京都国際写真展がおもしろいのだが
内外の写真家を招いて開かれている。美術館外で臨時に開かれた会場がおもしろい。禅寺の塔頭や今は使っていない印刷工場跡など。場所が展示施設にあざやかに変身した姿に驚く。わたしとしては、そこのところに注目したいと思って歩き始めたのだが、見ていくうちに写真の迫力に魅入られてしまった。そのことをメモしておきたい。
大きく分けてアート系とジャーナル系のふたつがある。わたしがおもしろかったのは主にジャーナル系だ。
スフェラでは、数年前のイランの大規模なデモで亡くなった者の生前のビデオを集めた作品があった。ビデオのなかの彼らは笑っていたり踊っていたり楽しそうだ。もう死んでいるとは信じられない。これらはSNSの投稿された抗議ビデオを再編集したものだそうだ。ふーんと思ったのが魅入られた最初だった。
文博はアマゾン奥地の原住民の生活を撮ったドキュメンタリーだった。体中に赤土を塗り、顔に葦の管を突き刺している。そんな写真や映像が流れる背後に彼らの不思議な音楽が流れ続ける。赤土は疫病除けの呪術だろう。葦の管は女の子たちがしているのでイニシエーション儀礼なのだろう。そうしたこどもたちの真剣な目つきがおもしろい。カメラが怖いのかもしれないが、むしろ身体ひとつで自然の脅威と向き合っている真剣さを感じた。
嶋臺ギャラリーはジプシーの写真だった。写真家はすでに故人で、60年代にセンセーショナルなヌード写真で有名になった人だそうだ。ジプシーが年に一度集まって祭礼を行うアルルという町の出身で若いときから彼らと交流があったそうだ。
写真家は音楽家でもあったので、祭祀でバイオリンを弾いたりしたそうだ。作家の履歴がジプシーを撮り続けた作品の一部となっている。アマゾンにせよジプシーにせよ、その写真を撮らせてもらうまで、どれほどの時間を費やしたのだろう。写真は一瞬だが一朝一夕には撮れない。
会場が適度な間隔で配置されているので、ついつい歩き過ぎる。それもこの写真展の特徴だし楽しさの元だと思う。インターバルはクールダウンのために役立つし、歩き疲れた脳には作品がすっと入ってくる。
日暮れ時、くたくたになりながらたどり着いた旧明倫小学校の展示にもっとも感動した。「こどのたちの眠る場所」という作品だ。世界中のこどもたちの寝場所を撮った写真が大きなパネルとなっている。その脇にそのこどもの名前と写真と略歴が書かれている。そのパネルが40人分ほどあった。
寝場所はぬいぐるみで飾られたベッドであったり、難民キャンプのテントの土間であったりする。こどもたちは難民であったり、ストリートチルドレンであったり、病気であったり、ドラァグクイーンであったりとひとつとして同じものがない。こどもらは見た目普通なのだが、その環境が多用でそのことが寝場所に如実に表れていて感動した。
それは写真が切り取った現実というようなあいまいなものではなく、写真でしか表せない真実なのだと思う。そのこどもらの境遇を私はほとんど理解できない。おめかしして真剣なまなざしで立っている目の前の彼らと私とのあいだに遠い距離がある。この距離感こそ大事なのではないか。それは遠くても必ず会いに行ける距離なのだ。この距離感が写真のリアリティなのだと感じた。
思い返せばイラクもアマゾンもジプシーも距離感が明瞭だ。これがなければ平板な作品に終わってしまうだろう。距離感を際立たせるために写真家は膨大な時間を積み重ねるのだろう。好きでなければできない仕事だ。写真はおもしろい。
京都国際写真展 5月12日(日)まで 各会場有料
https://www.kyotographie.jp/
2024.05.05、京都芸術センター(旧明倫小学校)
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