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2021年6月

2021年6月30日 (水)

ハスが咲いたよ

今年最初のハスが咲いた。写真は6時半の状態。このあと中央の花弁も開いてコップ型になった。初日はこんなものだろう。明日は花弁がすべてきれいに開いて色も白くなるはずだ。そうなのだ、これは瑞光蓮という白蓮なのである。

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2021.06.30,6:39

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2021年6月29日 (火)

苔寺雑感(7)潭北亭の陶器製引き手

小さなお茶室の障子戸の引き手が陶器製だった。ほんの数センチの小さなものだが美しい青磁で見とれてしまう。青緑色なのはここが木気の庭だからだろう。完全な円ではなく四方にくぼみがあるのは花形なのだと思う。五弁だと梅だが四弁なので何だか分からない。それに少し傾いている。

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2021.06.20、京都市、西芳寺「潭北亭」


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2021年6月28日 (月)

苔寺雑感(6)湘南亭の土天井

土づくりの天井を初めて見た。とても良い。壁も天井も同じ土なので穴のなかにいるような安心感がある。いつか自分もやってみたい。

ちなみに月見台との説明があったが、北向きなので月の出はほぼ見えない。このテラスは庭園を見渡すためのものだと思う。

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2021.06.20、京都市、西芳寺(苔寺)「湘南亭」

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2021年6月26日 (土)

苔寺雑感(5)観音の不在

木気は水気から生まれる。この庭で大量の木気が発生しているのは、ここが水気の多い場所だからだ。苔寺の傍らを流れる西芳寺川こそ水気の源流だろう。

この池は東側が土手になので元々は西芳寺川の水を溜める溜池だったのだろう。西芳寺は聖徳太子の別荘だったというから秦氏のころの開発なのかも知れない。

さて大がかりな溜池には必ず祭祀場がある。それは大量の水気の湧くような場所は龍穴とみなされたからに他ならない。祭祀場は後に寺院として残ることがある。西芳寺の前身である西方寺はその名のとおり西方浄土の阿弥陀仏を祀る寺だったのだろう。金気の仏様である。金気は水気を産むので潤沢な水が得られるよう祈ったのだろう。

夢窓国師が寺を再興したときに「方」に草冠を載せて「芳」とした。わたしはそのときすでに木気の庭になっていたのではないかと思う。庭のふたつの池の名は黄金池と金剛池。どちらも金気だ。その上に大量の木気を配して金気を克す。その公案はすでに夢窓国師は用意していたのではないかというのが私のいまのところの推理である。

木気であれば観音のはずなのだが寺内に見当たらない。これだけ木気で満ち溢れながら観音が不在なのが不思議でならない。

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2021.06.20、京都市、西芳寺(苔寺)

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2021年6月25日 (金)

スケッチ授業で木を描いた

昨年できなかったので2年ぶりの開催となった。久しぶりのスケッチ授業は学生さんたちも楽しんでくれたようで良かった。わたしはいつもの場所でのんびりスケッチ。木陰が涼しくて本当に気持ちがよかった。

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2021.06.25、京都建築専門学校「意匠演習」

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2021年6月24日 (木)

ジャコウアゲハ

自庭に来ていた。写真を撮った日から毎日庭に来ている。腹が少し赤いのでジャコウアゲハだと思う。本州以南に生息するとあるが見たのは初めて。気が付かなかっただけかも知れないが、京都では珍しいと思う。幼虫はウマノスズクサを食べるそうだがそんな草がこのあたりにあるのだろうか。

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2021.06.20、京都府向日市

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2021年6月23日 (水)

苔寺雑感(4)木気の世界

コケを生やしたのは江戸期のことだそうなので夢窓国師とは関係がない。この特異な庭は臨済禅の公案に作り替えられたのだろう。公案とは禅問答のことである。さてこの過剰なコケの世界は何であるのか。

これは過剰な木気が金気を克(こく)すという意味だろう。五行説は5つの要素それぞれが克す順番を定めている。金>木>土>水>火>金と循環する。本来、木気は大木が斧によって伐られるように金気によって克される。

ところが大量の火が水を蒸発させるように過剰な気の塊は本来克されるはずの相手を滅してしまうのだ。この庭の場合は大量の木気が金気を克すという形になる。

では木気が金気を克すとはどのような意味なのか。この場合の金気は言葉を象徴するのだろう。禅の世界ではまず言葉を滅する必要があるそうだ。そのことを大量の木気によって示しているのではないか。

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2021.06.19、京都市、西芳寺(苔寺)にて

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2021年6月22日 (火)

苔寺雑感(3)ふたつの違和感

夢窓国師の作庭は今はコケに覆いつくされていると聞いていた。だからコケをはがせば夢窓国師の庭園を復元できると思っていた。

夢窓国師の庭園は天龍寺のものを見た。おそらくあの庭は半分しか残っていないと思うが、残っている部分は池のまわりを巡る回遊式庭園だった。しかし苔寺庭園のコケをはがしたと想像してみても天龍寺とは似ても似つかない。もっとも大きな違和感は次のふたつ。

ひとつは石垣があること。城塞のような石垣の張り出した回遊式庭園など見たことがない。これはまあ夢窓国師のころには無かったのかも知れない。しかし庭と無関係にしては存在感がある。石垣の奥には茶室・湘南亭がある。庭に面したバルコニーが涼し気だ。ひょっとすると湘南亭はこの上にあったのかも知れない。

もうひとつは蓬莱(ほうらい)島が土塁のようであること。コケを生やすために土を盛ったのだろうか。それにしても傾斜が急だろう。しかも島の上が平坦で土手にしか見えない。こんな蓬莱島は見たことがない。というよりもこれは蓬莱島ではないだろう。

蓬莱島について付言すると、この島は中央で真っ二つに引き裂かれている。島の中央を東西に水路が貫通しているのだ。これはなんだ? ふたつに裂かれた蓬莱島などありえない。そんなものは蓬莱島ではない。

手許の解説書を見てもこのふたつについて書かれたものはなかった(そもそもたいていの解説書は風水に触れないのだから真っ当な解説ができるとも思えないが)。とりあえず今のところの次のように私は考えている。

池の水位は今より1メートルは上だろう。そうすれば土塁や石垣の存在感も薄れて回遊式庭園の面影が偲べるようになる。

蓬莱島は別場所にあったと思う。現在、蓬莱島とされてる島は上部が平坦なのでなにかが建っていたと考えられる。おそらくイチキシマ姫のような木気の神様を祀っていたのではないか。島上の小祠はその名残りではないのか。

とりあえず謎だらけで推理が追い付かないので雑感にとどめておく。コケの風水的な意味は次回に。

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池の南側の城石垣
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蓬莱島の急斜面
2021.06.19、京都市、西芳寺(苔寺)にて

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2021年6月21日 (月)

苔寺雑感(2)苔寺のせせらぎ

庭園はほぼ高木に覆われていた。コケは陽に当たってはいけないが、陽が当たらないのもいけないのだろう。コケを守り育てるために高木は絶妙に剪定されているように見えた。コケの間には巾10センチほどの水路が走りせせらぎの音をたてていた。これも湿度を一定に保ってコケを育てる工夫だろう。


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2021年6月20日 (日)

苔寺雑感(1)光合成の庭

初めて訪れた。今まで見たどの庭とも違っていた。これまで想像していたものともまったく異なっていた。

昨日の雨でコケが瑞々しかった。とくに庭園北東部の握りこぶしほどの塊がマリモのように重なりあうコケが美しかった。それが木漏れ陽を浴びて輝くようすに見とれてしまった。

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2021.06.20、京都市、苔寺(西芳寺)

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2021年6月19日 (土)

紙粘土でスタディ模型を作った

スタディとは練習という意味だ。スタディ模型は人に見せるためのものではなく創作のための立体的スケッチという感じだ。

これはポケットパークの課題の見本として作った。紙粘土は「フォルマ」(440円)を使った。ほかの紙粘土より使い勝手が良かった。彫塑用の昔ながらの黒い油粘土が一番良いかもしれないがまだ使ったことがない。

ただいたずらに粘土を盛り上げたり崩したり遊びながら造形すればよいと思う。今回はある程度イメージを固めていたので発泡スチロールで芯を作ってから塗りつけた。これで制作3時間(周辺模型は去年作った)くらい。ここから第2案、第3案と展開していけば設計主旨に沿った造形に近づいていくだろう。

わたしは模型で考えることをしてこなかった。ほぼスケッチで考えてきた。しかしどうやら建築家にはスケッチ派と模型派の2派があるらしい。模型派もおもしろいと思う。

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周辺模型に組み込む
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発泡スチロールで芯を作ってから紙粘土を張り付ける
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平面のイメージスケッチ

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2021年6月18日 (金)

岡崎公園の旧国旗掲揚台

今は使われていないが国旗掲揚台だと思う。「皇太子殿下御降誕記念」とある。皇太子殿下とは今の上皇陛下のことだろう。昭和8年のお生まれだからそのころの建築だと分かる。ロシア構成主義を思わせるなかなかよくできた掲揚台だ。いずれ「まいまい京都」の岡崎コースに取り入れたい。

「岡崎公園 掲揚台」で検索したら自分のブログの記事がトップに出てきた。

2016年の記事 http://www.tukitanu.net/2016/12/post-a036.html

 
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2016.11.29、京都市、岡崎公園グラウンド

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2021年6月17日 (木)

武田的ディテール(39) 府立図書館のイチョウ

府立図書館の館名は正面に取り付けられている。それがまたウイーン分離派風でかっこいい。

中央にイチョウをあしらっている。イチョウの葉を3つ半円に揃えてその下に分離派風の四角い点をふたつ打つ。イチョウの左右にも四角い点が並ぶ。四角い点は画面の埋め合わせに入れたのではなく、イチョウの葉の模様と篆書体の館名とをなじませる役割を負っている。

仮に点がないと想像してみれば四角い点がいかにイチョウと篆書体とをくっつける役割を果たしているかが分かるだろう。こうした幾何学的な植物文様と文字とを融合させるデザイン処理こそウイーン分離派譲りであろう。

篆書体の館名には先行事例がある。武田の先輩である片山東熊の京都国立博物館がそうだった。武田はそれに倣ったともいえるが、むしろ篆書体の幾何学的なおもしろさを好んだと思う。でなければ晩年の遺作「桃山碑」で再び植物と篆書体の取り合わせが出てくるわけがなかろう。

ちなみにイチョウの葉は紙魚(しみ)避けになるのだそうだ。

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2021.05.23、京都市岡崎公園、京都府立図書館

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2021年6月16日 (水)

本法寺多宝塔をスケッチした

バスに乗っていると堀川通から見える。前からスケッチしたいと思っていたところ、たまたま通りがかったのでスケッチした。雨が降っていた。本堂の軒を借りて雨音を聴きながら集中する。目と手を無心に動かしていると生き返った気持ちになる。これで20分。ありがとうございました。

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2021.06.16/クロッキー帳A4、0.5シャーペンB/京都市上京区、本法寺多宝塔

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2021年6月15日 (火)

堀川第二橋の「第二」の意味を考えてみた

わたしが学生のころ堀川第二橋の存在は知られていなかった。堀川第一橋は上流の中立売橋である。20年ほど前までは第一橋の第一とは石造りの永久橋であることを誇って名付けたとされていた。

そのころの堀川はまだ今のように整備される前で水のない川床が雑草に覆われて続いていた。学生のころその草むらを第一橋から四条まで歩いたことがあった。そのとき下立売橋も石橋であることを知った。

今のウイッキでは第一、第二は府が架け替えた順番だと説明している。それじゃあ「堀川第一橋」の「堀川」は無関係だというのだろうか。わたしは堀川の北から順に第一、第二とナンバリングしたのだろうと思っている。だからもし第三橋があるとすればそれは丸太町橋なのだが明治45年の三大事業で架け替えられて今はない。そこに石橋があったかどうかは分からない。

第一橋のたもとに京都市の立てた説明版に第一橋と第二橋の別名が書かれていた。

地元では明治6年架橋の第一橋を「鶴の橋」明治7年架橋の第二橋を「亀の橋」と呼んだそうだ。それなら第三橋はなかったことになる。なぜなら第三、第四と続いていくならわざわざ上流2本にだけ別名をつける意味がない。ふたつしかないからこそ鶴亀と呼び分けて親しんだのだろう。もし当初から二本だけを計画したのなら、なぜ中立売と下立売を選んだのか。

名前はさておき興味深いのは橋の側面に残っている金具跡だ。照明塔の取り付け部だと思っていたが古写真でそれらしいものを見た覚えがある。下立売橋の金具跡は中立売のものと少し形が違っている。照明塔そのもののデザインも違っていたとと考えるべきだろう。古写真を精査すればはっきりすると思う。

付け加えておくと明治6年には電気はまだない。堀川周辺に普及するのは蹴上の発電所が送電を始めた明治24年以降のことになる。だから照明塔も明治後半のものであろう。

わたしはこの照明塔は道路を照らすと同時に水運上にも必要だったのではないかと思っている。橋で川が狭くなっているので危なくないように照らしているのだろう。夏の夜、船で石橋をくぐるのは楽しかったろう。

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(左)下立売橋2021.06.12、(右)中立売橋(堀川第一橋)2011.05.16
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(左)下立売橋2021.06.12、(右)中立売橋(堀川第一橋)2011.05.16


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2021年6月14日 (月)

武田的ディテール(38) 圓教寺食堂の柱

うろ覚えで申し訳ないが次に圓教寺へ行くときのためにメモしておく。

食堂の2階に古い柱が保存してあり戦前に調査したことが記されていた。時期的に摩尼殿復元のころなので調査したのは武田だろう。白アリの害についても書かれていたのでなおさら武田が調査したとしか思えない。当時の武田は文化財の白アリ研究の第一人者だった。

さて圓教寺のHPによれば食堂修理は武田没後の昭和38年なので武田が食堂を修理したわけではない。しかし調査によって食堂は本来2階建てであることが明らかになった。そのころ2階の床は張られていなかったようだ。戦後の修理時にその2階床を復元しているので修理の道筋を立てたのは武田だったといってよかろう。

ちなみに2階建ての食堂は類例がないという。たしかに2階建ての食堂は見たことも聞いたこともない。ただし境内に面した2階建ての建物と言えば出雲大社の観祭楼を思い起こす。境内で行われる舞楽を見下ろすための観客席で平城宮の第1次大極殿にも同様のものがあった。したがって私は圓教寺食堂も祭礼時の観客席だったろうと思っている。

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2011.05.11、兵庫県姫路市、書写山圓教寺(えんぎょうじ)

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2021年6月13日 (日)

武田的ディテール(37) 復元された舞台(2)

興味深いのは舞台を支える柱が八角形であること。元がそうだったのかも知れないが八角形好きの武田っぽい。ちなみに8は木気の数なので観音を象徴しているのかも知れない。摩尼殿のご本尊は如意輪観音だが、観音は生命誕生を意味する木気であることが多いのだ。京都の清水寺のご本尊も観音だが舞台の柱は円形である。八角形の柱の舞台は奈良の二月堂がそうだ。ご本尊はもちろん観音様である。舞台と観音とは関係があるのかも知れない。

清水寺の舞台は柱筋から外への張り出しは小さいが、摩尼殿は写真のように2メートルほど張り出している。これも二月堂と同じだ。張り出しを支える3段の挿し肘木の構造も同じだ。これは大仏様なのかも知れない。大仏様の挿し肘木は一部が貫になっていて奥の柱列とつながっている。張り出したバルコニーを支える構造として合理的だ。この合理性も武田っぽい。

摩尼殿と二月堂はよく似ているわけだが、もともと似ていたのか、それとも復元にあたって二月堂を参考にしたのか分からない。やはり報告書を探すべきだな。


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八角形の柱 (左)摩尼殿、(右)二月堂
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3段の肘木 (左)摩尼殿2011.05.11、(右)二月堂2018.07.01

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2021年6月12日 (土)

武田的ディテール(36) 復元された舞台

まとまらないがメモしておく。夏に教寺を見学する予定なのでよく見てくるつもりだ。

武田は姫路にある西国札所・書写山教寺(えんぎょうじ)の摩尼殿(まにでん)を復元している。見事な懸け造りの建物で、大正10年に焼失したものを昭和3年(現地立て札では昭和8年)に再建された。桃山風の優雅な意匠が巨大な舞台の圧迫感を和らげている。

この復元プロジェクトを一貫してコントロールした委員会が存在したはずだ。武田は京都へ赴任以来、関西の古社寺修理を担当した。彼の古社寺修復における功績のひとつに委員会制度を創設したことがある。番匠と呼ばれて尊敬される伝統技能保持者と大学の研究者や所収者がおたがいに忌憚なく議論できる場があればこそ良い修理ができる。そうした委員会制度をいち早く修理の現場に取り入れたのが武田だった。

だから摩尼殿復元にあたっても委員会があったと思う。復元報告書があるはずなので探してみる。建築課の仕事はプロジェクトを前進させる体制を組みたてて運営することにもある。仕事が完成すれば解散してしまう委員会もまた武田的ディテールなのだ。

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2011.05.11、兵庫県姫路市、圓教寺

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2021年6月11日 (金)

銀河鉄道の夜ふたたび

田植えを終えたばかりの水田に電車の車窓が写る。まるで空を飛んでいるようだ。「銀河鉄道の夜」の幻想はここから始まったのだと思う。畝が伸びると写らなくなる。今の季節だけ見える特別な風景。


2021.06.08、京都府向日市

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2021年6月10日 (木)

コクワガタが威嚇している

実家に帰ったときにコクワガタを見つけた。こっちを見て威嚇している。こどものころは工場地帯に住んでいたのでコクワガタは店で売っているのしか知らなかった。普通にいるものなんだね。大人になった今でも昆虫は好きだ。天然のコクワガタを見つけてなんだか得をした気分だ。

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2021.06.07、奈良市

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2021年6月 9日 (水)

「戦前ビル編」と「洋館」カテゴリーをつくった

建築探偵の写真帳から新たにふたつのカテゴリーを独立させた。

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戦後ビル編 http://www.tukitanu.net/cat24323682/index.html
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洋館 http://www.tukitanu.net/cat24324090/index.html

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2021年6月 8日 (火)

カトリック九条教会とその隣

バスの車窓から撮った。以前から気になっているがバスを降りたことはない。モダニズムの秀作である。 写真を撮っているとその隣に古い建物があった。九条教会のHPに載っている古い会堂と似ている。新会堂は1970年ころに見えるが、テイスト(趣味)の似ているカトリック衣笠教会(1958)と同じころかもしれない。いずれバスを降りてゆっくり見せていただくことにしよう。

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2021.06.03、京都市南区唐橋「カトリック九条教会」

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2021年6月 7日 (月)

どこに魅かれるのか

まず壁仕上げに数種類あること。元のままの土壁は上塗りが割れている。割れかたが場所によって違う。ペンキ仕上げの波型鉄板は錆び始めている。錆びによって壁面にグラデーションができている。

窓の大きさや形にもバリエーションがある。さほど大きくない立面だが表情が豊かだ。

あとは屋根の形が複雑であること。四角くない敷地に合わせて建てているので屋根が複雑になっている。さらに手前に下屋もあって複雑化している。

まあもっとも魅かれるのは本体が古いということだろう。見たところ昭和7年くらい。あれやこれや更新されながらも古いまま残っている姿が尊い。


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2021.05.28、鶴橋の民家

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2021年6月 6日 (日)

高槻市のビル

洋館を見て歩いていて興味深いビルを見つけたのでメモしておく。住宅地のなかで異彩を放っている。タイルの使いかたが村野事務所を思わせるが調べたわけではない。竣工年はアルミサッシュの感じが推定して70年代後半か。地下に入っているイタリアンレストラン「サンセバスチャン」で検索すると1980年創業とあり推定通り。

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2021.05.30、大阪府高槻市

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2021年6月 4日 (金)

商店街の将来について

今朝考えたことをメモしておく。

1.小売店の衰退

・銭湯や理髪店など地域の近代建築が失われていく現状がある。その理由として老朽化、耐震性、相続税など言われているが、もっとも大きいのは後継者がいないことだろう。それは書店屋や電器店であっても同じでシャッター商店街現象の主たる原因である。

・後継者がいないのは、オーナーが自身の身内しか後継者として認めないからだ。これは資産を回収できなくなるという不安が大きな理由だろう。

・資産を担保しながら業態を別人に委託できる制度があれば少しはマシになるだろう。そうした試み、たとえば商店街の株式会社化などの取り組みは始まっている。ただしオーナーが複数人あれば全員同意は難しくなるだろうし、そこまでして業態を維持するメリットがないことも事実だ。ただし個々の商品や小売業そのもののニーズが無くなったわけではない。新しい業態で生き残ることは可能だろう。

・商店街地域の地価の高さがシャッター商店街現象の遠因としてある。

2.業態の変化

・大量生産も大量消費も無いのに小売店の業態だけが半世紀前のままの状態では機能しない。

・経営として成立しなくても、なんらかの副収入があれば店を開けておくこともできた。それもいつまでも続けるわけにはいかないだろう。収入を度外視した経営はオーナーや地域住民の愛着が原動力となっている。それは地域の資産である。

・新業態として注目したいのは道の駅や朝市、フィッシャーマンズワーフのような生産者の直売である。消費者が直接産地に赴く業態で、これは1970年代からの取り組みの実績がある。フリーマーケットも同じジャンルかも知れない。そこでしか買えないものを生産者が直接エンドユーザーに販売する形態といえよう。

3.高度成長期は良かったのか

・ものを並べればなんでも売れた時代。お客様は神様と呼ばれた時代。公害を撒き散らかしながら馬車馬のように突進していた時代。大量生産大量消費に反発しながらも、心のどこかで猥雑でパワフルだった世相を懐かしむ思いが残る。それは高度成長期を否定しきれていないからだろう。

・わたしは時代のありかたを否定する必要はないと思っている。公害と収益を同時に受け取った時代だったわけで、今となっては良いも悪いもない。ただしそこになんらかの愛着が残るとすれば、それは地域の資産である。

4.大量消費の生き残り

・アウトレットモールやショッピングモールも業態としては高度成長期モデルから出ていない。もし違いがあるとすれば不動産も含めた流通部門での収益が見込めるくらいだろう。それさえも高度成長期モデルの一部だったと考えることもできる。

・コストコのような会員制モールは産地直送という部分が新しいが競合には弱いだろう。ネット通販もやはり大量消費を前提とした商品が並んでいる限り競合には弱く長続きしないだろう。

・やはり「そこでしか買えないもの」を揃えた小売店が集って市場をなすフリーマーケット風の商店街モデルが一番良いのではないか。そこで生まれた活力が古い建物を活かすならとてもうれしい。

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2021年6月 3日 (木)

【 武田的ディテール(35) 舞妓さんの守り神 】

先斗町(ぽんとちょう)歌舞練場の入り口から見上げると鬼瓦のような舞楽面が見えるだろう。これは蘭陵王(らんりょうおう、らりょうおう)の面で舞楽第1番の曲であることから芸能の神様とされている。歌舞練場の舞妓さんの学校なので正面に蘭陵王を掲げるのはふさわしいわけだ。これは釉薬掛けのテラコッタであろう。当時これだけ大きなものが作れたのは常滑だと思うが、案外東山の登り窯で焼いたのかも知れない。

さて注目したいのは蘭陵王の両脇にある鼓である。蘭陵王の曲が雅楽なので当然鼓はある。雅楽の楽器には笙(しょう)、篳篥(ひちりき、タテ笛)、龍笛(りゅてき、ヨコ笛)、琵琶、筝(そう、琴)、和琴、鞨鼓(かっこ、三の鼓ともいう)、太鼓、鉦鼓などがある。ここにあるのは鞨鼓(かっこ)と呼ばれる小鼓だ。なぜ数ある楽器のなかから鞨鼓が選ばれたのか。それは先斗町の地名伝説と関係がある。

先斗町の地名はポルトガル語で港を示すポルトが由来だとするのが有力だ。角倉了以が高瀬川を都の荷上場として作ったときに先斗町は生まれた。だから地名の由来がポルトだというのはある。わたしは単に船頭町の書き換えではないかと思っているが船頭町が先斗町と書き換えられたとしてそれが「ぽんと」とは読めないので、やはりポルトガル語言説に頼るしかない。しかし花街には別の地名伝説があった。

先斗町は鴨川と高瀬川に挟まれた細長い地域だ。川と川とに挟まれている。つまり皮と皮に挟まれている鼓と同じ構造なのだ。鼓は打つと「ポンと」鳴る。だからここは「ぽんと」町なのだ。花街らしいダジャレ地名伝説である。

断っておくがここからは私の推理である。蘭陵王を掲げることは花街の要請だったとして、それをデザインしたのが木村だったとして、その図案を見た武田が楽面の両脇に赤エンピツで鼓を描き入れた。

木村「なんですか、このツヅミは?」
武田「分からないかね君、これは皮と皮にはさまれてポンとなるから先斗町という地名伝説だよ」
木村「それは気づきませんでした! これは一本とられましたなぁ」
一同「わはははは」
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2021.04.21、京都市、先斗町歌舞練場

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2021年6月 2日 (水)

【 武田的ディテール(34) 搬入口を正面にすえる度胸があるか 】

ここは先斗町歌舞練場の正面である。ご覧のように古い門柱が残っている。これはおそらく歌舞練場が木造だったころの門柱だろう。

先斗町歌舞練場は木造だったものを西洋風の劇場に作り替えることにした。そして大林組が設計から施工まで請負うことに決まり設計部の木村得三郎が担当することになった。同じころ木村の担当したスパニッシュコロニアルの東京劇場との関連を指摘する向きもあるが、わたしは同時期に大林組が工事を行っていた神奈川県庁と似ていると思う。この小劇場はスパニッシュの輪郭をもちながら細部は神奈川県庁とよく似た和風ディテールにあふれているのである。

さて武田はこの工事の設計顧問を務めている。それが花街からの要請であったのか、はたまた大林組に就職した教え子からの依頼であったのかは分からない。いったい武田はここで何をしたのか。魅力的な和風ディテールをデザインしたのか。それもあると思うがもっとも武田らしいのはその平面プランである。

この正面に見える鉄扉は舞台の搬入口である。扉をあけるとそこは舞台だ。普通の建築家ならこの正面に玄関ホールを設けるだろう。搬入口を正面に据える度胸はない。ただしそうすれば搬入口が狭い先斗町通り側となってトラックが入れないのだ。ここだとバックで入れば搬出入がたやすくできる。見た目よりも使い勝手を優先する合理性はいかにも武田っぽい。

さらにこのプランのおもしろさは舞台を先斗町通り側に置くことで、鴨川側が全面的にホワイエになることだ。賀茂川ごしに見る東山のパノラマがこの建物の大きな魅力となる。風景を大事にすることは武田が橋梁設計のおりなどによく言及している。やはりこのプランは武田のものだろう。

ちなみに今はホワイエが改変されて東山のパノラマを見ることができない。武田の設計意図を活かしてほしい。

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202104.22、京都市、先斗町歌舞練場
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2021年6月 1日 (火)

【 武田的ディテール(33) 武田の遺作を見てきた・桃山碑3】

武田的なディテールの3つめはこの樹木の絵柄だ。アールヌーボーやユーゲントシュテールにも見えるがウイーン分離派というのが正確なところだろう。自然の動きや柔らかさをモチーフにしながらどこかしら幾何学的な大正期の杉浦翡翠らの仕事にも通じるが、それもまた源流はウイーン分離派だった。

武田は19世紀末のウイーンで分離派のアーチストたちと親交を結び、大きな影響を受けて帰国した。武田は終生、ウイーン分離派から離れなかったわけだ。すでにワーグナー先生は亡く、建築家のホフマンとも音信不通となっていた。栄華を極めたオーストリアハンガリー帝国そのものが消えていた。

なぜ武田がそこまでウイーン分離派に入れ込んだのか。それは分離派がもっとも影響を受けたのが日本美術だったからだろう。日本の絵画や工芸が19世紀ヨーロッパに与えた影響は計り知れない。後進国の留学生として先進国の芸術の都ウイーンを訪れた武田は、そこで日本美術の真価を彼ら分離派のアーチストから教えられたわけだ。

それ以来、武田は日本と西洋との融合を創作の原点としてきた。桃山碑はその集大成といえるのかもしれない。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、TAC桃山

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