2022年1月
2022年1月31日 (月)
2022年1月30日 (日)
旧第一勧業銀行高麗橋支店の部材(1926竣工ー1994移設)
説明書きによれば第一勧業銀行高麗橋支店の部材だそうだ。「近代建築ガイドブック」(第2刷1985)には勧銀大阪支店として載っている。西村好時設計、清水組施工で1926年に竣工している。柱頭はコンポジット式だと思うが、見てのとおり貴婦人のような清潔感のあるデザインに仕上がっている。さすが西村である。
あれは角地に立っていて、その角へ向けた丸い平面の玄関ポーチが華やかな建築だった。解体時には建築学会主催の見学会も開かれたが、仕事が忙しくて見に行けなかった。解体が決まった建物にわざわざ会いにいくのがつらいという気持ちもあった。
大阪の町にはこうした部材を見かけることが多いが、どんな顔で接すればよいのか今もってよく分からない。説明版がもう少し詳しければ当時をしのぶよすがになろうというものだが。
たぶん当時の大阪人に新古典主義建築は権威的過ぎたのではないか。その証拠に関西本拠の銀行は旧三和銀行大阪本店のようなロマネスク建築が多い気がする。ロマネスクのような中世主義建築こそ独立独歩をむねとする企業人にふさわしいと大阪人は思っていたように見える。
東京本拠の銀行の大阪支店は軒並み新古典主義となったが、いかつい建築は大阪では好まれなかったのだろう。そうした作品はあまり振り向きもされず惜しげもなく解体されていった気がする。まあ、個人的な意見だけど。
2016.02.17、大阪市中央区南船場
2022年1月29日 (土)
2022年1月28日 (金)
中沢佐伯記念野球会館(1968)
スタッコのような小さな凹凸のある外壁仕上げが陰影を生んで奥ゆかしい。最上階の窓には枠が付いている。だから最上階の窓まわりの影が濃くなる。2階窓をバルコニーにしたのも陰影をつけて3階から上を軽く浮いたように見せたかったのだろう。シンプルで端正な建物は表情が硬くなりがちだが、そうならずに軽やかでやさしい柔らかさを獲得している。相当できる方の設計をお見受けした。
朝日新聞デジタル1968年5月30日付け記事「大阪の50回大会史」によれば竣工は1968年。
2016.02.17、大阪市西区江戸堀
2022年1月27日 (木)
2022年1月26日 (水)
2022年1月25日 (火)
三榮工業
よくできた国際様式で、建物角を丸くしてその横に丸窓を配置するのが昭和初期に流行った。船のイメージだと思う。戦後に改装されているがモダンな感じはよく残されていてかっこいい。
三榮工業さんが入ったのは戦後だったそうだ。元は何だったのか不詳。「大阪の近代建築遺産」のリストにも「昭和前期」としかデータがない。
よく見れば屋上に増築しているのが分かる。また角の窓はもっと大きかったろう。丸窓の左側に鉄骨のとりついていたような跡がある。そのあたりを復元すると元の姿は下図のようになるのではないか。よく分からないがクレーンか貨物用エレベータが取りついていたのではないかと思う。また、前面道路が1階の床よりも高いことを見れば、この前に岸壁があって船が横づけできたのではないか。この建物は定期船会社の川口営業所だったのかも知れない。
2016.02.17、大阪市西区川口
2022年1月24日 (月)
2022年1月23日 (日)
住友倉庫には看板が3枚ある
看板が3枚もある。
上から順に
「株式会社住友倉庫」
「株式会社住友倉庫大阪支店」
「株式会社住友倉庫大阪支店川口営業所」
なぜ3枚あるのか?
住友倉庫HPによれば、本社は中之島に、大阪支店は天保山にある。
言わずもがなだが、ここは本社でも大阪支店でもなく川口営業所だ。
だから看板は一番下だけでいいだろう。
なぜこうなっているか。
そういう気風の会社なのか?
そもそも大阪に本社があるのになぜ大阪支店があるのかも不思議だ。
倉庫業には倉庫業にしかわからない掟があるのだろうか。
ちなみに手許の「大阪府近代化遺産」(2007)によれば、住友合資会社の設計施工で1928年の竣工となっている。設計が自前なのは分かるが施工者が直営というのうなずけない。手許の「大林組八十年史」の巻末年譜には、1929年7月に住友合資大阪川口町倉庫を竣工させている。これが正しいと思う。
2016.02.17、大阪市西区川口
2022年1月22日 (土)
NTTデータ堂島ビル(1974)
「大阪の建築ガイドブック」(第3版、1972)によれば日本電信電話公社建築局設計、大阪データ通信局舎(堂島)新築工事共同企業体(竹中工務店、大林組、錢高組、間組)施工で1974年竣工予定とある。予定通り竣工したようだ。
独特の淡いブルーのビルでとても美しい。なぜこんな色なのだろうと不思議だったが、同ガイドブックに「外装はプロフィリットとアルミ板材の組み合わせで構成されている」とあった。
プロフィリットとは溝形ガラスのことで、コの字断面の厚めのガラスの板材だ。写真を拡大してみると四角い窓にこれをタテに10~15枚ほど並べているのが分かる。この溝形ガラスのおかげでガラスブロック風の淡いブルーに仕上がっていたというわけだ。なるほどねぇ。
2016.02.17、大阪市
2022年1月21日 (金)
2022年1月20日 (木)
2022年1月19日 (水)
教育塔(島川精設計、1936竣工)
室戸台風の犠牲者を悼むために建てられた。以来、教育関係者の廟となっている。現在は日教組が管理している。
設計者はコンペで選ばれたそうだ。そういえばそんなコンペ応募案の作品集をどこかで見た(というより自分の家にある気がする)。
日教組の作ったHPによれば設計は島川精、レリーフは長谷川義起(よしおき)とある。どちらもわたしはよく知らない。手許の「近代建築ガイドブック」(1984)によれば島川精は大阪市営繕課所属とある。長谷川はウイッキにあった。東京美術学校1915年卆の彫刻家である。
島川案はすっきりとした清潔感があって廟としてふさわしいと思う。木立に囲まれたロケーションもよい。全体の構成は様式主義的だが、ディテールはほぼ建築家のオリジナルなのがおもしろい。
2016.02.16、大阪城公園
2022年1月18日 (火)
2022年1月15日 (土)
2022年1月14日 (金)
2022年1月13日 (木)
日通大阪運輸(株)梅田営業所
大阪駅周辺には巨大アーチの貨物駅やコンクリート倉庫などおもしろい建物があったが、それも今では一掃されてしまった。そのなかで今も営業なさっているのがこの建物だ。荷受け場の長大なコンクリート庇が見どころ。すっきりとさし伸ばされていてとてもきれいだ。
いくらなんでもコンクリートの床だけでこれほどさし伸ばせるだろうか。そう思ってグーグルの航空写真を見たら、庇の上に梁があった。なんと逆スラブだったのか。庇下に出っ張りを設けたくなくてこうしたのだろう。
グーグルをよく見ていたら、これは思っていた以上におもしろい建物だ。全体の構成が図にようになっている。本当にこれは鉄筋コンクリート造りなのだろうか。鉄骨のようにも見える。そもそも菱形梁の中央付近はどうなっているのだろう。戦後の建物だと持っていたが、もう少し古いのかもしれない。中を見たい。
2016.02.14、大阪市北区中津
2022年1月11日 (火)
薬師寺の塔の謎を解く(7)平城京の守護神
龍田大神は風神であると同時に疫神であった。そのことは7年前のブログに書いていた。
法隆寺の謎を解く(2013.11.14) http://www.tukitanu.net/2013/11/post-e6ef.html
法隆寺の再建が平城京建設と同時に進められていたことは着目してよい。どちらにも裳階が付けられていることは平城京守護のために法隆寺を調整した形跡ではないかとわたしは思う。調整の詳しい中身については再度検討したいと思っているが、とりあえず平城京の防疫のために金気の神様である龍田大神を祀りなおした点は動かないだろう。それは薬師寺が防疫目的の寺であることと共通している。
7年ー5年前の連載は自分でいうのも何だが、いま読み返してみてもおもしろい。とくに雲形ひじきを風、手すりの崩し卍を雷と読んで風雷益の易を導き出した推理はよくできている。なぜなら益は「国を遷すに利あり」と易経にあるからだ。まさに遷都のために法隆寺を祀りなおした状況証拠のひとつといえよう。
法隆寺の謎を解く(2)(2015.6.14) http://www.tukitanu.net/2015/06/post-5c61.html
連載の(3)では法隆寺金堂の仏像配置から聖徳太子信仰のはじまりと新国家建設との関係を推理している。書いてから5年も経っているので自分でも内容をすっかり忘れていた。おもしろいな。
法隆寺の謎を解く(3)(2016.6.26) http://www.tukitanu.net/2015/06/post-59af.html
横道にそれた。法隆寺と薬師寺のどちらもが平城京の防疫を担当するために整備されたとすれば、薬師寺の薬師如来も金気の神・龍田大神と習合していると考えてよいのではないか。薬師寺は法隆寺の出先機関として用意されたようにも見える。
法隆寺は都の南西にある。先天図によれば易の8つのイメージのうち南西に配当されるのは風である。ぴったりだ。というより龍田大神が風の位置になるように都は造られたと考えるべきだろう。つまり風の位置に風神を祀ったのではなく、既存の風神が風の位置になるように都を計画したのだ。つまり龍田大社(=法隆寺)の北東に都を置いたわけだ。平城京の立地はこうして決められたと推定できる。
龍田大神は竜田姫神でもある。それと対になるのは佐保姫神だ。竜田姫が秋を象徴するのに対して佐保姫は春を象徴する。つまり木気の神様なのだ。薬師寺が竜田姫の聖地であるならば大安寺は佐保姫の聖地であろう。やはり大安寺は木気の聖地として整備されていると考えてよい。
佐保山は都の北東にある丘陵地だ。先に見た通り先天図によれば北東には雷が配置される。雷は木気であり妊娠を示すイメージであった。竜田姫により疫病を防ぎ、佐保姫により子安を願う。これが平城京のコンセプトであろう。それはそのまま新しい律令国家体制による国家鎮護の祈りの形式そのままであろう。下に図示しておいた。
しかし、そうまでして防疫と子安の呪術を織り込んだにも関わらず平城京は疫病に襲われ、また皇室には男子がなかなか生まれなかった。そして疫病と内部抗争によって平城京は内部から崩れていった。それが奈良時代という時代であったと思う。
これで今回の連載を終える。薬師寺の塔の謎を解くうちに平城京の計画コンセプトが分かったのが今連載の収穫であった。「京都の風水地理学」を書いたのは2017年だった。その後で提出した「奈良の風水地理学」の企画は採用されなかったが、今ならもっとおもしろく書くことができよう。ちなみに前著はアマゾンでいまでも売れ続けているようだ。こんなことを書くものが他にいないので少しずつ売れ続けているのだろう。新本の版元を募集したい。
2022年1月10日 (月)
薬師寺の塔の謎を解く(6)観音の聖地・大安寺
大安寺の住所を確かめてみよう。図のように大安寺は6条東4坊に立地する。6は水気、4は金気である。つまり金生水の相生の呪術が成り立つ。水が増えて喜ぶのは木気の神様だ。それは観音であろう。大安寺のご本尊が観音であればこの住所表示はふさわしい。わたしはこのときまで大安寺のご本尊のことを知らなかった。さっそく検索してみるとご本尊は天平時代に造られた十一面観音菩薩であった。推理通り、と思った。
しかし、ご本尊は当初釈迦如来であったという。その釈迦像は1596年の慶長伏見地震で損壊したので、ご本尊を十一面観音へ変えたのだそうだ。釈迦が木気である事例をわたしは知らない。しかし他の状況証拠から考えて大安寺が木気であることは動かないように思う。
平城京図
状況証拠についてメモしておく。
まず塔の形式が木気を喜ばせるものである。ここにはふたつの七重の塔があった。7は火を示す数字だ。火は金気を克す。木気は金気を嫌うので火気を供えれば木気の神様は喜ぶのだ。塔には火克金の相克の呪術がかけられている。
もうひとつは境内の東北の角に古墳があることだ。それが乳房のかたちをしていたことから大安寺は乳がん封じの寺として信仰されている。古墳に乳房のイメージを重ねることは、ここが子安の聖地であることを示すのだろう。子安とは安産と乳児の健康を祈ることだ。
木気は四季でいえば生命の芽生える春に相当する。春は木気の季節であり生命誕生を象徴する。子安の聖地であるとは、すなわちここが木気の聖地でもあると言っていることと等しい。大安寺の安の字は子安を示すのかも知れない。
易の8つのイメージは方角にも配当される。先天図によれば東北には雷が配当される。雷は木気であり妊娠を象徴するイメージでもある。一方、古墳は土のかたまりなので土気である。つまり境内の雷の方角に古墳のあるレイアウトは、木気を土用によって盛んにする相生の呪術を成す。
以上の状況証拠から、大安寺は木気の神様をまつる子安の聖地であると推定できる。
大安寺の構成
さて、薬師寺と大安寺のどちらも数字のマジックで護られていることが分かった。当時は神仏習合の進んでいた時代である。薬師寺の薬師と習合していたのは龍田大神であることは先に見た。では大安寺の釈迦如来に習合する神はどなたであろうか。それは次回に。
2022年1月 9日 (日)
薬師寺の塔の謎を解く(5)平城京での立ち位置
薬師寺塔のかたちの話が平城京全体の設計方法にまで広がるとは思っていなかった。しかし考えてみれば薬師寺は平城京の護りとして飛鳥から移されたわけだから、平城京計画と関係がないわけがない。それは薬師寺の平城京内での住所を見れば分かる。
平城京は条坊制を敷いている。条坊制とは格子状ブロックをX軸を坊、Y軸を条とナンバリングする方法だ。平城京は最北部のブロックを1条とし南大門のある最南端のブロックを9条とした。東西については朱雀大路の左右を東1坊、西1坊とし、東西端部のブロックを東4坊、西4坊とする。図示すると次のとおり。
(図の上が南である)
条坊制に従うと薬師寺の住所は6条西2坊となる。先に見たように数字は五行に配当されている。6は水気,2は火気だ。つまりこの住所には水克火の呪術がかけられているのだ。なんと念の入ったことか。相克の呪術は三尊形式、塔のかたち、薬師寺の立地それぞれにかけられているのである。
わたしはかねがねなぜ薬師寺は朱雀大路に面していないのだろうと不思議で仕方なかった。平城京のお手本となった長安では都を護るふたつの寺院と道観は当然のことのように朱雀大街に面している。朱雀大街からお堂を見せることで国際オアシス都市長安は宗教に寛容であることを政治的に示しているわけだ。
政治状況はもちろん長安とは違うが、それでも朱雀大路に面しておれば平城京を訪れるものにここが仏教国家であることを強く印象付けることができよう。それがなぜ一筋西へ入ったところにあるのか皆目見当もつかなかったのだ。その謎がようやく解けた。住所に呪(まじな)いをかけるからこうなる。平城京の設計は見栄えよりも数字のマジックを優先している。
長安図を示しておこう。ご覧のように朱雀大街に面して寺院と道観とが並び立つ。さぞ壮観であったろう。これと平城京図とを見比べてほしい。長安の玄都観に当たるのが薬師寺だとすれば、大興善寺に当たるのは大安寺であろう。しかし大安寺は朱雀大路からさらに遠ざかるのだ。なぜ大安寺が都の端にあるのか。実はここにも五行説の数字の呪術がかけられていたのである。その謎解きは次回に。
長安図(当時の長安へ行ってみたいものだ)
2022年1月 8日 (土)
薬師寺の塔の謎を解く(4)薬師三尊という形式
さて、薬師寺の塔の風変りなかたちを易で読めば火と水であることが分かった。これを五行で読み直せば火克水であり金気のご本尊薬師如来を護る呪術であることを見た。実はこれは薬師三尊のありかたそのものだ。
というのは、易における火と水のイメージは太陽と月に置き換えられることができるからだ。すなわち薬師の脇侍である日光菩薩は火気、月光菩薩は水気ということになる。薬師三尊は金気を中心として左右に火克水の相克の呪術をまとう形式だったのである。
日光菩薩と月光菩薩とはお姿がよく似ていて見分けがつかない。しかし易によって方位が決まっている。易による8つのイメージの方位配置は先天図と後天図の2通りある(これも陰陽なのだろう)。先天図を示す。
(風水の図表は南を上とするのが標準)
先天図によれば水は西に火は東に配置される。これも陰陽による配置だろう。陽気である日は昇っていく東へ、陰気である月は沈んでいく西へ配置しているわけだ。これが入れ替わることはまずない。したがって南面した薬師三尊の場合ならば、薬師と向き合ったとき右側(東側)が日光菩薩、左側(西側)が月光菩薩となる。
元来、日本古代の塔は神そのものと考えられてきた。塔の中心にある柱がご神体もしくは依り代というわけだ。これは四天王寺型と呼ばれる寺院配置で釈迦の墓所である塔を寺院の中心に据える。ところが薬師寺では塔が東西ふたつに分かれている。つまり塔はご神体でも依り代でもない。塔は中央の薬師を護るための脇侍なのだ。平城京の造営に当たって適応された風水理論は、古来の信仰の枠組みから大きくはみ出していると言わざるをえない。
さて、薬師寺の平城京内における位置についても火と水の呪術は適用されている。この件は次回に。
2022年1月 7日 (金)
薬師寺の塔の謎を解く(3)火気を滅ぼす水気の呪術
なぜ薬師寺の塔は水克火(すいこくか)を表わすのか。それは薬師寺に祀られるのが金気の神様だからだ。金気の神様は火気を嫌う。だから水気で火気を消して金気を護るわけだ。
なぜ薬師が金気の神様なのか説明しておこう。
五行説において疫病は木気とされた。風邪のことをカゼと呼ぶのは、風のように体内に入り込むからだ。風邪をひくと咳き込むこともウイルスのようなものが息を介して体内に入ることを思わせたのだと思う。だから風は木気に配当される。
風をコントロールできる風神は疫神に変化することができるのだ。コントロールとはすなわち克すということである。つまり疫病が木気であるから、それを克す疫神は金気である。防疫は金克木の相克の関係を応用しているのである。
したがって疫神と習合した薬師も金気であることが多い(すべてではない)。薬師寺のご本尊が木製でも塑像でもなく金銅製なのはそれゆえであろう。本来、木気は春の芽生え(誕生)の季節を示すめでたい気である。それなのに疫病も表すところがおもしろい。
正月7日の七草かゆは無病息災を祈る行事だが、7は火気を示す数字なので火気によって木気を克す呪術だろう。七草かゆの行事ではまな板の上で七草を包丁で唄いながらたたく。草を金属で叩く動作こそ金克木の呪術の本体と思われる。そのときの歌にしばしば「唐土の鳥が渡る前に」とあるのは、いかにも鳥インフルを知っていたかのようでおもしろい。春は芽生えの季節であると同時に疫病の流行する季節でもあった。
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以下は付録である。この連載は付録のほうが多い。
さて、ここで五行説の数字の配当について説明しておこう。ここから先の論考で数字のマジックを多用するので承知しておいてほしい。
五行にはそれぞれ数字が配当されている。
水気 1,6
火気 2,7
木気 3,8
金気 4,9
土気 5,10
なぜこうなっているのかというと、これは暦から割り出されている。というより陰陽五行説は暦を作るための理論だといったほうがよかろう。
季節が4つで構成されるのは東アジアでは共通している。五行説は春夏秋冬を次のように五行に配当した。
春 木気
夏 火気
秋 金気
冬 水気
土用(各季節の最後の18日間)土気
五行説では土用も含めて季節は5つあると考える。われわれは夏の土用にウナギを食べるので土用は夏しかないと思われる向きもあるが、実際には土用は春夏秋冬の4回あるのだ。土用とは土気の作用のことだが、季節が変わるためには土気の力が必要なのだ。この土用の考えこそ五行説のおもしろいところだ。
土用とはなにか。各気に働く土気の作用を見ておこう。
木気から火気を発するためには土で作ったカマドが必要である(木生火)。またカマドの灰が炭火を守りさらに灰を作り出す(火生土)。大地の奥深くの土中で鉱物は成長する(土生金)。土の上に現れた岩山から水は流れ出す(金生水)。そして植物の種は土中にあって芽を吹く(水生ま木)。気は土気の作用によって次の気に生まれ変わることができるわけだ。同様に季節もまた土用が正しく働くことで移り変わることができるのである。
季節の循環を図示してみよう。
土用は各季節の最後に配される。ウナギを食べるのはこのなかの旧暦7月の土用だ。ここは春夏の陽気から秋冬の陰気に移り変わる重要な土用なのでことさら重視されたのだろう。同様に陰気から陽気に変わるのは旧暦1月の土用で、これは年末行事に反映されている。大掃除も土気を集める呪術なのだ。さて、この図に先の数字を当てはめると次のようになる。
陽気側に2と3、陰気側が4と1となる。それぞれの合計が同じ5となって陰陽同数となる。土気は5なのでこれも陰陽と同数となる。五行を1年の円環に展開させたときに配当される数字もバランスがとれているわけだ。ただし、なぜ(3→2、4→1)となっていて(2→3、1→4)ではないのかは私には分からない。
配当される数字がふたつあるがこれも陰陽になっている。1,2,3,4,5はまだ生まれたての若い気で陰気である。これを生数(なますう)という。これに土気の5を足した数字が6,7,8,9,10である。これを成数(なりすう)という。生数が陰気的数字で成数が陽気的数字なのだろう。ちなみに生も成も同じセイ、ジョウという発音なので、便宜的にナルとかナリとか呼び分けている。
さて、上の図を表に書き直すと次のようになる。
2,7 | ||
3,8 | 5,10 | 4,9 |
1,6 |
この表は黄河から現れた龍馬の背中に星の数として表されていた。馬は黄河から現れたのでこの数表を河図(かと)と呼ぶ。河図は世界の謎を解くために神が人類に与えたふたつの数表のうちの1枚である。エデンの園の知恵の実に相当する図表なのだ。世界は数字で作られている。まるでピタゴラス学派である。
2022年1月 6日 (木)
薬師寺の塔の謎を解く(2)易ではなく五行説を使う
(風水連載をはじめるとブログの閲覧数が減る。これはしかたない。わたしは書きたいことしか書けないからな)
さて、薬師寺の塔を易で読むとどうなるか。大きな屋根を陽気、小さな屋根を陰気とすれば、上から順に陽陰陽、陰陽陰となる。6つの気を上下3つずつに分けて読めば、上の陽陰陽は火、下の陰陽陰は水となる。易だと火水未済(びさい)となる。易経は未済をこう説明する。
火水未済(かすいびさい)
順調にことが運ぶ。小狐が尾っぽを挙げて川を渡り、もう少しで渡り切ろうとする時に尻尾を濡らす。なんの得もない。
(三浦國雄著「易経」)
これでは意味が分からないだろう。わたしも分からない。悪い易ではなく、どちらかと言えばよい意味に受け取る場合が多い。未済の字義は未完成ということなので、まだまだこれから希望があるというわけだ。風水的にはものごとの完成は忌むべき避けるべき事象なのだ。そのことを踏まえたとしても薬師寺の塔が未済だというのは説明できない。
以前、このことを検討したときには未済の説明がつかなくて頓挫した。「京都の風水地理学」(2017)を書いた後だった。次の執筆の注文がくれば「奈良の風水地理学」を書こうと思っていろいろ考えたのだ。けれどそのときは薬師寺の塔の読み方が未済のほかにもうひとつあることに気づかなかった。
結果的に言えば、これは易で読むのではなく五行説で読むのが正しい。至極簡単なことである。上が火で下が水なのだから、これは水克火(すいこくか)と読むべきであろう。
ここで五行説について簡単に説明しておこう。これもシンプルな理論なのだ。そしてなぜかギリシャ哲学との共通性がある。ギリシャ哲学を基礎として西洋科学が発展したのなら、五行説を基礎とした東洋科学の可能性もあったと私は思う。
さて、風水においては気が世界を作ると考えられた。宇宙のはじまりである混沌とした気のかたまりを太乙(たいいつ、太一とも書く)と呼ぶ。これがビックバンを起こして陽気と陰気に分裂した。明るくて軽い陽気は上昇し、暗く思い陰気は下降した。こうして世界は生まれた。これを陰陽論という。陰陽論は天地創造の神話なのだ。
陽気と陰気はさらに分裂を繰り返す。次の分裂では陽気が火気と木気に、陰気が水気と金気に分裂した。上下に分かれた世界のちょうどまんなかあたり、陽気でも陰気でもない中間地帯が土気となった。これらの五気が五行である。五行の行とは作用という意味で五行は五気の作用ということだ。
火や植物が上へ伸びるのはそれらが陽気であるで、水や鉱物が下へ落ちるのはそれらが陰気であるからだ。逆に言えば落ちるか昇るかによって、そのものの陰陽が分かる。
五行はさらに分裂して八卦となる。先に見た8つのイメージはここからくる。具体的に示せば、木気は雷と風に、火気は火に、土気は地と山に、金気は天と沢に水気は水となった。火と水は分裂していない。これも分裂すれば八卦ではなく十干(じっかん)となる。
さて、五気はそれぞれ変化する。ここが五行説のおもしろいところだ。変化の仕方にも陰陽のふたつの方向がある。別の気を生み出す方向を相生(そうしょう)、別の気を殺す方向を相克(そうこく)の関係と呼ぶ。相生が陽気的変化で相克が陰気的変化に当たると思う。陰陽論はあらゆるものごとをふたつに分けて考えるのが基本だ。
相生とは相手を生み出すという意味である。5つの気は木火土金水(「ぼっかどごんすい」と覚える)の順に相手を生み出していく。これは自然観察の結果だろう。木を燃やせば火が生まれる。火が消えたあとには灰(この場合は土)が残る。土の中で鉱物が育ち、岩山が水を生みだす。そして水によって植物が育ち、相生の関係は循環するのである。
相克とは相手を克すという意味だ。克すとは克服するということなので相克とは相手を殺すというくらいの意味である。5つの気は木土水火金の順に相手を克す。木は根によって土を崩す。土は堤防となって水を防ぐ。水は火を消す。火は金属を溶かす。金属製の斧は大木を切り倒す。こうして相克の関係は循環するのだ。
このふたつの循環によって世界はぐるぐる動き生きることができる。これを図示すれば五芒星となる。
ご覧のように五芒星(五角形)だとふたつの回転を図示することができる。数ある多角形のなかで対角線が循環するのは五角形だけだ。なぜそうなのかは分からないが五角形は他の図形とは違う。この特徴をもとに世界が5つの気でできていると定めたのだろう。世界が4気や6気で作られていると考えると世界がうまく循環しないのである。風水は幾何学でもある。
では薬師寺の塔が表わす水克火(すいこくか)とはどんな意味があるのか。それは次回に。
2022年1月 5日 (水)
薬師寺の塔の謎を解く(1)塔を易で読む
薬師寺の塔について考えたのでメモしておく。
薬師寺の塔は他に類例のないかたちをしている。大小の屋根が交互に重なることでリズムを生み出している。今にも歩き出しそうな動きのある造形でおもしろい。塔そのものの形や構造についても建築的な関心が尽きないが、ここではこの特異な形がなにを表現しているのかを風水を使って考えてみたい。
さて、塔はこんなかたちをしている。
上から大小大小と屋根が6層重なっている。ご承知のように小さい屋根のことを裳階(もこし)という。構造的には壁から突き出た出窓の上に取り付けられた庇であって正式な屋根ではない。したがってこの塔は六重の塔ではなく三重の塔である。
裳階は法隆寺の金堂と塔に取り付けられている。やはり本体に付加的にさしかけられた庇なので後補ではないかともいわれる。わたしは再建時に当初からあったろうと思う。なぜなら裳階があることで塔を易で読めるようになるからだ。もし後補だとすれば、薬師寺の塔をモデルとして易で読めるように改造されたのかも知れない。
ここで易について説明しておこう。易の仕組みはいたってシンプルなものだ。
易は8つのイメージから2枚を引くカード占いのようなものだ。イメージは天地、火水、雷風、山沢の4セットの計8つで構成される。そこから二度カードを引くので結果は64通りとなる。
8つのイメージはそれぞれ3つの陰陽でできている。天なら陽陽陽、地なら陰陰陰という具合だ。それぞれを陰陽で書くと次のようになる。
天 陽陽陽
沢 陽陽陰
火 陽陰陽
雷 陽陰陰
風 陰陽陽
水 陰陽陰
山 陰陰陽
地 陰陰陰
ちなみにこれは二進法に書き直すことができる。本考とは関係ないがおもしろいので紹介しておく。易は数学でもある。
天 111=7
沢 110=6
火 101=5
雷 100=4
風 011=3
水 010=2
山 001=1
地 000=0
(左が二進法、右は十進法)
さて、法隆寺の五重の塔はこうなっている。
大を陽気、小を陰気とすれば陽陽陽・陽陽陰の並びとなる。これを8つのイメージに置き換えると陽陽陽は天、陽陽陰は風だ。この占いの結果は姤 (こう)となる。
易経は占いの結果を漢字一文字か二文字で表し、その注釈を続いて記している。占いの結果なので読んでも意味が通じないことが多い。易経の姤
の注釈は次のようになっている。
天風姤 (てんぷうこう)
その女は傷ついている。娶ってはいけない。(三浦國雄著「易経」)
この易は少し難しい。まず字義から考えると天は天神だろう。さらに風は法隆寺の守護神である龍田神を指すと考えてよい。龍田神は風神だからだ。龍田神は疫病退散のためにこの地に降りてきた。風神であると同時に疫神であるのだ。
上記訳本は「壮く」をきずつくと読ませている。原文はこうだ。
姤 。女 壮(きずつ)く。用(もっ)て女を取(めと)るなかれ。
天風姤は陽陽陽陽陽陰で陰(女性)がひとつしかない。傷つくという解釈は陰気が風前の灯のような状態であることからの連想らしい。ただし逆の解釈もある。同書は女が勇壮なので娶ってはいけないとも読めるとある。このあたりは占いの解釈なので事例に応じて変わるのだろう。
もともと姤という字は美しいという意味がある。だからここは美しくて強い風神をことほぐ易と考えればよいと思う。
では薬師寺の塔を易で読むとどうなるのか。それは明日。
2022年1月 4日 (火)
夢日記 220103-4
初夢を意識していたら多少覚えていたのでメモしておく。夢は無料のおみくじであろう。
210104(今朝目覚める前に見た夢。前半は忘れた)
学生たちと市場を見学している。狭い路地が入り組んでおり昼間でも薄暗く店の灯りがまぶしが、人通りの少ないさびれた市場である。町家を改装した店舗もあったが店の中は空っぽだった。
新しいマンションの見学を学生たちとしている。入り組んだ部屋と廊下を過ぎるとこども専用の幅の狭いドアがあった。階段を降りてきたこどもがドアを開けてくれた。そこは裏山に面したバルコニーだった。真新しいガラスの手すりのむこうに巨石の断崖があり、岩のようすが神仏に見えた。
トイレに座ると眼下に四角い白い紙箱があり、なかに石鹸のようなエサが入っていて虫が集まっていた。死んだカマキリが転がっている。虫は弱っていた。
(夢読み)
入り組んだ路地や建物の内部は無意識を表わしている。人気のない市場や空っぽの町家はそこでなにかを見つけられない状況を示す。こどもや神秘的な岩山は創造性を示す。だだしそれはバルコニーのむこう側であったり人の通れないドアの先であったりして近づくことが難しい。そうしたもどかしい状況に自分があることを夢は教えてくれる。最後の虫のイメージも同じだろう。トイレは創造性を示すことが多いが、そこで見つけるのは弱った虫だけという状況だ。
210103(きのうの夢。これが初夢だろう。だいぶ忘れた)
飲み屋の入る70年代の雑居ビルの1階ホールにいる。店はほぼ無くなって空家ばかりになっていた。地下街につながっていて、そこではまだ営業しているレストランもあった。
曲がった道なりに壁面の多いビルが建っている。やはり70年代か。ここは風俗街だったはずだが、ほぼ空家になっている。
国道の広い交差点を巨大なトレーラーのような戦車が通り過ぎていく。誰もいない交差点に手書きのサインボードを胸にかかげるアジテータがいて何かを叫んでいる。関わらないようにしながら横断歩道を渡り交差点角のビルの屋上に上がる。向いの学習塾のビルが空き家になっていて壁面いっぱいにアジテーションが落書きされていた。振り返ると屋上全体が人の背ほどの草むらが風になびいていた。草むらに埋もれるようにして50年代の黒いアメリカ車が置かれていた。ほかにも屋上に小屋があって中に旧い車があるようだった。
(夢読み)
雑居ビルや曲がった道も無意識を表わす。いずれもドローンから見たような俯瞰的な視点だった。これはまだ完全には無意識と合致できていない心の状態を示すのだろう。無人の交差点や空きビルもやはり無意識に潜り込めていない状況を示す。巨大な戦車のイメージの正体は不安だろう。それに抵抗するアジテーターと自分は通じ合えない。振り返ると草むらに宝物を見つけるというイメージは、宝物は意外と身近にあるという暗示だろう。メーテルリンクの「青い鳥」のような初夢である。
2022年1月 3日 (月)
コンクリート寺院の伏見のかましきさん
HPによれば昭和53年(1978)竣工。小さいながらもコンクリート寺院の佳作である。深い軒を支えるはさみ梁のデザインが丹下健三の香川県庁舎(1958)と同じだ。設計者など詳細不詳である。
いわずもがなだが、どこが優れているのか説明しておく。コンクリート寺院はもっと評価されてよいと思うからだ。
屋上を平にした場合に防水層の縁を押さえるために高さ30センチほどのコンクリートの小壁が立ち上がる(パラペットという)。それをはさみ梁の上の軒桁のように見せた処理がうまい。
また、垂木を模した軒下の細かいリブが、無装飾のために大味になりがちなコンクリート寺院のファサードを引き締めている。
さらに、壁上のランマ窓が、暗く閉鎖的になりがちなコンクリート寺院の壁を明るく軽やかなものに変えている。
そして、床の低さと前面の回廊は本堂の親しみやすさを作り出している。
それでいて水平と垂直を強調したデザインが祈りの場にふさわしい正しさと静けさを印象づけてくれる。このデザインならば、おそらく設計者は本堂前を水面として構想していたろう。
ちなみに地獄の釜茹での身代わりとなる釜敷地蔵を祀ることから地元では「かましきさん」として呼ばれて親しまれている。
2026.02.10、京都市伏見区
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