自家弁当 171031
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茶道と陰陽五行説の関係を書いた本を読んでいたら三皇五帝の話が出てきた。これは中国の神様だ。三皇と五帝の組み合わせはさまざまあるが、たとえば三皇ならフッキとジョカと神農という具合だ。フッキとジョカは大洪水で人類が滅亡したときに生き残り新天地のアダムとイブになったという人間の始祖神だ。
三皇五帝の数字は三才と五行を表すと本にあった。
三才は天地人のことで世界が天地に分かれて人の住む地平が現れたことを表わす。
五行はその進化系で、天である陽気がさらに木気と火気に、地である陰気が金気と水気に分かれた。
人は土気なのでこれで五行が揃う。そして5つの気が循環して世界は生きると考えられた。茶道にもそうした考えが染み込んでいるという。
ならば古事記の創世記もそうなっているのではないかとさっそく調べたところその通りになっていた。古事記の創世部分の最初に出てくる神様たちは現れるとすぐ消えてしまう。神格の説明もなくただ名前だけが突然出てきて、いったい何のために出てくるのか謎とされてきた。
しかし三皇五帝に当てはまるのなら、古事記の作者が中国の創世記をまねて神話に書き加えたのだろう。
最初の「造化三神」が三皇に相当する。
その次の「別天津神(コトアマツカミ)」は四神だろう。これは四象(シショウ)に当たる。四象とは五行から土気を除いた4つの気のことだ。
残った五組の双び神(ナラビカミ)が五行だ。男神と女神のセットなので、これで十干(じっかん)にもなる。よくできている。
世界は最初、天地人の3つに分かれた。次に天地それぞれがさらに陰陽に分裂して4つに分かれた。その4つに人間の土気を加えて5となった。3,4,5という順序で世界が生まれたことを古事記の創世神話は語っているのだ。
そう考えると不明とされた神様の名前の意味も分かってくる。
造化三神
アメノミナカヌシはその名のとおり天だろう。タカミムスビは地だと思う。高天原の大地を調えた神という意味に思える。最後のカミムスビが人だ。高天原の住民は神だからだ。
別天津神
このグループは世界の誕生する過程を示している。
最初にウマシアシカというカビのようなものが生まれた。混沌とした世界は発酵を始めるのだ。そして最初に天ができた。アメノトコタチのトコタチは固まるという意味ではないか。次に大地が固まった。クニノトコトチのクニとは国家ではなく大地のことだ。最後にトヨクモノ(豊雲野)となる。豊かな雲の湧く地平が生まれた。
雨あがりの山を見ていると、山間から雲が立ち上るのを見ることができる。たいがいその下には池がある。もしくは豊富な湧水地だ。稲はそうした場所に植えられた。八雲立つ野という言葉は豊かな国土を表現している。
おもしろいことに、この四神は四象の4つの気に配当することもできそうだ。アシカビは誕生を象徴する木気だろう。次のアメノトコタチは太陽を表す火気だ。次のクニノトコタチは良く分からない。順序から言えば金気となる。最後のトヨクモノは残った水気ということになる。
四神の上のふたつを別天神グループとし、下のふたつを神代七代グループとしている。これは上のふたつが陽気で下のふたつが陰気だと考えればわかりやすい。別天神グループは陽気で神代グループは陰気だというわけだ。
双び神
双び神の神名は生命誕生の過程を表しているそうだ。ウイッキにあった説明を紹介しておく。
ウイジニ・スイジニのウは泥、スは砂。つまり最初に中州のような柔らかい大地が現れた。
ツノグイ・イクグイのクイは芽。泥砂のなかから生命が芽生えた。
オオトノヂ・オオトノベ。これは意味が分からないらしい。ウイッキでは凝固した大地と紹介されていた。
オモダルは完全なという意味で、アヤカシコは「あなかしこ」つまり素晴らしいという意味らしい。
そして最後に万物を生んだイザナギ・イザナミの登場となる。
双び神も五気に配当されているのだろうがよく分からない。
単純に上から木火土金水かとも思うが、そうするとイザナギ・イザナミが水気になってしまう。このふたりは誕生を象徴する木気がふさわしいように思うが、ナギとかナミとか海と関係がありそうな名前なのでやはり水気かも知れない。
3,4,5の3つの数字はこのように世界創世を表わしている。おもしろいのは3,4,5は直角三角形を作る比率でもあることだ。直角によって大地は四方に分かれる。四方は四象でもある。
直角は四象を導くための聖なる幾何学と考えれた。だから3,4,5も聖なる数列とみなされたのだろう。古事記の創世記はそうした陰陽五行説の考えをベースに調えられていると考えられる。
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昨年行けなかったので今年こそと思って見てきた。行ってよかった。とても気持ちのよい絵だ。
どんな絵かというと、大きな画面に緑だったり青だったり同系色が刷毛引きされていて、そのなかにチロチロと不定形なものが浮かんでいたり飛んでいたりする。見ていると、ハスの浮かんだ池だったり、雨に煙る山だったり、大きな滝だったり、そんな水っぽい風景が浮かんでくる。
見ているうちにその風景が次第に鮮烈になってきて、最後には雨音や水音が聞こえてくる。そんな絵だ。絵が大きいのもよいのだろう。その前に立つと、壮大な世界の前に立っているように思えてくる。
近づいてみると、小さな気泡を作ったり、絵の具を細かく撒き散らしたりと、いろんな工夫がされている。そうした細かい工夫が大きな画面いっぱいに展開して、ようやく大きな世界が立ち現れるわけだ。画面は大きいのに、解像度が高いわけだ。これは結構な力仕事だ。
奈良時代の坊さんの話を読んでいると、森のなかで生きた観音やら生きた薬師に出合う話が出てくる。それはやはり水っぽい場所で、滝の前の霧っぽい場所のようなところで出る。わたしはこの絵を見ていて、そんな不思議なものが現れる寸前ではないかと思った。また、もうすでに絵のなかにはそうした精霊のようなものが現れているのかも知れないとも思った。
絵は見ることは多いが、こんな風に体験できることは少ない。林真衣さんはそんな希少な作家だと私は思う。
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恒例のスケッチ大会を開いた。みんな熱心に取り組んでくれた。絵の具を持っていったので携帯テーブルに広げていると何人かが寄ってきて使ってくれた。絵の具は水や筆を用意しなくてはならないが、実は色エンピツよりも使いやすいのだ。そのことをもっと知ってほしい。
最後の30分ほど講評した。スケッチは存在証明であること。うまい下手は関係がないこと。スケッチに失敗はないことなど言った。このあたりは建築家鈴木喜一の受け売りだ。
全員のスケッチを「細かくていねいな線」「勢いのある力のある線」「大胆な着色」「あわい色使い」などにグルーピングして、線がどのように個性化するのか語った。個性化して自分の線になることが大事だと私は思っている。
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鉄筋コンクリート造りだ。今までまったく気づかなかった。50‐60年代に見える。柱のない水平性を強調したよくできたデザインだ。トップライトとトップサイドライトの併用がが50年代のソ連モダニズムを彷彿とさせる。
よくわからないが戦前物件と言われてもそうかなと思う。大阪府の近代化遺産リストには載っていなかった。やっぱり戦後モダニズムなのだろうか。
お初天神商店街から、すでに更地となった曽根崎公設市場へ続く通路だ。公西会とは公設市場の西側という意味だろう。
わたしは曽根崎市場を知らない。戦前の鉄筋コンクリート造りjのモダニズムだったらしい。そのおもかげがこの商店街に残っているのかも知れない。
見たところ空き店舗が多そうだった。こんなによい立地なのだからいくらでも入居希望者はあるだろうに。こんな敷地じゃ高層化もできなかろうだから、このまま権利関係を動かさずに楽しく使うのが所有者にとってメリットがあると私は思う。
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670ページもある。遅読ゆえ読み通せるか自信がなかったがスラスラ読めた。それでも1ヵ月かかったが、ストーリー展開が速くて楽しく読めた。
ストーリーそのものには異論がある。本当にあの終わり方で良かったのか。からみあったいくつかの筋を最後の10ページで断ち切るように終わらせている。それがこの人の書き方なのか。1ヵ月も読んできてズバッと終わられると途方に暮れてしまうぞ。
宮部みゆきは初めて読んだ。1960年生まれ。1987年オール読物推理小説新人賞を「我らが隣人の犯罪」で受賞しデヴュ。その後数年おきに各賞を受賞している実力派だ。
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