2021年2月
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2021年2月20日 (土)
2021年2月19日 (金)
平城宮にはなぜ大極殿がふたつあるのか
写真は復元された第1次大極殿で、この東隣にほぼ同じ規模の第2次大極殿がある。平城宮発掘当初は第1次の次に第2次ができたと考えられていたが発掘が進むにつれて同時にふたつあったことが分かった。それなら第1次、第2次の名称を変更すべきだ。
歴史学者の今泉隆雄は「平城京大極殿朝堂再論」(1993年所)で西側の大極殿は平安宮の豊楽殿のような儀典用施設だとした。わたしはそのとおりだと思う。ふたつの大極殿は何度も建て替わりながら常にふたつある状態は崩れなかった。つまり宮は大極殿と豊楽殿とがセットであることに意味があると考えるのが自然だろう。
大極殿には陰陽のふたつがあると説明すれば分かりやすいかもしれない。陰気の領域である西側にあるのが儀典用の陰の大極殿、陽気の領域である東側にあるのが政り事を行う陽の大極殿だ。古代の統治スタイルは卑弥呼に見るように鬼術を用いて神事を行う大巫(おおふ)と政治を行う弟王のセットになっているのが特徴だ。琉球の聞得大君と琉球王のセットもそれと同じだろう。
聖徳太子と推古天皇のセットはこの古代の統治スタイルをなぞったものだ。平城京を造営した元明天皇と皇太子の首皇子(聖武天皇)のセットは聖徳太子をなぞっているのは明らかだ。逆に言えば元明ー聖武のセットになぞらえて藤原不比等が聖徳太子伝説を再調整したのだろう。法隆寺が遷都と同時に再整備されたのも偶然ではないとわたしは考えている。
おそらく則天武后(在位690‐705)の即位に力を得て、日本の古代の統治スタイルに合わせた律令体制を作ろうと不比等は考えたのだろう。そのことは仏教を用いた日本の宗教再編の一環であったと私は思うがそれは別の話になる。とりあえずここでは大極殿がふたつある謎について確認しておいた。
参照 朝堂院研究(7)http://www.tukitanu.net/2016/08/post-729e.html
2021.02.17、平城宮
2021年2月17日 (水)
2021年2月16日 (火)
武田的ディテール(11)タイル
このビルでは柱型には平タイルを貼り、壁部分には写真のような型タイルを貼っている。「く」の字型に型が入っており日に当たって影が落ちる。影が入るので遠目にみれば少し暗めに見える。平タイルのほうが光っているので柱型が浮き上がって見える仕掛けなのだ。これは本当によく考えられた意匠でいかにも武田の考えそうなディテールだ。とくにラインが上と左にしかないところが武田らしい。普通なら正方形の二重の型にするところだが、正方形だと下ラインには影は落ちない。どうせ落ちないのなら不要だろう。そう考えた武田がさしがねを陶土に押し当てて瞬時に作ったのがこのタイルなのではないか。わたしはそう思う。
ちなみに武田は1938年の2月に亡くなっているのでこのビルの竣工を見ていない。遺作のひとつである。
2011.04.25、関電京都支店(旧京都電灯本社)1938
2021年2月14日 (日)
2021年2月13日 (土)
2021年2月12日 (金)
武田的ディテール(10)記念碑
記念碑は建築家の仕事だった。武田も数多くの記念碑を残している。とくに教鞭をとった京大構内にはいくつもある。この銅像台座はなかば樹木に埋もれていて見つけにくい。ブロンズ製の胸像は腕組みしか見えない。これを探し当てたのは武田追っかけのK氏だった。教えられて行ってみると、なるほど武田的ディテールが見て取れる。
ひとつは記念碑に小さな前庭があることだ。武田は記念碑をポケットパークとして設計することが多い。ここもその事例のひとつである。もうひとつは銅像台座の左右を支える扇型部分がリボン状に縁どりされてりことだ。(1)で紹介したジェームズ館のまぐさ石のリボン彫りに通じる処理だ。リボン状に縁どることで輪郭がぼやけて優しいシルエットを獲得している。なかなかおもしろい。
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