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2024年2月

2024年2月29日 (木)

裏千家住宅(7)兜門=甲門か

名前は兜といかめしいが、なかなか愛らしい門である。名前の由来は敷地の内側から見ると兜に見えるからだという。ただし、なぜこうしたのか分からないという。玄々斎が大徳寺龍光院の兜門を模して造った。

兜は甲とも書くので、わたしは甲(きのえ)門なのだと思う。甲とは木の兄(え)のことで活性化した木気をいう。裏千家が利休を祀ることで茶道の再生を祈る家であることを示すのだろうと思う。

もしくは唐破風の変種なのかもしれない。もしそうであれば破風を道路側に向けねばならない。なぜなら唐破風は神仏の通り道をだからだ。そうしていないのは茶道再生を祈るのは千家の裏の営為であることを示すのかもしれない。

(追記)
実質的に千家を起こしたのは3代宗旦だった。かれが千家を3家に分割したのも、3が木気の数字だからだったような気がする。

はしなくも裏千家住宅(今日庵)を訪れる機会に恵まれた。連載はこれで終わるが、数寄屋建築は思いのほかおもしろい。今後も勉強を続けていきたい。
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2024年2月28日 (水)

裏千家住宅(6)龍穴の祖廟

 咄咄斎の見学のあと、その北側の中庭まわりの茶室をい拝見した。いずれも玄々斎よりも新しい時代のものだそうだ。その茶室に挟まれて巨大な松があった。臥龍(がりゅう)の松という。

臥龍とは龍が臥(伏)せる姿をいう。その名のとおり大枝が地面を這った後に再び立ち上がっている。松は大地に吸い寄せられるように枝を下げる性質がある。そのことも松が土気と言われる理由だろう。樹齢は不明だそうだ。見たところ200年くらいか。ならば玄々斎のころだろう。

松は直径20メートルほど枝を伸ばしている。松を囲む咄咄斎と新しいふたつの茶室は巨松の枝の下だ。新しいふたつの茶室は松の枝の下に設けられたといってもよいだろう。松の下に茶席を設ける構成は咄咄斎に倣ったように見える。

さて、この臥龍の松の示す意味とはなにか。

これはこの庭が龍穴であることを示すのだろう。この庭は裏千家住宅(今日庵)の長年の建て増しによって狭くなっているが、3代宗旦のころは霊水の湧く森だったろう。その霊水こそ梅の井であり、そのそばに利休を祀り小さな茶室を建てた。これが裏千家の始まりである。

龍穴とは人体のツボのように気の出入りする場所をいう。東洋では大地は人体と同じように生きていると考える。したがって人体と同じように気が出入りして初めて健康を得るのだ。この大地のツボが詰まると大地が病む。ツボはいつでも清浄に保つ必要があるのだ。龍穴を保つために庭として整備するわけだ。茶は人体を強める医療として始まったように思うが、本当は大地を清浄に保つための呪法なのかもしれない。

宗旦は梅の井のまわりに今日庵、又隠、寒雲亭の3つの茶室を編んだ。やはり3である。梅は春、つまり木気を象徴する。したがって茶室も3つになるのかもしれない。それぞれ2畳、4畳半、8畳である。火気、金気、木気と3気が揃う。隣接する溜精軒が6畳なので、これが水気となる。これで5気のうち4気までが揃った。では残りの土気はどこにあるのか。それが臥龍の松なのだろう。この巨松は、ここが龍穴の霊地であることを示すとともに霊水・梅の井のまわりにレイアウトされた5つの気のカードのうちの1枚でもある。
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2024年2月27日 (火)

裏千家住宅(5)満ちる3と5と8

連載にするつもりはなかったが、つい長くなっている。書いているうちに気がつくことも多いのでつい長くなる。松の絵を描いてみた。茶室が松の巨木の木陰の風景に見える。釜の湯が湧く音を松籟(しょうらい)という。風になびく巨松の音が聴こえるようだ。

(おさらい)
裏千家の御祖堂に隣接する茶室・咄咄斎に土気の5と木気の3と8が満ちていることを書いてきた。五気は次のように巡回する。

木気→火気→土気→金気→水気→木気

五葉松の土用によって茶の火気が発動する。その火気によって御祖堂の利休の土気が強くなる。御祖が強くなればその子孫も盛んになる。そうした先祖礼拝の儀礼が行われたのが茶室・咄咄斎だったろう。

茶室の名の由来である咄咄斎は千家3代目の宗旦だった。五葉松を植えたのは8代目又玄斎(ゆうげんさい)だ。ここにも3と8が出てくる。このふたりを持ち出した時点で3と5と8のコンボはなりたっている。

3+5=8

この数式は、未活性である木気の3に土用の5が加えられて活性化された木気の8になるという意味だ。活性化された木気は誕生と再生を司る重要な気となる。3や8が縁起がよいと言われる所以はここにある。

咄咄斎を示す3は五葉松の5が加えられて活性化した木気の8となる。この茶室は茶を点てなくとも再生と誕生を予祝する装置となっている。

1788年、天明の大火。京都の市街地の8割を焼いた史上最大級の都市型火災と言われている。このときに裏千家住宅(今日庵)も焼失したという。このとき又玄斎手植えの五葉松も焼けたのだろう。その古材で咄咄斎は編まれたわけだ。

又玄斎(1719-1771)が家元となったのは1733年、1758年には宗旦100年忌を行っている。そのころに五葉松を植えたとすれば天明大火時で樹齢30年となる。咄咄斎の床柱の松は直径20㎝くらいなので30年くらいに見える。この床柱は天明大火で焼けたものを切り出したのかもしれない。

大火後すぐに裏千家住宅は再建されたという。 年表をメモしておく。

1733 8代又玄斎が裏千家家元となる
1771 9代不見斎が裏千家家元となる
1788 天明大火
1789 裏千家住宅(今日庵)の再建
1839 利休250年忌に咄咄斎の前身である稽古の間を作る
1856 宗旦200年忌に稽古の間を咄咄斎に改造する
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2024年2月26日 (月)

裏千家住宅(4)なぜ咄咄斎は8畳敷きなのか

茶室・咄咄斎は利休を祀る御祖堂と隣り合わせだ。ここでお茶を点てれば利休に供えることになるという。玄々斎は最初から利休への献茶場としてこの茶室を編んだのだろう。

炉の前には大きな下地窓があって御祖堂とつながっている。常からは障子が立てられていて隣室が見えるわけではない。しかし、なんらかの行事の際には障子が外されて御祖堂とつながるのではないか。たとえば年始のお茶は最初に御祖堂に祀る利休に奉じるという。そうしたときには障子は外されるのかもしれない。

茶は火気である。茶を喫することで土気である人体が強められる。これが喫茶養生の大前提となる。

松は土気である。木偏に公と書く字のほかに木偏に白と書く文字がある。この白は六白土星に通じるので土気だというわけだ。土気の作用を土用という。土用によって土気以外の4つの気は活性化する。さて咄咄斎に満ちる土気はなにを活性化させようというのか。

咄咄斎の松は五葉松であった。葉が5つに分かれる松である。5は土気を象徴する数字だ。その松の床柱には3つの節があり、それを堂々と茶席に向けている。デザイン的に考えれば節のようなものを正面に向けないだろう。やはりこの松はご神木として立てられているように見える。3は木気を示す数字だ。このご神木は土気であると同時に木気でもあるのだろう。

木気の3は土用の5によって活性化した木気となる。活性化した木気を示す数字は8である。咄咄斎が8畳敷きなのは偶然ではない。

活性化した木気にはどのような働きがあるのか。

活性化した木気は火気を生むのである。その火気もまた茶室に満ちる土用によって活性化して土気である人体を強める。その人体とは御祖堂に祀られる利休であろう。利休は今も生きた人体として祀られているように見える。祀られた利休が活性化することによって裏千家の繁栄が約束されるという考え方なのだろう。先祖崇拝の茶による形式化が玄々斎によって行われたように私には見える。
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2024年2月25日 (日)

裏千家住宅(3)茶室「咄咄(とつとつ)斎」

玄々斎(1810‐1877) は1856年に宗旦200年忌のために茶室・咄咄斎を作った。元からあった稽古の間を改造したという。稽古の間も、玄々斎が1839年に利休250年忌のために作ったとされる。咄咄斎とは利休の孫の千宗旦のことだそうだ。彼は千家を現在の3家に分けた人物である。玄々斎は、利休忌のための茶室の名を宗旦にちなんでつけたわけだ。

茶室咄咄斎を見学して一番驚いたのは薄暗がりのなかで怪しく光る野太い松の床柱だった。そもそも松の床柱が珍しいし、これほど太いものもあまり見ない。次に目に入ったのはタテヨコ交互に張られた市松模様の松材の天井である。これも珍しい。デザイン的にもおもしろい。ただしデザイン的に見れば太い床柱の主張が強すぎる。なぜか。

五葉松の床柱は茶室のための部品ではなく、床柱こそ茶室の主役なのだろう。結論から言えば、これは家の繁栄を願う生命の樹であろう。そう思って改めて茶室を見れば、太い床柱が松の巨木の幹であり、市松に張られた天井が空を覆う松の枝葉に見える。

この天井板と床柱の松は裏千家の庭園にあった「又玄斎(ゆうげんさい)お手植えの五葉松」だそうだ。又玄斎(1719-1771)は表千家と協力して茶の稽古法・七事式を作った。稽古法が定まり千家の茶道が町民のあいだで大流行した。又玄斎は裏千家中興の祖と呼ばれる宗匠である。

その手植えの松を主役に玄々斎は茶室を開いた。それは又玄斎の遺風を受け継ぐ意思表明であった。同時にデザイン的にみれば
又玄斎の五葉松は今でも茶室となって生きているという表現となっている。おもしろい。

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2024年2月24日 (土)

裏千家住宅(2)年越しの茶事

畳を敷いた廊下のような場所がおおみそかだけ茶室になるという。そこで使った湯と炭を残しておく。翌元日早朝の初釜では、残しておいたおおみそかの湯と炭に新しい湯と炭を足して使うそうだ。水と火の再生を願う儀礼に見える。水は梅の井を使う。炉は梅の井の真ん前にあった。

おおみそか専用のこの茶室は溜精軒と名付けられている。玄々斎が杓の柄を使った下地窓のある袖壁を作ったという。もともとは炉を切らずに風炉で済ましていたのかも知れない。梅の井に菊花石の手水鉢を据えたのと同時にたたみ廊下を茶室に改造したのではなかろうか。ヒシャクの柄は梅の井の象徴だろう。ならば、この茶室に溜めるべき精とは梅の井の水の精だろう。

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2024年2月22日 (木)

裏千家住宅(1)割れた敷石と3つの玉石

文化財の裏千家住宅を見学した。天明大火後の再建だそうだ。裏千家住宅の風水的な意味について気づいたことがあるのでメモしておく。

増築を重ねた屋敷の狭い中庭に梅の井と呼ばれる井戸があった。梅の花の形の滑車が名の由来との説明だったが逆だろう。梅の井という名前だから滑車が梅鉢型なのだと思う。

井戸と縁側との間に菊花石の手水鉢があった。尾張徳川家から拝領した名石だそうだ。菊花石は菊形の模様の浮き出た石のこと。実際に直径5センチほどの菊模様が点々と浮き出ていた。

菊花石の前の敷石が不思議な配置をしていた。図にあるように短冊形の敷石をふたつに割って、その間に3つの玉石を置いている。最近になって置かれたように見えるが、当初からこのままだったのかもしれない。

この意味は分かりやすい。石を割るとは金気を克す(=減らす)こと。3は木気を表す数字だ。つまり木気が嫌う金気を割ることによって木気を盛んにするという意味だろう。木気は生命誕生を象徴する。石が丸いのは卵をかたどったのだろう。

これは菊花石と梅の井との関係を示している。梅は木気を、菊は水気を象徴する。木気は水気から誕生するから、水気の菊水石を供えれば木気の梅の井は盛んとなるのだ。菊花石は梅の井の木気を盛んにするための供物であろう。

菊花石を据えたのは11代家元玄々斎(1810‐1877)だそうだ。ウイッキによれば、玄々斎は愛知県岡崎市の奥殿藩(幕末に大給藩と改名)藩主である松平家の息子として生まれ9歳のころ10代家元の養子となった。19歳で襲名し、20歳で尾張徳川家に茶道伝授したという。菊花石はそのときの拝領かもしれない。裏千家住宅は玄々斎の代にほぼ現在の形となったという。

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2024年2月21日 (水)

諏訪立川流研究(16)善光寺経蔵(1759)

経蔵は三門のあとに再建された。三門と同じ善光寺大工・宇右衛門の作品だそうだ。屋根とお堂のプロポーションが美しい。ヒワダの屋根が伸びやかで軽やかなのもよい。扉の影から巨大な輪蔵が顔をのぞかせるのもおもしろい。

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2023.08.30、長野市

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2024年2月20日 (火)

京菓子司「平安殿」

後ろの建物がアメリカ屋っぽい洋館だ。近代化遺産リスト未掲載物件で詳細不明。2階の天井高さが高いのが謎。ダンスホールでもあったのだろうか。軒先を見ると屋根の骨組みは洋風トラスであることが分かる。ちなみに平安殿さんは1951年創業とある。

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2024.02.10、京都市東山区、平安殿

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2024年2月19日 (月)

地下鉄本町駅の天井が開いた

この鉄骨下地は開業当時のものではないのか。そんな気がする。それにしても、なぜ本町駅だけヴォールト天井ではないのか。ここだけはオープンカット工法だったのか。謎である。

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2024.02.13、大阪市

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2024年2月18日 (日)

七宝模様の鉄の柵

善光寺の近くで見つけた。七宝模様を鉄の板で作っている。継ぎ目に小さな丸をおいたのは溶接の余地を得たかったのだろう。なかなかよい工夫だ。この小円がリズム感を生み出して美しい。

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2023.08.30、長野市

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2024年2月17日 (土)

諏訪立川流研究(15)善光寺本堂(1707)

思っていたより大きかった。ゆるやかに羽を広げた大型飛行艇のようでかっこいい。木彫は山門と同じように枠内に収まっている。作事は三代甲良宗賀(豊前)で建仁寺流だそうだ。典型的な桃山様式と言えるだろう。考えてみれば諏訪大社下社の木彫は大隅流も立川流も枠から飛び出すような作風は共通していた。1780年代に劇的な変化があったということではないか。

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2023.08.30、長野市

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2024年2月16日 (金)

長野第2分団火の見やぐら

善光寺仁王門横にあった。仁王門は大正7年再建なので、そのころのものかもしれない。床が丸くなっていて、手すり子の下側が湾曲している。なかなか愛らしい。
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2023.08.30、長野市

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2024年2月15日 (木)

藤屋御本陳の裏

ホテル「藤屋御本陳」の裏側。登録文化財となっている道路側の建物(木造3階建て、大正13年竣工)の後ろに建っている。敷地奥なのでこれくらいしか見えない。木造3階建ての洋館だが、本館と同時期のものなのかどうかも不明。

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2023.08.30、長野市

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2024年2月14日 (水)

横丁(よこまち)カフェ

善光寺門前の七味屋さん八幡屋礒五郎の開いたカフェ。てっきり大正期ごろのレンガ倉庫の再利用かと思ったら新築だそうだ。びっくり。

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2023.08.30、長野市

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2024年2月13日 (火)

雨に洗われた焼き杉板

この前を通るときいつも見とれている。板壁がとてもよい。焼き杉板の焦げた部分がほぼ無くなった状態。壁面に窓や設備がバラバラについているのも動きが感じられてとてもいい。

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2024.02.13、京都市東山区

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2024年2月12日 (月)

セレマビル(1986)

京都駅前のビアホールへ行ったら階段室がおもしろかった。三角形の敷地に建った三角形平面のビルで、尖ったところに階段室があるのでこうなった。なかなかよろしい。

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2024.02.10、京都市下京区

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2024年2月11日 (日)

京都市京セラ美術館の六角形モザイク

目地がほとんどない。モザイクタイルの目地なし施工は珍しい。個体の精度が高いのだろう。目地がないため絨毯を敷き詰めたような一体感があって美しい。

イナックスライブミュージアムで見た岐阜県庁のモザイクタイルと似ていると思ったが、全然違った。美術館のものはバリ土タイルだと思う。乾式成形で個体精度を上げているようだ。

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2024.02.10、京都市京セラ美術館
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2022.04.23、イナックスライブミュージアム

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2024年2月10日 (土)

牟礼駅跨線橋

もとは豊野駅にあったものを移してきたそうだ。鋳鉄製の親柱で、側面に明治33年新橋工場とある。新橋工場は明治村で見た。橋そのものを古レールで組み立てている。明治中頃だと、まだ鋳鉄製の柱くらいしか作れなかったのだろうか。鋳鉄柱の跨線橋は惜しげもなく壊されているが、ここは末永く残してほしい。

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2023.08.30、長野県飯綱町

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2024年2月 9日 (金)

諏訪立川流研究(14)善光寺山門(1750)

仁王門は1847年の善光寺地震で焼失したが再建された。復元された仁王門は立川流だったのだろう。だから明治の大火(1891)後の再建(1918)も立川流だったわけだ。

山門は1750年の建築で大隅流であろう。中央の3間が通り抜けられる。天井の高い回廊で気持ちがよい。四半敷きの床もかっこいい。彫刻は高い場所にあってよく見えないが、枠のなかにきっちり納まっている。1780年諏訪下社は、大隅流も立川流も奔放に枠からはみ出していた。それ以前だとこういう納まりなのだろうか?

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2023.08.30、長野市

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2024年2月 7日 (水)

もうひとつの現存最古の駅舎

信越本線開業当時の駅舎を調べている。信越本線は、明治19年に新潟県の直江津から関山まで、明治21年に関山から長野県の上田まで開通した。2015年に路線を3つに分割され民営化されている。

開業当時の駅舎は直江津、高田、新井、関山、田口(現妙高高原)、柏原(現黒姫)、牟礼、豊野、長野、篠ノ井、屋代、坂城、上田の13駅。そのうち残っているのは牟礼(むれ)駅しかなかった。

民営化に伴って改造されているがよく当初の姿をまもっている。ここまで来たかいがあった。ちなみに屋根上の煙抜き状のものは改造時に付け加えられた飾りらしい。こういう改変はやめてほしい。

いまのところ現存最古の駅舎は明治19年の亀崎駅(愛知県半田市)だと言われている。牟礼駅は本来明治19年に開業予定だった。しかしコレラの全国的な流行によって工事が遅れて開業が21年にずれこんだ。

わたしは部材の刻みは19年に終わっていたと思う。だからこの牟礼駅は亀崎駅とほぼ同時と言って差し支え無かろうと思う。

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2023.08.30、長野県飯綱町

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2024年2月 6日 (火)

諏訪立川流研究(13)善光寺仁王門(1918)

2024年になっていまも立川流のことを調べている。昨夏の立川流見学メモの続きを書いておきたい。

仁王門は1752年に建設されたが1847年の善光寺地震で焼失、大正7年に再建されたとある。軒下にハト除けの金網があるので彫刻がよく見えない。柱上の獅子頭は輪郭がふわふわしていて立川流に見える。1752年だと焼けた仁王門は大隅流だったはずだが、そこはかまわないのだろう。

仁王は高村光雲、米原雲海の作。大正7年当時、光雲は東京美術学校教授、雲海は光雲の高弟だった。光雲は伝統技法保持者として帝室技芸員でもあった。そのため焼失した仁王像の復元を依頼されたのかも知れない。まだよく分からないが立川流と東京美術学校の関係に注意しておきたい。

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2023.08.30、長野市善光寺

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2024年2月 5日 (月)

グンゼ綾部本社のステンドグラス

ステンドグラスの窓があった。斜め格子に色ガラスをはめ込んでいて、外から眺めても端正な美しさがある。ランマの中央には野菊風の模様があって愛らしい。

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2023.11.18、京都府綾部市

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2024年2月 4日 (日)

グンゼ綾部本社の玄関ポーチ(2)

車寄せの庇は星型柱が支えている。星型柱はとても珍しい。それが床と同じような青いタイルで装われていて、とてもきれいだ。さすがファッションの最先端を走っていたグンゼだ。アールデコのなんたるかを完全に理解している。

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2023.11.18、京都府綾部市

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2024年2月 3日 (土)

神戸商工貿易センタービルのホールの天井

神戸の貿易センタービルの1階は天井の高いホールが四周を巡っている。その天井が丸いへこみのあるパネルでかっこいい。金属板なのだろうか。タコ焼き器のようにも見えておもしろい。1969年竣工、日建設計設計、鹿島建設施工。

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2023.11.17、神戸市中央区

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2024年2月 2日 (金)

グンゼ綾部本社の玄関ポーチ

グンゼ綾部本社の玄関ポーチの床が大判の布目タイルだった。布目タイル特有の柔らかさがあってとてもよい。当初の青色がよく残っている。涼やかで美しい。

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2023.11.18、京都府綾部市

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2024年2月 1日 (木)

菱ろくもやし

表の町家の後ろに4階建てのビルがある。見たところ昭和10年くらい。4階は戦後の建て増しだと思う。

縦長の窓の並ぶ端正な表情だ。窓が小さいので工場だと思う。屋上の一部が張り出しているがなぜだろう。京都の近代化遺産リストには載っていなかった。

もやしとは種麹のことだそうだ。種麹とは発酵食品の素になる菌のこと。麹屋さんは減っているそうだが、麹づくり体験ワークショップなど開いてらっしゃる。

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2023.12.23、京都東山区

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