(但馬スケッチ)4.民家建ての集会所
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ハスは3日咲く。上写真が2日目の開花のようすで撮影時間は午前8時だ。花は昼過ぎには閉じてしまう。下写真は午後1時の写真で完全に閉じている。あれだけ開いていたものが、どうやればこれほどきれいにつぼむことができるのだろう。不思議だ。
こうして毎日開閉を繰り返し3日目の開花後は閉じることができなくなって散る。
いったいどういう仕組みで開閉しているのだろうか。花弁1枚づつにj超小型油圧ジャッキでもついているのだろうか。花弁を支えるガクの部分でなにかが収縮しているのだろうが見ていてもよく分からない。
なぜ昼過ぎに閉じてしまうのかもわからない。夕立を避けるためかも知れない。開花した状態だと夕立に遭えば一遍に散ってしまうだろう。原産地にも夕立があればの話だが。
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表紙買いした。月イチ2文(参照)の2冊目。瀧羽麻子はたきわあさこと読む。
あさのあつこは、読者を何ページ目で泣かせるかということをコントロールできると書いていた。それを思い出した。計算されているのだろうけどそれを感じさせない自然なストーリー運び。
わたしの涙腺は「失われていたものを取り戻す」ところで緩むが、それは他の人も同じかも知れない。ストーリー運びの常套なのだろう。でも何度でも泣ける。ストーリーを仕込むと小説は自立するのだろう。でもストーリーって何だろう。
瀧羽麻子は2007年ダ・ヴィンチ大賞を「うさぎパン」で受賞、26歳でデヴュ―。
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岡野玲子のコミック版は読んでいた。その独特の世界観が好きだったが、それは原作ゆずりだった。清明と博雅のかけあいが楽しい。キャラはかけあいから生まれるな。
単行本が1988年だからもう30年も前だ。岡野のコミック化が1999年。コミックを読んでいなかったら原作も手にとっていなかったかも知れない。コミックは原作に忠実だった。岡野オリジナルの部分も夢枕の原作の延長上にあることが分かった。あまりにコミックが忠実なので、読んで浮かぶイメージが全部岡野の絵になってしまうのが難点かな。
驚いたのは一文ごとに改行していること。いちいち改行するのでページの半分くらいは白紙だ。これってネット小説の書き方じゃん。30年前ならまだケイタイ小説もないぞ。なんでこんな書き方をしたのだろう。そういうのは誰に聞けばいいのか。
月に2冊本屋で文庫を買って読む「月イチ文2」(参照)に参加している。これが最初。2017年6月。
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冷酒をお願いしたら円満字先生にぴったりのお酒があると言いながら出してきた。
甘くない。酸味があってさっぱりとした辛口だ。「そこらにあるような、わざとらしい辛口とは違う」と言ったら「そのとおり。うまいこと言うなぁ」と褒められた。お酒の味の半分は言葉でできている。「肉料理に合うのではないか」と言ったら「そうかも知れない」と言いながら自分も一口飲んでいた。おもしろい店だ。
吉田酒造は「白龍」で知られた蔵元だ。この酒は昔風のうまい酒を造ったのだそうだ。そのために精米歩合を85%に落としている。そのことと特徴的な酸味とは関係があるのだろうか。少なくともきりっとした辛口でありながら、ふんわりと優し気なコクがあるのはそのせいだろう。不思議な酒「あさいずみ」。
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浄住寺には不思議な物語があった。
昔、お釈迦様が亡くなったとき、お釈迦様の歯が盗まれた。それを取り戻したのが韋駄天(いだてん)だったそうだ。その歯は海を渡って日本に至り、嵯峨天皇がこの寺に納めた。それは寿塔のなかの穴倉のなかにあり、その上に大石が置かれているという。その後、地元の葉室一族が鎌倉時代に西大寺の叡尊を招いて再興し、さらに江戸時代になって鐵牛禅師によって再興された。
このお話しをうかがったときは分からなかったが、そのあと隣接する地蔵院へ行って葉室の意味に気づいた。
地蔵院は室町時代の幕府管領細川頼之の建てた寺で、一休禅師が幼少期を過ごした寺としても知られているそうだ。竹の寺の異名のとおりうっそうとした竹林のなかにあり、ここもまた別世界が広がっている。
頼之公の墓が興味深かった。生前、立派な墓は立てず石を置くだけにせよと言い残したそうで、大きな石がどんと置いてある。ある種の自然葬をイメージしたものだろうが、これを見たときに葉室(=歯室)もこういうものなのだろうと気づいた。
石の際から生えた木が大樹となり石をからめとった姿は迫力があった。墓なのに生命力にあふれている。歯室を葉室と読み替えたのは植物の生命力にあやかったからだろう。この地域はこうした特殊な埋葬法が残っており、それは再生儀礼でもあったのではないか。
墓に石を置くことは古代から行われてきた。その石に地蔵を刻むようになり、葬送地には石地蔵があふれることになる。地蔵信仰は仏教以前の葬送儀礼を引き継いでいるように見える。頼之公の墓に木が生えたのは偶然であったろうが、それでもそのようすからは置かれた石には再生の祈りが籠められていることを感じる。
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「京都の風水地理学」がジワジワ売れている(らしい)。ということで続編を企画中だ。ネタはいくらでもあるが推論をもっと深めておきたい。今考えていることをメモしておきたい。
1.格子状プランの世界観は中国北方系
長安(大興城)を設計した宇文愷(ウブンガイ)は宇文・愷で名字は宇文だ。こうした二文字の名字は辺境諸国の出である証拠で、実際宇文は内モンゴルの王家の家柄だそうだ。
長安の格子状プランの元となった鄴(ぎょう)は曹操孟徳が造った都だったが、この後開かれた魏(ぎ)という国もどちらかと言うと北方系だ。
よく勘違いされているが、格子状プランはもともと世界の写しとして考え出されたもので、産業や軍事上の効用はあくまで二義的なものだ。それはルネサンス以降の都市計画でも同様であって、格子状プランは必ず中心と構造を備えていた。ベルサイユ宮殿などがその良い例で、鏡の間という中心と、そこから伸びる直線に添って整備された庭園という構造を備えている。
オースマンのパリ改造なども同じで、放射状道路という構造の中心には必ず凱旋門やらオベリスクがある。分かりやすいゲームのダンジョンのような構成だが、これが格子状プランというものだ。現代日本では構造も中心もない格子状プランが蔓延しているが、それは本来的な姿ではない。
長安以降この方法は流行らなかった。これは格子状プランの示す世界観が中国本来のものではなく、多分に北方的のものだったからではないかと考えている。砂漠で眺める満天の星空のような圧倒的な力で迫る世界観が格子状プランにはある。
中国本国では流行らず、文明の進んでいたはずの朝鮮半島でも行われなかった。これを受け継いだのは辺境の日本と渤海だけだった。日本と渤海は国家としてはまだ呪的な段階で、律令制のような文明に浴していない発展途上地域だった。
このふたつの地域は憑りつかれたように格子状プランの都を造り続けた。お互いが影響しあったわけでもなく、別々に発展したことは作っているものが微妙に違うことから分かる。おもしろいことに渤海の都は長安よりも魏の鄴(ぎょう)似ている。
渤海は中国の東北地方だ。そこは朝鮮族や倭人も含めた東北系諸族とモンゴル系諸族とが入り乱れて住んでいたようだ。モンゴルから渤海へ至る平原にはシルクロードの北方ルートがあった。だから辺境であっても未開ではなかったのだ。そこで行われた文明は中国的なものとは一線を画し、天と大地とのつながりを重視した多分に呪的なものだったろう。だから天地を結ぶ呪的装置としての格子状プランの都が造られた。
格子状プランは北方色の強い渤海で受け入れられたが、同じ世界観が日本でも流行ったのを見ると、やはり古代日本も北方系文化の一端を担っていたと考えざるを得ない。魏の国とのさかんな交流はその証拠となりうるのではないか。また、秦氏の秦は始皇帝の秦ではなく五胡十六国の秦であろうと思うが、そうだとすればやはり北方系とのつながりは否めない。
2.古墳の代わりに寺院を建てよう
古代寺院の平面計画は都城と同じ考え方で造られているようだ。今はその意味を考えている。前著の平安京推論のように三合であるのは間違いないと思うが、もう少し別のそうでなくてはならないような絶対的な意味があるように思う。
都城は火の三合を使って格子状プランを構造化したが、これは天地の結びつきを視覚化したものだった。同様のものとして前方後円墳がある。これは沖縄の亀甲墓に見るような天円地方を具象化したものだという考えが民俗学の世界では通説化している。ようするに天地を結ぶことは先祖とわたしたちを繋ぐことでもあるわけだ。この考え方が古代寺院にも引き継がれたように見える。古墳のかわりに寺院を造ろう。日本では憑りつかれたように寺院を作り始める。
前方後円墳>古代寺院>都城
わたしは都づくりの考え方を探るところから歴史を逆にたどっている。そこにはさほど難しい理念があるとは思わない。もっと素朴でもっと根源的ななにか。
王は天と地とをつなぐ者であり天の声を聴くものだ。天の声は先祖の声でもあった。天の声を聴くものが女性であったときには、天と大地との結婚がテーマであったろう。婚姻によって大地は生まれ変わりそして新たな穀物と子孫を生み出す。呪的な先祖崇拝と穀物生産のための文明とのハイブリッド(異種混合)が天地をつなぐ祈りの形式を生み、それが古代寺院や格子状プランへと変化していったのだ。
これも勘違いされているが、格子状プランは律令制の前提条件ではない。これは朝鮮半島や長安以後の中国で格子状プランが流行らなかったことを見ても明らかだ。長安のような都を持たなくたって律令国家は成り立つのだ。だから格子状プランに熱中したのは律令制を取り入れるためではなく、先祖崇拝を基とした呪的国家の形式から逃れられなかったからと考えたほうがいい。そう考えれば聖徳太子による仏教移入の経過も分かりやすい。
3.仏教の立ち位置と世界の書き換え
仏教は律令制とは直接関係がない。日本がお手本にした隋や梁が仏教国だったことの影響はあるだろうが、むしろ農地開拓ための呪的手法として必要だったからと考えたほうがよい。役行者のころの仏教は、山谷に跋扈する精霊を呪的に封じ込める先兵として使われた。弥生時代の農地の大規模な開発は縄文時代的な呪的な世界と深刻な軋轢を生んだはずだ。それを克服するために修験者は使われたというわけだ。
弥生時代の後期に古墳時代が重なるのは、こうした開発の規模拡大と技術革新が行われたからだろう。農耕のための土木と建築の技術は神々との交流を縄文式から弥生式へと書き変えることを目的としていた。世界の書き換えである。この段階でヘビ神は悪しき龍神と書き変えられ仏僧によって封じられるのだ。このあたりの考察は吉野裕子の「蛇」に詳しい。
奈良時代に八省が整備されても工部省はできなかった。工部省ができるのは明治になってからだ。なぜ工部省が無かったのかといえば寺院が技術を独占していたからだ。技術は農地を増やすための土木建築技術と山野の悪霊を鎮撫する呪的な信仰とのハイブリッドだった。だから信仰と技術を切り離すことは怖くてできなかったのだろう。
それを逆手にとったのが聖武帝の菩薩皇帝化だったのだろうと思っている。この話は格子状プランとまったく関係がないわけでもない。仏教を文明の先兵として使った時点からはらんでいた矛盾が最悪なかたちで噴出するのが菩薩皇帝化計画から道鏡事件までの数十年であったろうと思っている。いずれ東大寺西大寺の平面を検討すればもっと詳しく分かるだろう。
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