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2021年5月

2021年5月31日 (月)

【 武田的ディテール(32) 武田の遺作を見てきた・桃山碑2】

先の紹介した個人ブログに桃山碑の当初の写真があった。今と違うところはふたつ。ひとつは板碑の下の基壇がもとは3段であったこと。武田は段を作るとき3段にすることが多い。高山彦九郎碑のときもなぜ今は1段しかないのかと思った。高山碑も桃山碑も結局竣工時には3段だったわけだ。そうだろう、そうだろう。もうひとつは左右の花瓶の位置が今より少し前で、しかもドラセナのような観葉植物的なものが植えられていること。これは花瓶ではなく植木鉢だったのだろうか。

さて桃山碑の武田的ディテールは3ヶ所ある。

まず第1に碑のかたちの幾何学的な処理。ご覧のように四角い板碑の角を大きく面取りしている。この板碑を上からみると細長い八角形となるが、板碑を支える基壇も八角形だ。八角形というモチーフを敷衍して全体をデザインするところがいかにも武田っぽい。

次に板碑の盤面が整数比で分割されていること。写真から板碑のタテヨコの比率を計算すると1:1.57となる。黄金比の1.63にも近いが、おそらくここでは2:3でデザインしている。武田は黄金比に近い比率として2:3を常々推奨していた。自身の設計においても平面や立面の比率に多用している。

ここで気をつけたいのは、欧米の墓碑のような横長の板碑に漢字で縦書きしていることだ。それが何の違和感もない。その理由は中央の樹木のイラストが視線をタテに誘導することと、文字の領域が板碑の中央の1/3に収まっていることのふたつだ。このふたつのデザイン処理のうちどちらかが欠けても不自然になってしまうだろう。こうしたデザイン処理を武田は躊躇することなく瞬時に行う。そこがたいへんおもしろい。

文字列に注目すると、中央の1/3列のさらに1/3の幅で刻まれていることが分かる。ようするに武田は盤面を6:9の方眼紙でデザインしているのだ。そう思ってよく見れば板碑の面取りされた斜め部分の幅は方眼紙1マスの1/2のようだ。武田は方眼紙で設計したことが知られているが、桃山碑もまた方眼紙上で誕生したものだったのだ。

長くなったので3つめの武田的ディテールは次回に。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、ヴィータ桃山
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2021年5月30日 (日)

武田的ディテール(31)武田の遺作を見てきた・桃山碑1

武田は昭和13年1月に急死したので、亡くなったときに進行中の物件がいくつかあった。この桃山碑もそのひとつだ。正式には桃山病院殉職者慰霊碑という。碑には「殉職者慰霊碑」と篆書体で刻まれているのが読める。また左右の花瓶の台石に「昭和十三年三月、桃山病院一同」と刻まれている。

これは存在そのものが知られていなかった。「武田五一作品集」が昭和8年10月発行なのでそれから亡くなるまでの4年間と少しの作品リストが無い。この碑を見つけてきたのは武田おっかけの小林さんだが、彼がどうやってこの碑の存在を知りどうやって見つけてきたかは知らない。蛇の道は蛇ということだろう。

桃山病院はすでに統廃合されて移転し桃山碑だけが残されている。小林さんに教えられてここを訪ねたのはもう20年も前のことだが、そのころも今も花が添えられているのは同じだ。桃山病院は大阪市の避病院として創設された。避病院とは伝染病の隔離病棟のことで、この碑はコレラやペストなどで殉職した医師や職員35名を慰霊すると背面に書かれている。背面碑文については個人ブログに拓本があった。

参照 (個人ブログ)桃山病院と巡礼者慰霊https://blog.goo.ne.jp/fureailand/e/96d99166f61cec9fb6380cd8ec8e038a

武田がなぜこの碑をデザインすることになったのかは分からない。武田は宴会などで設計を頼まれるとその場でありあわせの紙にデザインを描いたという。この碑もそうしたおりに依頼されたのかも知れない。碑は見てのとおりの武田的ディテールである。どこが武田なのかは次回。

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2021.05.28、大阪市天王寺区筆ケ崎町、TAC桃山

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2021年5月29日 (土)

かっこいい鉄骨

いわゆる戦前の城東線時代の高架駅の鉄骨はかっこいい。そういってしゃがみこんで撮影するようすは不審者そのものだろう。それでも撮らずにはいられないのがヲタクの性だ。さてここで見てほしいのは鉄骨柱の両側を古レールでサンドイッチしていることだ。関西ではあまり見たことがない。珍しいと思う。そのことにきのう初めて気づいた。今まで何を見ていたのか。

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2021.05.28、大阪市、環状線鶴橋駅

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2021年5月27日 (木)

武田的ディテール(30)高山彦九郎銅像のいきさつ3

新旧を比較してみた。一目瞭然で同じものに見える。詳しく見てみよう。

上は戦前の絵はがき、下は先日(2011.05.23)に撮影したもの。当初3段あった基壇はいまは1段しかない。ただし基壇上の東郷平八郎の揮毫のある大石は同じに見える。昭和24年の駅前整備のときは銅像の代わりに板状の石碑が置かれた状態だった。それを移設するさいに石碑が読みやすいように基壇を低くしたのだろう。

ただし東郷の揮毫のある大石はそのまま使ったと推測できる。なぜならお金をかけてまでほぼ同じものを再現する必要がないからだ。移設が目的なのだから大石はそのまま使ったであろう。

大石正面の比率は写真で測ると上が1:1.54、下が1;1.57とほぼ同率だ。これも同一であることの傍証になろう。ちなみにこの比率は黄金比(1:1.61)かも知れないが、単に2:3のようにも思える。武田は黄金比に近い2:3をよく使う。また揮毫の基準線を大石の高さの1/2に合わせているのも方眼紙でデザインを考える武田っぽい。

大石の角は面取りされているがそれも新旧でよく似ている。通常武田は面取りを入れないことが多いが、この台座は表面が磨き仕上げなので面取りがないと角が砕けてしまうだろう。そのために角の面を取ったわけだ。ただしシンプルな大面にしているところが武田らしい。

いまは銅像と大石のあいだに高さ5センチほどのざぶとん状の石が入っている。これはジャパンアーカイブの板碑の写真には無かったので銅像再建のときに付けたのだろう。おそらく新たに銅像を据えるたけの鉄骨を隠すためのものと思われる。

以上、状況証拠ばかりであるが大石部分は新旧同じものである判断できる。武田の銅像台座は改変されながらも一部が遺されているというのが結論である。
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銅像台座上部の大石の比較
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大石の角の面取り(左)戦前絵はがき(右)現在

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2021年5月26日 (水)

武田的ディテール(29)高山彦九郎銅像のいきさつ2

高山彦九郎銅像のいきさつを整理してみた。あらましは次のとおり。

1928・昭和3年 建立
1944・昭和19年 金属供出
1944・昭和19年11月 跡碑建立
1949・昭和24年12月 京阪三条駅改築、台座の移動と改変
1951・昭和26年11月 銅像再建
1970・昭和45年 三条駅前歩道橋設置、銅像が歩道橋下になる
1983・昭和58年1月 京阪地下化工事のため撤去
1989・平成元年3月 工事完了につき復元、銅像移動

建立が昭和3年なのは昭和天皇の即位大礼を記念したのだろう。ところが戦時中に銅像は金属供出され台座だけが残された。同時に高山彦九郎先生銅像跡記念建碑会が銅像の代わりに記念碑を台座上に据えた。そのときの写真がジャパンアーカイブに残されているのでリンクしておく。

ジャパンアーカイブ【1945年】京都府(昭和20年)▷京都・高山彦九郎銅像跡
https://jaa2100.org/entry/detail/039108.html

記念碑が斜めなのは御所の方角を向いているためだ。写真は三条大橋の上から撮られている。そしてこの時点で武田の台座がそのまま残っていることが分かる。

次にようすが変わるのは三条駅改築に当たって駅前が整備されたときだ。そのときの写真が個人ブログにあった。

「三条京阪」地上に駅があったころ(島本由紀)Kyoto Love.Kyoto京都通リズム
https://kyotolove.kyoto/I0000301

跡碑が写っているが高さが低くなっている。このときに武田の台座が改変されたことが分かる。碑の向きが変えられている。駅前広場からよく見えるようにしたのだろう。三条大橋の欄干が写っている。碑は元の位置から数メートルほど南へ移動したことが分かる。

わたしはこのときに3段の基壇を1段に変えたのだと思う。

駅が新しくなってから2年後に銅像が復元された。制作は伊藤五百亀氏だった。京都新聞(昭和36年11月28日「18年ぶり英姿再び」)によれば除幕式は11月27日だった。マイクロフィルムの写真が悪くて姿を確認できないが、このときに現在のかたちになったのだろう。

記事によれば高山彦九郎像再建同志会と銅像跡記念建碑会との折り合いがつかず除幕式は2度にわたって延期されたそうだ。京都市の仲裁によって無事に除幕式を挙行できたとある。11月25日付けの関連記事「彦九郎像やっと建つ」によれば市が仲裁に入ったのは台座が市の所有だったからとある。

また再建費を寄付したものに京阪電車が入っている。駅舎改築にあたっての銅像の再建は京都市と京阪電車による駅前再開発が背景にあると考えてよかろう。ひょっとすると昭和3年の建碑の時点でも駅前整備が背景にあったのかも知れない。

最後の変化は京阪地下化工事だった。やはり再開発ごとに碑は変化する。工事が終わって再設置された場所は撤去時の位置から東へ10メートルほどずれている。これで碑は2回移動したことになる。

以上が銅像台座の移動と改変のあらましだ。昭和24年の三条駅整備のさいに台座は改変されたことは間違いない。はたして武田デザインの台座は本当に失われたのであろうか(つづく)

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2021年5月25日 (火)

東華菜館をスケッチした

朝いちばんで雨漏り会議が現場であった。その帰り道に描いた。梅雨のあいまのつかの間の晴れ間。まだ気温は上がっておらず鴨川の微風が気持ちよい。ひさしぶりに楽しく描けた。これで20分。

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2021.05.25/クロッキー帳A5、0.5シャーペンB/京都市「東華菜館」

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2021年5月24日 (月)

武田的ディテール(28)高山彦九郎銅像のいきさつ1

武田が高山彦九郎造像の台座をデザインしたのは確かだ。ただし銅像は戦時の金属供出で失われ現在のものは戦後の復元である。また銅像の位置も当初と違い台座の形も異なっている。だから現在の銅像台座は武田作品ではないとされている。

本当にそうだろうか。わたしは今の台座はオリジナルの一部であろうと思っている。それを確かめることはできるのだろうか。とりあえず調べのついたところまでを整理してメモしておきたい。

そもそも武田のデザインしたものはどんな形をしていてどこに建っていたのか。まずそれを確かめておきたい。

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これは最近入手した絵はがきだ。銅像台座の細部までよく分かる。高山彦九郎は御所の方向、つまり北西を臨んでいる。したがってこれは銅像の北面だ。手前に三条大橋の欄干が映っている。ただしこの絵はがきでは全体像がよく分からない。それが分かるのは次の写真である。

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これは「日本地理風俗体系(第九巻)近畿地方(下)」(新光社昭和36年)P52の写真だ。全体像がよく分かる。3段の基壇がありその上に大石があって銅像を載せている。これが武田デザインの全貌である。

ではどこに建っているのか。写真からふたつの橋のあいだにあるいことが分かる。左側は三条大橋だ。では右側の橋はなにか。Photo_20210524090601
銅像の建った昭和3年ころはこんな感じだったらしい。鴨川と鴨川運河(疏水放水路)とのあいだの土手に三条駅があった。写真の右の橋はこの土手へ渡るためのものだったわけだ。

以上が高山彦九郎銅像の竣工当時の位置と姿である。(つづく)

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2021年5月22日 (土)

武田的ディテール(27)府立図書館の換気口は何に見えるか

わたしにはツルに見える。それもタンチョウヅルだ。中央の楕円がタンチョウヅルの朱い頭に見える。ではなぜタンチョウヅルなのか。

ここからはわたしの想像だが、この府立図書館の向かい側に武田は京都商品陳列所を設計している。図書館と同時期の竣工だ。図書館は前に見たとおり連続アーチの丸いイメージが強いが、陳列館は中央に三角屋根のあり尖ったイメージが強い。武田が丸みと尖りの対比でデザインしていることは明らかだろう。だからディテールも対比しているはずなのだ。こちらがツルなら向いはカメしかない。

残念ながら陳列館の換気口デザインは分からない。しかしわたしはきっとカメだったろうと信じている。ツルカメそろっておめでたいディテールだったのだ。武田はそういうシャレの好きな建築家なのである。

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2021.04.22、京都府立図書館
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2021年5月21日 (金)

10分間スケッチ

最近スケッチしていない。スケッチをする気分にならないのだが、雨に煙る水墨画のような都心を見下ろしているうちに描きたくなった。ここは何度も描いているのでさほど時間はかからない。授業の休み時間の10分ほどで描いた。

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2021.05.19/A4コピー用紙、0.5シャーペンB/大工大梅田キャンパス19階より

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2021年5月20日 (木)

楽々荘の換気口は何に見えるか

中央の丸いところが汽車の動輪に見えた。楽々荘を建てた田中源太郎は京都鉄道の社長さんだからさもありなん、と思ったがよく見えると動輪というより菊花紋だな。それじゃあ京都鉄道会社の社章かも、と思ったがそれも違った。これはただの菊花紋だ。それにしてもよくできた換気口デザインだ。四隅のうずまきがくるくる回って中央の菊花紋が回転するように見える。……やはり動輪か。

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2021.05.02、がんこ寿司亀岡店(旧田中源太郎邸)

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2021年5月19日 (水)

武田的ディテール(26)蓮華噴水脇の2本の照明塔

これが武田だと言ったのは武田追っかけの小林さんだ。武田五一作品集には「東本願寺前街路施設」とある。つまり噴水以外の施設も含むのだろうと気が付いて公園を隈なく歩いて見つけたそうだ。今回それも写真に納めてきたのご紹介しよう。

噴水の南北に1本ずつ立っていた。照明器具は失われて残った柱に簡単な器具とスポットライトが取り付けられている。

根本が八角形であるところが武田っぽい。柱は鋳鉄製の丸パイプで途中で太さが2回変わる。照明器具はとりかえられている。当初は球形ガラスのものだったのだろうか。

上部に短い腕が出ている。両方向に40㎝ほど突き出ている。これが柱の最上部とそこから30センチほど下がったところの2ヶ所にある。これが何だったのかは分からない。当初どのような姿だったのかぜひ復元したいものだ。

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2021.04.22、京都市下京区

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2021年5月18日 (火)

武田的ディテール(25)蓮華噴水の謎・なぜズレたのか?

航空写真で確かめると角度が45度から5度ずれている。いったいどこを向いているのか。
ひょっとして比叡山の方角かと思いついて地図上で確度を測るとぴったり一致した。
都を護ると比叡山と織豊期以来の大掛かりな都市改造「三大事業」と関係があるのだろうか。
純粋に都市科学的な都市計画の裏に京都を守護する風水的の魔法陣が隠されていたのか。

そこまで考えて間違いに気が付いた。
そもそもこの噴水は浄土真宗の東本願寺のものだから天台宗の比叡山と結びつけるのは無理がある。
さらに4つある排水口のうちのひとつだけが特別なわけではない。
そのひとつがたまたま比叡山を向いていたとしてもただちに意味が生じるわけでもなかろう。

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ではなぜズレたのか。
それは着工したときに武田がいなかったからだろう。
噴水枠石の記銘によれば寄進されたのは大正7年4月。
着工は前年年末あたりだろう。
大正7年4月に武田は
10年務めた京都高等工芸学校から名古屋高等工業学校への転任している。
転任騒ぎのさなかの工事だったわけだ。
(ここからはわたしの想像だと断っておくが)
武田は石工の内田鶴之助氏にこう指示したはずだ。
御影堂門の正面に据えること。
道路間の中間に据えること。
そして排水口を東西南北から45度傾けること。

「はい分かりました」
内田はそう安請負したはずだ。
なにも難しい話ではない。
門の中心に合わせること。
道路間の中間に据えること。
そして東西南北から45度傾けるのだったな。
内田はたもとから愛用の小型の羅を取り出した。
石工という職業柄、墓地の向きなど方位にはうるさい。
だから石工は誰でも羅を使う。
とは方位磁石のことである。

もうお分かりだろうか。
磁北と真北のずれが5度だったのだ。
こうして蓮華噴水は磁北によって配置された。
そのズレは当の武田五一はもちろん
今まで100年間、誰も気づかなかったのである。 

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2021年5月17日 (月)

武田的ディテール(24)蓮華噴水の謎・排水口の位置のずれ

円形の枠がベンチ高さなのは武田的ディテールである。ここに座ることを想定して作られている。座ってみるとよく分かるが背後で水音がして気持ちがいい。この気持ちよさも武田が用意したものである。

枠石はところどころ刻みがある。簡単なディテールだがおもしろい。八葉蓮華をイメージしているのだろう。水面にはハスの葉が3枚浮いているが配置はランダムである。門を背景に見える地点、つまり東側から見れば3枚の葉が生け花の天地人の配置となる。全体が幾何学的な洋風デザインのなかに和風ディテールが自由に入り込むのが武田的である。

枠には寄進者の氏名が掘り込まれている。どこにあるのか探しみるのも楽しいのではないか。ちなみにブロンズ製のハスの花と葉は戦時中に金属供出されたようで今あるものは戦後の復元である。花の茎の部分の銘板に復元年の記載がある。ただし戦前と同じ形なので武田デザインであることは動かない。

枠外にある4つの半円形の排水口からも水音が響くように設計されている。武田は音さえもデザインするのだ。先日まいまい京都でこの噴水を案内したとき排水口の位置がずれていることに気づいた。もう30年以上見ているはずなのにまだ知らないことが残っているのだ。近代建築は見るたびに発見がある。

排水口は東西南北から45度傾いた方角にある。ところが45度きっちりではないのだ。少しずれているのである。なぜか?

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2021.04.22、京都市下京区、東本願寺

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2021年5月16日 (日)

武田的ディテール(23) 蓮華噴水の謎・なぜハスなのか

蓮華噴水の写真を撮ってきたので上げておく。縁に座ると水音が涼しげだ。この水音や涼風さえも武田のデザインの一部であろう。なぜ噴水がハスの花のかたちなのか。その謎を解いておきたい。

明治45年に完成した京都の都市改造「三大事業」によって烏丸通りは拡幅された。このとき東本願寺前は江戸時代からの門前広場だったので烏丸通りは広場の東側を通るように迂回した。

大正3年に京都で大正天皇の即位式が行われることになり東本願寺前に御幸道路をまっすぐ通した。大正7年にふたつの道路に挟まれて島のように残った広場が公園として整備された。そのとき武田のデザインした噴水は京都白川の石工・内田鶴之助によって造られている。

噴水は御影堂門の正面に据えられている。この巨大な門は三大事業完工に合わせて明治44年に完成した。門の2階に釈迦三尊仏が遷座したのは大正3年である。その遷座式は即位の大典を記念した祝祭であったろう。

2階の天井画を担当したのが日本画家の竹内栖鳳であった。東本願寺法主大谷光演は句仏上人とも言われる文学者でかねてから竹内栖鳳と懇意であった。また知られているように栖鳳と武田五一は親しい間柄である。ちなみに大正3年当時の年齢は武田42、栖鳳50、句仏上人39。若いクライアントと日本画の大家、中堅の建築家が揃った。武田の公園計画と栖鳳の天井画は無関係ではあるまい。

栖鳳の絵は花を撒く天女たちの姿だった。遷座式では散華しただろうから天井画にふさわしい画題と言えよう。わたしはミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画を思い起こす。そして武田の噴水がハスなのは栖鳳の天井画に呼応したからだとわたしは思う。天上で花を撒く天女、地上で水を吹くハスの花、ふたつはよく響きあっている。

ちなみに栖鳳の天女像は完成しなかった。モデルとした女性の急病死によって制作は中断されたのである。ほぼ完成していた下絵は行方不明だったが、15年ほど前に京都市美術館で発見されたと聞いた。実物は見ていない。

※この話は「建築探偵団調書7東本願寺前噴水」(京都TOMORROW1993-08月号)が初出である。もうすでに30年近く武田の追っかけをしていることになる。
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2021.04.22、京都市下京区、東本願寺
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2021年5月15日 (土)

上京区洋館の年代推定をしてみた

久しぶりに前を通って現認したので上げておく。印刷所らしい。見たところ明治後半から大正期のものに見える。この場合、下見板張りであること、軒蛇腹がついていること、窓ガラスが輸入ガラスの寸法と同じに見えることなどから年代推定できる。窓の高さから1階は土間であること、2階は畳敷きであることなども推定できる。こうした推理は必ずしも当たっているわけではないが町を歩く楽しみである。

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2021.03.20、京都市中京区

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2021年5月14日 (金)

がんこ寿司めぐりが楽しい

がんこ寿司めぐりをしている。亀岡店もなかなか良かった。旧田中源太郎邸で楽々荘という。明治後期のレンガ洋館がありそのバルコニーのビクトリアン・フロアタイルが素晴らしい。このタイルはちょっとすくんだ落ち着いた素材感と幾何学的なモザイク貼りが特徴だ。京都円山公園の長楽館のものとよく似ている。いいものを見せてもらった。

植治作の庭は高低差があって深山の趣きがあった。洋館2階から眺めれば低い水面がよく見えておもしろかろう。庭にはいろんな灯籠があってめぐるのが楽しい。豊臣家と皇室の紋様の入った大きな灯籠や鋳鉄製の井筒など不思議なコレクションがある。唐獅子のかたちをしたザクロの木や樹齢400年の龍のかたちの松などがおもしろかった。

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2021.05.02、京都府亀岡市、がんこ亀岡楽々荘

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2021年5月13日 (木)

常滑時間旅行16最終回、煤煙のまち

わたしは旅に出るとき、行先のことを事前に調べない。歩きながら手掛かりを見つけ、そこから町の歴史を推理するのが楽しいからだ。それをわたしは時間旅行と称している。

常滑はレンガ煙突が丘陵地に林立するという相当特異な姿をしている。なぜこのような姿になったのか。それは登り窯から倒焔式角窯へという技術革新がこの町で行われたからだった。J・ジェイコブスのいうように技術革新と輸入代替とが都市経済の証しだとすれば、たしかに昭和40年代までの常滑は都市であったといえる。

今回の旅で風景の復元が完成したのはこの門柱を見たときだ。ご覧のように黒ずんでいる。わたしは最初、空襲の名残りかと思った。でもすぐに思い直した。これは石炭燃料による煤煙だと。そう考えれば常滑に多く残る工場群がなぜ黒いのかも分かる。煤で汚れるので最初から黒くしているのだ。この町は技術革新による経済成長を享受するとともに煤煙による環境悪化をも受容していたのである。

洗濯物も外へ干せないような煤の降るまちで鼻の奥まで真っ黒にしながらこの町の住人は生きてきた。この町が操業を止めたのはおそらく大気汚染に対する法規制によるのだろう。ある程度大きな工場は生産拠点を海外に移したろうが、そうでない中小の工場は窯の火を消した。道が狭いため建築基準法によって建て替えのできない工場群がそのまま残ったのだ。これがこの町の特異な風景の生まれた理由だろう。

いまではどこへ行っても空気はきれいだ。そのかわり、かつてのようなエネルギッシュな技術革新はどこにもない。きれいな空気と引き換えに私たちが都市を失ってしまったのではないか。活気のある町を取り戻そうと考えるためには昭和40年代のまま時を止めた常滑の町の風景こそ貴重な手掛かりになるように思う。

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2021.04.21、愛知県常滑市

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2021年5月12日 (水)

常滑時間旅行15、とうとう土管坂にやってきた

以前から見たかった土管坂にやってきた。切り通しなのだろう。思った以上に擁壁が高いし道幅も狭い。この坂を通ると常滑焼に囲まれて不思議な思いがする。とくに右側の焼酎ビンの口が目に見えてこわい。かなりおもしろい場所だった。

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2021.04.21、愛知県常滑市

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2021年5月11日 (火)

常滑時間旅行14、まるで道端ミュージアムだ

昭和初期ころ生産されたタイルのうち半分くらいは出荷検査ではねられると聞いたことがある。さらに現場へ納入しても半分くらいは受け入れ検査ではねられるとも聞いた。同じことが常滑の工業製品でも起こっていたのかも知れない。あとで見る土管坂のような廃棄物利用がいたるところで行われて興味深い。

焼酎ビンは石垣代わりに使いやすいようで坂の随所に見られた。土管をタテに使うのもある。四角い電纜(でんらん)管は塀になっていた。歩いているだけでどんなものが作られていたのかが分かってしまうのがおもしろい。

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焼酎ビンの擁壁

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土管の擁壁
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電らん管の塀

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2021年5月10日 (月)

常滑時間旅行13、坂の町の小さな窯たち

丘陵地の尾根筋に小さな角窯が点在している。1枚目は上屋もないし煙突も短くなっているが保存状態はよい。窯のかたわらに焼酎ビンの部品の石膏型が積んであった。焼酎ビンは筒状の部分はローラー式土管製造機で作るけれども、注ぎ口の部分は手作りだったらしい。こうした小規模な角窯は手作りの各種小部品を作っていたのだろう。

その向いにも木々になかば埋もれながら角窯が残っていた。尾根筋には上屋がいくつもあるので、おそらく中に中規模クラスの角窯が残っているのだろう。この町は操業の停止した昭和40年のころの姿のまま時の止まったように残っている。

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2021.04.20、愛知県常滑市

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2021年5月 9日 (日)

常滑時間旅行12、町には巨大な倒焔式角窯が残っていた

坂の上に大型の角窯が残っていた。ライブミュージアムの角窯と同規模だろう。常滑は坂の町なので登り窯から角窯へ転換するとき大型のものは丘陵地から平地へ移った。1920年代に倒焔式という技術革新によって常滑の風景は劇的に変わったわけだ。

移転の目的は平地を求めただけではなく、トラックによる搬出入の手間も考えたうえだ。だからこのような大型の角窯が坂の上にあるのは珍しい。なぜここに大型角窯があるのか。搬出入はどこからしたのか。そもそも何を作っていたのか。けっこう謎深い。

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2021.04.20、愛知県常滑市

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2021年5月 8日 (土)

釣りたぬき 小島漁港(2021.05.04)

小島漁港で波止釣りをした。家族連れでにぎわっていた。朝10時だったがすでに近隣の釣り公園が満杯のためここへ流れて来た家族連れも多かったようだ。漁協の売店も開いていた。

10時半に竿を出した。魚影は濃いがあたりは少ない。スズメダイやフグのほか大型のハマチも時折見えた。小アジを釣っているひともいたが波止全体としては喰いが悪い。昼前にスズメダイが続けて釣れたが、その後強風が吹き荒れ始めて当たりも無くなった。16時までねばったが飽きたので竿を納めた。釣果はスズメダイ9~12センチが6尾だった。

海水を汲んだらバケツに水クラゲが入っていた。まだ直径5ミリほどだ。バケツのなかを活発に泳ぎまわっている。こんなに小さいのを見たのは初めてだ。半透明でなかなか美しい。海面を見ると無数の豆クラゲたちが泳いでいた。

今回は釣果は少なかったが楽しかった。また行きたい。

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水クラゲ
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スズメダイの魚群
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釣りあげられたスズメダイ
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2021.05.04、大阪府岬町小島漁港にて

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常滑時間旅行11、常滑の町を歩いた

常滑の町には角窯がたくさん残っていた。ミュージアムで角窯を見たあとなのでそれがよく分かった。大小さまざまあって、おそらく作っているものが違うのだろう。これは比較的小型の角窯で上屋はすでに失われてレンガ本体が露出している。

ライブミュージアムと同じような鉄骨補強が残っている。ミュージアムの磯村さんによるとこの補強は最初からあるそうだ。窯は高熱により膨張と収縮を繰り返すが、それを上部のワイヤーを締めたり緩めたりすることで調節したらしい。温度が上がるにしたがって膨らんでいく角窯を細かく制御していたとは驚きだ。

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2021.04.20、愛知県常滑市

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2021年5月 7日 (金)

常滑時間旅行10、テラコッタパークで武田五一と出会った

このミュージアムでもっともうれしいのは、いわゆる「野放し」であることだ。「野放し」とは公開された洋館などをヲタクが自由に見てまわることのできる状態をさす。観覧時になにかと注意されることの多いわたしにとってありがたいことこの上ない。

テラコッタパークも監視されずに表から裏まで舐めまわすように見ることができた。至福である。大型テラコッタをどうやって建物にひっつけているのかよくわかった。ひっかけているのである。

鉄筋をテラコッタに差し込んでモルタルで穴を埋めて固着し、その鉄筋を鉄骨下地に溶接している。テラコッタへの挿し筋はときとして先端がカギ状になっていて脱落を防止している。おそらく石貼りの工法と同じなのだろう。

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朝日生命館、1930

京都府立図書館が外壁を残して解体されたとき、壁面のテラコッタはイナックスが引き取ったことを思い出したので探したところちゃんと展示されていた。アーチ窓のキーストーン部分だ。邪険に扱われることの多かった武田がこうして大切されているのを見るのはとても気持ちがよい。ちなみにこれは日本で最初の国産テラコッタだと言われている。たぶんそうだと思う。武田と常滑の関係は深いのである。

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京都府立図書館、1909
2021.04.20、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム

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2021年5月 6日 (木)

常滑時間旅行09、メソポタミヤの粘土釘を見た

世界のタイルミュージアムでもっとも驚いたのがこれ。写真の左側は断面の接写で右側に部屋の奥の壁が映っている。円錐形のタイルで頭に釉薬で色がついている。口紅かクレヨンのような感じのものでこれを土壁に挿し込んで奥の壁のような模様を作る。こんなものがあったとは知らなかった。なかなかおもしろい。部屋の壁は湾曲しているので幾何学模様を作るのは難しかろう。

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2021.04.20、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム

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2021年5月 5日 (水)

常滑時間旅行08、ヴィクトリアン・フロアタイルの新品を見た

世界のタイル博物館の玄関ホールにヴィクトリアン・フロアタイルが復元されていた。外光を鈍く反射して美しい。明治期の洋館でたまに見かける人気タイルだが、新品のときも落ち着いた雰囲気は同じだだと分かった。よく復元できたものだ。中央の模様入りのものは色土を練り込んで作った象嵌タイルだろう。これらのタイルは釉薬を使わずに陶土そのものに色がついているのだと思う。だから表面がこすれて剥がれても色はあまり変わらない。よくできている。

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2021.04.20、愛知県常滑市イナックスライブミュージアム

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2021年5月 4日 (火)

常滑時間旅行07、倒焔式角窯のディテール(2)

レンガ窯を路面電車のレールで補強していた。最初はレンガ造りで自立していただろうから、ある時点で補強を加えたのだろうと思う。レールを添え柱として等間隔に並べて上部をワイヤーで引っ張っている。窯の両壁の倒れ防止だ。柱どうしを横材でつないているが、それをレンガに食い込ませて壁と一体化させている。丁寧な仕事である。こうしたレンガ窯はいまでも各種工業で使われており専門の業者さんがある。この窯もそうした専門家集団の作品なのだろうか。

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2021.04.20、愛知県常滑市イナックスライブミュージアム

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2021年5月 3日 (月)

常滑時間旅行06、倒焔式角窯のディテール(1)

おもしろいのはレンガが再利用であること。諸所に自然釉のついたレンガがある。自然釉とは登り窯の燃料の薪から出た灰が期せずして釉薬になることで灰釉ともいう。つまりこのレンガは登り窯を解体したものなのだ。

こうした自然釉は最初に見た登り窯(陶栄窯、明治20年ころ)でも見たので、レンガの再利用は古くから行われていたわけだ。ようするに古い窯を解体して新しい窯に更新することが続けられてきたと考えてよいだろう。

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2021.04.20、愛知県常滑市イナックスライブミュージアム

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2021年5月 2日 (日)

常滑時間旅行05、巨大な倒焔式角窯

イナックスライブミュージアムには巨大な角窯が保存されていた。行ってみて分かったが、ここは大正10年の片岡勝製陶工場を保存したものでその中心がこの角窯だった。

これは倒焔(倒炎、とうえん)式という。排気口が窯底にあるので焚口から噴き出した炎が床に吸い込まれる。炎を倒立させることで広い窯内の温度を一定に保つことができるという優れものだ。窯のなかのミニシアターでその仕組みの解説があってよく分かった。煙突が高いのは吸い込む気流を強くするためだということもよく分かった。

特筆すべきは館内に展示された往時の常滑の風景写真だ。瓦職人の山田脩二氏の作品で工場街の日常が活写されている。わたしは直島の緑川洋一資料館を思い起こした。歯科医の緑川氏は高度成長期の瀬戸内海の島々の日常を精力的に撮影した。高度成長期には彼らのように誰も見向きもしない工場街の日常を克明に記録した写真家たちがいたのだろう。

彼らのおかげで私は当時のようすをありありと思い浮かべることができる。保全された巨大な倒焔式角窯のかたわらに、常滑最盛期の写真を並べたのは慧眼でありこのミュージアムの一番の特徴である。

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2021.04.20、愛知県常滑市、イナックスライブミュージアム

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2021年5月 1日 (土)

常滑時間旅行04、登り窯60基の風景を想像する

常滑は尾道のような坂の町だった。その諸所にレンガ煙突が見え隠れする不思議な光景が広がる。町が坂にあるのは登り窯を作るためだろう。

陶栄窯は全長が22メートルもあるそうだ。沖縄県読谷村やむちんの里で見た登り窯(戦後の建設)の22.7メートルに匹敵する。大小の登り窯がこの坂の町に60基ほどあったという。壮観だったろう。

陶栄窯のまわりに焼き損じた製品があるのでなにを作っていたのかよく分かる。大型の水がめのほかに寸胴型の直径1メートルほどの桶がある。染色用ではないかと思う。明治後半に化学染料が普及したことから耐薬品性の高い焼き物の染め桶の需要が伸びたのだろう。あとライブミュージアムで見たような土管があった。

明治20年代は薪だった燃料を30年代には石炭に変えたそうだ。日露戦争のあと常滑の生産量が飛躍的に伸びたことを示すのだろう。やはり染色工業との関連を思わせる。陶栄窯は昭和49年まで操業したそうだ。戦前の技術が高度成長を下支えしたということだと思う。

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2021.04.20、愛知県常滑市

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