2019年10月
2019年10月31日 (木)
2019年10月30日 (水)
2019年10月29日 (火)
2019年10月28日 (月)
2019年10月27日 (日)
2019年10月26日 (土)
2019年10月25日 (金)
2019年10月24日 (木)
2019年10月23日 (水)
2019年10月22日 (火)
2019年10月21日 (月)
2019年10月20日 (日)
2019年10月19日 (土)
2019年10月18日 (金)
2019年10月16日 (水)
2019年10月15日 (火)
2019年10月14日 (月)
2019年10月13日 (日)
2019年10月12日 (土)
ネット上の台風情報について
2019年10月12日午後9時現在
台風19号はさきほど伊豆半島に上陸し関東平野を縦断中。すでに集中豪雨による河川の氾濫が始まっているが、今後東京湾の高潮により浸水地区が拡大するのは確実だ。荒川、多摩川、鶴見川、相模川、狩野川があふれだしている。このへんの情報は気象庁HPの「洪水情報の危険度分布」が分かりやすい(参照)。とりあえず0メートル地域の住民は海抜6メートル以上のところへ移ること。
強風による広域停電まだ始まっていない(参照)。今後数時間以内に千葉県を中心に停電が増えるだろう(それでも千葉県だけ関東地域で特別警報が出ていないのが不思議だ)。関東平野のマンション住民は停電による断水に備えて風呂に水を溜めておこう。これは水洗便所の流し水に使うためだ。
きょうはどこへも行かなかった。8時に起きてごはんを食べて二度寝して12時にごはんを食べて、それからネットの台風情報をあさっていた。きょうはブログを書くつもりも無かったが、SNSで不正確な情報が横行するのが目に余ったのでひとこと書かずにおれなかった。危機管理上もっとも重要なのは正確な情報だと思うからだ。
わたしの住む京都府乙訓地方は現在いたって平穏だ。風もなく雨も止んだ。周辺河川の増水もたいしたことはない。危機に直面する関東平野にはわたしの身内も住む。関東に住む人はみな上手に情報を得て危機を乗り超えてほしい。
2019年10月11日 (金)
2019年10月10日 (木)
2019年10月 9日 (水)
2019年10月 8日 (火)
2019年10月 7日 (月)
2019年10月 6日 (日)
海を描いた
唐櫃(からと)の棚田のなかほどに食堂「碧い空 」があった。斜面に丸太をおいてトタン屋根をかけただけの店で島の製麺所が店を開いているらしい。カレーそうめんをいただいたが、景色を眺めながらの食事は格別だった。食後にスケッチを描いた。吹き抜ける風が花盛りのコスモスを揺らしていた。とてもいいところである。
碧い空 http://www.kawahigashiseimen.jp/aoisora/
2019.09.29/ワトソン紙はがきサイズ、グラフィックペン0.5、固形透明水彩/香川県豊島
2019年10月 5日 (土)
2019年10月 4日 (金)
2019年10月 3日 (木)
からとの清水とはなにか(3)
この積み石は緑色の凝灰岩で豊島石というのがこれだろう。これは採石時のくず石の転用だろう。江戸時代から豊島は石灯籠の産地として栄えたそうだ。唐櫃(からと)の集落が豊島石でできているということは、ここが石灯籠産地の中心のひとつであることを示すと考えてよい。
唐櫃の清水を整備したのは村出身の中野喜三郎という人物だった。公民館前に銅像が立っている。彼は東京へ出て石工業で名をあげ国会議事堂工事にもかかわったという。明治期には瀬戸内海は全国でも有数の石材産地を形成しており、中野組は産地をバックに大きくなったと思われる。その恩返しに故郷の水場を整備したというわけだ。
そういえば建築史学者の村松貞次郎だったかが瀬戸内海の島まで調べにきたときのことを書いていた。石切り場を訪ねて国会議事堂で使った石材はどこから採ったかと聞くと石工が中空を指さしてあのあたりだと答えたという。わたしはそれは議事堂の列柱のことかと思っていたが、議事堂の外装全体の話と考えてもおかしくない。それほど良質の石材が大量に採れたということだ。
塩業地としての瀬戸内海は17世紀後半に全盛を迎え18世紀には急速に衰退した。供給過多のため塩価が暴落したためだ。それに代わって豊島では石材業が盛んとなった。唐櫃は17世紀に棚田開発が始まり、石材業の盛んとなる19世紀前半から中ごろにかけて豊島石による地域の再整備が行われたのだろう。いまのところわたしはそのように想像している。
昭和初期に唐櫃地区は清水再整備とともに村の中心に水くみ場を整備した。唐櫃の清水からサイフォン式の水路を引いたそうだ。今は無くなってどのような水場だったのか分からないが、きっと唐櫃の清水のコンパクト版があったのだろう。それは水を使ったポケットパークとしてすばらしい。唐櫃は石材業の好調を背景に新しい地域計画に取り組んだ。それは地域特性である石と水をふんだんに使ったものだった。いまわれわれはそんな風景を見ているのである。
豊島石の矢羽根積み。採石時のくず石の再利用と思われる。小さいので女性やこどもでも運べる。村人総出で積んだと思われる。
路傍祠も石造り。左ふたつの緑色の石が豊島石だろう。
2019.09.29、唐櫃(からと)香川県豊島
2019年10月 2日 (水)
2019年10月 1日 (火)
からとの清水とはなにか(2)
棚田は数百年にわたって規模を拡大してきた。中山千枚田でもっとも開発の進んだのは江戸時代の前期だったとわたしは考えている。なぜならこの時期小豆島は塩業地として発展するからだ。塩を作るためにも薪炭が必要だ。塩業でもうけた資金を薪炭採取後の森林跡の棚田開発に投下したのだろう。垣花樋川も同時代であり沖縄も極東アジア有数の製塩地域だった。だから唐櫃(からと)棚田の発生も同時代だったろうと思う。
古い棚田は給水と畔に特徴がある。古い給水方法は田入れといって田から田へ水を入れていく。最上部から満水になっていくタイプだ。この方式では田の土が下へ流れるのでその後水路タイプに変わった。唐櫃棚田は水路タイプのようだ。
畔は1メートル前後の石垣となる。古いタイプは石垣のままだ。これは高野山周辺で見たことがある。江戸時代後期には石垣に土をかぶせた土手タイプに変わる。理由は不明だがわたしは雪害防止が目的ではなかったかと想像している。唐櫃棚田も土手タイプだ。石垣タイプを土手タイプに改修したのか、それとも開発自体が江戸時代後期なのかは分からない。
集落も棚田状に造られていることが唐櫃の特徴だ。棚田の一番上にひな壇造成された集落がある。これは棚田と集落がセットで開発されたことを示す。古い集落を作り直したのかもしれないが、湧水井戸、棚田、集落をワンセットにした計画は珍しい。集落は矢羽根積みの美しい石垣でできている。おそらく棚田も同じ積み方だろう。
さて、この特徴的な石はいったい何を語るのか。長くなったので続きは次回。
2019.09.29、唐櫃(からと、香川県豊島)
最近のコメント