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2025年12月

2025年12月31日 (水)

初めての尊攘堂(8)松下村塾の四天王と呼ばれた勤王志士たち

丸窓のように見えるが窓ではない。丸いアルコーブ(壁のへこみ、壁龕(へきがん)ともいう)の下に台がある。この台上にブロンズ製の胸像を置くのだろう。それはもちろん勤王の志士たちだ。いったい誰が載るのか。

アルコーブは4つある。つまり4つで1セットなわけだ。それならもう吉田松陰の弟子の四天王しかなかろう。久坂玄端、高杉晋作、吉田稔麿、入江久一の4人は、獄死した松陰の遺志を継いで泥沼の倒幕闘争に明け暮れながら、その成就を見ずに死んだ。

この「堂」は彼らの鎮魂の館なのだ。わたしは4人の胸像は完成していたと思う。ひょっとするとそれはここへ飾られていたのかもしれない。戦時の金属供出で堂内の松陰像とともに持ち去られて帰ってこなかったのではないか。復元しなくてもよいので、せめて元の姿はどうだったのか明らかにしてほしい。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月30日 (火)

初めての尊攘堂(7)ニワトリの顔に見えるのはなぜか

ニワトリの顔に見える。屋根にトサカのような飾りもついているしな。夜の闇にあって日本の夜明けを告げた吉田松陰にちなんでいるのか。いや、それは考えすぎだろう。

一見、新古典主義建築に見えながら違和感があるのは入り口上部の角が丸いことである。アーチなのではない。角が丸いのだ。そんなことってある? 
 
それは風除け室から展示室へ入る扉の上もそうなっていて、この意匠がたまたまではなく確信的に行われたことを示す。ただし、他に角丸の出入り口はない。それもまた、主動線のみ角丸にしたという設計者の意思がうかがえる。

なぜそうしたのかは分からない。でも、そのおかげで正面がますますニワトリの顔に見えるのだった。やはり日本の夜明けがテーマなのか。いやいやそれは考えすぎだろう。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月29日 (月)

初めての尊攘堂(6)古き良き展示ケース

展示ケースも古い。クラシック風に見せながら余分な装飾をはぶいた足元はセセッション的でかっこよい。使いやすそうなよくできた展示ケースだと思う。メンテもよいので修理なさったのだろう。大事にされているのが好ましい。

これは元からここにあったものだろうか。それとも文学部陳列館から持ってきたのか。陳列館のものであれば武田デザインの可能性はあるが、武田らしさはない。シンプルでセセッション的なところは尊攘堂インテリアと共通するようにも見えるので、元からここにあったのかもしれない。

いまもって設計者不詳なのはなぜか。石田潤一郎先生は文部省関係者ではなかろうという。もし省の関係者であれば跡をたどれるはずだということだろう。それがないということは設計者は寄贈者側の選定ということになる。やはり品川弥二郎の事績を当たるべきか。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月28日 (日)

初めての尊攘堂(5)内倒し窓の正しい開け方

縦長の窓がリズミカルに並びインテリアの端正な美しさを調えている。ランマは内倒し窓だ。この頃の内倒し窓は、窓上部にあるラッチ(かんぬき)を長い棒で引き下ろすことで開く。ここではそうなっていない。

手もとの金属棒を引き下ろすと開くらしい。なぜ引き下ろすと窓が開くのだろうか。操作すれば分かるのだろうが、それはしてはならない。しばらく見ていたが分からなかった。とりあえず珍しい金物であることを指摘しておく。

上げ下げ窓の鍵はクレシェント錠が多いが、ここはなぜかネジ締め錠だった。これも珍しい。錠には「完全」と刻印されている。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月27日 (土)

初めての尊攘堂(4)ドアのツボミ飾り

玄関まわりのドアにだけミニキャベツのような木彫りの飾りがついている。バラのツボミに見える。小さな飾りだが、あるのと無いのでは大違いだ。すばらしい。

大正時代だとそうしたユーゲントシュテール(ドイツ世紀末芸術)風のバラ飾りがあるが、明治36年だと少し早い気がする。わたしが知らないだけで普通にあるのかもしれない。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月26日 (金)

初めての尊攘堂(3)漆喰装飾のつくりかた

天井と壁の境い目に等間隔で並ぶ装飾は石膏製だと思う。換気口や天井枠ラインの交点に取り付けられた花模様の装飾も石膏製だろうか。こうしたものは、そのつど作るのだろうか。手もとの資料を見ても詳細が分からない。もっとよく調べてみたい。そうしないと自分で作るときに困る。

おそらく粘土で作ったモデルの型を石膏でとって、その型に漆喰かプラスター(西洋漆喰)を流し込んで作るのだろう。小さなものだとモルタルでひっつくが、重い場合は鉄線が麻ヒモを仕込んでおいて下地にくくりつけるのではないか。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月25日 (木)

初めての尊攘堂(2)エビに見える

シャンデリアの吊元の飾りがエビに見える。動き出しそうでおもしろい。おそらく外縁の綱模様までが石膏製の円盤だ。二重のライン枠は現場で仕上げたコテ仕事だろう。枠仕事がきっちりしてブレがないからエビ装飾が映えるのだ。見事である。

天井仕事はどこまでがオリジナルなのだろうか。天井そのものが水面のようにまっ平なのもすごい。下地板の継ぎ目がまったく見えない。こういう左官仕事の設計をわたしもしたい。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月24日 (水)

初めての尊攘堂(1)勤王志士の資料館として

初めて中へ入った。左官仕事が見事で見飽きない。修復が丁寧なのも気持ちがよい。つい長居をしてしまった。

正面の壇にはトスカナ式の柱が4本立つ。トスカナ式はシンプルながら端正な美しさのある柱頭飾りでわたしは好きだ。ここでは円柱ではなく四角柱なのでなおさら端正に見える。とてもよき。

尊攘堂は吉田松陰と勤王志士の資料館だ。最初京都市内に設けられたが、1903年に建物付きで京大に寄贈された。尊攘堂を設立したのは長州出身の政治家・品川弥二郎だ(寄贈されたのは彼の死後)。品川も松陰の教えを受けた勤王の志士のひとりであった。

イタリアのトスカナ地方は騎兵の本場なので、陸軍系の建物に多い気がする。また、銀座レンガ街や大阪造幣局など明治初期の近代建築もトスカナ式が多い。トスカナ式は尊王攘夷の資料館にふさわしいと思う。設計施工はいまもって不詳である。なぞ深い。

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2025.11.08、京都モダン建築祭にて

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2025年12月23日 (火)

八竹庵はだれが設計したのか(13)都会の別荘プロジェクト

八竹庵連載は今回で終わる。多少メモしておきたい。

八竹庵は婦人服雑貨商の美濃利(井上利助)の本宅兼迎賓館として1926年に竣工した。その後、襦袢商の川崎家が所有し紫織庵として公開されてきた。川崎家からデベロッパーに所有が移りマンションに建て替えられそうになったところをくろちくが救った。現在は八竹庵として公開されている。

設計施工は数寄屋大工の上坂(こうさか)浅次郎でよいと思う。洋間は武田、和室は上坂という分け方は意味がないと思う。記録には上坂は大工、武田は参与とあるのだから、そのとおり読むべきだろう。設計施工は上坂で、武田はアドバイザーとして八竹庵に関わった。

武田は全体の平面図を描いたほか主要室のインテリア図を描いたと思う。武田と上坂はそれまでにも一緒に仕事をしたことがあるのではないかと思う。いま手もとに資料がないので確かめられないが、そのうち調べてみたい。

洋間は高島屋が担当したとどこかで読んだ。高島屋の建築部門には武田の教え子がいたから、さもありなんと思う。

もうひとりの参与である塚本与三次(京都商事株式会社)は南禅寺かいわいの別荘街開発で知られている。武田は南禅寺かいわいに作品がいくつかあるので、一緒に仕事をしたことがあったのではないか。

美濃利の迎賓館造りの相談相手は塚本だったのだろう。敷地は郊外の別荘地ではなく町中の業務地帯だった。塚本にとって都会の迎賓館づくりは初めてだったのではないか。そこで武田と上坂に声をかけたのだと思う。こうして最強のチームが誕生し八竹庵ができたというわけである。

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2011.05.29、京都市中京区

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2025年12月22日 (月)

八竹庵はだれが設計したのか(12)床の間比較

2階の座敷の床の間は1階のものとよく似ている。ただし方眼も黄金比もなさそうだ。ふたつの床の間を重ね合わせてみたところタテ方向はぴったり合う。つまり2階床の間は1階床の間のタテ方向の比率を守りながら両端を切り詰めていることが分かる。

おそらく武田はすべての部屋の設計をしたわけではなさそうだ。彼は主要な部屋のインテリア素案を示しただけだろう。方眼紙に描かれた展開図を弟子の誰かが清書したものが上坂棟梁の手元に届いたろう。上坂棟梁はその素案を活かして八竹庵を設計施工した。

2階床の間については武田図面は無かったので、上坂棟梁は武田の描いた1階床の間の寸法を応用した。ぴったり重なるのはそのためだ。ただし方眼や黄金比のことまでは知らなかった。それでも武田の考えた展示物をひきたてる控えめでシンプルなデザインは実現している。その点については事前に武田と示し合わせていたのだろう。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月21日 (日)

八竹庵はだれが設計したのか(11)天井換気口の図案

この図案は何だろうとずっと思っていた。ひょとしてこれはタマムシではないか。

ずっと板の部分は模様だと思っていたが、穴のほうが模様なのだろう。図と地の関係が反転して見えるので分かりにくかったのだ。そもそも3分割されているのだから、穴のほうが模様だと気づくべきだった。

さて、これがタマムシだとしても方眼に載ってこない。なんだか微妙に合わない。武田の原図は方眼に描かれていただろうが、それを誰かが描き直したときに微妙にずれたように見える。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月20日 (土)

八竹庵はだれが設計したのか(10)漆の布目塗り仕上げの床框を知っていますか

床の間は素材を楽しむ場所である。床柱の次に注目されるのは床框(とこがまち)だ。床框は座敷と床の間の段差を納める水平材のことだ。ここでは布目の漆塗りとなっている。漆塗りの床框は普通にある。しかし布目塗りは珍しいと思う。

どれのくらい珍しいのかということを識者に確かめてみようと思う。もし本当に途方もなく珍しいとすれば、やはりこれは武田の新素材を試さずにはいられない性質の発露であろう。

ちなみに漆塗りは越前塗や能登漆など北陸方面が有名だが、武田は金沢の高等工業学校との関係が深い。おそらく国会議事堂設計チームのなかで武田は素材担当だったのだろう。全国の伝統工芸の建築的応用を考案するという立場は武田にとって水を得た魚だった。それは日本建築を再興する道筋でもあった。その一片が、この床框に顕れているように見える。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月19日 (金)

八竹庵はだれが設計したのか(9)床の間の黄金比

この床の間は黄金比でできている。垂れ壁下の開いている部分が、床の間・床脇とも黄金比である。しかも床脇部分の壁面は黄金比長方形6つで構成されている。
 
地袋そのものも黄金比だ。地袋の幅と天袋の幅は1:2になっている。この整数比も武田っぽい。
 
この床の間は洋間暖炉と同様、黄金比方眼でデザインされている。武田が基本図を描いたとしか考えられない。

床柱が座敷の中央から10センチほど右へずれている。そのため垂れ壁の下端が床の間のほうが若干高くなる。この部分は床脇より少し高くするのが床の間の作法だ。作法を守りながら、それでも黄金比であるところが武田らしい。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月18日 (木)

八竹庵はだれが設計したのか(8)違い棚のない床の間

 大広間の床の間に違い棚が無い。本当に最初からこうなのか。本来なら床脇の天袋と地袋のあいだにあるはずの違い棚が無いのだ。違い棚は床の間の見せ所であるのになぜ省略したのか。

考えられる理由はひとつ。ここは着物の展示場として設計されているので、展示しやすいように違い棚を設けなかったのではないか。思い切ったことをしたものだ。

そのかわりに天袋を左に地袋を右に寄せて違い棚風に見せているのがおもしろい。この処理のおかげで違い棚が無いことに違和感を感じないのだ。おそらく武田と上坂で相談して決めたのだろう。上手いと思う。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月17日 (水)

八竹庵はだれが設計したのか(7)武田の新素材たち

暖炉のタイルは本当にタイルだろうか。居合わせた笠原さんが尋ねるのでふたりでシゲシゲと眺めたが分からなかった。石のように見えるがタイル表面を砕いたものにも見える。岩肌の表面に影が落ちて落ち着いた表情を作っている。武田考案の新素材だろうと思う。

外壁タイルはご覧能ようなものだ。石のようにも見えるが切断面の筋が浮いているので、粘土をカットしたものであることが分かる。厚みがあるので、レンガタイルではなくレンガなのだと思う。素焼きの表情が暖かくて親しみ深いよい素材だ。これも武田考案ではなかろうか。

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暖炉)2025.11.09、京都モダン建築祭にて
外壁)2025.05.07、京都グラフィー
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2025年12月16日 (火)

八竹庵はだれが設計したのか(6)蔓延する名栗仕上げ

名栗(なぐり)とは木の表面を細かく刻む仕上げをいう。それは腰壁パネルだけではなく、腰壁の枠やドア枠そして幅木の角をカットした部分などいたるところにあった。木材表面に影の落ちる加工をして柔らか温かみのある表情を生んでいる。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月15日 (月)

八竹庵はだれが設計したのか(5)武田好みの素材たち

武田は新しい素材や仕上げを使うのを好む。暖炉鏡両脇の飾り板は、なぐり仕上げのような細かい彫り込みで模様を作る。これは室内の腰壁板にもある。ほかで見たことのない珍しい仕上げだ。いかにも武田好みである。

床材は5センチ角ほどの木材の小片がモザイクのように敷き詰められている。ここまで細かいとすぐにバラバラになりそうだが、そうなっていないのは、ある程度の厚みのある材なのかもしれない。これもほかで見たことのない不思議な素材だ。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月14日 (日)

八竹庵はだれが設計したのか(4)2階暖炉

2階の暖炉は黄金比方眼を使っていた。おそらく黄金比1:1.618を2:3に読み替えた簡略黄金比だろう。

暖炉のデザインは方眼に載るだけではなく黄金比で構成されている。下段の明るい色の暖炉枠が黄金比だ。暖炉枠の下端が方眼からずれるのは1:1.618に合わせたからだろう。上段の鏡枠は黄金比を2つ並べたものだ。上端も微妙に方眼からずれるように見えるのも同じ理由だろう。

武田は3つの黄金比長方形を方眼紙に描いて、あとは方眼に合わせてデザインしたのだ。こんなことをするのは武田ぐらいだから、この暖炉は言われているように武田自身のデザインと考えて間違いなかろう。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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八竹庵はだれが設計したのか(3)装飾

黄金比どころか方眼紙にさえ載らない。武田っぽさが全くないが、これはこれで楽しい。JR三ノ宮駅の円柱のタコ模様に通じる自由がある。

それはそれとして、応接間のインテリアには武田っぽさが希薄だ。しかしながらこの応接間で「これは武田だ!」と思うところを見つけた。それは次回。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて(八竹庵、1926)

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2024.09.14、JR三ノ宮駅(兵庫県神戸市、1932)

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2025年12月13日 (土)

八竹庵はだれが設計したのか(2)暖炉

応接間正面の暖炉が武田っぽくない。以前から違和感があったが、今回分析して確信した。方眼紙に載ってはいるが黄金比がどこにもない。

白い大理石部分は、2.5:5と正方形ふたつ分なので武田っぽい。でもその上の木製棚部分がなぜか3.5:5なのだ。これが3:5なら黄金比なんだがなぁ。武田のスケッチはそうなっていたのかもしれない。それを誰かが適当にあしらった結果、武田っぽさが消えたのではなかろうか。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月12日 (金)

八竹庵はだれが設計したのか(1)

八竹庵は数寄屋大工・上坂浅次郎の設計施工で、洋室のみ武田が設計したといわれる。本当だろうか。

よく観察すると、ふたつある洋室は細部が武田らしくない。一方和室部分もよく見ると武田らしいところがある。間取りは大正期の住宅改良運動の成果を示す中廊下式が採用されている。この平面も武田っぽい。

武田は設計参与という立場で関わっている。武田によるアドバイスの範囲は洋間だけにとどまらず、全体平面や設備、素材、床の間の構成などに及んだように見える。

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2025.11.09、京都モダン建築祭にて

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2025年12月11日 (木)

国際会館(8)山中のメインラウンジ

メインラウンジのV字柱がおもしろすぎる。大きな木が立っているようだ。床の高さも何段もあり、山のなかのようにも感じる。階段とカーペットの間には、はつり仕上げのコンクリートが岩肌のように現れていておもしろい。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月10日 (水)

国際会館(7)アルミのステンドグラス

メインラウンジにアルミ製のステンドグラスがあった。アートである。青っぽい色調が美しい。分厚いアルミ板を切り抜いたように見える。どうやって作ったのだろう。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 9日 (火)

国際会館(6)アルミのカーテン

アルミ製のカーテンを初めて見た。1本のアルミの鋳物板をカーテンレールに吊り、下部は鎖でつないでいる。動かしにくかろうとは思うが、鋳物板の不思議な文様がかっこよい。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 8日 (月)

国際会館(5)メインホールの世界地図

メインホールの天井にでかい世界地図のような円盤が浮かんでいた。もちろんアルミ製である。回転しそうに見えるが回転はしていない。国際会議場だから、世界を表現しているのだろう。アルミに閉じ込めた世界である。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 7日 (日)

国際会館(4)八つ橋の池

水面に八ツ橋が浮かんでいる。橋は6つなので八つ橋ではないが、それでも日本庭園の八つ橋を思わせておもしろい。橋を渡るのも楽しい。

池から見ると特徴的な構造がよく分かる。伊勢神宮のごとき古代日本の高床+大屋根のイメージがある。それが池に映るようすは奥ゆかしい。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 6日 (土)

国際会館(3)アルミ細工のメインラウンジ

大回廊を抜けると吹き抜けのメインラウンジへ至る。ここから各部屋へ入ることができる。会議前後の時間に談笑する場所でもある。ここもアルミ製のなにやらがたくさんあった。

折り紙ランプの大きいやつがかわいい。壁にめり込んだアルミの塊もおもしろい。他にもいろいろあって面白過ぎる。アートと建築の蜜月時代はいいなぁ。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 5日 (金)

建築学校のスケッチ授業

スケッチ演習は2回目なので固さが消えた。月に一度はスケッチに出ている。スケッチの楽しさを知ることを目的としている。紅葉を描いた作品が多かったのは、よく自然を感じている証拠だろう。環境になじんでこそのスケッチである。

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2025.11.29、京都建築専門学校「意匠演習」

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大工大のスケッチ大会

毎年恒例のスケッチ大会、はがきスケッチを楽しむ。上手に描くなどというつまらないことにこだわらず、ひたすら楽しむことを強調した。みんな楽しそうにスケッチしていたので安心した。

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2025.11.28、大阪市北区、大阪工業大学

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国際会館(2)受付のための大回廊

それらしいエントランスホールがあるわけでもなく、いきなり大回廊へ至る。館内図に受付とある。大量の来場受付をさばくための場所なのだ。片側に良い感じのカウンターが並んでいる。

六角形断面が宇宙ステーションのようでかっこよすぎる。建物全体が斜め柱で構成されているから製図するのも大変だし、施工も混乱したろう。そもそもどうやって足場をかけたのか? よくぞ造り上げたものだ。施工はどこだっけ?

壁は打ち上げたコンクリートをはつっていた。とげとげしい表面なのだが、はつり機の先端には何を使ったのだろうか。はつり仕上げのおかげで壁面に小さな影が生まれて柔らかい表情を作り出している。宇宙ステーション的にするならば硬質なパネルを使うところだが、あえて表面を荒らしたところがいかにも日本らしい。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 3日 (水)

国際会館(1)折り紙ランプ

正面玄関まわりの折り紙風のランプがとてもかわいい。ここに来るのは何年ぶりだろうか。こいつが健在でとてもうれしい。アルミの鋳物だろうか。コンクリート打ち放しにアルミ色がよく映える。

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2025.11.01、京都モダン建築祭にて

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2025年12月 2日 (火)

関西美術院再訪(7)平たい屋根の理由

現在の屋根の勾配も緩いが、その下に隠れている武田設計の屋根はもっと緩い。おそらく2寸勾配(10:2)くらいだろう。これは関西美術院のもっとも大きな特徴である。なぜこんなに緩いのか。

武田はどうやってこの屋根の勾配を決めたのか。屋根の一番高い画室の高さはおそらく2.5間、一番低いの附室の高さはおそらく1.5間だ。それぞれ必要最小限の高さである。この寸法で屋根をかければ、ご覧のような緩勾配屋根ができあがる。

武田は必要以上に天井高さを取るのを好まず、大阪中央公会堂コンペのときには低すぎると恩師辰野先生にしかられている。でも必要最小限で寸法を決めるのも武田のクセなのだ。結果的に関西美術院は扁平な建物となった。見栄えよりも必要最小限を優先したのは、いかにも合理主義者の武田らしい。

ただし、必要最小限の設計したのは武田のクセだけではない。これほど緩くなると瓦は葺けない。金属葺きとなるのが通常であるが、それを避けたのは音のせいだろう。もしこの屋根を金属で葺けば、雨の日の画室はたいへんな騒音に包まれるだろう。

そこで武田は高価なアスファルト防水を選んだ。工費は住友家が用立てたので高価な建材も使い放題ではあった。しかし武田ば不要な出費をきらう。平素の武田であれば勾配を改めて瓦葺きで仕上げたろう。そうしなかったのはなぜか。

おそらく工期がなかったのだ。関西美術院のオープンを急いだのだろう。ものすごいスピードで工事は行われたはずだ。講堂の竣工は1年遅れたが、それでもオープンにこぎつけられたのは武田のおかげである。

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関西美術院再訪(6)黄金比でつくられた美術院

失われた倉庫を図のような細長いものだったと仮定する。倉庫は石膏写生室に隣接していたのだから、石膏模型を保管する場所だったのではないか。ならば細長い倉庫で十分だろう。模型を保管する棚が片側の壁沿いにあったはずだ。

そう想定すると講堂から倉庫までの輪郭は、黄金比長方形を横にふたつ繋げたことが分かる。タテにすると附室の輪郭を成す。そうやって黄金比で分割していくと平面図ができあがる。この設計手法と関係がないWCと外部廊下は後補の可能性がある。

黄金比は1:1.618で自然界に多く存在する。19世紀美学では自然物の美しさは黄金比のためと考えていた。したがって建築教育でも黄金比をもとに設計することを教えた。武田は黄金比をことのほか気に入ったようだ。京大では黄金比を省略した2:3で設計するよう指導していたといわれる。

彼が関西美術院を設計のころは、黄金比をそのまま使っていたようだ。平面図に現れる比率は次のとおり。

黄金比(大)4   :6.5 =1:1.625
黄金比(中)2.5:4    =1:1.600
黄金比(小)1.5:2.5 =1:1.666

よくもこれだけ黄金比に合わせたものだ。断っておくが平面を黄金比にしたからといって美しくなるわけではない。そもそも部屋の形そのものは黄金比でもなんでもない。そのことは武田も承知していただろう。これは武田のクセなのだ。方眼紙とコンパスで設計し、黄金比に揃えずにはいられない何かを武田は終生失わなかった。

ただし私のこの推論は、失われた倉庫が細長いものだったという仮定のうえに成り立っている。あくまで仮説として挙げておく。

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2025年12月 1日 (月)

関西美術院再訪(5)方眼紙に描かれた平面

和風建築であれば1間(1.82M)を基準にして作るので、当然1間きざみの方眼上に載ってくる。関西美術院も1間方眼にきれいに載った。

この平面図は「京都市の近代化遺産」からコピーしたが、その原図を描いたのは私である。京都市の近代化遺産調査時に実測したうちの1枚である。

石田純一郎さんが同書に解説を寄せている。当初、大窓はすべて回転窓だったとあった。わたしの推理通りである。

大画室は人体写生室で小画室は石膏写生室だったそうだ。増築部分は左側の講堂と右側のアトリエだが、講堂は写生室完成の翌年に竣工しているのでほぼ同時と考えてよい。

アトリエは倉庫を解体して建てたという。武田はどのような倉庫を設けていたのか。実は、武田の設計手法を見極めれば、ある程度想像がつくのだ。

では、武田はどのようにして平面を描いたか。それは方眼紙上の平面をにらめばおのずと浮かび上がる。結論から言えば、武田は黄金比を使ってこの平面を描いている。その分析は次回。

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