2025年5月
2025年5月30日 (金)
2025年5月29日 (木)
2025年5月28日 (水)
2025年5月27日 (火)
2025年5月25日 (日)
2025年5月24日 (土)
2025年5月23日 (金)
2025年5月22日 (木)
2025年5月21日 (水)
帝国ホテルの装飾は左右非対称である
まいまい京都の明治村ツアーのための下見で、改めて気づいたことが多い。この左右非対称もそうだ。何度も見ているはずなのに今回初めて気づいた。なかなか楽しい。
ライトは現場に入り浸って、職人たちと一緒になって楽しく作っていたそうだ。ガウディがサグラダファミリアの現場で石工たちと一緒になって作っていたことに似ている。ものづくりの原点は職人技にありというが中世主義で、そうして生まれる環境こそ人にとってのユートピアだと考えられていた。
ガウディはバルセロナでそれを実践したし、ライトはタリアセンでそれを実践した。ライトの心にユートピアが芽生えたのは、この帝国ホテルの現場だったのではないか、と思った。
2025年5月20日 (火)
北前船拠点の三国湊(14)瀧谷寺観音堂の彫りもの
正面ランマの蟇股のなかは牛とふたりの童子だろうか。観音堂なので木気であろうに、なぜ土気なのか。左右の木鼻はキリンだと思うが、ユーモアあふれる表情と短い手足がかわいい。1633年の改修とあるので、そのときの彫り物か。
蟇股の下はシャクヤクやボタンのような大輪の花だ。花は火気で土気を生む。牛は土気だから上下で呼応しているのだろう。2も火気を表す。分かりにくいのだが、牛とふたりの童子と大輪の花は火気を盛んにするという意味があるのかもしれない。
観音堂の本尊は秘仏・如意輪観音だそうだ。如意輪観音は観音のなかでもとくに子安に霊験がある。出産は火気の働きだから、正面ランマは安産がテーマなのかもしれない。牛飼いがこどもなのも、子役を意識したからだろう。
2025年5月19日 (月)
北前船拠点の三国湊(13)瀧谷寺の石庭2
観音堂は本堂の東側にあり渡り廊でつながっている。観音堂も室町時代の建築で本堂と相前後して建てられたらしい。つまりこの寺は開創からほどなく薬師ー観音のセットを祀ったわけだ。金気である薬師は西側に、木気である観音は東にあって陰陽が調っている。
ふたつめの庭園は観音堂の目前にある。なかなか豪壮な石庭なので、およそ戦国武将の作庭かと思っていたが、昭和時代の中根金作の作品だそうだ。彼の庭は妙心寺退蔵院で見たことがある。とてもモダンな作庭で彼の名はこころに残っていた。
直径2メートルほどの大石をタテ一列に並べている。石のあいだは鮮やかなコケが敷かれ、背景には土塀と大きな杉の木がある。転がされた大石のようすが自然で、よい具合に配置されていて美しい。それにしてもこれはいったいなんだろう。
大石は9個あり、加えて直径1メートルほどの石が付け加えられている(左から5番目)。これは9+1=10を示すのだろう。9は金気を示す数字で、それはここが薬師の降り立つ金気の霊場であることを示す。ただし観音は木気なので金気に負けてしまう。そこで小ぶりな石をひとつ加えて10としたのだ。
一方、杉の大木は3本だ。3は木気の数字で観音と呼応する。しかも10の示す土用が働いて木気がいやがうえにも高まるのだ。ここには風水による数字のマジックがかけられている。
近代庭園は重森三玲が知られるが、重森は風水にこだわっているように見えない。近代の作庭家はみな風水には冷淡なのかと思っていたが、そうでもないらしい。おかげで瀧谷寺では金気の霊地でありながら、観音堂とも共生している。
観音は船乗りの信仰が篤いから、それに応えた作庭なのかもしれない。そう思うと三国湊へ入港する大型廻船の列のようにも見える。
2025年5月18日 (日)
北前船拠点の三国湊(13)瀧谷寺の石庭
「たきだんじ」と読む。谷を「だん」「たん」と読むのは沖縄に多いが北陸にもあるそうだ。真言密教の寺院である。
もとは三国湊のすぐ北にある東尋坊のかたわらにあったようだ。瀧のある谷はそちら側にあるのかもしれない。寺は開創からほどなく現在の三国湊を見下ろす丘に移転した。室町時代初期の開創で代々越前国主の崇敬を得た。つまり三国湊はそのころに整備されたと考えてよかろう。
瀧谷寺にはふたつの庭園があった。ひとつは本堂裏の巨石を中心とした庭だ。本堂裏に書院があり、そこから眺めることができる。 巨岩からはいまも水が湧き出していた。この岩が本尊・薬師如来の垂迹した磐座(いわくら)なのだろう。風水でいえば薬師は金気であり水を生む、つまり庭園のかたちそのものが本尊を表している。
江戸時代中期の本堂、書院と同時の作庭と考えられているようだ。それまでは自然な泉のままだったのだろうか。それもまたよいかもしれない。静かですがすがしいお庭である。
2025年5月16日 (金)
三重県庁の紙天井
ホールに入って驚いた。天井が紙である。復元にあたっては越前和紙を使ったそうだ。これはタイコ張りという技法で壁仕上げとしては江戸時代からある。タイコ張りとはふすまや障子のようにタテヨコの桟に紙を貼る技法だ。こうすることで湿気の影響を抑えるのだ。つまりシワがよったり破けることを防ぐのである。
それは天井でやっても同様の効果があろう。でも、こんな大面積では無理があるのではないか。実際に多少シワがよったり破けたりしている。それでもこれだけの面積のタイコ張りが多少の損傷ですんでいるのは優秀ではないか。うまく張れば、まったく故障なしにできるかもしれない。
知事室回りは格天井だったので問題ない。このくらいだと破けるほうがおかしい。わたしはホール天井も知事室のように格子があったのではないかと思った。
でも紙張りが漆喰塗りの代用だとすれば、無理を承知で大面積紙張りに挑戦したのかもしれない。漆喰天井は真っ白な一枚の板のようになっているのが美しいからだ。清水儀八はチャレンジャーである。
2025年5月15日 (木)
2025年5月14日 (水)
2025年5月13日 (火)
北前船拠点の三国湊(9)木の庇
かぐら造りの町家は見かけは京町家と同じだが、よく見るといくつかの違いがある。雪深く風の強い気候に合わせて進化したのだろう。
ひとつは庇に瓦を使わないこと。銅板張りが多い。庇の上に取り付けられている長い棒は雪止めだ。銅板のほうが雪が落ちやすいのかもしれない。もしくは、瓦葺きだと雪に押されて瓦がずれるのか、あるいは、瓦葺きだと瓦の下へ雪解け水がしみ込んで庇下地の木材を腐らせるのかもしれない。
おもしろいのは湾曲した庇が多いこと。道路側へ向けて丸く垂れ下がっている。これこそ雪を落とすための工夫だろう。丸い庇を初めて見たが、なかなか愛嬌があって楽しい。
1軒だけ木板葺きの庇があった。厚みが5センチほどある板を二重にしている。これが古い形なのだろう。庇先のラインは両端で少し跳ね上がっている。きりっとしたデザインでかっこいい。
湾曲した庇といい、跳ね上がった木製庇といい、まるで船のようだ。三国湊は日本海航路の最大の港湾都市だ。造船技術が建築に影響を与えたのではなかろうか。
2025年5月12日 (月)
西郷從道邸の金属天井
金属天井は20年代の建築系雑誌の広告に載っている。アメリカ製の輸入品だ。30センチ角ほどのブリキのパネルで、表面に模様をプレス加工している。なかなかきれいなもので私は好きだ。
これもそうだろうが明治13年は日本における早い使用例だと思う。ウイッキによれば1870年ころからアメリカで量産されたらしい。明治13年は1880年だから時代としては合う。
京都では大谷大学の尋源館(1924)や旧八千代館(1928頃)で見ることができる。探せばもっとあると思う。
ウイッキによればモリスが模造品として批判したのがこれだそうだ。本来、天井は左官仕事が基本で、安価な工業製品に置き換えられるべきでないという主張だろう。気持ちは分かるが、今からみればこれも立派な手仕事である。
北前船拠点の三国湊(8)かぐら造りの民家
旧道沿いの町家が片流れだ。こんなかたちの民家があるとは知らなかった。三国湊特有のかたちだそうだ。なぜこんな半分だけの町家ができたのだろうか。
「かぐら造り」という。一般的に2階に増築することを「おかぐら建て」といっている。だから「かぐら造り」は道路側の屋根を取り除いて、その上に2階を積み増したという意味だろう。屋根を両方へ流れるようにすると、もとからあった屋根との納まりがつかないので、やむなく片流れとしたというところか。
元の形と思われる民家も通りにあった。これは福井県宮津や滋賀県堅田でも見たことのあるかたちだ。能登の枠造りもこの形式の発展形だろう。この民家の道路側の屋根を解体して2階を積み増したわけだ。
機能的には2階はたいして広くないのでさほど意味があるとは思えない。道路側からの外観を町家風に見せたかったというのが動機ではないか。無理やりすぎると思う。それともなにか他に理由があったのだろうか。
2025年5月11日 (日)
2025年5月 9日 (金)
西郷從道邸の陶器製暖炉枠
北前船拠点の三国湊(6)森田銀行の六角形モザイクタイル
床仕上げが人造石研ぎ出し仕上げだった。竣工時からこうなのだろうか。最初見たときは現場打ちの人造石研ぎ出しだと思った。その場合、真鍮製の目地棒を入れる。でも茶色いので、もしや銅製かと思ったら茶色い目地材を詰めていた。
これはいったいどういうことなのか。
工場生産の人造石研ぎ出しの板をテラゾーブロックという。これはテラゾーブロックの床材で、それを敷き詰めてから目地を埋めたのか。しかし1920年にテラゾーブロックがあったのだろうか。それとも木製の仮の目地棒を入れて現場で研ぎだしたあとで、木製目地棒を抜いて目地材を詰めたのか。そんなことをするだろうか。謎深い。
おもしろいのは目地の交差部分に白い六角形モザイクタイルを埋め込んでいること。星座のように見えてなかなかきれいだ。タイルの抜けたところを見ると、タイルの厚みは5~6ミリほどである。これは国産初期のモザイクタイルであろう。
国産の六角形モザイクタイルは伊那製陶が開発した。旧岐阜県庁(1924)が最初期の使用例として知られている。森田銀行は1920年竣工だからそれより古い。これはいったいどういうことだろうか。この床は竣工当時のものではなく後でやりかえたのか。もしくはタイルは国産ではなく輸入品なのか。それとも1920年にすでに国産六角形モザイクタイルが存在していたのか。これも謎である。
やはり報告書を読むべきだろうが、読んでも分からないのではないか、という気もする。読んでも分からな方場合、だれに聞けばよいのだろう。


2025.05.01、福井県坂井市三国湊
2025年5月 8日 (木)
2025年5月 7日 (水)
第八高等学校正門のピボットヒンジ
明治村の入り口であるが、ゆっくり見たことがなかった。まいまい京都ツアーで早めについたのでじっくり見ることができた。なかなかおもしろいデザインで見ごたえがあった。とくに驚いたのは、この扉が蝶つがいではなくピボットヒンジで取り付けられていたことだ。
ピボットとは回転軸のことだ。ヒンジは蝶つがいのことなので和訳すれば回転軸丁番とでもいうか。扉下部の片側にコマの軸のような棒が突き出ていて、それを地面に埋め込まれた金物が受けている。重さをヒンジが受けるので蝶つがいよりも重い扉を取り付けることができる。さらにここでは、もう片方に小さな車輪が取り付けられてレール上を走るようになっているのでスムーズに動くことができる。
扉の片側の上下3か所のつかみ金物は扉の転倒を防いでいる。半円形のデザインがおもしろい。ちょっと見れば、これが重さを受けているように見えるが、重さはほぼ回転軸と車輪が受けもっている。つかみ金物は扉の倒れ止めなので重さがかかっているわけではない。きゃしゃな作りは伊達ではなく、実際に重さがかかっていないのだ。したがって軽やかなデザインを実現している。
明治後半には、公共建築の正門は重い木造扉から鉄扉に変わったようだ。同時にピボットヒンジの採用も増えたのだろう。今まで気をつけたことがなかったが、この形式の門扉はもっとたくさんあったのだと思う。今後は気をつけてみる。
北前船拠点の三国湊(4)森田銀行の大理石塗装
ひょっとして大理石模様の塗装柱かと思ってまじかで見たが、そのときは本物の大理石だと思った。説明書きに大理石模様の塗装仕上げとあったので、ほんまかいな、と思ってもう一度まじかで見たがやはり分からない。で、よくよく見たら一部に表面が欠けているところがあって、漆喰下地の白色が見えたので、ようやく塗装だと分かった。
大理石模様の塗装は名古屋市市政資料館が有名だが、大阪中之島の中央公会堂にもある。それらは目を近づけると筆跡が見えるので塗装だと判別できる。ところがこれは全く筆跡がない。こんなのは他で見たことがない(あったとしても分からなかっただろう)。いったいどうやって作ったのか。
洗面器に大理石模様をつける技術がある。水槽の水に油性塗料を浮かして墨絵の要領で模様を描き、そのなかへ洗面器を浸けて引き上げると、墨絵模様が付着する。これもそうやって作ったとしか思えない。そんなことを大正時代にやっていたのだろうか。

2025.05.01、福井県坂井市三国湊
2025年5月 6日 (火)
2025年5月 5日 (月)
2025年5月 4日 (日)
2025年5月 3日 (土)
北前船拠点の三国湊(2)森田銀行の外観
江戸時代以来の廻船問屋・森田家が起こした銀行の本店。1920年竣工。こう見えて鉄筋コンクリート造だそうだ。チョコレート色のタイルがファサードを引き締めてかっこいい。薄い庇が長めに出ているのも上品で華やかだ。分からないのは出入口がなぜ2か所あるのかということ。風よけ室もなかった。銀行建築としては異例であろう。
山田七五郎設計、四折豊(地元棟梁)施工。よく知らなかったが、山田七五郎は横浜市建築課長を務めた建築家で横浜ジャックとうたわれる開港記念横浜会館の設計者だそうだ。なぜ山田が設計することになったのだろう。大正期は鉄筋コンクリートの黎明期なので、だれでも扱えるという技術ではなかった。いったい誰がコンクリートを打設したのだろう。
屋上の玉飾りと玄関庇2か所はアルミダイキャストストによる復元だそうだ。アルミの鋳物で復元するというのは聞いたことがない。触ってみてもアルミ製とは思えなかった。同じような質感のある窓枠もアルミ製なのだろうか。庇天井にダウンライトが仕込んであるのは当初からなのか、それとも復元時にこうしたのかよく分からない。復元がうますぎてオリジナルとの見分けがつかないのがもどかしい。
いろいろ分からないことが多い。「旧森田銀行本店復元保存工事報告書」(1999)を読めばわかることが多いと思う。。いつも思うが、報告書にたやすくアクセスする方法はないものだろうか。
そもそもこのタイルは武田の京大建築学教室(1922)とほぼ同じではないか。本当に竣工当時のものなのか? 目地が洗い目地なのは、目地だけ打ち直したのか? ああ、気になる。やはり国会図書館へ行くべきか。









































































































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