2021年6月 1日 (火)

【 武田的ディテール(33) 武田の遺作を見てきた・桃山碑3】

武田的なディテールの3つめはこの樹木の絵柄だ。アールヌーボーやユーゲントシュテールにも見えるがウイーン分離派というのが正確なところだろう。自然の動きや柔らかさをモチーフにしながらどこかしら幾何学的な大正期の杉浦翡翠らの仕事にも通じるが、それもまた源流はウイーン分離派だった。

武田は19世紀末のウイーンで分離派のアーチストたちと親交を結び、大きな影響を受けて帰国した。武田は終生、ウイーン分離派から離れなかったわけだ。すでにワーグナー先生は亡く、建築家のホフマンとも音信不通となっていた。栄華を極めたオーストリアハンガリー帝国そのものが消えていた。

なぜ武田がそこまでウイーン分離派に入れ込んだのか。それは分離派がもっとも影響を受けたのが日本美術だったからだろう。日本の絵画や工芸が19世紀ヨーロッパに与えた影響は計り知れない。後進国の留学生として先進国の芸術の都ウイーンを訪れた武田は、そこで日本美術の真価を彼ら分離派のアーチストから教えられたわけだ。

それ以来、武田は日本と西洋との融合を創作の原点としてきた。桃山碑はその集大成といえるのかもしれない。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、TAC桃山

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