建築探偵の写真帳 戦後ビル編「伏見稲荷神社御旅所奉安殿」
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百均の画材には興味があってクレヨンは以前試したことがあった。クレヨンは普通に使えたが水彩用の筆はちょっと使いにくかった。最近、絵の具があることを知り、そのうち買ってみようと思っていたところ、スケッチ会の主催者が、道具の無い人のためにと用意してくれた。そこでさっそく使ってみたのが下のスケッチだ。普通の絵の具と比べて遜色のない出来栄えで驚いた。これなら十分使えるぞ。
2016.09.18/ホワイトワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、百均絵の具/兵庫県朝来市生野町
パレットの中に小さな筆が入っているが、これは何に使うのかよく分からない。絵の具を掻きとるためのものなのだろうか。たしかに絵の具が固くて溶けにくい。でもまあ普通の筆で大丈夫だった。16色あるが、色の選び方もなかなか良い。
ちなみに、これは雨の中で傘をさしながら描いている。雨の日にスケッチは無理だと思い込んでいたが、案外描けるものだ。ただし湿気のため絵の具の乾きかたは異常に遅かった。
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初めての立ち飲み屋へ入った。細長い店でカウンターの端から壁まで1.2メートルしかない。しかも壁際に45センチ角の小テーブルが点々とあり、そのため通路スペースがほぼ無い。外からうかがうと満席に見えたが、めざとい店員に見つかってどうぞと言われた。
「奥に席がありますから」
「奥?」
画材屋で買ったばかりの大きなボール紙を抱えてすみませんすみませんと拝み手で人を押しのける。人口密度が高すぎる。それからみんなこっちを見るのをやめてほしい。
カウンターにひとり分と思しきスペースを発見し荷物を下す。普通、立ち飲み屋では荷物を降ろさないものだが、ここでは降ろさないとカウンターに立てないし、後ろを行く人のじゃまになる。そもそも立ち飲み屋のカウンターのひとり分の巾は45センチで、身体をタテにして使う。身体をカウンターと平行にするのではなく直角にするのだ。ただしそれもここではできない。直角にすると後ろを人が通れなくなる。ここでは思い切り身体をカウンターに押し付けて酒を呑むことになる。
清酒が飲みたかった。
「日本酒を、冷やで」
店内が騒がしく店員と言葉が交わしにくい。
「冷酒(れいしゅ)ですか」
「冷や酒で」
「冷酒ですね」
言葉が交わしにくいだけでなく微妙に通じにくい。
「じゃあそれで」
「何にします?」
「だからそれで」
意味がよく分からない。酒を呑むのになぜこんな問答をせねばならないのか。怪訝な顔をしていると店員が続けた。
「清酒は3種類ありますので、お選びください」
「ああ」
「そこの棚にあります」
店員が持っていたボールペンで指さしたのはここからの2メートルくらい離れた棚だ。棚の上に一升瓶が3本並んでいる。老眼なのでよく見えない。目をじっと凝らしてようやく見えた。「獺祭」「月桂冠」「英勲」の3本だ。棚の奥に液晶テレビがかかっており大相撲中継をが始まった。店内の騒がしさに輪がかかる。
「じゃあ月桂冠で」
「すみません、月桂冠は冷酒できないんです」
「うっ」
さっき3種と言ったじゃないか。なんだかどうでもよくなってきた。それにしても獺祭は高いだろうな。獺祭なんて飲んだことないよ。飲みたいけどここはがまんだ。慣れない店で慣れない酒は飲まないほうが良い。
「英勲で」
注文が通りただちに冷酒が突き出された。酒係りの店員は無言だ。升のなかにガラスコップが載っており表面張力で酒が盛り上がっている。いくら店員が不愛想でも酒を差し出されると顔がほころぶ。
「ありがとう」
思わずお礼を言ってしまった。しっかり受け取ってまず盛り上がった部分を吸い取る。当然コップの上にかがみこまねばならない。そうすると、カウンター前の仕切り棚にひたいをぶつけそうになった。やっぱり狭いのだ。それでもそっと飲むと英勲独特の甘い香りがのどを滑り落ちていく。うまい。
英勲の香りに包まれながら、ようやく周囲を観察し始めた。後ろには私に続いてOLふたり組が入ってきた。生ビールに刺身3種盛り、揚げカレイ、おでん盛り合わせ、しめサバ、唐揚げ、カキフライ。揚げ物多いな。隣はわたしと入れ代わりにおやじが勘定をして出ていった。表から店員の声がする。
「おふたりですか。奥に席がありますよ」
奥に席ってここじゃないか。ひとり出ていって二人入れるのかよ。と思ったらふたり入れた。どうなっているんだろう。学生風の男女でさっそく注文を始める。みんな慣れてるな。生ビールと酎ハイ、マグロ刺身、牛筋煮込み、唐揚げ、エビフライ、コロッケ。後半揚げ物オンパレードだ。ダイエット中の自分には食べられないものばかりだ。まあ勝手に揚げ物喰ってりゃいい。私は私の酒を飲む。
自分に対して無関心な騒がしさはひとりになるのに都合がよい。自分だけのバリアを張ってその中でひとり酒を呑む。これが立ち呑み屋の楽しみだ。ところがそれがこの店ではできないと分かった。なぜなら、壁際の客へカウンター越しに料理を渡すからだ。
「はい、後ろのお客さん、唐揚げ」
唐揚げの皿が目のすぐ横を通る。バリアが破れるだけではなく、揚げ物の匂いが酒の香りを乱す。
「はい、後ろのお客さん、揚げカレイ」
揚げカレーの皿が通り過ぎる。カラッと揚げられた魚の香ばしい香りが鼻をつく。カレイのから揚げは好物だ。いいなぁ。
「はい、カキフライ」
絶え間なく目のすぐ脇を料理が過ぎる。しかもほとんどが揚げ物だ。不思議なもので、それも何度か繰り返されると気にならなくなってきた。ある種の感覚遮断が行われるのだろう。それなりにバリアが形成されるわけだ。でも落ち着かないことに変わりない。あまり長くはいられないな。そう思ったところでコップが空になった。これは潮時だな。顔を上げると棚に並ぶ一升瓶が目に入った。
「すみません、獺祭ください」
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「おいしかった。鶏肉の旨みと野菜の甘みが絶妙に溶け合ってるね」
「ありがとうございます」
「やっぱりキャベツがいいね」
「そうでしょ。キャベツはいいですよね」
「食感がいいんじゃないか」
「なんか分かんないですけど、いいんですよねぇ」
ここの料理人はキャベツをほめると喜ぶ。
2016.09.12、京都市四条烏丸「満月の花」(参照)
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なぜ懸け造りなのか
懸け造りはたいがい磐座に懸けられる。清水寺が筆頭だが、千葉県の笠森観音、鳥取県三仏寺の投げ入れ堂などいずれも岩に懸けられている。これは磐座に降りた天神に舞を奉納するための舞台だ。ここ大洲神社のある丘が神楽山というのも、ここが奉納舞の聖地であったことを示すのだろう。不老庵が懸け造りになっているのは、それを模倣したものだが、元からそういった舞台があったと考えた方が自然だろう。
生きた柱とはなにか
違い棚の無い床の間は神棚だろう。床の間の中心に床柱を置くのは床柱を神に見立てた神棚の形式だと思うが、これは床板そのもを神棚になぞらえている。従ってここを使うときには神明を書いた掛け軸をかけるか神格を表す唐物を置くはずだ。左右にはもちろん供花があるがこの場合は右側だけでよい。なぜなら左側の壁の向こうにすでに生きた槙の木の柱があるからだ。槙は高野山系が使うコウヤマキだろう。これは生きているのではなく活けてあるのだ。
再生のための茶室
茶室は床の間の北側に置かれる。北は水気の領域だ。茶は知られているように土気だ。五味のうち苦味が土気に配当されるからだ。茶に用いる水は背後の岩にうがたれた穴から汲むようだ。岩は磐座であり神気に満ちる。しかも岩の青は龍を示し、臥龍の名のとおり龍脈が露呈していることを示す。
岩は金気であり水気を生むが、そこで生まれた水は龍脈と神気によって真の水となる。真の水とは木気を生み出す力のある水気のことだ。この茶室が「怡性」と名付けられたのは「怡性养神」つまり怡(悦び)の性(本性)により神(神気もしくは精神)を养(養)うという意味だろう。この悦びとは本来は舞であったはずだが、ここでは茶がそれに代わる。土用で強められた水気が木気を生み出す。神気に満ちた木気によって精神は再生される。
生きた柱のもうひとつの意味
捨て柱の方角は床の間から見て南西に当たる。これは二黒土星の方角で大黒天の方角だ。大黒天は土気でもある。従って、この方角に生きた木気を置けば土用によって木気が完成する形となる。それは大黒天そのものの完成でもあったろう。
生きた柱、青い岩、龍、こうしたものは全て強力な木気を示す。おそらく大黒天は観音と習合していたはずだが、明治期に修験道が廃された今となってはよく分からない。しかし観音信仰の篤い四国ならではの何かがあったのだろうと想像できる。トミス山に冨士の字を当てたのは不死の山を連想した行者たちだろう。そこへ不老庵を向けることで不老不死が完成する。つまり茶の力によって増強された最強の木気が再生を行うという筋書きだっただろう。
長くなったので続きは次回。月光について考える。
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隕石カレーを食べてきた。ごはんは竹炭で黒くしているそうだ。もちっとしたごはんで粒が立っている。黒ココアで色をつけたルーはよく煮こまれた野菜の甘みにわずかな酸味が加わりさっぱりしている。これがもちっとしたごはんとよく絡んでうまい。
前菜にはサツマイモの温かいスープが付いていた。ジャガイモポタージュのようで控えめだが奥深い甘さがあって温まる。スペイン風オムレツが添えられていて、こちらもジャガイモの旨みがよく滲み出てうまかった。
アメジストのゼリーは名前のとおり鉱物質な輝きにあふれていた。ここは標本屋さんで、さまざまな鉱物を販売している。それを見てきた後なので、いかにも鉱物を食べるような不思議な気持ちを味わえる。ほのかなブドウ味のゼリーがベースのパンナコッタの優しい甘さとよく合ってうまかった。
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清水の舞台のような懸け作りの草庵があった。眼下に肱川が一望できる。名を不老庵という。ここは藩政時代からの庭園だったそうだ。吉野の桜、龍田の楓などはそのころのものだというので、庭園の骨格はそのままなのだろう。崖の中腹にしがみつくように作られた細長い庭園で茶室が点在する。ここは茶庭なのである。
明治以降荒廃していたのを木蝋で財を成した神戸の河内家が復興した。建物はすべて河内の再興したもので、あちこちに呪いめいた趣向がこらされており、数寄屋造りというよりもゴシック趣味である。なかでもこの不老庵が極め付きだ。
天井が網代貼りのヴォールトになっている。こんなの初めて見た。船底天井との説明があるが、わたしは南方の高床式民家を思い出した。河内家は南方とも交易していたのではないか。驚くことに対岸から仲秋の名月が登るとき川面に反射した月光がヴォールト天井に踊るのだそうだ。まるで銀閣ではないか。
この茶室を特徴づけているのはそれだけではない。ひとつは違い棚を設けない2間幅の大きな床の間。こういうのも見たことがなかった。この床の間の右側に小さなお茶室がある。
もうひとつは床の間左の裏にある生きた捨て柱だ。捨て柱とは軒を支える独立柱のことで、ここには3本ある。そのうち1本だけが生えたままの槙の木を上端を切って軒桁を載せているのだ。生きた柱は初めてみた。今も青々と葉を茂らせているのを見て背筋が寒くなった。これって横溝正史の世界ではないのか。
いったい謎がいくつあるのか。
まず、なぜ懸け作りなのか。そしてなぜ床の間に違い棚がないのか。そして生きた柱とは何なのか。謎解きは次回。
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時間が余ったので満月の花へ寄った。ふらりと寄れる店があるのはぜいたくだ。
「あれ?先生、きょうパース教室でしたっけ?」
「いやちょっとビール1杯だけね」
4時過ぎから飲むのもぜいたくか。
(アテは枝豆でいいか……って、これなに?)
カウンターにいくつか大鉢があり、どれも惣菜が満載だ。そう言えば最近自家農園で野菜を作っているとか言っていたな。
「ほうほう、これはすごいね」
「そうでしょ。おすすめです」
「じゃ、これください」
「かしこまりましたぁ」
料理人は明るい青年で料理をほめるといつも満面の笑みで「そうでしょ」と言う。謙遜したりしないところが良い。温められた小皿がすぐに出てきた。味噌と野菜の旨みがよく溶け合って、それをゴマの香りが優しく包んでいる。唐辛子が利いているのはわたしの好みだ。
「うまいねこれ。しかもカボチャが甘い」
「そうでしょ。丹精込めて育ててますから」
野菜をほめても喜ぶようだ。ごちそうさま。
2016.09.09、四条烏丸「満月の花」(参照)
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石垣がすばらしい。こまかくシワの入った岩を積み上げている。これを磨くと美しい縞模様になるが、ここは租面仕上げのままだ。出汁巻き玉子のようで柔らかそうだ。細長い石材もあるので粘板岩系なのだろう。それを積んだだけでもおもしろいのに、そこから木が生えている。木を取り込んだ石垣を初めてみた。これは仕方なくこうしているのではなく、おもしろがってわざとやっている。石垣にぽっかり穴を開け、木に負担をかけないようにする高等技術だ。なぜそこまでするのか。ここは木気の庭園だからだろう。
臥龍(がりゅう)山荘は肱(ひじ)川沿いの絶壁にある。中国の墨絵にあるような桃源郷の風景そのままだ。肱川が大きくS字カーブを切っており、その下流に大洲城、上流に臥龍山荘がある。山荘は大洲城の砦でもあったのだろう。
山荘前には広い河原が広がっている。S字の上流側のカーブだが、これが「大洲」なのだと思う。五色の石で覆われた美しい浜だ。この対岸で毎年秋に「芋炊き」という行事がある。夕涼みをしながら里芋の鍋をつつくらしい。東北の「芋煮会」とよく似ている。里芋は金気の象徴だろうから、これは金気を剋し木気を助け子安を祈る呪術に見える。だから木気の強い場所で行う必要があった。
河原には青石が露出している。よく見ると臥龍山荘の岸壁そのものが青石であり、崖下にある大岩の島も同じだ。青は龍に色であり木気を示す色でもある。だからここを木気の霊地とし臥龍、つまり龍が伏せる場所と名付けたのだろう。しかも大洲城の東に当たり、方角としても青龍にふさわしい。
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わたしの授業は前期なのだが、夏休み明けに1回だけある。暑かったのでどうしようか迷ったが決めていた通り御所へスケッチに出た。樹々のあいだは風が通り案外涼しい。ツクツクボウシも鳴いていて、最後の夏休み感覚を満喫した。いつもはハガキサイズだが、きょうは学生さんと同じA4サイズ。これで30分くらい。持っている手がしびれてくる。
最近、影に興味を持っているので少し試してみた。地面の影がまだらなのは木漏れ日を意識している。思っているより影の表現は簡単かもしれない。ときどき試してみたい。
2016.09.07/マルマンスケッチブックA4、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/京都御苑
学生さんが木はどうやって描くのかというので、グルグルと葉っぱの塊を積み上げていけばいいよ、と言いながら描いた。これで5分くらい。グルグルの描き方は決まりはなく人によってだいぶ違う。葉のあいだから覗く枝を描けばそれっぽくなるとか話した。
2016.09.07/マルマンスケッチブックA4、グラフィックペン0.3/京都御苑
描きあがったスケッチを見せてもらいながら、みんなうまくなったなと思った。自分の線がちゃんと出ている。半年くらい授業を受けると偏見から離れて自由な線が引けるようになるのだろう。それは教えられたものではなくて、元々自分が持っていたものだ。自信をもってよろしい。
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背の高い土壁との取り合わせがちょうど良い。視線高さの下側だけ格子にして上は透かしているのもかっこいい。窓台下のくり型の支えが並ぶようすも好ましい。支えの間を土壁ではなく板で押さえているのも利いている。細部の納まりも自然に見える。簡単なようでいてなかなか精巧なつくりである。
わたしはこういう出格子が大好きだ。以前金沢でも同じものを見たが(参照)、こうした出格子は腰掛窓の変形と考えたほうが良いのかも知れない。外と中のあいだのあいまいな領域は建築を豊かにする。
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バンダイビジュアルで無料の「ふらいんぐうぃっち」を見ている(参照)。原作に忠実で、しかもカメラワークが良い。声優は知らない人ばかりだが、肩に力の入らない自然な演出が良い。わたしはこういうローファンタジーものが好きだ。
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砥部焼の印判について分かったことをメモしておく。写真は道後温泉の骨董屋で買った印判手の湯飲みで、おそらく砥部焼だ。
1.明治11年(1878)に砥部焼きを再興した伊藤允譲(1832‐1910)が肥前の陶工より型紙絵付けの技法を教わった。この肥前とは伊万里焼きと考えて良い。
2.型染絵付けされた茶碗は伊予ボールと呼ばれ、中国や東南アジアへ輸出された。梅山窯では1953年まで生産されたそうだ。
3.大正中期に梅山窯で生産された伊予ボールの8割が輸出向けだった。
印判手については多治見の美濃焼ミュージアムにも解説がある(参照)。美濃では型紙染付けと言わず摺り絵と呼んでいるようだ。明治15年ころから精緻な伊勢形紙を使ったとある。京都で広瀬治助が型友禅を始めたのが明治12年だ。なぜ同時期に一斉に同じようなことが起こったのか。
伊予ボールや型友禅は手描きのものと比べて一段低く見られている。そのため残っているものも少ないし研究も進んでいない。京都の型友禅は友禅染の大衆化に力があった。それはアロハシャツの生地としても輸出された。今ハワイに残っているビンテージもののアロハシャツは十数版重ねた見事なもので決して手描き友禅に劣るものではない。同様に伊予ボールには生活雑器としてのいさぎよさと、その大ざっぱな版重ねのおもしろさがある。
明治前半の窯業はヨーロッパ向けの高級美術品の輸出に力をそそいでいたとされる。明治初期の段階で日本の輸出高の約1割を工芸品が占めたという。京都には工芸の近代化のために軍艦一隻分の資金で京都高等工芸学校が開かれた。それは資源を持たない日本が工芸立国をめざしたという証拠だろう。
歴史で語られる近代化された陶芸はもっぱらヨーロッパ向けの高級美術品で、伊予ボールなどの生活雑器はあまり取り上げられない。でも実際に産地を支えたのは高級美術品よりこうした生活雑器だったのではないか。伊予ボールの独特の風合いと歴史上に果たした大きな役割はもっと見直されてよい。
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現場調査で疲れたので早めに寝た。9時間近く寝ていた。久しぶりに夢を覚えていたのでメモしておく。
教室のようなところに仲間といる。小説の研究会らしい。そこへ高校生くらいの少年が原稿をもって入ってくる。彼の父親が指導してやってほしいと依頼する。仲間たちは少年を歓迎し原稿が回される。わたしは少年からもう1冊の冊子を渡されそれを読む。そして指導するならこれも目を通しておこうと言って仲間にその冊子を渡す。
仲間たちと店にいる。ギャラリーとカフェとアンティークショップを兼ねたような店でまだ始めたばかりだ。学園祭のような雰囲気がある。ひとりが古いストーブを持ち込んだ。小さなもので全体に錆びている。どこのものかよく分からないらしい。わたしが調べると表面に文字が刻まれている。明治時代にドイツへ留学した折に製法を学んだとある。文字は読めないところもあるが長い文章で、鉄板上ではおさまらず額縁のような木枠にまで続いていた。
ショップで古い映画を上映することになった。他のショップが映画を配給してくれるという。それを受け入れると雑貨もそこから仕入れることになるのではないかと心配になるが、仲間たちは気にしていないようなので言い出せずにいる。
遅くなったので、ショップを閉めて居間に集まる。そこは大きな家でその娘がショップのオーナーらしい。娘はわたしにとって姉のような存在のようだ。もう12時を回っていたので泊まっていくでしょうと娘が言った。板敷の居間は広いので全員が寝るスペースはありそうだった。わたしは歩いて帰ろうと思うが外は雪が舞っていた。とりあえず自分の持ち物を取ってこようとショップに戻り分厚い古本を抱えて戻ってきた。
古い祭りを撮影したフィルムを見た。石造りの城壁から神々の仮装パレードが出てくる。ごわごわとした岩のような意匠と仮面で、ゆっくりと踊りながら歩いてくる。パレードの全員がまったく同じ動作で踊るのがおもしろい。こんなすごい祭りがあったのかと感心する。
和室の片隅で友人が検索している。場所はこれで確認してくれというのでパソコンの前に座る。気が付くとそれはパソコンから小さな車に変っていて山を登り始めた。落ちそうな崖の際を危なげに車を操作しながら登ると坂はますます狭く急になっていく。これでは帰れないのではないかと不安になっているといきなり山頂に出たので車を止めた。えぐれたように切り立った岩肌だけの景色だ。まわりで仲間たちが何かしていた。仕方がないので歩いて降りることにした。車は一輪車のようなものに変っており、それを抱えて飛び降りるようにして坂を降りた。2回ほど飛び降りて地上に戻ることができた。そこにも仲間たちがいたので、飛び降りて帰ってきたことを告げた。そこで目が覚めた。
(夢読み)
最初の研究会の話に出てくる少年は自分なのだと思う。わたしは小説を書くにはまだ幼いという意味だろう。
夢を通して出てくる複数の仲間という存在は、自分の中の使われていない劣等機能のことだろう。そう言えば、これまでもこんな仲間たちは夢に出てきたが、それが劣等機能だと意識したことはなかった。
古いストーブも古本も価値のあるお宝という意味だ。古い映画や古い祭りの映像も価値のあるお宝なのだろう。映画配給の条件にビクビクしているのは対価を支払えないと思っているようだ。ショップが始まったばかりという設定も文化祭のような雰囲気も、お宝を集めることにまだ本気になれない自分の状況を示すのだろう。お宝は生きがいを象徴している。
ショップのオーナーはわたしの創造性なのだろう。ユング風に言えばアニマというやつだ。それが姉止まりというのはやはり創造性の幼さを象徴している。そこを離れて帰ろうとするのは創造性を拒否したことになる。
不安定な山頂は意識の突出を象徴する。大地である無意識との交流が途絶えていることを意味する。そこは飛び降りてでも逃げなくてはならない危険な場所だ。うまく地上へ降りるというのは眼覚め前の意識による希望的な修正だろう。注意したいのはそんな危険な場所へ自動的に送り出されたということだ。自動的とは制御できないということだ。創造性を拒否したがために無意識が暴走したという意味だと思う。
夢は教訓ではない。意識の突出を修正し無意識との関係を取り戻すことが目的らしい。この夢は現状が危ういことを教えている。一方で仲間やアニマと親しいのは無意識と繋がっていることも示す。お宝やお祭りの映像が手に入っていることも創造性と再会していることを示すのだろう。ただし関係がまだ浅くて薄い。仲間やアニマとろくに会話もできず、ストーブの来歴は途中までしかわからず、祭りの情景はゴワゴワとしか再生されない。そんな心的状況をこの夢を示している。
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