2026年7月
2026年7月30日 (木)
2026年7月29日 (水)
2026年7月27日 (月)
2026年7月26日 (日)
2026年7月25日 (土)
2026年7月24日 (金)
岡山旅行06-千足(せんぞく)古墳
横穴式石室の天井に穴を開けて中が見学できる。小さな岩を斜めに積み上げて朱に塗っている。奥に風呂桶のような石障(石のベッド)があり、その板石に直弧文が描かれている。これって九州の装飾古墳だよね。それがなぜ岡山県にあるのか。
巨大前方後円墳・造山古墳の陪塚(ばいちょう)と言われている。陪塚とは大型古墳に従属する小古墳をいう。現地では家来の墓と説明されていた。したがって造山古墳と同じ5世紀前半とされている。でも、造山古墳は前方後円墳なので石室は巨石造りで家形石棺が入っているだろう。千足古墳とは種類が違い過ぎないか。
石材は香川県産と分かっている。装飾古墳は5~7世紀に行われており、山陽地方では岡山県にふたつ、四国地方では香川県に7つ見つかっているという。千足古墳の被葬者は香川県から渡ってきた支族なのだろう。
ちなみに直弧文は旋帯文を串刺しにした模様にも見える。盾築遺跡の旋帯文石と同じ金気(疫病)を剋して木気(生命)を援ける呪術ではなかろうか。それにしても古墳に直弧文があるのは珍しい。装飾古墳では普通にあるのだろうか?

2026.07.15、岡山市
2026年7月23日 (木)
岡山旅行06- 3世紀末のご神体
盾築遺跡の収蔵庫にご神体が祀られていた。ご神体の表面にはサーキット場のような渦巻き模様が掘られているので「旋帯文石」と呼ばれている。旋帯文石はふたつあって、もうひとつは盾築城移籍の地下にあった3世紀末の墓室から砕かれた状態で見つかった。したがって、このご神体も3世紀末のものと考えられている。
旋帯文石はこのふたつしか見つかっていない。盾築城遺跡は足守川をはさんで吉備津神社と向かいあっている。どちらも古墳群のある丘陵なので探せばもっと見つかるだろう。これは石(金気)を割る(剋す)ことで木気(生命)を援ける五行説的な呪術だろう。古墳は一族のものを埋葬していくのだから割れていない石は予備だったのだろう。
もとは盾築神社という社があったようだ。いまはこの収蔵庫と小さな祠が遺っている。地図によれば祠は薬師堂のようだ。石は金気だから薬師堂のご神体としてはふさわしい。金気には病をいやす力がある。ここでは先祖崇拝のほかに病気平癒が祈られたのだろう。そして明治の神仏分離のさいに廃止されたのだと思う。それにしても、千年以上信仰の対象として護られてきたことに驚く。


2026.07.16、岡山県倉敷市
2026年7月21日 (火)
岡山旅行05-長床
吉備津神社の近くに長いお堂があった。屋根の構造が複雑でかっこよい。梁の上に昇り梁を重ねるように見えたが、よく見ると軒を支える跳ね木だった。修験道出身の中山通幽師の開いた福田海本部(1908)の祭祀場となっている。風の神を祀り暦祭を開くという。
形式的には諏訪大社上社前宮の十間廊に似ている。十間廊では春に御頭祭(おんとうさい)を開き75頭分の鹿の頭を供えた。いまは廃絶しているが、諏訪に伝わる古い祭祀のようだ。金気を剋し春を呼ぶ修法と思われる。長床もそうした古い祭祀の面影を伝えるような気がするが、本当のところは分からない。
・ 諏訪立川流研究(6)前宮十間廊 諏訪立川流研究
http://www.tukitanu.net/2023/10/post-f8253c.html
2026.07.15、岡山市
2026年7月20日 (月)
岡山旅行04-たてつき遺跡の祭祀場跡
丘の上に石を立てた祭祀場の跡があった。見渡したところ人の背の高さを超える10個ほどの石があるが、周囲の木立のなかにも倒れたものが見えるので、おそらく全部で数十個の石が立っていたのだろう。もちろん丘の下からわざわざ持ってきたものだ。
沖縄県のグスクと似ている。グスクは今でも祖霊を祀る場所で、こんな感じの広場で精霊送りに似た祭祀を行っているのを見たことがある。ここも最近までそうした祭祀を行っていたのだろう。濃厚な民間信仰の雰囲気が漂っている。とても興味深い。
この祭場は2世紀末の巨大墳墓の上にある。双方中円墳とよばれる不思議なかたちだ。古墳の始まるころのもので、円墳の左右に桟橋のような土盛りが付属している。この古墳とその上の祭場とが同時期かどうかは分からないが、この場所は2世紀末から祖霊神を祀ってきたのだろう。
石室はなく竪穴式の墓室がふたつ発掘さた。木棺は腐って残っておらず、鉄剣一振り、勾玉、管玉、ガラス製小玉などの副葬品が見つかった。未盗掘だったのだ。穴の長さが9メートルもあるので船形木棺だったのかも知れない。船はもちろん海のむこうの祖霊の国へ渡るためのものだ。かつて吉備平野はほとんど海で、この丘から海が望めたという。祖霊ははるかなる海の国からこの丘へ帰ってくる。
石はそれぞれの支族専用のものなのだろう。双方中円墳が南東と北西に張り出しがあるのなら、お盆と旧正月に祭礼を行ったのかもしれない。2世紀末からわれわれ日本人は、同じような祈りを毎年続けているのだろう。
2026.07.16、岡山県倉敷市、盾築遺跡(史跡)
2026年7月19日 (日)
2026年7月18日 (土)
2026年7月17日 (金)
岡山旅行01-吉備津神社
夏休み旅行で岡山へ行ってきた。古墳めぐりがメインだったが、古建築や街並みなども興味深かったのでメモしておく。
吉備津神社は桃太郎伝説の元になったといわれる大吉備津彦命とその子の吉備武彦命そのほか吉備氏祖霊を祀るという。吉備津彦は孝霊天皇の皇子で、孝霊天皇4年に将軍として西海に派遣され播磨や中国地方を平定し、この地に茅葺宮を置いて政治を行った。吉備津彦神社のある中谷山頂の前方後円墳が吉備津彦の陵墓とされている。
社殿は吉備津づくりと呼ばれる特異な形式だ。本殿と拝殿が一体化した長い社殿で、本殿の屋根が主軸に直交するかたちで2本の棟を成している。内部がふたつに分かれているわけではないので、意匠的な理由からだろう。その理由はなんとなく分かる気もするのだが、もう少し考えたいので保留しておく。
おもしろいのは外部の回廊部分が跳ね出しになっていること。2メートルほど飛び出しているので、軽やかに浮き上がったように見えるのがかっこよい。
拝殿部分には丸い列柱がならんで迫力がある。大仏用の挿しひじきが使われているとあるが、構造形式そのものが大仏様であるわけではない。ただし、重源が社殿造営に関わったとも言われるので、なんらかの構造上の工夫があるのかもしれない。
2026.07.16、岡山県岡山市
2026年7月15日 (水)
2026年7月14日 (火)
2026年7月13日 (月)
2026年7月12日 (日)
2026年7月11日 (土)
2026年7月10日 (金)
2026年7月 9日 (木)
2026年7月 8日 (水)
2026年7月 7日 (火)
メールアドレスとパスワードの流出
きのうからメールの接続ができなくなった。プロバイダーのHPを見たら漏洩したので遮断したとあった。そういえば先月下旬にメール情報流出のためパスワードを変更しろという詐欺まがいのメールがやたら届いていた。あれはホンモノだったわけだ。
事件の顛末はこうだ。6月17日にKDDI方式のメールシステムを使っているメールサーバーからアドレスとパスワードが一斉に抜かれたそうだ。次の6社で計1万2千件のデータが流出したことが分かっている。
STNet
KDDIウェブコミュニケーションズ
JCOM
中部テレコミュニケーション
ニフティ
ビッグローブ
※ ブログ「臨機応変」記事より
https://www.painfo.net/archives/2026/07/kddisecpolicy.html
IDにメールアドレスを使うアプリは多いので放置すれば被害は大きくなる。ということで、同じアドレスとパスをほかで使っていないかどうか点検中である。
2026年7月 6日 (月)
2026年7月 5日 (日)
2026年7月 4日 (土)
2026年7月 3日 (金)
旧岡方倶楽部(6)カーテンボックス
第2展示室はカーテンボックスが遺っていた。ドア枠上部と同型なのがおもしろい。こうした遊び心が楽しいし愛おしい。
< 設計者・高松吉三郎について(後編)>
つづきを書いておく。高松はヴォーリズ事務所に2年いた。そのあと1921.1.31-1922.2.7の1年半「米国建築合資会社」に在籍している。これはアントニン・レーモンドが開いた建築会社だ。高松はレーモンドの起こした会社の初期メンバーのひとりなのである。メンバーは高松以外はみな外国人だった。彼はいったい何を担当したのだろう。
1923年、高松は母校である福岡工業高校へ教諭として舞い戻る。最初からそのつもりだったのか、なんらかの事情でやむをえず戻ったのか。「人名総覧」の行間からはうかがえない。年齢が分からないのだが、もし高卒が20歳だったとすれば、このとき37歳となる。
翌年1924年に兵庫県警察本部へ転職している。故郷へ長く留まるつもりはなかったのだろう。関東大震災の翌年である。世の中が次第に騒然と沸き立ち始める時代だった。警察本部では「建築監督官補」という肩書だった。ようするに建築基準法の前身である市街地建築物法(いわゆる物法)の申請業務担当だったのだろう。
物法(ぶっぽう)は関東大震災を受けて大幅な改正が進んでいた。おそらく彼はヴォーリズ時代からレーモンド時代にかけての4年間のどこかで鉄筋コンクリート造の実務を学んだのではないか。彼の作品として唯一知られる岡方倶楽部は阪神大震災でびくともしなかった。おそらく基礎構造に工夫があるのだと思う。彼は耐震設計のエキスパートだった可能性がある。
おそらく警察本部時代に岡方のみなさんに見込まれて、ぜひにと頼まれたのだろう。高松は1925年には富山市立富山工業学校教諭に転任している。岡方倶楽部の竣工した1927年に神戸にはいなかったことになる。
設計完了から竣工まで2年かかっているのは、着工が遅れたのでなければ、入念な基礎工事のためだろう。この建物の最大の特徴は優れた意匠もさりながら、基礎工事を入念に行った耐震設計にあるのではないかと思う。
< 高松吉三郎のその後 >
岡方倶楽部竣工までの彼の経歴はここまでである。せっかくなので「人名総覧」の略歴を最後まで見ておこう。
彼は富山工業を14年間務めた。短期間で転職を繰り返した高松にしては珍しい。しかし、1939年になって高松は再び大陸へ渡る。推定年齢52歳である。若い時ならいざ知らず、なぜ50歳を超えてから大陸へ渡ったのだろう。
最初、関東軍所属としてハルビンに赴任する。ハルビンは1932年に建国された満州国の主要都市で東洋のパリと呼ばれていた。高松がここでなにをしたのかも分かっていない。1940年に陸軍技師に昇格し、牡丹江へ転任している。そこで終戦を迎えた。
彼の経歴は1951年の一級建築士登録までジャンプする。建築士制度ができたのが1950年だから初期の建築士登録だ。彼がすぐに引き揚げられたとは思えない。軍人だったのだから抑留されたかもしれない。1952年に富山県内の日本カーバイトの社員となっている。工場建設の技術者として就職したのだろう。推定年齢64歳である。彼の履歴はここで途切れている。
各地を渡り歩いた経歴は富山で終わっている。おそらく富山に家族があったのではないかとわたしは思っている。高松吉三郎の略歴は以上である。
最後になったが「日本近代建築人名総覧増補版」は名著だ。著者の堀勇良先生のライフワークだった。御冥福をお祈りします。ありがとうございました。

2026.06.26、神戸市兵庫区
























































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