伝道院の裏側
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
麺の太さを選べる。太麺にしたところウドンのような麺で驚いた。ツユも選べる。わたしは普通に豚骨味にした。カツオ出汁の利いた甘からいツユだった。それが太麺によくからんでうまい。カウンターに電熱器が置いてあり、ツユを温め直すことができる。残ったツユはポットの出汁湯で薄めて飲む。ごはんを入れて汁飯にしてもよいらしい。こんど試してみるか。数年前からつけ麺が流行っているが、これって台湾屋台の混ぜソバだったんだね(参照)。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ユズルハ神社について考えたことをメモしておく。
社殿前のコマ札によれば、桓武朝初期の延暦年間にユズルハの森を神領と定めた。社殿造営はさらに遅れて849年のことだという。なぜ神領が先で社殿が後なのか。神領としたときに熊野修験道系の寺院が建ったのだと私は思う。それは明治期の神仏分離で失われ、寺院の歴史は社伝から除かれた。だから社伝が分かりにくくなっているのだ。
ユズルハ嶽とかユズルハ峯とは六甲山を指すと社伝にある。六甲山へは飛鳥時代から修験者が入り鉱物資源の採掘に当たったと考えられる。その拠点のひとつが六甲山系の主峰のひとつ摩耶(まや)山だったのだろう。当時は摩耶に修験道系の大寺院があり、そのふもとの住吉は鉱物資源の積出港として機能していたようにわたしには見える。
桓武朝になって動きがあるのは、そのころに山岳修験道の大再編があったとみるべきだ。ユズルハ神社の創建はその一端を示している。再編を指揮したのは民部卿の和気清麻呂だったと私は思う。なぜなら彼は鉄の一大産地である吉備の出身だからだ。
道鏡事件で彼が流罪になったのも吉備の鉄資源を東大寺が独占したかったからではないか。多くの鉱山起源は東大寺大仏造営と結びついている。それは地方豪族の手にあった鉱物権益を東大寺が吸収したことを示す。桓武朝はそれを再編して権益を国へ直結させようと考えたのだろう。
もともと鉱山権益を握る豪族は新来の百済難民たちだった。百済系の桓武帝はかれらを再編して対東大寺包囲網を作り上げていった。朝廷と東大寺との確執は非常に激しいもので、それが種継暗殺につながったようにも見える。暗殺事件で最初に疑われたのが旧来の土着豪族大伴氏だったのは、彼らが反百済系だったからだろう。
最澄と空海の対立もこの延長線上で考えれば分かりやすい。百済系の山民の大本山として延暦寺が開かれた。それは鉱物資源の新しい国家戦略の始まりだった。一方、東大寺は新進の空海を抱き込むことで巻き返しを図る。この対立はj桓武朝では解けず、嵯峨朝になって空海が東大寺に戒壇院を設けることで手打ちとなった。このとき仏教的権威と鉱物資源の権益の分離もしくは折半が行われたとみるべきだろう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント