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2021年7月

2021年7月30日 (金)

いつもこのクスノキをスケッチする

スケッチ授業ではもっぱら樹木を描くことにしている。わたしの定位置はこのクスノキの下だ。絵の具を広げて学生らが集まるのを待つ。その間に私も1枚描く。その後は涼風に吹かれてなごんでいる。ずっとこうしていたいと思う。スケッチは描いたあとのまったり感もよい。

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2021.07.22/ヴァフアール紙粗目F3 、グラフィックペン0.3、固形透明水彩 /京都市
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2021年7月29日 (木)

摩尼殿の木鼻(2)

隅木の木鼻がとくに流麗で美しい。猪の目型のくりぬき部分から上に伸びる長い葉っぱが途中で折り返すところなど他では見たことがない。自由で軽やかなデザインである。

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2021.07.23、兵庫県姫路市書写山円教寺

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2021年7月28日 (水)

摩尼殿の木鼻

木鼻(きばな)は斗組に挿しこむピンの頭だ。抜けないようにピンの先を車知(しゃち)栓で留めている。木鼻が華麗な花模様で美しい。いかにも武田グループ的なデザインだと思う。ここは木気の聖地だから植物模様はふさわしい。背景の幾何学的な斗組との対比もおもしろい。

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2021.07.23、兵庫県姫路市書写山円教寺

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2021年7月27日 (火)

摩尼殿の錺(かざり)金物

扉の錺金物のサビ具合が美しい。形は法輪だろうと思う。猪の目の透かしが軽やかだ。

なにより錆び具合がすばらしい。元は黒い酸化被膜だったのだろうが、その上に錆が浮いて古びた素材感となった。その古色と軽やかな形との対比がおもしろい。

ここは水気の多い場所なのでこうなるのだろう。そんな土地の特性と時間とが仕上げたテクスチャーである。

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2021.07.23、兵庫県姫路市書写山円教寺

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2021年7月26日 (月)

姫路城をスケッチした

天守閣を描いた。とても不思議なかたちをしている。これで20分くらい。天守閣はおもしろかったのでまた来たい。今度は別の角度からもスケッチしたい。

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2021.07.23/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/姫路城

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2021年7月25日 (日)

圓教寺の摩尼殿をスケッチした

武田五一の復元した摩尼(まに)殿を見てきた。懸け造りがかっこいい。周辺は樹木が生い茂っているのでこのアングルでしか全景は見えない。時間が無かったのでハガキスケッチにした。これで20分くらい。次はもう少し大きな画面で描いてみたい。

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2021.07.23/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/兵庫県姫路市、書写山圓教寺

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2021年7月24日 (土)

書写山円教寺でスケッチした

学生たちと円教寺へ行った。2階建ての食堂(じきどう)がかっこいい。左側に回廊型の舞台があるので食堂は観覧席なのだろう。イベント好きの後白河法皇の考えそうなことだ。

スケッチは30分ほどで描いた。地面の塗りがかすれたのがおもしろい。天気のよいせいで筆が渇きやすいのでこうなったのだろう。スケッチはこうした偶然が楽しい。

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2021.07.23/ヴァフアール紙粗目F3 、グラフィックペン0.3、固形透明水彩 /兵庫県姫路市、書写山円教寺食堂

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2021年7月22日 (木)

梅田から吉野の大峰山が見えた

天気が良かったので二上山より向こうの山並みもよく見えた。珍しいので写真に納めた。これを地図で確かめると大峰山だった。そんな遠くまで見えるのだろうかと思うが二上山から大峰山までのあいだにさえぎるものはない。やはり大阪から大峰山が見えるのだろう。

山が神だとすれば神々のネットワークは我々の考えている以上に緊密に張り巡らされているらしい。

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2021.07.22、大阪市、大工大梅田キャンパス18階

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2021年7月20日 (火)

ステンドグラスのモニュメントがきれいだった

曇り空であったが、それでも精一杯に陽を浴びて輝いていた。60年代に使われたような厚みのあるステンドグラスを鉄骨に上手にはめこんでいる。炎天下の熱膨張による鉄骨のひずみをどこで吸収しているのだろうか。見えないところで工夫なさっているのだろう。天気の良い日にまた撮りたい。

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2021.07.01、京都市中京区、御池中学校前

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2021年7月19日 (月)

梅田から見える比叡山

比叡山の展望台から大阪はよく見えるのだから、大阪からも比叡山はよく見える。写真は梅田の大工大の18階から眺めた比叡山だ。

わたしとしては仁徳天皇陵古墳から比叡山が見えるという説を立てている。大工大18階は標高60Mくらいだと思うが、仁徳陵の現在の頂上は標高47Mもある。だから大工大18階から仁徳陵が見えるかもしれない。今度確かめてみる。

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2021.06.30、大阪市梅田

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2021年7月18日 (日)

宝厳院庭園の謎の巨石群

宝厳院庭園も美しかった。

庭は広い。元は建物があったような平地があるので、建物が失われたあと複数の庭が連結されて現在のような形になったように見える。美しい庭園だったのでメモしておく。
 
奥のエリアは獅子吼(ししく)の庭と呼ばれている。釈迦の説法をライオンの咆哮にたとえた言葉だそうで獅子岩という巨石がある。たしかにライオンが吠えているように見える(写真)。

Img_1296 獅子岩

碧岩という巨石もあった(写真)。これは表面に縞模様の浮き出た珍しい岩だった。ほかにも巨石が見え隠れしたが、いったいいくつあるのかよく分からなかった。

Img_1289Img_1290 碧岩
2021.06.27、京都市「宝厳院庭園」

作庭は策彦周良(さくげんしゅうりょう)禅師による。1501ー1579なので夢窓国師(1275ー1351)より200年ほど後のことになる。ウイッキによれば武田信玄や織田信長と交流があったというから小堀遠州などの桃山時代の作庭のひとつということらしい。策彦禅師は2度にわたり中国へ渡り最先端の作庭を学んだようだ。かの地にこのような巨石庭園があったということだろうか。

策彦禅師は晩年に天龍寺の塔頭の妙智院に隠棲したという。妙智院はいまも天龍寺門前にあるが策彦禅師のころはここ宝厳院の場所にあったそうだ。おそらく方丈があり、その前に獅子吼の庭があったのだろう。方丈が失われ巨石群も樹林に沈んで獅子吼の庭の全貌が分からなくなってしまった。それでも巨石の配置を丁寧にたどれば策彦禅師の作庭を復元することは可能だと思う。

獅子岩は白虎、碧岩が青龍を示すのではなかろうか。陰気である獅子岩が陽気の領域の東側、陽気である碧岩が陰気の領域の西側にある。つまり獅子は東へ帰ろうとし、龍は東へ戻ろうとするので、その中間で陰陽がまじりあう。竜虎混合は桃山時代によく使われたモチーフだが、この庭も同様の分かりやすい意味だったように見える。

ふたつの巨石の中間に樹林に埋もれた巨石があった。近寄れなかったが、これが3つ目の巨石・響岩ではないか。竜虎混合により庭が響くという意味なのだろう。そこに本来は瀧口があって響くのは水音だったのかも知れない。樹林にひびく水音こそ獅子吼にたとえられた釈迦の説法だったのだろう。
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2021年7月17日 (土)

設計課題をネオゴシック風にしてみた(2)

ゴシックで描き始めたはずなのだが「19世紀折衷主義なんちゃって」になった。「なんちゃって」ではなく「リバイバル」と言ったほうがよいのか? とりあえず楽しいので最後まで描いてみる。楽しいは正義。
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2021.07.16/セクションペーパー、0.5シャーペンB/設計課題「公共図書館」

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2021年7月16日 (金)

遠目に気になる「扇町プール」

大工大梅田キャンパスは高層なのでいろいろ気になる建物が見える。これもずっと気になっているが扇町プールという屋内プールらしい。斜め柱がダイナミックでかっこよい。

見るからに1950年代の建物なのだがネット検索してみると平成12年竣工とあった。設計は梓設計で施工は富国建設。
「大阪の建築ガイドブック」(1962)によれば、ここには大阪プールという馬蹄形観覧席を備えた屋外プールがあったそうだ。大阪市土木公園課設計、鴻池組施工で1950年に竣工している。現存屋内プールはこのときの残存施設ではなかろうかとも思える。

なにぶん遠目なのでこれ以上は分からない。

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2021.07.14、大阪市北区扇町「扇町プール」

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2021年7月14日 (水)

設計課題をネオゴシック風にしてみた

思ったようにゴシックにならない。これじゃあ18世紀折衷主義のまがいものじゃないか。でもまあこれはこれで楽しいからいっか。
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2021.07.13/セクションペーパー、0.5シャーペンB/設計課題「公共図書館」

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2021年7月13日 (火)

和風のカーペット押さえ金物があった

洋館の階段にはジュウタンの押さえ金物が付いていることがあるが社寺では見たことが無かった。天龍寺の渡り廊下にはゴザが敷かれている。その階段部分のゴザを写真のような鉄製のフラットバーで押さえていた。ほどよくサビており端部はギボシ風に切り込みを入れている。なかなかよろしい。

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2021.06.27、京都市、天龍寺

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2021年7月12日 (月)

嵐山の大堰がモダンな洗堰だった件

嵐山の葛野大堰(かどのおおい)は秦氏が造ったというので古いものだとの先入観があったが、よく見るとコンクリート製のモダンな洗堰(あらいぜき)だった。流線形カーブをなめらかに流れ落ちる水のようすが美しい。いまの渡月橋が昭和9年の架橋だったから大堰もそのころのものかもしれない。嵐山の景色を損なうことなく最新技術を応用する心意気がかっこいい。

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2021.06.27、京都嵐山

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2021年7月11日 (日)

渡月橋の橋脚が鉄だった件

ずっとコンクリートだと思っていたが、よく見ると鋼鉄製の丸パイプだった。柱頭部分にボルトが取り付けられるようになっているので分かった。橋桁は鉄筋コンクリートに見えるからアンカーボルトの逆さ打ちなのかも知れない。見た目が純和風で嵐山の景色とあまりにもなじんでいるので見過ごしていたが、鉄骨と鉄筋コンクリートのハイブリッドによる近代和風橋梁の秀作としてもっと評価されてよいと思う。

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2021.06.27、京都市嵐山
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2021.06.27




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2021年7月10日 (土)

蓑笠垣がかわいい

たしかに蓑笠(みのかさ)に似ている。竹枝を並べて吊るすことで柔らかい曲線を作りだしている。なかなかよい。こんな垣根をどこかで作ってみたい。宝厳院垣ともいうようだ。大正期の茶室・青嶂軒(せいしょうけん)を囲っていたので茶庭のディテールなのだろう。茶庭も楽しそうだな。

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2021.06.27、京都市嵐山、宝厳院

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2021年7月 9日 (金)

宝厳院庭園の土橋がよかった

土橋を見たのは初めてかも知れない。表面はタタキ仕上げに見えるが土に漆喰を混ぜて固めているのかも知れない。土色の橋が水の上を軽やかにわたる景色が美しい。表面の雨に洗われて小石の浮き出たようすもとてもよい。

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2021.06.27、京都市、宝厳院

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2021年7月 8日 (木)

竹の天井を作ってみたい

天龍寺塔頭の宝厳(ほうごん)院が特別拝観だった。茅葺の馬屋門のような山門がチケット売り場になっている。その入口の天井が竹をわたして漆喰で固めていた。小幅な竹材が小梁と直角に並ぶシンプルな造形が美しい。竹材を編んでいるシュロ縄もよいアクセントになっている。竹天井は明治村の聖ヨハネでも見たが、とてもきれいだと思う。

古民家には竹の上にむしろを敷いて土を置く形式があるがその応用だろう。土を置くのは機密性を高めるためだと思う。もしくは天井裏の養蚕場を煙から守るためかも知れない。

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2021.06.27、宝厳院山門

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2021年7月 7日 (水)

天龍寺庭園の夢(6)

夢窓国師の作庭がどのようなものだったかを追ってきた。ひとまず分かったことは3つあった。

ひとつは後醍醐天皇鎮撫のようなテーマがあること。もうひとつは、一抱えほどの小振りな石を多用すること。あとひとつは斜面を使った作庭手法があったこと。ここでは斜面庭園の遺跡の存在を確かめてこの天龍寺編を終えたい。

瀧石組みから直線距離で30mほど上の斜面に古い庭の跡があった。ひとかかえほどの石が散在している。これは瀧石組み周辺の石と大きさが共通するので夢窓国師作庭の名残りではないかと思う。

夢窓国師の作庭には、おそらく山中の湧水から瀧石組みまでの斜面庭園が重要なパートとして存在したように思う。この遺跡はそのパートの存在を示すものだろう。

桃山時代以降は瀧石組みから上を作ることはあまり聞かない。しかし夢窓国師のころは瀧へ至るまでの水流のほうにも重点があったように思う。斜面全体を瀧に見立てた立体的な造園構成が存在したのではないか。それは平安時代の寝殿造の庭園にはない新しい風景だったろう。

斜面庭園の跡は金閣寺や銀閣寺でも見た。いずれも石が小振りなのでさほど注目されてはいない。しかし夢窓国師の作庭を考えるならば、こうした今は失われた斜面庭園について注意する必要があるのではないかと考えている。

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2021.06.27、京都市、天龍寺

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2021年7月 6日 (火)

天龍寺庭園の夢(5)

現在の天龍寺庭園は夢窓国師の作庭のままではないと言われている。わたしもそう思う。庭としておかしなところがふたつあるからだ。

ひとつは鶴島・亀島がありながら肝心の蓬莱島がないこと。

鶴島・亀島はそれぞれ陽気と陰気を示し、蓬莱島の東西もしくは南北に配置することによって蓬莱島が正しくレイアウトされていることを示す役割がある。したがって鶴島・亀島がありながら蓬莱島がないことはあり得ない。

蓬莱島のない原因として考えられるのは、蓬莱島がなんらかの理由で失われたか、もしくは現在鶴島・亀島と呼ばれているものが実は鶴島でも亀島でもないということ。わたしはその両方がからんだ複合的な原因だろうと考えている。なぜか。それは二つ目の違和感に関わる。

どう考えても瀧石組みが小さすぎるのだ。正面であるはずの書院から眺めても鯉魚石の判別つかないし、瀧の周囲にある夜泊石も鶴島もよく見えない。

これは今の書院の位置が瀧石組みと離れすぎていることが原因だ。本来はもっと近かったに違いない。瀧石組みがきれいに見えるのは今の距離の3分の1くらいだろうと思う。だから池はもっと小さかったはずだ。

秀吉のころ天龍寺は慶長伏見地震に被災したがただちに再建されたという。家康も天龍寺をあつく保護し伽藍は復興した。現在の庭はそのときに今の姿に再整備されたのだろう。しかし夜泊石から瀧石組み、鶴島あたりが古いままに見える。

とくに三段の瀧の周囲にひとかかえほどの比較的小さな石が散在しているが、これこそ夢窓国師の作庭の名残りなのだと思う。なぜなら同じようなものは苔寺にもあったからだ(瀧石組みと潭北亭北庭)

夢窓国師の作庭は桃山時代のものと比べるとずいぶん小さくてこじんまりとした箱庭のようなものだったのではないか、というのが今のところのわたしの結論である。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園の瀧石組み、瀧のまわりにも小振りな石が散在する。
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2021.06.20、京都市、西芳寺庭園の潭北(たんほく)亭北庭、小振りな石組みが残る。

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2021年7月 5日 (月)

天龍寺庭園の夢(4)

曹源(そうげん)池の名の由来は禅宗の法灯の系譜を示す。図示すると次のとおり。

 仏の世界 > ダルマ > 慧能(えのう) > 禅宗各派

夢窓国師はこの法灯系譜に王統を重ねたのだろうと思う。

 神々の世界 > 天皇家とりわけ亀山天皇 > 後醍醐天皇

したがって天龍寺庭園は後醍醐天皇こそ天皇家の正統であることを主張している。つまりいずれ後醍醐天皇の末裔が皇位に復帰することを暗示する。

ただし天龍寺を開いた北朝側がそのような
ことを微塵も思っていないはずなので、それはあくまでこの庭園のなかだけの話だ。夢窓国師は後醍醐天皇のもっとも喜びそうな主題を庭にこめた。だからこの庭は、天竜となった後醍醐天皇をなぐさめるための装置と化したわけだ。これが夢窓国師の公案だったとわたしは思う。

天龍寺庭園の書院に座して、このたてラインの利いた風景を眺めたのは足利尊氏だった。

彼はこの庭を見せられてどう思ったろうか。南朝こそ正統という主題は庭を見ればすぐに分かったろう。そのことを苦々しく思ったろうか。

それとも、後醍醐天皇と過ごした変革の日々を遠い夢のように思い出していただろうか。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園

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2021年7月 4日 (日)

天龍寺庭園の夢(3)

書院から庭を眺めると嵐山が正面に見える。その手前には亀山という丘がある。そして嵐山のピークと曹源池の瀧石組みとが上下に並ぶ。つまりこの庭の構成は、嵐山ー亀谷ー曹源池の瀧石組みとタテにつながることにあるのだろう。ではこのタテの軸線はなにを示しているか。

嵐山は松尾神の降りた聖地であり神々の領域である。亀山には亀山天皇と御嵯峨天皇の火葬塚がある。火葬塚とは墓ではなく火葬場のことだが墳墓に準じた扱いをする。その位置は写真の嵐山ピークと瀧石組みとのちょうどあいだにある。もちろん偶然ではなかろう。

後嵯峨天皇の皇子たちのうち後深草天皇が持明院統となり亀山天皇が大覚寺統となって南北二朝の原因となった。亀山天皇は亀山の地に離宮を営み本拠としたので亀山天皇のおくり名がある。天龍寺は大覚寺統である後醍醐天皇を祀るために亀山天皇ゆかりのこの地を選んで開かれたわけだ。

さらに瀧石組みのなかには滝登りをする鯉を模した鯉魚石(りぎょせき)が立っている。遠くてどの石なのかよく分からないのだが、鯉魚石は瀧石組にはつきものだ。鯉は滝を登り切ったとき龍となり天に昇るという故事にちなむ。だからこの庭の鯉魚石は後醍醐天皇になぞらえて語られることが多い。もちろん夢窓国師がそう言ったという確証はないのだが、寺の名前が天龍寺なのだから座りのよい話だ。

そう考えてくるとタテのラインはこう置き換えられる。

   神々の世界 > 天皇家とりわけ亀山天皇 > 後醍醐天皇

これがこの庭のコンセプトなのである。ではなぜ曹源池という名前なのか。長くなったので続きは次回に。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園
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2021年7月 3日 (土)

天龍寺庭園の夢(2)

池の名前は「曹源(そうげん)池」という。曹源の「曹」は曹渓という場所を指す。そこで慧能(えのう)という僧侶が禅を体系化した。そのおかげで禅宗はさまざまに枝分かれしながら盛んになった。まるで源流の水の一滴が大海を成すように。つまり曹源とは曹渓こそ禅宗の源流だというほどの意味なのだ。

曹源池をL字型に囲むように東側に大方丈、北側に書院がある。これは二条城の二ノ丸庭園の配置と同じだ。二ノ丸庭園は東側に大広間、北側に黒書院がある。家康の座所は黒書院である。つまり二ノ丸庭園は北側の黒書院から見るのが正面となる。

だからこの庭園も北側から見るのが正しいのではないか。と思って書院側から写真を撮ってみた(ちなみに天龍寺庭園は撮影可である)。北側から見渡す庭には途方もない奥行きが備わって吸い込まれるような景色となる。そしてここから眺めれば、この庭の意味も、なぜ曹源池という名前なのかも分かってしまう。これは夢窓国師の残した大いなる公案(禅問答)なのだろう。その謎解きは次回に。

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2021.06.27、京都市、天龍寺庭園

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2021年7月 2日 (金)

天龍寺庭園の夢(1)

苔寺庭園を見てどこが夢窓国師なのかよく分からなかったので天龍寺庭園を訪れた。ここは一昨年に学生さんたちと見学して以来の訪問である。

天龍寺庭園は夢窓国師の晩年の作として知られている。天龍寺は後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓国師を開山、足利尊氏を開基として1345年に開かれた。その後、夢窓国師は天龍寺の開山堂にあたる臨川寺に入り1351年に亡くなった。数えで77歳だったそうだ。

今回も方丈から庭のスケッチをした。正面に瀧があり右側に蓬莱島がある。左側には蓬莱島へ渡ろうとする船団を模した夜泊まり石が並ぶ。

前回訪れたときは蓬莱島が小さすぎるので改造されたのだろうと思った。今回は蓬莱島が小さいわけではなく池が大きすぎるのだろうと考えなおした。これは苔寺庭園を考える上でも重要な手がかりになるだろう。

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2021.06.27/A5クロッキー帳、0.5シャーペンB/京都市、天龍寺庭園

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2021年7月 1日 (木)

珍しい石製の導水管

植え込みの枠が石製の導水管の転用だった。とても珍しい。住宅用ではなく農業用水路用だと思う。桂川は支流が多いため農業用水との立体交差が今もたくさん残っている。支流の上を渡る掛け樋のほかにサイフォン型のものもある。サイフォン型の場合はこのような導水管を使ったのだろう。よく残っていたものだ。

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2021.06.27、京都市嵐山

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