摂南大スケッチ大会(3)
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外壁の板壁がいい具合に古びていて、それが端正な立面構成とよくなじんで美しい。よく残してくださったと思う。1935年竣工。2006年に廃校になりカエデ公園として整備されイベントなどに活用されている。ほかに平屋建ての木造校舎が2棟ある。窓がアルミサッシュに変ったほかは外観がほぼ竣工当時のまま残っている。
外壁に付け柱を添える形式で、木造校舎としては他では見たことがな。2階床梁と屋根トラスを法杖で補強する耐震木構造となっている。学校の耐震木構造は昭和9年の室戸台風以後、各地で工夫された。これもそんな工夫のうちのひとつであるわけだ。建設当初からスレート葺きだったようで、これなども屋根を軽くして耐震性を上げようとする工夫なのだろう。
80年経っているにも関わらず軸組に狂いがないのは、材木を厳選したこと大工さんの腕が良いことを証明している。痛んだところを修理してやればまだまだずっと使うことができる。
古い黒板が残っていた。アールデコを思わせる。階段手摺の親柱はもう少し古いウイーンセセッションだ。設計者は当時40代後半なのではないか。
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パース教室は10月24日(月)から毎月1回(第4月曜)開催で6ヶ月コース。
スケッチ教室は11月19日(土)から毎月1回(第3土曜)開催で4ヶ月コース。
どちらも超入門コースなので初心者歓迎。
詳しくはホープページへ。
京都建築探偵塾ホームページ http://tanuki.la.coocan.jp/tanteitop.html
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ちょっと不思議なロケーションだった。やけに歩道の広い道があったので歩いてみた。歩道の幅が5メートルもある。計画道路か何かなのだろうか。寝屋川市の電通大沿いの道だ。まわりは新興住宅地で、60年代以降に農地を開発した地域であることが分かる。ところがそこに市場があった。これは少しおかしい。市場の設置は戦後すぐから50年代にかけてが多い。市場ができた時点で、それを必要とする住宅地が開かれていなければならない。これでは風景と歴史とが合わない。これを整理するとこうなる。
終戦 農地
50年代 市場<市場が宅地開発より前なのがおかしい
60年代 計画道路・宅地開発
アーケードの入り口に白看板に黒いペンキ塗りで「日之出商店街」とある。これって稲葉喜美子の「日ノ出町ブルース」じゃないか。急に古い歌の中に入り込んだ錯覚に陥った。歌に出てくる日ノ出町は横浜の場末の飲み屋街だった。これも50年代から60年代に成立した風景だ。日ノ出という地名そのものが戦後の新興地を思わせる。
おもしろいのは市場が鉄筋コンクリート造りであること。京都の堀川住宅とよく似ている。あれも50年代前半だった。2階建てで間口が3メートルほどしかない。この狭さも50年代を思わせる。1階が店舗で2階が住宅だ。アーケードは両側の建物から鉄骨で架け渡されている。鉄筋コンクリート造りということは、これが公共事業として建てられたことを示す。道路がらみかも知れない。ここまでを整理するとこうなる。
終戦 農地
60年代 計画道路・宅地開発・市場<市場は50年代に見えるのでおかしい
最近の市場は空き店舗が多いものだが、ここは全部埋まっていた。なかなか活気があって楽しい。市場の中ほどに食堂があった。大きな赤のれんに「みなさまの台所、兼六食堂」と白抜きで染められている。ガラス戸に手書きのメニューがずらっと並んでいて、そのなかに「ラーメン 200円」があった。200円? 思わず足が止まってメニューを2度見した。たしかに200円とある。ほかのメニューも安い。
中はお客でいっぱいだった。テレビがお昼のバラエティを流している。いきなり200円ラーメンを頼むのはどうだろうと躊躇していると日替わりランチを勧められた。こういう初見の客を見分けて世話をしてくれるところがうれしい。よい店を見つけた。ランチはオムレツがうまかった。カニ玉に似た甘辛い優しい味でフワトロの食感だった。ここは中華料理店なのではないか。そしてこの薄味の中華はやはり50年代の味だろう。
ここまでで判明したことは次のとおり。
50年代 兼六食堂開業
50年代 日ノ出商店街
60年代 計画道路・宅地開発
ここでヒントになるのが、道路沿いの電通大が1961年に立地していること(これは帰ってから検索した)。だから本当はこうではないか。
戦前 大工場(おそらく繊維系)の立地、借家街の形成、
市場の成立、日ノ出町成立、農地と宅地の混在
戦後 工場再稼働、闇市
50年代 兼六食堂開業
50年代後半 計画道路工事、道路敷地となった市場の移転建て替え
60年代 道路開通、大学の誘致、兼六食堂の学食化、道路沿いの農地の宅地化
60年代 繊維業の構造不況、大工場の閉鎖
年表上の大工場はまだ私の推理の産物でしかない。しかし戦前にすでに工員街であったと考えればいろいろ説明がつく。ひょっとすると大学は大工場の跡地なのかも知れない。こうして考えてくると、兼六食堂の優しい味わいは工員街から学生街への変化に寄り添ってきたことが分かる。長年続いた食堂の味は大切な歴史資産だと私は思う。
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関大でコンクリート製のレンガを見つけた。焼いていないので厳密にはレンガではないが、大きさはレンガとおなじくらいだ。まわりの校舎がレンガタイルなので、風景によく溶け込んでいて最近までコンクリートレンガであることに気づかなかった。表面を洗い出しにしており、風化した石造りのような趣があって、なかなかよろしい。コンクリートレンガやコンクリートブロックは自作できるので、私もやってみたいと思っている。
村野にはレンガ造に対する憧憬がある。彼がエストベリのストックホルム市庁舎を初めて見たとき走り出したというエピソードがそのことをよく示している。彼の執拗なまでのフランス積み式タイル貼りへのこだわりも、そこからきているのだろう。エストベリのレンガ積みはフランス積みだからだ。ただし、フランス積みは長手と小口が交互に現れるがエストべりは長手を2回繰り返す。レンガの積み方としてはそれほど違わないが、ストックホルム市庁舎を直接まねたというわけではないのかも知れない。
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不老庵のロケーションは下図のようになっている。神棚の後ろは青石の露呈した崖で、その上に大洲神社がある。神社は大洲城の完成した1331年にその守りとして開かれたという。ご祭神は大国主の命と事代主の命の二柱だ。これは大黒天と恵比寿天に習合される。ようするに不老庵の床の間に飾られる神様は大黒天と恵比寿天の二神なのであろう。
ちなみに大黒と恵比寿の陰陽の組み合わせはこの時代に成立したのかもしれない。鎌倉末期から室町初期にかけて、つまり後醍醐天皇の時代の修験道が聖地を再生してまわったのではないか。
陰陽のセットになっているのは神様だけではない。大洲神社のある青い磐座である神楽山は、肱川を挟んだ対岸の山を冨士山(トミスヤマ)とセットになっている。ここには江戸時代に如法寺が開かれている。如法寺の開かれる前の冨士山も行場の点在する仏の領域であったろう。神社は陽気、寺院は陰気のセットだからだ。
おもしろいのは方角と社寺の陰陽が入れ替わっていることだ。日の昇る東側が陽気、火の沈む西側は陰気だ。大洲では肱川をはさんで陰気の西側に陽気の神社、陽気の東側に陰気の寺院が配置されている。これは陰陽の交合を意識した配置なのだろう。こうした意図的な逆配置も中世的な感じがする。
東の空に満月が昇る。月は陰気そのものであり満月は陰気の絶頂である。陽気である東側は月光に包まれる。月光は陰気の作用であろう。それがまず肱川を照らす。川面がキラキラ光る。その反射光が不老庵の天井を白々と照らし出す。この場合の白は水を表わす。水気は木気を生む。従って不老庵に肱川の白光が届くとき、木気は発動するわけだ。不老とは再生を意味し、不老庵はそれを視的に表現するための呪具なのだ。それはここが再生を願うための祈りの空間であることを示している。
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鉱山町の生野はオオサンショウウオの生息地としても有名だそうだ。全国から研究者が集まってくるらしい。これは生野まちづくり工房(参照)で作っているオオサンショウウオのクッキー。あまりにも可愛いらしいので買ってきた。生野の紅茶が練り込まれていて香りがよい。つなぎに何も入れておらず、ただひたすら小麦粉を捏ねて作るのだそうだ。混じり気のない優しい味わいだ。
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