日記・コラム・つぶやき

2020年2月16日 (日)

自分が天然バカであることに気づいたのはいつか

そのころわたしはJR環状線のすぐ横にある製図学校の講師をしていた。朝9時ごろから始まって夕方5時ごろまで授業がある。受講生はみんな社会人なので授業が終わったあとみんなで飲みにいっていた。もちろんわたしが連れていくのではない。同時に3クラス開講していたので、そのチーフ格の林先生が連れていてくれるのに受講生と一緒に着いていくのだ。

それは2007年の10月のことだった。

環状線の高架沿いの道を歩きながらわたしは林先生にギャグをかましていた。

わたし「林先生ってギターしてたんですよね。そういえば今日の授業でギタリストの名前が出てましたね。エリック・クリプトン?」
はやし「それは電球の名前だよ!」
わたし「なんだか微生物の名前のような」
はやし「それはプランクトン!」

打てば響くようなつっこみにわたしはしびれていた。

このあとだった。信号待ちしながらわたしは自分のクラスの受講性のひとりについてぼやいたのだ。

わたし「それにしてもM君の天然ぶりには困ったものです」

わたしは「そうだよな」という同意の言葉をもらえると思っていた。
しかし林先生は苦笑しながら、しかも即材にこう答えたのだ。

はやし「ははは、俺は君のほうがよっぽど天然やと思うで」
わたし(うわっ! なにそれ! 天然ちゃうで!)
信号音(ピッポ―、ピッポ―)

一瞬頭のなかが真っ白になったが、でも図星かも。
自分が天然だと思ったこともなかったが、
言われてみれば確かにそうかも知れない。

(わー、知らなかったー、どうしよー!)

どうしようもなく今も生きている。
わたしは天然バカです。

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2020年2月15日 (土)

犬の話(4)

 犬の話を続けよう(需要があるようなので)。

 わたしが五郎六郎と名付けた犬がいる。黒白まだらのフレンチブルドックだ。体調は50センチくらい。これが2頭いる。五郎六郎という鎌倉時代の武士のような名前だが、どちらかが五郎でどちらかが六郎なのだ。でもまったく見分けがつかないので五郎六郎とまとめて呼んでいる。
 彼らのお父さんは痩せた中年男性でいつも家の前のガレージで黒いワンボックスカーと犬を洗っている。このとき五郎六郎はリードが外されていることが多い。舌をベロベロ垂らしながらさほど広くもない道を縦横に駆け回りながらかわるがわるにホースの水に飛び込んでいる。犬は水が嫌いだと思っていたがそうでもないらしい。
 あるとき自転車で通りかかるとちょうど車と犬を洗っているところだった。小さな五郎六郎が元気いっぱい跳ねまわっている姿を見ると私はとてもうれしくなる。自転車の速度を落としてゆっくり眺める。そのときワンボックスカーのバックドアが開いていた。な、なんとそこに五郎六郎とそっくりな犬がもう1頭座っていたのだ。

(え、なんで?)

 私は振り返りながらもう一度犬の数を数えてみた。やっぱり3頭いる。

(ほんまかいな、それじゃあ五郎六郎七郎じゃないか!)

 わたしは多少混乱しながら通り過ぎた。しかしである。あれ以来3頭一緒にいるところを私は見たことがない。いつも2頭だ。あれは単なる見間違いだったのか、それとも幻影だったのか。今でも謎である。

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2020年2月 3日 (月)

「ら」抜き言葉と大阪弁

 「ら」抜き言葉について気づいたことがあるのでメモしておく。

 大阪弁はもともと「ら」抜きだ。「見られない」と「見れへん」、「寝られない」を「寝れへん」、「食べられない」「食べれへん」という(「へん」は「ない」という意味)。いずれも「ら」が抜けている。

 島田荘司の「ら抜き言葉殺人事件」が1991年なのでその少し前に「ら抜き言葉」という用語が生まれたのだろう。国語審議会の答申かなにかだったのかも知れない。いずれにしても「ら」抜きは乱れた国語として登場した。それを聞いたころは確かにそれは誤用であり言葉は正しく使うべきだと私も思った。そう思って言いもし書きもしてきた。しかしそれはあくまでオフィシャルな場での共通日本語としてであって、関西人のわたしは日常会話においては無意識にら抜きを使ってきたわけだ。はたして本当にら抜きは乱れた国語なのだろうか。

 大阪が都市化した江戸時代前半に各地の言葉が混じりあって大阪弁が成立した。ら抜き言葉はもともとはどこかの方言であったのかも知れないが、そのとき「ら」抜き言葉が大阪弁の重要な要素として取り込まれたのだろう。戦後、関西芸人のテレビ進出によって大阪弁が全国にまき散らされた結果、「ら」抜き言葉が全国規模で蔓延するようになったのだと思う。

 ウイッキによれば「ら」抜き言葉を日本語の乱れとする考えには異論があるようだ。異論の理由のひとつはそうした方言があること。ウイッキには中国四国地方とあるが関西弁も含めてけっこう広く使われているのではなかろうか。もうひとつの理由は、たとえば「見られる」と言えば受け身、尊敬、可能の3つの意味にとれるが「見れる」とい言えば可能に限定できることだ。江戸時代の初期には受け身、尊敬、可能から可能が独立する言葉の変化が見られるらしい。だから「ら」抜きは単なる誤用ではなく合理的な言葉の変化と考えたほうがよろしいと異論はいう。

 大阪弁は各地の言葉が飛び交うなかで共通語として発達したものだろう。そこに「ら」抜き言葉があるならそれは日本語の乱れというよりも先駆的な共通語の用法と考えたほうがよいのではないかと思う。

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2020年1月29日 (水)

【石橋スケッチ】商店街の南口

 北口が赤い橋だからだろうか。商店街のどの入り口も「赤」が使われていて描きにくい。赤は思考停止の色だからスケッチといえども使うのはためらわれる。まあ賑やかでいいか。これで30分くらい。

円満字スケッチ展・石橋を描く
2020年3月26(木)ー30(月)、2(木)ー5(日)
http://www.tukitanu.net/2020/01/post-de80d9.html

200118_20200130084401
2020.01.18/マルマンスケッチブックA4、グラフィックペン0.5、固形透明水彩/大阪府池田市石橋

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2020年1月27日 (月)

3度目のみくじ

 実は門戸厄神で今年3回目のみくじを引いた。21番の吉だった。

 洗出経年否
 光華得再清
 所求終吉利
 重日照前程

 否はふさがることでよくないこと、汚れの意味となる。
 経年は否ではなく洗出にかかるらしい。

 訳すとこうなるだろう。

 長年にわたり汚れを洗い出したので
 再び清き光華が得られよう
 求める願いは吉となり
 日ごと行く末を照らす

 なにかいいことがあるらしい。
 なにがあるのか分からないが
 それを楽しみにしていよう。
 

 

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2020年1月26日 (日)

自動車の1/100模型を作った

 製図室に捨てられていたスチレンボードの切れ端で1/100の自動車を作った。隙間だらけだったのでジェッソを塗ってごまかした。なんだかそれらしくなったのでアップしておく。

Img_74512
2020.01.17制作、1/100モデル

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2020年1月22日 (水)

門戸厄神で厄払いをしてきた

 60歳の本厄なので門戸厄神の厄除け大祭へいってきた。小さいころは親に連れられて初もうでに来たものだ。東光寺というからには薬師が祀られているのだろうと思ったらそのとおりだった。薬師如来は東方浄瑠璃界の主だから東光寺なのだろう。これが西光寺なら阿弥陀如来になる。厄神についてはよく知らない。お札に嵯峨天皇勅願とあるから相当古い寺であることだけは分かる。駅から門前までたくさんの屋台が並んでいて縁日気分を満喫した。猿回しがいたのが珍しかった。

Img_7260
2020.01.18、兵庫県西宮市門戸厄神

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2020年1月18日 (土)

読んだ本を忘れるスピードを計算した

 アマゾン履歴を使って読んだ小説の内容を忘れるスピードを測ってみた。

  2016 2017 2018 2019
内容を覚えている 0 0 6 11
なんとなく内容を覚えている 0 1 4 10
書名くらいは覚えている 5 1 4 4
読んだことすら忘れた 11 1 1 0
記憶率 0% 66% 66% 84%

 「内容を覚えている」「なんとなく覚えている」「書名くらいは覚えている」の割合を記憶率として計算した。3年たつと読んだことすら覚えていない率が6割に達しているのに驚く。けっこう忘れるものだ。まあ読んだ本の中身をすべて覚えている必要はないし。私の場合はこんなものだろう。

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2020年1月17日 (金)

本を読むスピードと忘れるスピード

 最近読書メモを付けているので自分の読むスピードがかなり正確に分かった。小説なら400字詰原稿用紙換算で1時間に100~150枚だった。文庫本だと1時間に60~90ページくらい。1冊読むのに3~4.5時間かかる。平均より少し速いらしいが、もっと速い人はわたしの3倍のスピードで読むらしい。とうていマネできない。マネする必要もないが。

 本の読み方についてもうひとつ分かったことがある。本の内容を忘れるスピードだ。最近ある小説を読んでいて85%を過ぎたところでこの本読んだことがあると思い出した。アマゾンの履歴で調べるとわたしはこの本を3年前に読んでいた。少なくともわたしは3年でほんの内容を忘れるらしい。ただし85%の地点で出てきたとある風景だけは3年たっても覚えていたわけだ。

 わたしは小説を風景もしくはイメージとして読みこむタイプらしい。映画的読書法とでもいうべきか。この読み方だと世界観や背景の描写の多い小説のほうが長く覚えていることになる。自分の好みの小説とはそんなふうなものなのかも知れない。もちろん85%の本も楽しく読んだ。また3年後に読みたい。

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2020年1月16日 (木)

犬の話(3)

わたしがクロと名付けた犬がいた。黒いラブラドールだった。大きな犬だったがまだ子供のようでハネハネしながら飼い主に連れられていた。そのときわたしはクロの後ろ10メートルくらいを歩いていた。飼い主の女性は連れと話しながら歩いている。クロはその後ろをハネハネしながらついていく。わたしは犬にだけ聞こえる低く強く小さな声で言った。

「クロ!」

実はクロと名付けたのはそのときだった。名前を呼んだらどんな反応をするか確かめたくなったのだ。もちろん名前は分からないのだがとりあえずクロだろうなと見当をつけてそう呼びかけたのだ。

わたしの声を聞いたクロはバッと四肢を踏ん張って立ち止まると耳をピーンと立ててバババッと左右を確かめた。飼い主が驚いてクロを振り向いた。クロはグルグルまわりながらキョロキョロしている。わけが分からずおびえているようだ。クロは腑に落ちないようすで歩き出したが、それでも抜かりなく左右後ろを確かめながら歩いている。もうハネハネしていなかった。悪いことをしたかも知れない。

それからクロと出会っても名前を呼ぶことはしなかった。

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