城崎温泉の近代建築(3)王橋
思わず駆け寄って しゃがみこんで写真を撮った。震いつきたくなるほどよい。手すりの小窓に青銅製の飾り板がはまっている。橋の手すりにこんな風に薄い青銅板をはめるのは珍しい。七宝飾りのような形だが和風というよりはウイーン分離派の香りが漂う。
2024.07.21、兵庫県豊岡市城崎町
思わず駆け寄って しゃがみこんで写真を撮った。震いつきたくなるほどよい。手すりの小窓に青銅製の飾り板がはまっている。橋の手すりにこんな風に薄い青銅板をはめるのは珍しい。七宝飾りのような形だが和風というよりはウイーン分離派の香りが漂う。
2024.07.21、兵庫県豊岡市城崎町
2019年より豊岡カバンのショップ「BAG GALLERY 玄武」。銀行>精肉店>家具店と用途が変わるたびに手が入れられ姿も変化した。屋根が掛けられ、窓サッシが入れ替わり、玄関左右の窓がショーウインドーに変わった。そうした変化をわざと残して改修しているのがとてもよい。見倣いたい。大正14年北丹大震災後の耐震建築の事例のひとつ。詳細不詳。
豊岡市立歴史博物館館報(2020年度)pp22-26 豊岡市の近代化遺産
https://www3.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/kanpou/kanpou2020.pdf
2024.07.21、兵庫県豊岡市城崎町
京都市北山の歴彩館でスライドショーを開く。おなじみ京都市京セラ美術館と府立図書館を取り上げる。ディテール愛あふれたヲタク話になる予定。乞うご期待。
有料、要申し込み。
公式HP
https://rekisaikan.jp/news/post-news/post-15071/
土気の作用にはふたとおりある。ひとつは「土克水」の相克の関係だ。土気は水気を制御する(克す)という意味で、水防のための働きはこれだ。もうひとつは「土生金」の相生の関係で、土気が金気を生み出すという意味となる。
水防のために土気の女神を祀れば、副作用のように「土生金」の働きも作動するいうわけだ。「土生金」とは商売繁盛の働きだ。西宮社のエビス神も伏見稲荷本社のイナリ神も土気の神だが商売繁盛の御利益で知られるのはそのためだ。三井家は土気の神を祀るのはそのためだろう。
つまり、こういうことになる。三井家はかねてより元タダスの森の土気の女神を崇敬していた。それは土気が金気を産み商売繁盛につながるからだ。その後、三井家は下鴨のタダスの森に社地を求めて土気の女神を祀った。それはタダスの森も土気の女神タマヨリヒメの統べる聖地であったからだ。
下鴨メモとしてはここで終わる。ただし違和感が残る。今後のためにそれもメモしておく。
(三井神社の存在)
河合神社の門前に三井社がある。三井家との関係は不明だが無関係とは思えない。三井社は蓼倉郷の祖社とある。蓼倉とは下鴨の高野川よりの地域でいまも蓼倉町や蓼倉通りの地名が残る。3神を祀るので元は三身社と言ったのが訛って三井社となったという。ご祭神は鴨氏の祖カモタケミツヌの命、その妻イカコヤの姫命、その娘タマヨリ姫の3柱だ。
(三井改名の理由とされる3つの井戸の伝説)
まだ藤原姓だった三井家が赴任したのが滋賀県のどこか明記されていない。わたしは三井寺のあたりではないかと思う。なぜ三井寺なのか。何の任務を帯びて赴任したのかは分からない。三井寺には、天智、天武、持統の三帝の産湯をつかった井戸があるという。その井戸に尊称の「御」を当てて御井(みい)と呼んでいたのが三井となった。木島神社のご祭神も日向三代の三帝であった。
(わたしの未完成な推理)
三井家はもともと鴨氏の一族ではないか。三井という言葉はタダスの森にある泉をいうのだろう。三帝誕生の産湯であるというのは、そこが神産み儀礼が行われる泉であること示す。3は木気の数なので、伝説にはなにかと3が登場する。
三井寺にも三井のある神産みの森があるのだろう。神産みの籠り森はタマヨリ姫の領域だ。タマヨリ姫は誕生を象徴する木気の神であると同時に、洪水を制御する土気の神でもあった。三井家はタマヨリ姫を祀り、家運隆盛を木気の神徳に、商売繁盛を土気の神徳に願ったのではないか。
三井家は下鴨の火の三合の頂点に池の庭園をつくり木島神社の分霊を祀った。池にはミタラシ川の水を引き入れた。つまり三井別邸はタダスの森の写しなのだろう。正三角形と池との組み合わせが三井そのものを象徴している。
2024.07.06、京都市下鴨神社
タダスの森は神産み儀礼のために巫女が籠る森だということをみてきた。木島神社の元タダスの森も同じであろう。元タダスの森には三柱鳥居の据えられた泉があった。その泉はミタラシ池と呼ばれ夏の土用にミタラシ祭が行われる。これも下鴨社と同じだ。下鴨ではミタラシ川でミタラシ祭を行う。
下鴨社には三柱鳥居はないが、正三角形をした土手がある。これは拙著「京都の風水地理学」で紹介した火の三合である。本を書いた7年まえには気づかなかったが、ちょうど三井別邸が頂点となる。底辺は河合神社前の東西道だろう。河合神社と三井別邸は正確に正三角形の中心軸上にある。
円満字洋介著「京都の風水地理学」より引用
グーグルマップを使って作図
この正三角形は南を指すので火の三合(さんごう)といいう。三合とは4つの季節の気の生(生まれる)・旺(さかんとなる)・墓(死ぬ)の時期を示したものだ。
火気である夏は暦の上では4~6月である(旧暦)。しかし4月にいきなり火気の季節に移行するのではない。火気は1月に発生して次第に盛んとなり5月に頂点を迎える。その後は下降し9月には死ぬ。1、5、9を12ヶ月の円環上にプロットすると火の三合となる。
季節を地上に写せば冬至が北、春分は東、夏至が南、秋分が西だ。したがって火の三合を地上に描けば南を頂点とし東西軸を底辺とする正三角形となるのだ。
下鴨社のタダスの森の南側に火の三合を造成したのは、土気を増やすために火気を供えたのだろう。火生土の相生の関係を使った予祝儀礼だ。この場合の土気とは土気の女神であるタマヨリヒメを指し、土気の神を盛んとすることで鴨川流域の治水の安定を願ったのだろう。
ではなぜ三井別邸は、この正三角形の頂点に別邸を設けたのか。長くなったので続きは明日。
三井家は呉服を商っていたので、蚕の社として知られる木島(このしま)神社を信仰していた(三井広報委員会HP)。境内に三井家のための小祠を設けて顕名霊(あきなれい)社と称したのが1751年。その後明治維新の廃仏毀釈の嵐を避けるため、顕名霊社は京都市内の三井総領家内に避難させた。
その後下鴨の地に社地を得て移築(1909)し、別邸(1914)を設けた。戦後に三井家は財閥解体され、顕名霊社は三井総領家内に引き取る。
昭和33年京都の総領家邸は処分され、顕名霊社は親戚である旧福井藩主松平家の佐佳枝廻社(福井城内)へ移った。その後、佐佳枝廻社周辺開発により立ち退きとなり東京西麻布の三井総領家邸へ移る。平成6年に総領家邸解体にあたって顕名霊社は向島の三囲(みめぐり)神社境内に移り現在にいたる。
江戸時代に三井家は向島の三囲神社を信仰していた。三囲の文字に「三井」が入っているからだという。三囲神社は稲荷社である。明治になってから三井家は木島神社の三つ柱鳥居を模してものを寄進している。
このあたりまでが三井家広報委員会HPに載っている。詳しいので助かる。さて、ここまで読めば「三井」の意味が分かってくる。
結論から言えば木島神社にある三つ柱鳥居が三井なのだろう。
円満字洋介著「京都の風水地理学」より引用
三井家は当初藤原姓だった。平安時代末期に近江へ赴任するにあたり三井姓に改めた。任地で財宝の隠された三つの井戸を発見したからだという。三井の意味が三つ柱鳥居であるならば、改名の理由は三つの井戸の発見ではなく木島神社への信仰が動機となる。
木島神社のご祭神は5柱ある。アメノミナカヌシ神、オオクニタマノの神、ニニギの命、ホホデミの命、ウガヤフキアエズの命。アメノミナカヌシは世界誕生時に顕現した神のひとつ。オオクニタマは神格不詳ながら国土を示す神だろうとも言われている。残りの3命は天孫降臨後の日向三代だ。系図を書くとこうなる。
ようやくタマヨリ姫が出てきた。ただしこのタマヨリ姫は鴨氏のタマヨリ姫とは別だ。ウガヤフキアエズの命の妻のタマヨリ姫は母のトヨタマ姫の妹で海蛇神である。下鴨者のタマヨリとは別神なのだが、結局神産みの巫女という立場は同じだ。トヨタマやタマヨリとは神の依り代となる巫女というほどの意味なのだろうと思う。
繰り返すが、出産や誕生は木気の作用である。神産みの森は木気の聖地なのだ。したがって木島神社の元糺の森も下鴨社の糺の森も同じ木気の女神の統べる霊地となる。ならば三井家が元糺の森に代えて下鴨の糺の森に顕名霊社の社地を求めたのもうなづける。
長くなったのでラストは次回に。
久しぶりに下鴨神社を参拝した。気づいたことがあるのでメモしておく。
下鴨神社のご祭神は鴨氏の祖・カモタケツヌミの命とタマヨリヒメの命の二柱である。タマヨリ姫は丹塗り矢によって妊娠し雷神を生んだ。そのワケイカヅチ神は上賀茂神社に祀られた。
平安遷都の際に西の松尾社と東の鴨社は都城を守護する祭祀場となった。西の松尾社は七赤金星の沢、東の鴨社は三碧木星の雷と易によって読み替えられたのだろう。
鴨氏は天皇家と並ぶほどの旧家である。彼らの祭祀する糺の森は、もともとは氏神である雷神を再生させる霊地だったはずだ。再生や誕生は木気の役割だ。都の東は木気の領域なのだから、糺の森は王城守護の再芝としてふさわしい。
ただし鴨社には水防のための土気の神の役割もあった。この場合、土気なのは神を産んだタマヨリ姫のほうだろう。人体は最強の土気であるからだ。タマヨリ姫は賀茂川‐鴨川流域の水防を司る土気の神であろう。
下鴨神社の楼門は真っ赤だった。境内に入ると素木造りのモノトーンなので、そのコントラストがおもしろい。赤い門は土気の神にささげられた供物である。なぜなら土気は火気によって強められるからだ。赤は火気の色である。
神産みの呪具である矢が赤いのも同じ理由だろう。さらに糺の森では競馬が行われる。馬(午)は火を示す動物だ。
極め付きは賀茂川と高野川の合流地点を60度に造っていることだ。糺の森の南側に正三角形の土手があることになる。南向きの正三角形は火の三合である。
火気のものを供えることでタマヨリ姫の人体を強め、神産みの安全を祈願するのだろう。糺の森は神産みのための木気の霊地であり、そこには土気の女神タマヨリ姫が降臨する。糺の森は水防治水を祈願する霊地でもあった。
要約すると、糺すの森には雷神再生を願う木気の信仰と、水防を祈念する土気の信仰のふたつが両立していた。
さて、ここまでが前書きである。
火の三合については拙著「京都の風水地理学」でも述べた。今回、三井別邸と糺の森の関係について気づいたことがある。続きはあした。
2024.07.06/ワトソン紙、グラフィックペン0.5、透明水彩/京都市、下鴨神社
多奈川線にはコンクリート製のアーチ橋がいくつかある。これは深日(ふけ)町駅の横の3連アーチ。アーチ頂部のコンクリートの厚みが40㎝程度と薄いのがかっこよい。
写真を見ていて気づいたが、アーチの中央で漏水しているので、中央から南北それぞれ別にコンクリートを打設しているのだろう。つまり打設時期が違うことになる。最初単線として開業したものが戦後に複線化して、そのときにアーチも増し打ちしたのだろうか? とすれば深日の架道橋も戦後ということになる。
ウィキによれば架道橋下の大阪府道752号線は戦前に整備されたものらしい。ただし、架道橋下部分は交差点前のために道路が拡幅されているようにも見える。拡幅があったとすれば、架道橋はやはり戦後のものかもしれない。
2024.06.29、大阪府岬町
古レールを使ったプラットフォーム上屋があった。70年代のものに見える。構造がシンプルで美しい。とくに柱が2本抱き合わせなのがよい。特急待ちのあいだにレール文字を探したところ、はっきり読める場所を見つけた。
「CARNEGIE 1897 llllllllllll NANKAI」と読める。アメリカの製鉄会社カーネギー社が1897年12月に作ったレールである。NANKAIとあるのは、南海電車用に製造したことを示すのだろう。llllllllllllと「l」が12個並ぶのは12月を表すロット記号と思う。
南海電車のHPによれば、1897年10月に堺ー泉佐野間を開業、1903年3月までに難波ー和歌山間を全通させている。その間に納入されたレールであろう。
2024.06.29、南海電車みさき公園駅
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