西大寺東塔跡(平安期末)
そもそもなぜ東大寺は東大寺というのか。それは西大寺があるから、相対的に東大寺が東大寺と呼ばれるようになったわけだ。
東大寺のそれまでの名称はなにか。大仏は金鐘山寺境内で747年に鋳造が始まった。つまり東大寺の旧名は金鐘寺である。大仏は752年に開眼供養した。担当した役所は金光明寺造仏司という。つまり金鐘寺は747年には金光明寺と改名していたのだろう。
一方、西大寺は765年に、前年の藤原仲麻呂の乱の戦死者を弔うために金銅製の四天王像を本尊として建立された。このときに東大寺は金光明寺から東大寺に改名したというわけだ。
ー747 金鐘山寺
747-765 金光明寺
765ー 東大寺
写真は西大寺東塔跡である。写真のとおり四角形平面の塔だが、これは平安末の再建時の礎石だ。当初、西大寺は東大寺同様の八角形平面の七重の塔にする予定だったが、なんらかの事情で四角形平面の五重塔として建てられたという。
しかし、発掘調査により基壇まわりから八角形の基礎が見つかっており伝聞と異なることが分かっている。このあたりややこしいので、もう少し調べてみる。
2024.12.21、奈良市
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