永保寺庭園は月の庭だった(8)
こう考えてくると、やはり観音堂のご本尊は木気なのではないか。金気の岩から出てきたので金気の観音だと思ったが、梵音巌は補陀岩であり、補陀落山は観音浄土であるから金気と限らなくてもよいだろう。磐座の信仰は五行説が日本へ入る前からのものだろうから磐座イコール金気と短絡はできないのだろう。
さて、永保寺を訪ねたのは、京都の西芳寺(苔寺)庭園の元形を観たかったからだ。西芳寺庭園は水害を受けたようで元の姿が想像できない。文献上には観音堂があり、そこへ渡る橋がかかっていたとあるそうだ。永保寺庭園とそっくりである。
無窓を西芳寺に招いた藤原親秀は松尾大社宮司の家柄だった。西芳寺と松尾大社の中間に月読神社がある。月読神社は松尾大社の摂社である。やはり松尾にも月待をこととする巫女集団があったのだろう。西芳寺庭園も永保寺庭園と同じ月の庭だったのではないか。
足利義政は西芳寺庭園に感動した。そして母親に見せるためにそっくり同じ庭を高倉御所に作った。一草一木もゆるがせにせず、まったく同じにしたというから尋常でない。その庭の観音堂を移築したのが銀閣だとする説がある。銀閣寺庭園はご承知のように月の庭として知られている。移築が事実であれば、銀閣寺庭園が月の庭であるのは西芳寺庭園譲りだったわけだ。
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