建築探偵の写真帳

2026年7月14日 (火)

東華菜館のドア枠

ドア枠のおもしろさが東華菜館の特徴のひとつだ。4階はクラシックスタイルでかっこよい。左右に柱を立てて、その下端が腰壁のところで切れているところがスタイリッシュだ。まねしたい。

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2026.07.01、京都市下京区

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2026年7月13日 (月)

柏原藩陣屋のアゲハ蝶(1820)

彫り師・中井権次の作。6代目正貞(生年不詳-1855)とある。彫り師として有名な中井権次のなかでも6代正貞と7代正次は有名だそうだ。アゲハ蝶は藩主織田家の家紋。二条城唐門の青い蝶の彫刻(桃山時代)とよく似ている。動きがあってかわいらしい。

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2026.05.16、兵庫県丹波市柏原

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2026年7月11日 (土)

東華菜館の真ちゅうS字

かねてからベンチ下の真ちゅう金物には注目していたが、これが玄関扉の取手と同型であることに気づいた。気づくのが遅すぎる。金属をうまく使っていて美しいと思う。

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2026.07.02 / 2023.08.13、京都市下京区

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2026年7月10日 (金)

東華菜館のハト

「よく見たまえ、これはハトだよ」

おまえはハトだったのか。ずっとタカだと思っていた。少し高い位置にあるので見えにくいのもあるが、鳥といえばタカかワシという思い込みがあったのだろう。30年間の誤解が解けた。

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2026.07.02、京都市下京区

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2026年7月 8日 (水)

東華菜館の下が丸い巾木

床と壁とが接する部分を丸く仕上げている。このほうが掃除がしやすいのだろう。床仕上げの始まる部分が壁から少し離れるので、じゅうたんを敷いたような高級感も出る。なかなかよき。

なんという仕上げなのか名前をしらない。武田五一や村野藤吾もやっている。左官さんの塗り仕上げの腕の見せどころであるのは間違いない。しかもここでは塗ったあとで磨いているのでたいへんだったろう。

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2026.07.02、京都市下京区

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2026年7月 5日 (日)

東華菜館の光のアーチ

本の表紙になっていた。この撮影ポイントをよく見つけたものだ。アーチの内側は磨かれて光っている。なので光のアーチが現われる。アーチの向こう側はとてもよい場所に見えるのだ。すばらしい。

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2026.07.02、京都市下京区

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2026年7月 4日 (土)

旧岡方倶楽部(7)3階のアカンサス

角のヨモギのような植物はアカンサスである。ギリシャ建築で使われる植物模様でなんらかの神聖な意味があるのだろう。これは柱頭飾りは高松のオリジナルデザインだ。毅然として孤高な印象を受ける。高松の人柄を感じる。

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2026.06.26、神戸市兵庫区

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2026年7月 3日 (金)

旧岡方倶楽部(6)カーテンボックス

第2展示室はカーテンボックスが遺っていた。ドア枠上部と同型なのがおもしろい。こうした遊び心が楽しいし愛おしい。

< 設計者・高松吉三郎について(後編)>

つづきを書いておく。高松はヴォーリズ事務所に2年いた。そのあと1921.1.31-1922.2.7の1年半「米国建築合資会社」に在籍している。これはアントニン・レーモンドが開いた建築会社だ。高松はレーモンドの起こした会社の初期メンバーのひとりなのである。メンバーは高松以外はみな外国人だった。彼はいったい何を担当したのだろう。

1923年、高松は母校である福岡工業高校へ教諭として舞い戻る。最初からそのつもりだったのか、なんらかの事情でやむをえず戻ったのか。「人名総覧」の行間からはうかがえない。年齢が分からないのだが、もし高卒が20歳だったとすれば、このとき37歳となる。

翌年1924年に兵庫県警察本部へ転職している。故郷へ長く留まるつもりはなかったのだろう。関東大震災の翌年である。世の中が次第に騒然と沸き立ち始める時代だった。警察本部では「建築監督官補」という肩書だった。ようするに建築基準法の前身である市街地建築物法(いわゆる物法)の申請業務担当だったのだろう。

物法(ぶっぽう)は関東大震災を受けて大幅な改正が進んでいた。おそらく彼はヴォーリズ時代からレーモンド時代にかけての4年間のどこかで鉄筋コンクリート造の実務を学んだのではないか。彼の作品として唯一知られる岡方倶楽部は阪神大震災でびくともしなかった。おそらく基礎構造に工夫があるのだと思う。彼は耐震設計のエキスパートだった可能性がある。

おそらく警察本部時代に岡方のみなさんに見込まれて、ぜひにと頼まれたのだろう。高松は1925年には富山市立富山工業学校教諭に転任している。岡方倶楽部の竣工した1927年に神戸にはいなかったことになる。

設計完了から竣工まで2年かかっているのは、着工が遅れたのでなければ、入念な基礎工事のためだろう。この建物の最大の特徴は優れた意匠もさりながら、基礎工事を入念に行った耐震設計にあるのではないかと思う。

< 高松吉三郎のその後 >

岡方倶楽部竣工までの彼の経歴はここまでである。せっかくなので「人名総覧」の略歴を最後まで見ておこう。

彼は富山工業を14年間務めた。短期間で転職を繰り返した高松にしては珍しい。しかし、1939年になって高松は再び大陸へ渡る。推定年齢52歳である。若い時ならいざ知らず、なぜ50歳を超えてから大陸へ渡ったのだろう。

最初、関東軍所属としてハルビンに赴任する。ハルビンは1932年に建国された満州国の主要都市で東洋のパリと呼ばれていた。高松がここでなにをしたのかも分かっていない。1940年に陸軍技師に昇格し、牡丹江へ転任している。そこで終戦を迎えた。

彼の経歴は1951年の一級建築士登録までジャンプする。建築士制度ができたのが1950年だから初期の建築士登録だ。彼がすぐに引き揚げられたとは思えない。軍人だったのだから抑留されたかもしれない。1952年に富山県内の日本カーバイトの社員となっている。工場建設の技術者として就職したのだろう。推定年齢64歳である。彼の履歴はここで途切れている。

各地を渡り歩いた経歴は富山で終わっている。おそらく富山に家族があったのではないかとわたしは思っている。高松吉三郎の略歴は以上である。

最後になったが「日本近代建築人名総覧増補版」は名著だ。著者の堀勇良先生のライフワークだった。御冥福をお祈りします。ありがとうございました。

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2026.06.26、神戸市兵庫区

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2026年7月 1日 (水)

旧岡方倶楽部(4)「岡」字を崩したのか

そういうわけでもなかろうが、岡方の「岡」字の一部分に見える。幾何学的なアールデコ模様は文字として読めそうなものが多いから、その解読を試みるのも楽しみのひとつだ。

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2026.06.26、神戸市兵庫区

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2026年6月30日 (火)

旧岡方倶楽部(3)珍しい外壁仕上げ


外壁に目を近づけて確かめてみた。これは豆砂利入りモルタルに顔料を混ぜ込んだものだろう。顔料はベンガラではないか。モルタルにベンガラを入れるなんて聞いたこともない。おかげでしっくりとした落ち着きのある建物に仕上がっている。

表面は木コテで押さえたあとで掻き落としているのだろう。中の豆砂利が割れているのでガリガリと削り落としたのだと思う。普通は洗い出しにするところを手間をかけている。掻き落としのほうが見た目に柔らかさが生まれるので、それも建物によい表情を与えている。

< 設計者・高松吉三郎について 堀勇良「日本近代建築人名総覧増補版」2022より >
設計者の高松吉三郎は福岡県出身で生没年は不詳。1907年、福岡県立福岡工業学校建築学科卒業とある。明治40年に県立の工業学校に建築学科があったことを知らなかった。

卒後、関東都督府に就職。その後1910年に鹿児島県鹿児島郡立工業徒弟学校の教員になっている。なぜ福岡へ帰らずに鹿児島なのか分からない。そこで8年ほど教鞭をとり、そのあとヴォーリズ合名会社に転職している。突然ヴォーリズの名が出てきたのでびっくりした。

なぜヴォーリズのもとへ身をよせたのかは不明。ヴォーリズは1915年に鹿児島市内で宣教師館を竣工させている。それがきっかけだったのではないか。ひょっとすると現場を見たのは高松かもしれない。

1918年から20年はヴォーリズ建築事務所に在籍。1921年ヴォーリズは福岡県の西南学院本館(現西南学院大学博物館)を竣工させている。高松はこれを担当したのかもしれない。

(長くなったので、つづきは明日)

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2026.06.26、神戸市兵庫区

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