飛騨の工(たくみ)について少し考えたのでメモしておく。
1.小屋組みの貫
まず、小屋組(屋根の骨組み)の貫について。
伝建地区の旧村田邸(村半、明治期)には小屋組に貫はなかった。小屋組に貫が入るのは関西では江戸時代後半とされている。村半には貫の入る前の時代の様式が残っているのだろう。
一方、桃山期の高山御蔵には貫が入っていた。これは高山城の遺構なのだから、高山城天守閣の小屋組みには貫が入っていたのかもしれない。
2.まっすぐな梁
ふたつめは、まっすぐな梁について。
村半も御蔵も梁はまっすぐだった。そして姫路城の梁もまっすぐなのだ。おそらく高山城や姫路城のような桃山期の城造りの現場では、まっすぐで太い梁が使えるようになったのだろう。
そうした木材の一大供給源が飛騨であった。「まっすぐ」というのは規格材、ようするに既製品であることを示しす。つまり発注時に長さと太さと本数を指定するとき、形はまっすぐであることが前提となる。まっすぐな材は桃山期に飛騨材が既製品として流通していたことを示すのだろう。
元来、木挽きも大工もひとりで行った。鎌倉時代の重源は東大寺再建のための材を探して山口県まで杣(そま)入りした。杣入りとは山で用材を探すことだ。材は製材されたうえで奈良へ運ばれた。伐採>搬出>製材>運搬>現場という流れのすべてを重源が行ったということになる。ところが桃山期には伐採>搬出>製材>運搬までを産地側が担っている。城下町造りによる木材の大量消費が流通形態を変化させたのだろう。
3.日本建築の継承者
ここからは私の仮説である。
建築工程が製材と建築に分かれたとき、重源の保有していたような建築技術は産地と都市のそれぞれに分かれて受け継がれたろう。産地側で建築技術を受け継いだのが飛騨の工だったわけだ。
もちろん飛騨以外の産地にも工はいたろうが、地方ではそれほど都市と産地の分離は進んでいなかったのではないか。飛騨と同様の産地として分離したのは奈良県の吉野などがそうだったかも知れない。
飛騨には重源以来の日本建築の伝統が残ったわけだ。それを飛騨の工と称したのではないか。城造りの際に飛騨の工は木材供給だけではなく技術指導も行ったのではないか。江戸期になって城造りは禁止され飛騨の工は幕府直轄となった。高山陣屋は飛騨の工の取り締まりの拠点として整備された。幕府は木材供給の独占だけではなく、城造り技術の独占をもくろんだように見える。
大きな材を吊ったり建てたりする高い技術を飛騨の工はもっていた。古くから伝えられた日本建築の技能の継承者として飛騨の工は尊敬されていたのだろう。
長くなったので続きは次回に。
2021.08.18、岐阜県高山市、若者等活動事務所「村半」
2021.08.19、岐阜県高山市、高山陣屋御蔵(旧高山城遺構)
2021.07.23、兵庫県、姫路城天守閣
最近のコメント