立役者。朝日将軍とほめそやされるが2か月足らずで追討され三条河原に首をさらした。遺臣がそれを引き取りここに供養したという。希代の戦術家でありながら政治に敗れた若きヒーロー。彼にここで出会うとは思わなかった。

 これは御霊なのだろう。八坂の塔の南側の旧清水小学校のあたりが轟(とどろき)川の河原だ。そこは成仏できずにこの世にとどまる御霊の領域だ。八坂もまた死と誕生の境目にあるのだろう。

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八坂の塔から東を望む(2019.6.16)

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2017年9月 3日 (日)

仁徳天皇陵が見える

 南海電車堺駅あたりは高架になっているので仁徳陵や履中陵がよく見える。中層のマンションよりも高いので驚いた。仁徳陵は高さ30メートル以上あるらしい。これはすでに墓ではなく山だと思う。古代人は神住まう山を造ろうとしたのだろう。

 ちなみに仁徳陵の右片に見えている山は二上山だ。にじょうさんと読むが意味は二神山だろう。おそらく左側の高いほうが男神、右側が女神だろう。陰陽揃えたあたりが前方後円墳の形とよく似ている。

 わたしは前方後円墳の造り方を考え始めている。


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仁徳陵

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2017.08.18、大阪府堺市、履中陵


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2017年7月 5日 (水)

【西京めぐり】5.浄住寺から地蔵院へ

 浄住寺には不思議な物語があった。

 昔、お釈迦様が亡くなったとき、お釈迦様の歯が盗まれた。それを取り戻したのが韋駄天(いだてん)だったそうだ。その歯は海を渡って日本に至り、嵯峨天皇がこの寺に納めた。それは寿塔のなかの穴倉のなかにあり、その上に大石が置かれているという。その後、地元の葉室一族が鎌倉時代に西大寺の叡尊を招いて再興し、さらに江戸時代になって鐵牛禅師によって再興された。

 このお話しをうかがったときは分からなかったが、そのあと隣接する地蔵院へ行って葉室の意味に気づいた。

 地蔵院は室町時代の幕府管領細川頼之の建てた寺で、一休禅師が幼少期を過ごした寺としても知られているそうだ。竹の寺の異名のとおりうっそうとした竹林のなかにあり、ここもまた別世界が広がっている。

 頼之公の墓が興味深かった。生前、立派な墓は立てず石を置くだけにせよと言い残したそうで、大きな石がどんと置いてある。ある種の自然葬をイメージしたものだろうが、これを見たときに葉室(=歯室)もこういうものなのだろうと気づいた。

 石の際から生えた木が大樹となり石をからめとった姿は迫力があった。墓なのに生命力にあふれている。歯室を葉室と読み替えたのは植物の生命力にあやかったからだろう。この地域はこうした特殊な埋葬法が残っており、それは再生儀礼でもあったのではないか。

 墓に石を置くことは古代から行われてきた。その石に地蔵を刻むようになり、葬送地には石地蔵があふれることになる。地蔵信仰は仏教以前の葬送儀礼を引き継いでいるように見える。頼之公の墓に木が生えたのは偶然であったろうが、それでもそのようすからは置かれた石には再生の祈りが籠められていることを感じる。


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2017.05.28、京都市西京区地蔵院

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2017年7月 4日 (火)

【西京めぐり】4.浄住寺の花の扁額

 ここは禅寺で体験座禅をやってみた。坊さまが大きな板棒をもって見回りをしている。向こうのほうで誰かが叩かれてバシッいう音がなった。ははっ落ち着きのないやつはダメだと心のなかで笑っていたら次は自分だった。叩かれても痛くないと聞いていたがあれは嘘だ。ビリっと痛かったぞ。わたしは座禅が嫌いになった。

 本堂の扁額の額縁が彩色された菊花でとてもきれいだった。珍しいと思って写真に撮った。お堂は好きだ。

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2017.05.28、京都市西京区浄住寺

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2017年6月12日 (月)

【西京めぐり】 3.山口家住宅長屋門

 「GOうえすとっ!」の後、上桂あたりをぶらついていて偶然行き当った。これほどすばらしい茅葺きが住んでいる近くにあったとは知らなかった。早速スケッチしてみた。これで20分くらい。

 文化遺産オンライン(参照)によれば江戸時代後期のものらしい。山口家は代々庄屋の家筋だった。だから長屋門がある。長屋門は家の格式を示している。

 わたしは長屋門を見ると武家を連想してしまう。もともと長屋門は馬屋だったと考えているからだ。このあたりは平安時代以来、桂川水運と老い坂の峠越え陸運との交易中継点として栄えた。つまり武家の本拠のひとつであったわけだ。山口家もそうした古い武家の系譜に連なる家筋なのかも知れない。

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2017.05.28/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/

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2017年6月 9日 (金)

【西京めぐり】 2.浄住寺庭園の石を見ていた

 見学勉強会「GOうえすとっ!」で訪れた浄住寺ではお庭も見せてくれた。赤い腹のイモリがたくさんいる。水がきれいな証拠だ。モリアオガエルの卵を住職が教えてくれた。もう小さなオタマが孵ったそうだ。

 このような池泉式は禅寺では珍しいそうだ。方丈が伊達家の寄進なので、それと同時だとも言われている。庭の寓意はよく分からないと言う。池のなかの島石を釈迦の歯だと言った方があるそうだ。それはこの寺の中心が釈迦の歯を納めた寿塔だからだ。そう言われてみれば歯のようにも見える。

 わたしは斜面に並ぶ石列に気が付いたのでスケッチしてみた。池から山へ点々と続いていく。この先は山号ともなった衣笠山だ。

 石は龍脈を表すのだろう。衣笠山に発した龍脈が池のほとりの四角い台のような石に至る。これは座禅石だとも言われるが、わたしは船に見える。気はそこから歯の島へ渡るのだろう。つまり寿塔に祀られる釈迦の歯は衣笠山に降りた神に直結しているという寓意ではないかと思った。

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2017.05.28/クロッキー帳、2Bシャーペン0.5/京都市西京区浄住寺

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2017年6月 8日 (木)

【西京めぐり】 1.お地蔵さま

 京都市西京区の見学勉強会「GO うえすとっ!」に参加してきた。近所でありながら行ったことのない場所に連れていってもらって楽しかった。これは浄住寺境内のお地蔵さま。工事中に出てきたものが持ち込まれて次第に増えていくのだそうだ。きれいにお祀りしてあって、ぎゅうぎゅう詰めでも楽しそうだ。

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2017.05.28/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/京都市西京区浄住寺境内

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2017年5月20日 (土)

ユズルハ神社について

 ユズルハ神社について考えたことをメモしておく。

 社殿前のコマ札によれば、桓武朝初期の延暦年間にユズルハの森を神領と定めた。社殿造営はさらに遅れて849年のことだという。なぜ神領が先で社殿が後なのか。神領としたときに熊野修験道系の寺院が建ったのだと私は思う。それは明治期の神仏分離で失われ、寺院の歴史は社伝から除かれた。だから社伝が分かりにくくなっているのだ。

 ユズルハ嶽とかユズルハ峯とは六甲山を指すと社伝にある。六甲山へは飛鳥時代から修験者が入り鉱物資源の採掘に当たったと考えられる。その拠点のひとつが六甲山系の主峰のひとつ摩耶(まや)山だったのだろう。当時は摩耶に修験道系の大寺院があり、そのふもとの住吉は鉱物資源の積出港として機能していたようにわたしには見える。

 桓武朝になって動きがあるのは、そのころに山岳修験道の大再編があったとみるべきだ。ユズルハ神社の創建はその一端を示している。再編を指揮したのは民部卿の和気清麻呂だったと私は思う。なぜなら彼は鉄の一大産地である吉備の出身だからだ。

 道鏡事件で彼が流罪になったのも吉備の鉄資源を東大寺が独占したかったからではないか。多くの鉱山起源は東大寺大仏造営と結びついている。それは地方豪族の手にあった鉱物権益を東大寺が吸収したことを示す。桓武朝はそれを再編して権益を国へ直結させようと考えたのだろう。

 もともと鉱山権益を握る豪族は新来の百済難民たちだった。百済系の桓武帝はかれらを再編して対東大寺包囲網を作り上げていった。朝廷と東大寺との確執は非常に激しいもので、それが種継暗殺につながったようにも見える。暗殺事件で最初に疑われたのが旧来の土着豪族大伴氏だったのは、彼らが反百済系だったからだろう。

 最澄と空海の対立もこの延長線上で考えれば分かりやすい。百済系の山民の大本山として延暦寺が開かれた。それは鉱物資源の新しい国家戦略の始まりだった。一方、東大寺は新進の空海を抱き込むことで巻き返しを図る。この対立はj桓武朝では解けず、嵯峨朝になって空海が東大寺に戒壇院を設けることで手打ちとなった。このとき仏教的権威と鉱物資源の権益の分離もしくは折半が行われたとみるべきだろう。

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2017.05.19

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