2024年12月
2024年12月31日 (火)
2024年12月30日 (月)
旧網干銀行 湊倶楽部(2)
外観の特徴はふたつある。ひとつは角に玄関を設けたこと。もうひとつはリズミカルな外壁だ。
角に玄関を据えれば、左右の外壁を同時に臨むことができるので、建物を大きく見せることができる。この場合は玄関部分を円筒形の塔に仕上げている。そこへアーチ窓や半円形の櫛型ペディメントを配置している。
メディメントとはギリシャ神殿の屋根の三角形の壁のことだ。元来三角形だが、そこから派生してさまざまな形がある。半円形のものは窓の庇部分などによく使われる。ここでは窓のかわりに館銘板ははめられている。
ここで注意しておきたいのは、曲面の壁に曲線のアーチ窓や櫛型ペディメントを貼り付けるのはとても難しいということだ。遠目に見てもアーチ窓は半円に、櫛型メディメントは円弧状に見える。しかし実際には壁面が曲がっているので、アーチもペディメントも三次元曲線なのだ。どちらも左官さんの仕事のようだが、これを自然に見えるように作ることは超絶難しい。
アーチ窓の下にふたつの窓がある。これもすごい。壁面の合わせて建具が円弧状に曲がっているのだ。上げ下げ窓だが、曲がっている建具が上がり下がりできるのだろうか。この建物は建具精度はものすごくよい。これも見どころのひとつである。
2024.12.09、兵庫県姫路市
2024年12月28日 (土)
旧網干銀行 湊倶楽部(1)
8月に予約した日が集中豪雨のため臨時休業となった。12月になってようやく訪問できた。
料理は創作フレンチでとてもおいしかった。ホワイトシチューとブラウンシチューの盛り合わせランチをいただいた。シチューといってもスープではなく、肉にシチュー風ソースをかけたものだった。ホワイトは播州百日鶏のステーキ、ブラウンは黒毛和牛のステーキ。どちらも柔らかくてうまみがあり、シチューソースとよく調和していた。古い建物を眺める眼福とおいしい料理をいただく至福の時を過ごした。
旧網干銀行 湊倶楽部 http://aboshiminato.club/
2024.12.09、兵庫県姫路市
2024年12月27日 (金)
2024年12月26日 (木)
2024年12月25日 (水)
2024年12月24日 (火)
2024年12月22日 (日)
西大寺愛染堂
1768年に近衛家邸宅を移築したという。本堂再建に先立って復興されたわけだ。寝殿造だというからには、当初は檜皮葺きだったのかもしれない。
南中東に3室に分かれている。南室に叡尊像がある。中室には叡尊が招来した愛染明王が本尊として祀られている。北室は客殿というが公開されていなかった。西大寺HPによれば床の間付の桃山風の座敷である。
わたしは叡尊像に出会えたのがうれしかった。生前に作られた像である。慶派の手になるのであろう。写実的な彫刻で、息遣いまで聞こえてきそうだ。
末法の代にあって僧侶の戒律をリバイバルさせた謹厳実直な僧侶なのだが、思っていたより柔和で優しい面影であった。そうかぁ、これが叡尊かぁ、と認識を新たにした。
2024.12.17、奈良市
西大寺四王堂(1674)
西大寺は藤原仲麻呂の乱のおり、孝謙天皇は四天王に戦勝を祈願した。乱の平定後に四天王を祀ったのが寺の始まりだという。その四天王像はその後戦火で損傷するが、足元の餓鬼などは奈良自時代のままだという。金銅製の餓鬼は表面が焼けて姿がよく分からないが、それでも奈良時代の彫刻が遺っているのはすごい。
四王堂は江戸時代の再建だが、中へ入ると大仏様なので驚いた。東大寺大仏殿の再建が1709年なので、こちらのほうが古い。大仏様リバイバルの初期作品と位置付けられると思う。
屋根が二重に見えるが、下層は裳階(もこし)だそうだ。裳階とは建物本体のまわりに取り付けられた庇(ひさし)のことだ。だから、本体はけっこう背が高い建物なのだ。これも大仏殿と似ている。
なぜ、背が高いのかといえば、四天王が守護するご本尊・十一面観音立象の高さが6メートルもあるからだ。これは平安時代の仏さまで、もとは京都にあったものを叡尊が四王堂の本尊として祀ったものと言われる。1145年のものとされ、定朝式のふっくらしたご尊顔の仏像だった。
2024.12.17、奈良市
2024年12月21日 (土)
西大寺東塔跡(平安期末)
そもそもなぜ東大寺は東大寺というのか。それは西大寺があるから、相対的に東大寺が東大寺と呼ばれるようになったわけだ。
東大寺のそれまでの名称はなにか。大仏は金鐘山寺境内で747年に鋳造が始まった。つまり東大寺の旧名は金鐘寺である。大仏は752年に開眼供養した。担当した役所は金光明寺造仏司という。つまり金鐘寺は747年には金光明寺と改名していたのだろう。
一方、西大寺は765年に、前年の藤原仲麻呂の乱の戦死者を弔うために金銅製の四天王像を本尊として建立された。このときに東大寺は金光明寺から東大寺に改名したというわけだ。
ー747 金鐘山寺
747-765 金光明寺
765ー 東大寺
写真は西大寺東塔跡である。写真のとおり四角形平面の塔だが、これは平安末の再建時の礎石だ。当初、西大寺は東大寺同様の八角形平面の七重の塔にする予定だったが、なんらかの事情で四角形平面の五重塔として建てられたという。
しかし、発掘調査により基壇まわりから八角形の基礎が見つかっており伝聞と異なることが分かっている。このあたりややこしいので、もう少し調べてみる。
2024.12.21、奈良市
2024年12月20日 (金)
2024年12月17日 (火)
西大寺本堂(江戸時代中期)
本堂は江戸時代の寛政年間(1789-1801)の作品だった。大きな寄棟屋根が雄大である。軒下を活き活きとした彫刻が飾る。これほど見事なお堂だったと改めて知った。
鎌倉時代の1235年、叡尊(えいそん)が西大寺に入ったとき、伽藍は荒廃を極め戒律は乱れていたという。それを立て直して西大寺流と呼ばれる土木建築の技術者集団を作った。東大寺再建(1195)を果たした重源(ちょうげん)が南宋から招聘した技術者集団が西大寺に引き継がれたのではないかと思っている。
西大寺中興の祖と仰がれている叡尊の座像を拝してきた。生前に造られたものなので、こんな風貌の方だったのだろう。彼は東大寺を最初に造った行基(ぎょうき)を尊敬していた。行基と同じように文殊を信仰していた。叡尊の造らせた文殊菩薩王が遺っている。文殊を載せる唐獅子がかわいい。そっくりな文殊像を京都黒谷の金戒光明寺でも見た。運慶や快慶のはじめた慶派の作品である。これが浪花型狛犬の遠い祖先である。
2024.12.17、奈良市
2024年12月16日 (月)
京都府庁正庁の復元シャンデリア
正庁の復元シャンデリア。これと似た本物をわたしは旧片岡邸(京都市、移築)で見た。真ちゅうパイプを曲げて作っていたと思う。これは真ちゅうにクロームメッキを施しているのではないか。ブラスバンドの楽器のようにキラキラしてきれいだ。
2024.12.14、京都市上京区
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