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2019年1月

2019年1月31日 (木)

旧松村邸の洋館

 由良川の氾濫に悩まされた福知山は大堤防を造った。松村組は施工者のひとつだった。松村組はその大堤防の上に自邸と事務所を新築した。これは旧松村邸の洋館である。自ら堤防上に住むことで大堤防の安全性をアピールしたかったのだろう。

 古典的なプロポーションにセセッションのディテールを散りばめた意欲作だ。内部もほぼそのまま残っており、現在の所有者の洋菓子店足立音衛門さんも大切にお使いになっている。

 設計者はいまのところ不明である。松村組は直前に旧京都師団司令部を施工しているが、窓回りやドーマー窓の扱いが似ているように私は思う。しかし司令部のほうも設計不詳だ。当時陸軍に設計部は無かったのだろうか。


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2018.10.22/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/京都府福知山市

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2019年1月30日 (水)

丸五薬品(宇治市)

 宇治橋通り商店街を歩いていたら近代建築があった。とてもうれしい。銀行かと思ったら薬局だった。昭和初期の鉄筋コンクリート造だとある。きれいに修理されていて見ていて気持ちがよい。アーチが6つありリズミカルな美しさを有している。両端と中央左寄りの3ヶ所はドリア風の列柱になっている。不思議なのは中央の柱が左に寄っていること。なんでだろう。

 京都宇治観光マップ「丸五薬品」 https://travel.ujicci.or.jp/app/public/shop/index/28

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2019.01.26、京都府宇治市

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2019年1月29日 (火)

車中メモ

 準急に乗った。休日の夕方で空いていた。向いに親子連れが座った。男の子は三歳くらい左手に新幹線をらしきものを握っている。プラレールで遊ぶようなずんぐりしたおもちゃだ。手のひらより大きいので握るというより掴むという感じだ。父親はやせて貧相な顔付きだが身なりはよい。

 男の子は無口な上に表情がなかった。つねに口を半ば開いており、ものを見る時には顔ごとそちらに向ける。父親はガラケーを開いてなにか見せた。男の子はガラケーに顔を近づけてそれを見たがやはり表情は動かない。父親がこどもの耳元でささやくように言葉をかけた。男の子は父親を見上げたが何を言うわけでもなく座り直してまた新幹線を眺めはじめた。手首がうまくまわらないので首をかしげながら見入っている。

 そのまま親子のことは忘れていた。気が付くと父親が眠っている。男の子はあいかわらず新幹線を眺めていたが、ふと父親が寝ていることに気づいたらしい。ゆっくり顔を近づけていって下から上を覗きこむようにして父親を見た。そのまましばらくじっと見つめていたが再び座り直して新幹線に戻った。表情がないため周囲に無関心のように見えるが、本当は父親のことを気にかけているのだろう。へぇと思ったのでメモしておく。

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2019年1月28日 (月)

空の研究 190127

 京都盆地の西山連山の向こうに丹波高原の厚い雪雲が見える。高さ2~3キロの積雲だ。雷雲でもあろう。たまに西山を越えて猛烈な吹雪が吹き込むことがあるが、たいがいはこんな感じで山を越えない。風水でいうところの山に囲まれた土地は平穏であるというのはこうした自然観察から発した思想だったことがよく分る。

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2019.01.27、京都府向日市

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2019年1月27日 (日)

コアラパーク「白菜ステーキ」

 たまたま入った店だったがおいしかった。鉄板グリルの店で肉やら野菜やらを目の前でジュウジュウ焼いてくれる。写真は白菜ステーキで、1/4白菜を蒸し焼きにしたものにブルーチーズがかけてある。薄い塩味でチーズの香りがよくてうまい。白菜にこういう食べ方があったのかと初めて知った。

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京都府宇治市「コアラパーク」

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2019年1月26日 (土)

宇治の平等院へ行ったよ

 久しぶりの休みなのでかみさんと宇治の平等院へ行った。うちからだ車で1時間ほどで行ける。こんなに近いとは思わなかった。早く行ったので観光客も少なくゆっくり拝観できた。螺鈿を使ったインテリアがものすごい。極楽往生への篤い信仰をあらためて思い知った。飛天の奏でる民俗音楽が聞こえてくるようだった。資料館も見やすくて良かった。現代建築も捨てたものではないと思った。


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2019.01.26

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2019年1月25日 (金)

スウェーデン風ミートボールとバターライス

 バターの香りがとてもよい。シンプルな塩味のホワイトソースに堅めの肉団子がよくからんでうまい。肉団子は神戸のイケアでかみさんが買ってきたもの。イケアのスウェーデンカフェはうまいらしい。行きたい。


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2019.01.21

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2019年1月24日 (木)

自家弁当 190123

 毎朝サバ水煮を食べているが、お昼の塩サバも格別である。酸味にも似た独特の旨みを塩が引き立ててうまい。ごはんの進む味わいである。キャベツの豆板醤炒めも脂っこくてうまい。これもごはんの進む味わいである。ごはんをもっとください。


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2019.01.23、同女にて

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2019年1月23日 (水)

自家弁当 190122

 ハンバーグが入っている! ケチャップ風味のソースが柔らかいハンバーグの肉汁とよくなじんでうまい。ごはんと一緒に食べるのでもっとごはんがほしい。甘いホウレン草は近所の農家のもの。そのとなりのタクアンは先週寝屋川の門寿司で買ったもの。ほどよい甘酸っぱさでごはんがすすむ。


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2019.01.22、関大にて

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2019年1月22日 (火)

一点パース世界の練習中(大阪パース教室)

 前回よりも複雑にするために近景、中景、遠景の3つに分けて描いてみた。人間は近景から遠景までまんべんなく見ているわけではなく、3段階に分けて別々に認識しているように思う。そうすることによって世界観を構築しているのだろう。だから3段階に分けて描けばそこに世界観が生まれる。複雑に見えるけれど実は世界観認識の定石なのではないだろうか。

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2019.01.21/ワトソン紙A4、0.5シャーペン2B、透明水彩/大阪府野田「カットザコーナー」にて

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2019年1月21日 (月)

夢日記 190121

 一度目覚めたように思うが前後つながっていたようにも思う。最近はこうしてメモしているためか比較的よく覚えている。こうして少し習慣づければ自分の夢を読むことができる。夢読みに害があるようにいうかたもあるが、ユングの深層心理学では正当な分析法である。

 怪人に捕らえられ後ろ手にしばられて谷あいのアジトまで連行される。怪人は黒マントの若い男でアジトには似たようなかっこうのボスがいた。拷問されるところで目が覚めた。夢の続きは仲間たちと逃げているところから始まる。仲間のなかに吉本喜劇の阪神巨人がまじっていた。
 怪人のひとりが手引きをしてくれる。怪人は崖を飛び降りるが自分たちは傾斜のゆるいところを這うようにして下りた。下に用水路があり水が流れている。草むらにバス停があってそこへ隠れた。少し離れたところへ外国軍の黒い4発ヘリが続々と着陸するのが見えた。
 自由になったわれわれは近くの温泉宿へいく。宿はインドのストゥーパのような石造りだ。入り口は顔が入るくらいの小さな木戸だった。そこを開けて呼びかける。出てきた宿の女に焼け出されたので止めてほしいと仲間が言うが断られる。わたしが浴槽掃除を手伝うからというと入れてくれた。
 古いタイル貼りの浴槽でそれを仲間たちと洗う。引き戸を開けて枠のホコリを雑巾で掃除する。枠の際に座っていた老人がどうすればよいのかと聞くので、こうやってホコリを払うと教える。クモのマユのようなところから弱った虫が
出てきたので雑巾を投げつけるが机の上に逃げられる。老婆が渡してくれた布で虫を捕らえることができた。机の上にはホコリを被った不要品がたくさんあり、その陰にも虫がいるのが見える。全部片づけなければと思ったところで目が覚めた。

(夢読み)
 爆撃や拷問は単に体調の悪さを示しているのだろと思うが、ひょっとすると「悪」として不当に抑圧された心の部分を示すのかも知れない。黒マントの怪人が助けてくれるという夢はこれまで見たことがない。体調の悪さが夢の感度を上げたのかも知れない。
 急襲ヘリの黒は怪人のマントと同じ色なので、同じく悪を象徴するのかも知れない。悪とはそうした暴力的な強制力をいうのだろう。現実世界で遠ざけられた悪は無意識化にもぐっている。この夢はその部分とのつながりを取り戻すことを言っているのだろう。分かりやすい夢だと言える。
 ストゥーパのような温泉旅館はわたしの無意識を示している。そこは古いタイルが豊富な魅力的な場所だが人が訪れたことがなく放置され虫も湧いている。それを掃除することは、忘れられ遠ざけられた心の部分を再生することを示している。この部分も分かりやすい。

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2019年1月20日 (日)

自家弁当 190118

 アルミホイルの中はロースハムと里芋のチーズ焼き。里芋がトロトロでハムの塩味とよく馴染んでうまい。最初に食べたのはゆで玉子の醤油煮。たまごと醤油ってなぜにこれほど相性がよいのだろう。カブラの浅漬けもパリパリした歯ごたえとさわやかな酸味でうまかった。

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2019.01.18、摂南大にて

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2019年1月19日 (土)

今期さいごの立ち呑み「門寿司」

 授業がすべて終わり、ここへ来るのも今期は終わりとなった。以前準備室にいたアーティストの吉川さんも来てくれて楽しく飲んだ。最後はじゃんけんで握り寿司を選ぶ。ワイワイ言いながらおいしくいただいた。わたしはハマチとエビが当たった。とてもおいしかった。門寿司さんありがとう。


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2019.01.18、大阪府寝屋川市大利商店街「門寿司」

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2019年1月18日 (金)

製図室を描いた

 授業がひと段落したので落描きをしてなごんでいる。

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2019.11.17/A4コピー紙、2Bシャーペン0.5/大工大

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2019年1月17日 (木)

自家弁当 190117

 8号車デッキが木曜昼食の定位置になっている。大阪までの15分間で特大おにぎりをいただいている。上から顔を出しているのはロースハムで、その下に茹で玉子の醤油漬けがまるまる一個入っている。最近では中身をこぼすことなく食べることができる。両手で包むように持って拝むようにしていただくのである。うまうまである。みんなも試してみてね。

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2019.01.17、新幹線にて

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2019年1月16日 (水)

夢日記 190116

 日中、狭い道を歩いている。古いアパートの裏口がある。木造2階建てで赤いスパニッシュ瓦が載っている。表口は知っていたが、こんなところに裏口があるとは知らなかった。覗いてみると自転車が置かれた薄暗い土間がある。上がり框の先に縁甲板の廊下が見えた。両側に部屋のある中廊下式だが、廊下に光が射しているので中庭があるらしい。1階にお好み焼き屋があり背広姿のサラリーマンがあがりこんでいく。気が付くと裏口に看板があった。

 立ち話の声が聞こえる。声をかけると年配のアパートのおかみさんが出てきた。ここは女子専用かと聞けばそうでないという。賃貸料を尋ねるといったん奥にひっこんで出てきていうには118円×盛り数だという。盛り数とは床面積のことらしい。部屋の広さにいろいろあるようだ。この値段からは下げられないという。60㎡でも1万円以下なので安いと思った。2階にあげてもらって部屋から外を見ると歌舞練場のあたりが見渡せた。改めてまた来ますと言ってアパートを出た。

(夢読み)
 図面を描けるほどはっきり見えた。昭和5年くらいの建物で、花街だから当初は女性中心だったのだろう。同じようなアパートが南座裏に残っていたがもう無いかもしれない。中庭のある迷路のような古いアパートはわたしの無意識の象徴なのだろう。無意識との仲介をおかみさんがしている。安い負担で無意識とつながることができる。無意識と意識とがつながった状態にあることを夢は言っているのだろう。

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2019年1月15日 (火)

自家弁当 190115

 お弁当はだいたい11時過ぎにいただいている。そのころだと、どこの講師控室も空いていて落ち着くからだ。ごはんは何も見ずに食べることに集中するようにしている。いくら忙しくしていても、ものを食べるときくらい時間を自分のために使いたい。お弁当はキャベツのピリ辛炒めがうまかった。キャベツが新鮮で甘味がある。その甘味と豆板醤の唐辛子辛さがよく馴染んでうまかった。


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2019.01.15、関大にて

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2019年1月14日 (月)

夢日記 190114

 まあ覚えているのでメモしておく。

 先生を大学の研究室に呼びに行った。これから雅楽の練習をするので指導してもらうためだ。練習場は町中のギャラリーのようなところだった。メンバーが集まっている。先生は知らない人だったが面識はあるらしい。メンバーに指示を出している。私は龍笛を忘れたので取りに行くと言って席を立った。先生はついでに煙草とコーヒーを勝ってきてほしいという。タバコの銘柄は何だったろうかと思っていると先生はシャツの胸ポケットからロングピースマイルドを取り出して渡してくれた。敬愛する先生に頼まれごとをされたのがうれしくて私は嬉々として龍笛を取りに走った。

(夢読み)
 夢には良し悪しがある。それは見た本人には分かる。夢のまとっている雰囲気が明るいか暗いかでなんとなく分かるのだ。この夢は良い夢だった。通常、忘れ物を取りに戻るのは準備ができていないことを示すが、この夢はリハーサルはさぞワクワクするものだろうという明るい雰囲気があった。なにかが私のなかで完成しつつあるという啓示と捉えてよかろう。

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2019年1月13日 (日)

年初の立ち呑み「角寿司」

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 本年初めての門寿司である。上はニシカジカという魚でヒラメのようなねっとりした舌ざわりでさっぱりとした旨みがある。姿も見せてもらったが30センチほどのコチやアイナメに似た根魚だった。ただし赤い。大将も見たことのない魚だと言っていた。珍しいものを頂戴した。

 下じゃオオミゾ貝。アワビのようなコリコリした歯触りで潮の香りのあるさわやかな味わいでうまかった。これも初めていただいた。今年もいろんなものを楽しむぞ。


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2019.01.11、門寿司

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2019年1月12日 (土)

自家弁当 190111

 あじごはんは見ただけでおいしい。もちろん食べればもっとおいしい。塩味をひかえた味ご飯に紅ショウガがピリリと利いて箸が進む。いつまででも食べていたい味わいだ。あっというまに食べてしまった。ごちそうさま。


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2019.01.11、摂南大にて

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2019年1月11日 (金)

とんてき

 ミニトンテキは柔らかくてジューシーだ。ヒジキの胡麻和えは噛みしめるほどに多少酸味のある旨みが滲み出す。菜の花は近所の農業倉庫に出ていた初物だが新春らしい苦味がある。いろんな味を少しづつ味わいながら箸を巡らせて楽しんだ。お正月らしくておめでたい。


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2019.01.07

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2019年1月10日 (木)

自家弁当 190110

 大急ぎで大坂へ行かねばならないのに今出川駅で5分、京都駅で15分もマラされてしまった。時刻表が変わったのだろうか。おかげでベンチに座ってゆっくりお昼ごはんができた。おにぎりの中には茹で玉子の醤油漬けが一個入っていてうまいのだが、こぼれ落ちそうになるので両手で持って拝むようにしていただいた。拝み食べとはこのことだ(そんな言葉はない)。

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2019.01.10、京都駅

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2019年1月 9日 (水)

自家弁当 190109

 チンゲンサイと豚肉の炒め物が脂っこくて塩辛くてうまかった。脂っこさと塩辛かさはうまさの二大要素だな。アルミホイルの中はササミのチーズ包みで塩気も脂っこさも無いがケチャップとよく馴染んでうまい。

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2019.01.09、同女にて

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2019年1月 8日 (火)

自家弁当 190108

 平成31年の初弁当である。こうして見ると丸いものが多いな。最初にニンジンをいただいた。丸いものや赤いものから食べる法則は今も健在だ。最大の丸であるシイタケはプリプリとした歯ごたえで甘く炊き込まれてうまかった。

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2019.01.08、関大にて

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2019年1月 7日 (月)

卒業設計の季節がやってきた

 毎年3つの学校の卒業設計展を見ている。内2校の講評をブログに書いて円満字賞を出してきた。2014年からなので5年目になる。

 講評 http://www.tukitanu.net/cat23973352/index.html

 大ざっぱにいって設計は、発想とそれを形にするための知識と考えたものを人に伝えるプレゼン力とでできている。知識とプレゼン力のふたつは努力すれば身につく。特にプレゼン力は学生のあいだに飛躍的に伸びて社会人並になる。知識は現場経験の裏打ちが必要なので学生のあいだは思うようには伸びない。発想力は個性的なものなので1年生のときにすでに獲得しているものもいる。わたしが講評で気にかけているのはこの発想力だ。そのことに最近気づいてきた。

 以前は志といっていたが、そう高踏的にとらえなくともよいだろう。自分らしければそれでよい。それが一番難しい。自分がなにを好んでなにを厭うのかということを自覚しているかどうか。それは作品に如実に現れる。そこが面白いとわたしは思う。今年も楽しませてもらおう。

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2019年1月 6日 (日)

右肩あがりって何だろう

 折れ線グラフの右側が上がるという意味であることはみんな知っている。でも図のようにグラフを人の肩と考えたのならばそれは右肩じゃなくて左肩だろう。というつっこみを機能考えてみた。しかし実際は人に見立てたのではなく単にグラフの右側という意味なんだろう。検索しても語源は出てこない。折れ線グラフを使うようになってからの言葉だろうから明治以後だと思う。おそらく相場の業界用語だったのではないかと思っている。


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2019年1月 5日 (土)

カラスはなぜ鳴くか

 今朝思いついてカー助(カラスのこと)の鳴き声を数えた。一声だと1カー、二声だと2カー。まだ観察を始めたばかりなので断言はできないが、どうも2カー、4カー、6カー、8カーと偶数が多い。それを聞いて別のカー助が鳴き返したりするが、最初のカー助が8カーだと鳴き返すほうも8カーで返す。どうやらカラスは数を数えることができるらしい。おもしろいのでしばらく観察してみる。

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2019年1月 4日 (金)

内藤昌「近世大工の美学」

 前半の大工列伝が西洋ルネサンスの建築家列伝のようでおもしろかった。戦国時代の建築家は西洋ルネサンスの建築家と肩を並べる天才揃いだ。その活躍が江戸時代の建築にも影響していることもよく分かった。近世から明治までの日本の建築家を俯瞰する良書だと思う。

 後半の環境倫理についての章は哲学的な用語が多き私にはさっぱり分からなかった。西洋文明の行き詰まった現代を日本の古典建築が再生すると言いたいのかも知れないが、古典のなにが現代を再生させるのかが分からない。古典建築に関する記述がデザイン中心なのだが、もし現代社会に役立つとすればデザインよりも当時の構法や施工体制のほうではないかと思っている。


中公文庫1997年刊、2019年1月2日読了

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2019年1月 3日 (木)

夢日記 190103

 とりとめが無いうえによく覚えていないがメモしておく。

 鉄筋コンクリート造3階建ての旧い紡績工場の見学会。調査をした女性の研究員が説明している。自分もなにがしか発言したくてウズウズしているがきっかけがない。2階から3階へ部屋の中央に白い螺旋階段がある。それは2階から自立していて3階の床とは構造的に接合していない。そのためにすっきりと見えるしこの建物の特徴だと参加者のひとりの男性に説明している。後で参加者の誰かからおまえは以前間違った説明をしたので信用できないと言われる。
 広い部屋にブースが並び机が置かれている。半分くらい無人だが誰かいるところはジュークボックスのような機械が置かれている。その前でみな食事をしている。泥棒が人の食事を盗んでいる。それを誰も注意しない。わたしは泥棒の座った机の上の大きなビンを目の前で割る。何度も割って威嚇する。今度はコカ・コーラのビンを割る。泥棒を食事をしている主任に突き出す。

(夢読み)
 3階建ての3階が舞台なので、わりと浅い夢だと分かる。女性研究者がわたしの創造性なのだろう。それとうまく話せないもどかしさが夢のテーマだ。そのもどかしさは自分が説明者の立場ではなく群衆のひといrであるという状況認識と発言したとしても間違うのではないかという不安からできている。分かりやすい夢だ。
 後半はよくわからない。今度は逆に座っている群衆とは別に自分は食事もできず歩き回っている。関に座ればよいのだが、皆が背後に据えているようなきれいな機械を持っていない。泥棒はわたしなのだろう。歩き回る自分は泥棒にしかなれない。それを認めたくないので夢のなかではふたりに分裂しているのだ。怒りは泥棒をすることへの拒絶反応だろうが、なかなか激しいので泥棒することへの衝動なのかも知れない。

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2019年1月 2日 (水)

夢日記 190102

 2日の朝見たので初夢に当たる。夢に現実世界の時間は関係ないので気にすることはないが。覚えている部分は短いけれどメモしておく。

 教室で学生たちと楽しく建築ゼミをしている。1階へ下りるとそこは工房でいろんな作りかけの部品が転がっている。自分もそのうつのひとつを完成させる。いくつかの木材が組み合わさった枠のようなもので背丈ほどの大きさがあった。安定しないのでドリルでビス止めして完成させた。家を組み立てる部品になるようだ。外に出た。ビルの1階がショールームになっているが閉まっていた。ウインドーのビニル庇が壊れていた。

(夢読み)
 校舎が無意識を構造化したものだろう。工房が地下ではなく1階であることから、創造性が地上に現れた状態にある。そこで生み出したものは何かの一部なのだが、それが何なのかはまだ分かっていない。もしくは着地点を見極めずにやみくもに作っているという状況を示すのかも知れない。

 ずっと友人のように学生たちがまわりにいて話しかけてくれるので悪い夢ではなく良い夢なのだろう。気になるのは作っているものが壊れたような部品であったり目にするものが壊れた庇であったりすることだ。直し方もビス止めのような応急的なことしかしていない。壊れた破片を私が見つけるというのがこの夢のテーマなのだろう。意味は分からない。

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2019年1月 1日 (火)

夢日記 190101

 久しぶりに夢を覚えていたのでメモしておいた。すぐにメモをしたので長くてディテールもはっきりしている。

 駅のホームにいて友人たちとどこかへ行こうとするが、自分が裸なのに気づいて帰ろうとする。駅は複雑な構成をしていて、それをうまく通り抜ける方法があったはずだが分からない。友人と高架下の2階に上がる。廊下のようなところにテイクアウトカフェのベンチシートがある。その先に線路へ降りられる階段があるがガラス窓のある鉄扉に鍵がかかっている。傍らの扉に個人宅の表札もありその先に進むのはやめる。ベンチシートに戻ってその話をすると友人は席を立っており、その向こうの知らない若者たちが答えてくれた。彼らと友人になる。たくさんある線路の一番端のホームに行く。貨物列車が通り過ぎるのでホームの中央に下がるが反対側を特急が走り過ぎる。ホームが狭いので怖かった。ホームの先は行き止まりなので戻る。階段を下りるとそこで歌のコンテストをしていた。わたしは観衆のなかに混じって座り込む。最後のひとりである若者が歌っている。わたしは審査員のひとりで彼がよいと思ったが他の審査員たちが反対した。歌はうまいが人となりが悪いからだと言う。自分は最後まで彼を押すが別の女の子が一位となった。若者がくやしそうにしている。

(夢読み)
 複雑な構成の駅は無意識そのものを意味する。そこを裸でさまよっているというのが私の現状なのだろう。行き止まりの危ないホームや鍵のかかった扉はそこから出られずにいることを示す。コンテスト会場が駅より下層なのは心理のさらに深層であることを示すのだろう。森のなかで鬼たちが宴会をしているのと同じことだ。怖いホームの先にそれがあることも深層であることを示すのかも知れない。そこで私は人となりよりも歌を優先させよと言う。これがこの夢のテーマだ。人柄を否定する他の審査員たちもわたし自身の別の姿なのだ。何かの価値を見つけたのなら社会的な評価を度外視して素直に評価せよと夢は言う。

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謹賀新年

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2019.01.01、向日神社の笑う狛犬(天保15年)

 初詣で1時間ほど並んだ。ようやくお参りして恒例のおみくじ(200円)を引いたところ半吉だった。地元の神社で吉以外のものが出たのは初めてだったので驚いた。半吉は小吉の下で末吉の上で、ようするに良くもなく悪くもないというほどの位置だ。

 でも書いてある詩はなかなかよい。みくじの解説に沿って意訳するとこうなる。

「舊偬何日解  過去の過ちはいつか解けるだろう
 戸内保嬋娟  家のなかに美人を保て
 要逢十一口  吉祥と出合うことを求めるならば
 遇鼠過牛邊  ネズミに遇い牛のかたわらを過ぎよ」

 なんだかマザーグースのようなみくじである。家のなかの美人とは良き心のことだとみくじの解説にある。最後のネズミと牛が分かりにくいが、解説によれば子の時に丑の方角へ行けという意味だそうだ。子の時とは月なら11月、日なら12日間に1度巡る。丑の方角とは北東だ。具体的ではあるが意味はよく分からない。

 解説では「病人長引く、失せもの出がたし、待ち人遅し、望み事遅し」と続き、とりあえず子と丑の方角に頼れとあった。さてこの詩は本当にそういう意味なのか。

 みくじは最初の「舊偬(きゅうそう)」を旧い過ちと訳すが、辞書によれば「偬」は苦しいようすもしくは忙しいようすという意味で過ちとは読めない。

 次に嬋娟(せんえん・せんけん)だが、これはあでやかで美しいさまという意味で美人や花にかかる形容詞だ。嬋娟が美人を直接指すわけではない。

 この詩は五言絶句だ。五言絶句は「起承転結」でできている。三幕構成で言えば起承・転・結となる。つまり最初の2行はひとまとまりで読むのが正しい。ならばこの詩の1行目と2行目を素直に読めばこうなるだろう。

   長い苦しみはいつ解けるのか
   家のなかにはあでやかで美しいものを保っているのだが

 なんだか「風に吹かれて」の一節のようだ。

 三行目の「十一口」は吉の解字だそうだ。「要逢」は逢うことを求めるでよい。みくじの訳のとおりでよいだろう。

   幸せと出逢うことを求めるなら

 最後の「遇鼠過牛邊」が難解だ。ネズミと牛が十二支に相当していることは確かだろう。ここで注意したいのは子と丑が続いていることだ。子丑寅卯辰巳…の最初の子と丑だ。暦で言えば11月から12月を指す。つまり盛冬と晩冬に当たり、冬の半ばから終わりにかけての季節をいう。ネズミに遇って牛にすぎるとは、いずれ春を迎えるという意味ではないだろうか。

 そう考えれば最後の2行は劇的に変わる。

   幸せと出逢うことを求めるならば
   いずれ春を迎えることだろう

 この吉祥は妊娠を意味するのかも知れない。妊娠とは何かを産みだす、もしくは再生するというほどの意味だろう。そう考えればこの詩はこう訳すことができる。

   長い苦しみはいつ解けるのか
   家のなかにはあでやかで美しいものを保っているのだが…
   幸せと出逢うことを求めさえすれば
   きっと春を迎えることができるだろう

 さて、みくじの吉凶は次の12通りだ。

 大吉、中吉、小吉、吉、半吉、末吉、末小吉、凶、小凶、半凶、末凶、大凶

 12通りあるということは十二支に対応させたということだろう。大吉から末吉までを陽気、末小吉から大凶までを陰気として十二支に対応させれば次のようになる。

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 やはり半吉は子(11月)に遇って丑(12月)を過ぎた寅(1月)に相当する。おそらくこのみくじは半吉は寅に当たるということをベースに書かれたものだろう。わたしにもようやく春がやってくるという宣託らしい。ありがたい。

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