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2016年8月

2016年8月31日 (水)

【伊予旅行】2.窯元の土管煙突を観察した

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 地上から3メートルほどレンガ積みなのは、建屋への熱を防ぐ目的だろう。その上に素焼きの土管を積んでいる。土管が白いので、これも砥部焼きなのだろう。鉄骨は隅はアングルで、ブレースと火打ち梁は平バーだ。各部材は六角ボルトで留めている。土管の中央を番線で巻き、これと隅柱とを番線で結んで固定している。なかなかシンプルで美しい。60年代から70年代のものに見える。

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2016.08.24、愛媛県砥部町

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2016年8月30日 (火)

折り入った話

 電話が鳴った。受話器をあげるのは50歳半ばになってもまだ苦手だ。20代後半で社会に出たとき先輩の「ハイ、○○建築事務所でございます」とスラスラ言うのに憧れた。「ございます」と言うのは思っているよりも難しい。言いなれないようすがすぐ表に出てしまう。だから今はたいてい「ハイ、エンマンジです」で済ましている。最近では電話の相手はたいがい年下なので謙譲語は使わなくてすむのが便利だ。

「ハイ、エンマンジです」
「あ、建築学校でお世話になっております」

 相手は、建築学校の苦労人事務長だった。年上だが、今さら謙譲語でもあるまいと思っていると、相手は謙譲語で畳みかけてきた。

「先生に折り入ってお話しがあります」

 うわ、なにこれ! 長くもない人生だが、人から折り入ったお話しをうかがった経験がない。わたしはとっさに授業を増やしてもらえるのかと身構えた。でもその折り入った話は同総会誌にエッセーを書いてほしいということだった。期限が短いので低姿勢のお願いになったようだ。わたしはがっかりして答えた。

「いいですよ。で、字数はどれくらいですか?」

 結局原稿用紙4枚ほどの原稿依頼で、それなら毎日書いているブログ程度じゃないか! どこが「折り入って」だ! 脅かすんじゃねぇよ!

 あとでかみさんにこの話をした。

「建築学校から折り入ってお話しがあると電話があったよ」
「!……なにそれ、悪い話じゃないでしょうね!」
「いや、あの、ただの原稿依頼だった」
「脅かさないよ、もう」

 かみさんは、講師をクビにでもなったと思ったらしい。ああ、なるほど「折り入った」話ならそっちのほうがありそうだ。クビになるより給料が増えることをとっさに思った自分が恥ずかしい。それにしても「折り入った」話はたいがい悪い話なのだろうか。次からは注意しよう。

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【伊予旅行】1.砥部焼きの登り窯を見せてもらった

 今はもう使っていない。6室の大型窯だ。かつてもいくつもあったようだが、今はここしか残っていないという。元は9室あったそうだが上3室は取り壊された。おそらくガス窯に変えられたのだろう。下6室は斜面であったため、取り壊しを免れたようだ。

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 わたしは残ったこの窯を砥部焼きの若手で使えばよいと思う。兵庫県の立杭焼きでは登り窯を復活させた。その教育的な成果は現れ始めているように見える。砥部焼は「くらわんか」と呼ばれるお茶碗の産地だ。古い「くらわんか」を見ると、茶陶にはない生活雑器の魅力にあふれている。手間暇かかり失敗も多い登り窯を復活させれば、工芸の魅力を取り戻すきっかけになると思う。

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 砥部焼きのことは前知識なしで入ったが、砥部焼伝統産業会館と梅山窯の資料館のふたつを見て全貌を知ることができた。砥部焼は伊万里から技術移転した日本で数少ない磁器の産地だ。砥部とあるように、ここはもともと砥石の産地で、その粉を使って焼いている。大洲藩による勧業政策によって生まれた産地のようで、磁器を始める前に陶器を作っていた時代もあるようだ。

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 窯を作るレンガは「トンバリ」と呼ばれるらしい。何度も積み直しているようで、窯内部で自然釉によって美しく変色したトンバリを外部でも見ることができる。とてもきれいだ。もうこれだけで建築美としては完成しているとわたしは思う。

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2016.08.24、愛媛県砥部町、梅山窯


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2016年8月29日 (月)

道後温泉の2階

 いくらか払うと2階へ上げてもらえる。貸し浴衣と茶菓子が付く。戦前の銭湯は必ず2階広間があるが、それはこうやって使ったのだと初めて分かった。温泉で温まった体に夜風がとても気持ちがよい。通りから太鼓のパフォーマンスが聞こえる。人のざわめきもカラコロ言う下駄の音も心地よい。閉鎖的な風呂場と開放的な2階広間の音のコントラストは建築的に美しい。

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2016.08.24、愛媛県道後温泉

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2016年8月28日 (日)

コウモリの引き手

 コウモリの引き手があった。とても愛らしい。つばさが透かし彫りになっていて美しい。禁撮影だったのでスケッチした(色は宿で塗った)。臥龍山荘のホームページに写真があったのでリンクしておく(参照)。

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2016.08.25/ワトソン紙ハガキサイズ、4Bホルダー、固形透明水彩/愛媛県大洲市、臥龍山荘(がりゅうさんそう)

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2016年8月27日 (土)

屋根付きの田丸橋を描いた

 梁に手が届くほど小さくてかわいらしい。ありふれた技法だけを使ったシンプルな構造はいさぎよくて美しい。わたしの理想の建築だ。ここまで来て良かった。梁をよく見るために20分ほどしゃがんで描いたので、立つと足腰が痛かった。

いよ観ネットの田丸橋 http://iyokannet.jp/front/spot/detail/place_id/1610/

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2016.08.26/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/愛媛県内子町

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2016年8月26日 (金)

愛媛県の内子座を描いた

 陽にジリジリと灼かれながら描いていた。汗は眼に入るし絵の具は色を置いたとたんにジュッと乾く。ほんの20分ほどだが立っているのが精いっぱいだ。でも唐破風に千鳥破風を重ねてその上に太鼓楼を載せた姿がすこぶる良い。見れば見るほどすばらしい。わたしはこういう建築が好きらしい。

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2016.08.25/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/愛媛県内子町

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2016年8月25日 (木)

朝から道後温泉本館を描いた

正面から描こうと思っていたが、あいにく逆光で見えない。仕方がないので時間のかかる斜め描きをした。もたもた描いていると、もう廃業なさった旅館の元女将のお婆さんが覗き込んできた。90歳だというのに、お元気そうでしっかりなさっている。あれこれお話しを伺うことができて楽しかった。スケッチはもたもたしても楽しい。
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2016.08.25/ワトソン紙ハガキサイズ、0.3グラフィックペン、固形透明水彩/松山市道後温泉

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まいまいタイル

 昨年、小径さん企画のINAXライブギャラリー主催の三条通りタイル探し(参照)をまいまい京都で再現することになった。まったく同じ経路をたどるつもりなので芸がないが、タイルのすばらしさは変らない。事前申し込み15名限定で参加費2500円(参照)。「予約あと少し」というのは釣りかも知れないが、もしタイルに興味があるならどうぞご参加を。戦前タイルを織り混ぜながら1960年代戦後タイルの全盛期の作品を紹介しようと思う。

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2016年8月24日 (水)

三徳「ぶっかけ肉うどん」

すき焼き味の牛肉がたんまり載せられている。肉の旨みと甘辛い優しい味わいが、硬めの讃岐うどんによく絡んでうまい。サイドメニューに巻き寿司を頂いた。チラシ寿司を巻いたような感じで関西とはちがう。千切りキャベツが入っていた。これもほどよい酸味と甘味のサラダ巻きのようでうまかった。

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2016.08.24、高松市

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満月の花「セロリと地鶏の塩レモンいため」

 プリプリの地鶏がたくさん入っていて見た目よりヴォリュームがある。レオンの酸味が全体をさわやかに統一している。自家農園製の野菜に鶏出汁が染み込んでうまい。ここの料理はただものではない。

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2016.08.22、京都市四条烏丸近辺

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2016年8月23日 (火)

町家カフェ「満月の花」の夜景を描いた

 パース教室でハガキスケッチをした。教室が午後7時始めりなので夜景スケッチだ。蒸し暑いなかで蚊にかまれながら筆を走らせる。暗くて絵の具の色も分からない。そんなスケッチも楽しい。小一時間ほど粘ったあと、満月の花でわたしのスケッチを見てもらいながらビールを飲んだ。みんなも楽しそうなので良かった。

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2016.08.22/ワトソン紙ハガキサイズ、グラフィックペン0.3、固形透明水彩/京都市四条烏丸近辺

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2016年8月22日 (月)

ハスの葉とザルそば

 久しぶりにザルそばを湯がいた。自家製縁台に準備しておもむろに頂く。食事は箸を使うときは食べ物を見ているが、咀嚼しているあいだは料理を見ない。なぜなら俯き加減だと食べにくいからだ。食事とは食物を口に入れることではなく、咀嚼することだと私は思う。できるだけゆっくりと、そして噛む回数を増やさねば食物は力にならない。そのためには噛むことへ意識を集中させねばならない。だからこそ前を向いてなにかを眺めねばならないのだ。本来ならば目をつむるのが正解だろうが、物を食べるときに目をつむるのは無防備過ぎる。やはり前を見ておかねばならない。そして視覚による雑念を遮るためには、何かをぼんやり眺めるのが手っ取り早い。そんな対象として庭はうってつけだ。わずかな風を受けて左右に揺れるハスの葉などがちょうど良い。ハスの葉を眺めながらモクモクとアゴを動かしていると、唐突にハスの葉がこんな大きいものだったのかと実感できた。さしわたしが40センチほどもある。そうした発見も食事の楽しみだ。

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2016.08.22


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2016年8月19日 (金)

妹尾ゆふ子「翼の帰る処(上)」

 かみさんに薦められて読んだ。読みやすい上にとてもおもしろい。遅読のわたしでも6時間ほどで読めた。銀英伝のヤン・ウェンリーによく似た野心も覇気もない文官が主人公だ。本人の思いと関係なくその人の天才が現れるところがわたしの好みである。いずれ埋もれた図書館が現れるのではないかと思う。下巻に期待しよう。


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2016年8月17日 (水)

朝堂院の研究(8)

 平城宮と平安宮とを比べると長堂が4棟並んでいることが共通する。さらに平城宮では4棟の北側(図では下側)の門の両脇に2階建ての観覧席があった。同様の建物は出雲大社の観祭楼が有名で、それは境内で行われる祭祀を観る楼閣だ。つまり平城宮の4つの長堂で囲まれた場所は祭祀場であり、大極殿は神社の本殿に当たる。

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 平安京の豊楽院では五節会が行われたが、それは奈良時代を通して整備されたという。平城宮の大極殿中央区では元旦・白馬・踏歌・端午・豊明の五節会が開かれたわけだ。とくに豊の明かりとは新嘗会・大嘗会後の饗宴のことで、酒で顔が赤くなるから明かりと称したという。豊楽院の豊はこれに由来する。だから平城宮中央区の朝堂院は五穀豊穣を祈るためのものだったと考えてよい。

 平城宮ではこの祭祀場を宮廷の中心に置き、政治のための朝堂院を脇に配置した。これは統治機構のありかたを示す。祭祀と政治はセットであり、どちらかと言えば祭祀が統治を主導することを表している。もう少し端的に言えば、祭祀を司る大巫が統治を主導し、それを男王が補佐する形式だ。皇統譜を見るとそれに見合う時代がいくつか見受けられる。

 推古     ー 聖徳太子
 皇極(=斉明)ー 中大兄
 持統     ー 草壁・文武
 元明・元正   ー 聖武

 こうしてみると平城京遷都時9歳だった首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を聖徳太子になぞらえていることが分かる。法隆寺の再建は670年の火災後で確かな年代は不明だが、塔内の塑像は711年作とされ奈良時代に入っている。再建は被災直後であったとしても、遷都時に法隆寺は整備されたわけだ。わたしは遷都とは都城を築くことだけではなく、国内の神仏再編を目的としていると考えている。だから、首皇子を聖徳太子になぞらえたのは、単に皇太子を神格化したいがためではなく、律令システムの完成に当たって再び聖徳太子の持ち込んだ仏教の力を借りようとしたのだと考える。

 女帝や皇后が大巫であるとすれば、大巫ー皇子、男王ー皇后(大巫)の2セットを繰り返すことで統治システムは永遠に更新されていくはずだった。ここで注意しておきたいのは、大巫が立つのは戦時であるということだ。風水的に言えば、大巫と皇子の関係は易でいう「地山謙」に当たる。これは軍事行動が成功するという易卦だ。聖徳太子が皇太子のままいつまでも即位しないのは「地山謙」の易卦をくずしたくなかったからだろう。

 律令システムによる統治、仏教による国土開発、そして大巫による軍事力の呪的増強、こうしたものを平城宮朝堂院の配置はよく示している。豊楽院を中央に置くプランがその後継承されなかったのは、大巫を中心とした統治システムがうまく機能しなくなったことが原因であろう。しかし、私はその機能は後宮に残ったと考えている。たとえば清少納言が描く後宮の華やかさは奈良時代の五節会のままだ。そして歌にしても舞にしても決して呪的要素が失われたとは思えない。それはまた別の機会に検討したい。

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2016年8月16日 (火)

バジルパスタ

 バジルの香りがよくからんでうまい。刻みパセリのわずかな苦味がさわやかな味わいを調えてくれる。モスグリーンの色合いも美しい。これはジェノベーゼパスタというそうだ。マツノミの代わりにゴマを使ったそうなので正式なジェノベーゼパスタではないが、うまいからよろしい。

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2016.08.13

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朝堂院の研究(7)

 なぜ奈良の都に朝堂院がふたつあるのかについては、さまざまに言われてきたが今泉説が出てほぼ決着がついた。つまり中央区は後の平安宮の豊楽殿のような儀典のための施設で、東区が本来の朝堂院だというものだ。建物配置を見ると平城宮・平安宮とも儀典用朝堂院は長堂が4つ並ぶ形式でありそっくりだ。だからわたしも今泉説で良いと思う。

※今泉隆雄「平城京大極殿朝堂再論」(同左「古代宮都の研究」吉川弘文館1993年)

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 問題なのは、なぜ平城宮だけ儀式用の朝堂院を正面に据えたのかということだ。これについては今泉説も歯切れが悪く、国家的儀式を通して国家の権威を高めるためだとする。まあそれはそうだけれど、それでは数ある都城のなかで平城宮だけが儀式用朝堂院を正面としていることの説明がつかない。

 今回は風水を使っての分析をするつもりだったが、今のところ単純な事実しか分からなかった。それは平城宮も平安宮も儀式用朝堂院が西に、政治中枢である朝堂院が東にあるということだ。つまり儀式は陰気側、政治は陽気側なのだ。これは儀式用朝堂院は巫女の領域であることを示しているのではないか。国家的祭祀の多くは巫女が主導するものだったのではないか。

 さて、奈良時代は女帝の時代と言われるが、それはもう少し古く飛鳥時代から始まっている。おもしろいのは、男帝と女帝とがほぼ交互に立っていることだ。

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 よく言われるように女帝は単なる中継ぎだったと私は思わない。時代は下るが琉球王朝の聞得大君(きこえのおおきみ)のような大巫の系譜が古代大和にもあったと考えている。つまり飛鳥時代の統治は大巫と男王のセットで行われていたが、記録上は大巫が女帝と記されたのではないか。

 もしそうだとすれば、平城宮のプランニングも当時の統治状況を反映したものであって、以後このプランが採用されないのは、統治状況が変化したためだと考えれば説明がつく。称徳天皇以降、女帝が長く途切れるのは偶然でなく、称徳前と後とで統治システムが大きく変化したためだろう。そのために、平城宮で実現した儀式用朝堂院を正面に配置するプランは以後放棄されたのだ。

 では、儀式用朝堂院を正面に配置するプランにはどんな意味があるのか。それは風水的にどのように読み取れるのか。そして、それは当時の律令国家のあり方とどのように関係するのか。それは次回に検討する。

 

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2016年8月14日 (日)

足の爪を切らない父のこと

 高齢の父の足の爪が大変なことになっている。聞くと、今まで切ったことが無いという。足の爪を切らない人がこの世にいるとは思わなかった。それがこんな身近にいたことも知らなかった。
「伸びてきたらどうするの」
「おかあさんに切ってもらう」
「それは結婚してからでしょ。それまではどうしてたの」
「若いころからずっと切ったことがない」
 爪の何枚かは厚みが数ミリになっている。メンテを怠ってきたむくいだろう。そうなると母の手には負えないらしい。そこで私が切ることになった。
「すごいよ父さん、サイの角のようだ」
>>サイのツノ!<<
 爪切りも普通のものではなく、ペンチ式のものだ。これでこすり取るようにして削っていく。母によれば、お湯でふやかすと切りやすいそうだ。もうそれって爪でないよね。まあ、サイの角も皮膚が変化したものだから人の爪と同じものだけどね。
 削っているうちに昔飼っていた亀の爪を切ってやったことを思い出した。
「父さん、まるでカメの爪のようだよ」
>>カメのツメ!<<
 かみさんが言うには、かみさんのお父さんも足の爪が大変なことになっていて時々切ってあげるそうだ。足の爪を切らない人がいるというだけでも驚きなのに、それがこんな身近にふたりもいたとはあきれるばかりだ。父とかみさんのお父さんとは昔からの山男友達なのだが、山男は凍傷になるので足の爪を切らないと言う。そんなことあるものか。たまたまズボラなふたりが揃っただけだろう。それとも本当に登山家は皆そうなのだろうか。
 

 

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2016年8月13日 (土)

朝堂院の研究(6)

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 朝堂院を易で読む
 朝堂院を易で読むとどうなるか。易は上に3爻(こう)下に3爻の計6爻で構成される。爻とは陽気か陰気のどちらかで、それが3爻揃うことで八卦のイメージの内のどれかひとつを示す。それが上下ふたつ重なって占いの答え(易卦)となる。

 まず朝堂院をどこで上下に分けるかだが、これは先に見たように東西の中門を結ぶ横軸で良いだろう。逆に言えばこの中門は易の上下の卦(か=イメージ)を示すためにここに配置されているとみるべきだ。この区切りの下エリアには大極殿と4つの朝堂、上エリアには朝集堂(朝集院)と8つの朝堂がある。図のようにちょうど6段となる。ここへ陰陽を当てはめれば朝堂院は易で読める。

 どう当てはめればよいか。これはウブンガイが大興城(後の長安)で当てはめたように王と太夫は陽気、そのほかは陰気でよかろう。そうすると左図のように上は陰気ばかりでイメージは「地」、下は陽気ばかりでイメージは「天」、すなわち易の答えは「地天泰」となる。「地天泰」は天下泰平の良い易卦だ。

 これでも良いのだが、別の考え方もできる。それは中国の三省のひとつである中務省も陽気ではないかということだ。中務省は八省の上級組織であり、中務卿は貴族や皇族から任命された。これは陽気扱いとするほうがよい。そうすると上イメージは雷となり易の答えは「雷天大壮」となる。大壮の解釈はいくつかあるが、もっともポピュラーなのは大いに壮ん(さかん=盛ん)というもので、ここはそれでよいだろう。つまり新都の前途を寿いでいるのだ。

 この読みは12堂が8堂に減っても変わらない。うまくできている。こう考えてくると三省のひとつであった中書省を一段低い中務省に落としたのも、この易卦を完成させるためにわざとやったようにも見える。

 ちなみに工部を六部からはずし仏教勢力の独占としたのは国土開発のためではないかと思う。それは聖武朝になって東大寺ー国分寺の全国展開となる。各地の仏教勢力は地方の原始宗教によるタブーを破り、神々の領域とされた谷や野を最新鋭の土木技術によって切り拓いた。僧侶が龍を封じる伝説はほとんどこのときの開発を背景としているように見える。そして最後の抵抗を封じるために宇佐八幡神を東大寺に帰依させ神仏合体をもくろんだわけだ。まあこれは別の話になるので、また他の機会に考えてみたい。

 さて、朝堂院研究は最後の謎に取り組みたい。それはなぜ平城京には朝堂院がふたつもあるのか、ということだ。朝堂院がふたつあるのは奈良だけで、そのときの特殊な事情があったのは確かだ。その理由についてはいろいろ言われているが、まだ通説となるものはない。これを風水で考えるとまた別の見方ができるのではないか。

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2016年8月12日 (金)

朝堂院の研究(5)

 三才について
 三才というのはおもしろくて、2と3の違いについて考えさせてくれえる。太極が陰陽のふたつに分かれて世界が誕生したというのが東洋の創世記だ。その後、天(陽気)と地(陰気)のあいだに人が生まれることで世界は活動を始める。人は陽気でもなく陰気でもなく、両方の気を持った第3の存在だというのが三才論だ。太極が1、陰陽が2、三才が3というわけだ。世界は1>2>3と成長する。

 これは認識論と考えると分かりやすい。二項対立だけでは認識は成立せず、そこに認識主体としての人間が加わって初めて世界は認識される。攻殻機動隊のゴーストみたいなものだ。もしくはキリスト教の父と子と精霊というのが近いか。正三角形が神聖視されるのは、この認識論が由来しているのだろう。

 三朝制は家形埴輪にも見られるとする研究がある(どこで読んだのか思い出せない。今探しているところ)。たしかに同じような三段構成になっている。古代神道の場合も3はよく使われる数字で、たとえば宗像大社は辺津宮、中津宮、沖津宮の三段となっている。また、伏見稲荷は上座、中座、下座の尾根上の3つピークをご神体としている。

 古代神道における3の意味をもっともよく表しているのは上鴨、下鴨神社だ。上鴨には賀茂別雷神、下鴨には雷神を生んだ巫女である玉依姫と彼女の父であり賀茂氏の租・賀茂建角命が祀られている。神は天、母は地、賀茂氏は人というわけだ。わたしは奈良時代以降の外戚が祭りごとを行う権利があるとする考えはここから来ていると思う。

 話を戻そう。わたしは風水思想は古墳時代には日本に入っていたと考えているので、神社の祖型や古墳に三朝制が表れていても不思議ではないと思う。1は点、2は線、3は面をつくる。天地に人が加わり面が発生して始めて世界が生まれるのだろう。
 
 三才論はアリストテレスの三段論法と似ているかもしれない。とりあえず易は三才論の延長上にある。易で使う8つのイメージを天人地の3つの枠に当てはめる。これを2回行って6つのイメージの並び方で占うのが易だ。2回行うのは陰陽の2であろう。朝堂院が三才の応用でできているとすれば、易で読むことができるはずだ。

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2016年8月11日 (木)

除虫菊が呼び寄せたもの

 先日から蚊取り線香が何者かにかじられている。縁台に出しっぱなので夜中に誰かが食べているらしい。ネコやイタチにしてはかじり方がちいさいのでカナブンのような昆虫だろうと思っていた。この蚊取り線香は殺虫剤の入っていない除虫菊オンリーのものだ。虫に対して忌避効果があるはずなのに、さすが天然ものは違うと感心していた。
 ところが食べていたのはゴキブリだった。どうも最近縁台にゴキブリが増えたと思ったら蚊取り線香を食べに集まっていたのだ。びっくりして説明書を読むと蚊取り線香を固めるのにデンプンを使っている。これを食べていたようだ。デンプンは普通の蚊取り線香も使っているが、殺虫剤が練り込まれていると食べないようだ。
 さらに注意書きに「蚊取り線香ではありません」と小さく書いてある。え、そうなの?箱に「防虫」とあるけど。とよく読むと「適用害虫、ユスリカ、チョウバエ」とあった。どちらも小さな羽虫で人をささない。なんと蚊を散らさずゴキブリを集めていたというわけだ。あした普通の蚊取り線香を買ってくる。

追記:除虫菊線香には天然由来のピネトリンの含有率が0.1%のものと0.4%のものとがある。わたしの使っていたのは0.1%のもので蚊取り線香ではないが、0.4%の製品は蚊取り線香だ。それだと蚊に対して忌避効果が期待できるようである。(2016.08.16)

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2016年8月10日 (水)

やぎさんゆうびんの終わり

くろやぎさんから お手紙 着いた
しろやぎさんたら 読まずに 食べた
仕方がないので お手紙 書いた
自分で書いた手紙も食べた

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2016年8月 9日 (火)

篠山小学校

 篠山城へ登ったときに見えた。三の丸に木造校舎が立ち並ぶ。これだけの量で残っているのは珍しいだろう。端正な木造モダニズム建築で白い壁に赤い屋根がよく似合っている。奥の灰色屋根が講堂で、妻壁に「2594」とあるのは1934年に当たる。そのころから戦後にかけての建築群だろう。

 耐震補強を終えたそうなので、これからもお使いになっていくのだろう。親子3代が通った校舎を使い続けることは地域のアイデンティティを保つ上でとても重要だ。篠山市内にはほかに八上小(1937年)も現役なのもうれしい。

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2016.01.31、兵庫県篠山市

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芸術配管 160728-02

 配管の美しさは「複雑化」にある。なぜ複雑になっていくのか。この写真を見て分かることはふたつある。ひとつは配管の思想に違いがあること。もうひとつは断言はできないが、もう使っていない配管を残しているのではないかということ。

 配管思想には3つあることが分かる。ひとつは、配管は天井と壁との角を通すべしというもの。これは古い配管が角に多いことから昭和初期の考え方だろう。

 二つ目は、配管は天井の中央を通すべしというもの。角に配管すると配管の増加に対応できなくなる。その点、中央から始めれば天井いっぱいになるまで配管できるので増設の余地が大きい。天井中央配管が比較的新しく見えることから、おそらく70年代以降の思想だと思う。

 三つめは、配線容量の大きな配管ダクトに集約して配管を減らそうというもの。ダクトがあればいちいち配管する手間がはぶける。写真では壁と天井の角に配管ダクトが走っている。しかしダクトを作ってはみたものの、過去の配管が一掃されたようには見えない。ようするに「複雑化」を創り出す最大の理由は古い配管を撤去しないことにあるのではないか。

 日本の公共デザインの特質は、過去のものを取り外さないことにあることを以前考えた(参照)。そのことと配管芸術は関連があるのかも知れない。

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2016.07.28、阪急京都線西院駅

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2016年8月 8日 (月)

空の研究 160808

 天の羽衣のような雲が躍っている。中央山際で夕陽に染められているのは爆裂した積乱雲だ。兵庫県南部、六甲山北側あたりだろうか。大型の台風5号が関東に接近中で、ここも上空で強風が吹いている。風のために積乱雲上部が吹き飛ばされ、他の積雲も千々に吹き流されてこんなことになっている。

 珍しくほかに積乱雲の姿は無かった。つまり台風が接近すると積乱雲は成長しない。それは風で吹き飛ばされるからではなく、湿気た空気を供給するはずの太平洋高気圧が弱体化するからだろう。積乱雲は上昇気流だから、それに見合った下降気流が必要だ。台風も上昇気流だから太平洋高気圧の下降気流を全部吸い込んでしまうのだろう。今年全国的に夕立ちが少ないのは、太平洋高気圧が例年よりも弱いせいだと思う。

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2016.08.07、京都府向日市

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満月の花「地鶏と彩り野菜の豆乳煮」

 鶏肉がゴロゴロ入っていて食べ応えがある。鶏と野菜とキノコの旨みが豆乳に溶け込んで、優しいあじわいのスープになっている。それがフカフカのジャガイモによくからんでうまい。脂っこくないしおなかもいっぱいになるし、ちょうどこんなごはんを食べたかった。

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2016.08.08、京都市、阪急烏丸駅周辺「満月の花」(参照

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2016年8月 7日 (日)

戦前の洋小屋スタイル

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 以前、二条駅前の倉庫街をルポした(参照)。そのときには気づかなかったが、ガイドマップの取材をしていた5年前に見つけた。なかなかよい。側面の柱に支えがあり、それが丸太であることがすごい。よくもまあ丸太で組めるものだ。さすが木材の街だ。私は伝統木構造が一番だと思うが、こうしたシンプルなトラス構造も好きだ。わたしの理想のひとつである。

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2016.02,19、京都市中京区二条駅前、吉澤商店

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建築探偵の写真帳 戦後ビル編「丸全株式会社本社」

 控えめな社名の入れ方がヨーロッパ風だ。増田の京大総合体育館と似ているが構成方法が大分違う。京大では何種類かの窓パターンを組み合わせて複雑な壁面を作ったが、ここはほとんどの窓割りが違う。それでもレースカーテンのような軽やかな美しさは共通しており、当時こうした手法が流行したのだろう。京大は1972年で、これは1974年だ。

 

Img_7205 2016.05.14、京都市下京区

 

 

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木曽路「親子丼」

 鶏肉がプリプリだ。そして玉子がトロトロである。合わせ出汁を吸い込んだ玉子が鶏肉によくからむ。塩味を抑えた優しい味わいだ。薄味なので鶏肉の淡白な旨みがよく分かる。出汁は丼全体に行き渡っている。ごはんはベタベタしておらず米粒が立っている。出汁でコーティングされた米粒をそっと箸ですくう。親子丼の一番おいしいところはここだ。

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2016.08.07、京都市山科区東野「木曽路」

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2016年8月 6日 (土)

芸術配管 160728-01

 まあ電気配管なのだがものすごいことになっている。京都線の駅はたいがい見たが、これほどすごいところは十三くらいだ。左側の硬質ビニル電線管はつい最近張られたものだから、今もなお成長を続けているというわけだ。なぜこうなっていくのか、そしてなぜそれが美しいのか考えてみたい。

 7年前に西院駅の配管クイズを考えたことがある。問題はこちら。
 http://tanuki.la.coocan.jp/picture/171.html 


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2016.07.28、阪急京都線西院駅

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2016年8月 5日 (金)

空の研究 160804

 暑いのだろうか。かつての殺人的な暑さとはまた別のような気がする。京都は夕立が無い。東京とは大違いだ。写真は山科から東山越しに京都を見たところ。たぶん亀岡あたりに立つ積乱雲が見えている。もっと大きくならないと雷雨にはならない。それでも阪神間ではここ数日夕立があるらしい。京都は夕立の起こる条件の何かが揃っていないのだろう。条件って何だろう。

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2016.08.04、京都市山科区

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東野湯は昭和四年創業だそうだ

 調査が午後3時に終わったので東野湯へ行ってみた。まだ陽のある内の銭湯は気持ちが良い。人気の少ない湯船を独り占めして天窓を見上げると、天窓から降り注ぐ光線がブルーに塗られた天井に反射してとてもきれいだ。

 脱衣室に「東野温泉」と書かれた大きな額がかかっており昭和4年創業とあった。脱衣室はほぼ創業当時のままで格天井に筬欄間がすばらしい。脱衣籠は籐製で番号が大きく墨で書かれている。黄色いプラスチックの洗面器はケロリンだった。

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2016.08.04、京都市山科区東野

 煙突は陶製だ。最近少なくなっているので貴重だ。アングルで組んだトラスの内側に土管が積み上げられている。トラスに土管をどうやって固定しているのかよく分からなかった。たぶんワイヤーで繋ぎ留めているのだろう。いつかこんな煙突を作ってみたい。

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木曽路「ざるそば大盛り」

 大盛りを頼んだら2段重ねで出てきた。1枚食べてもその下から同じものが出てくるのはとてもうれしい。腰のしっかりした麺で喉越しが良い。出汁はカツオが利いて甘過ぎず淡白な麺によくからんでうまい。自家農園でソバを育てているそうだ。ここは親子丼も良さそうなのでまた今度試してみたい。

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2016.08.02、京都市山科区東野

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2016年8月 4日 (木)

黄色い土壁の倉庫

 山科を歩いていて、とてもいい感じの土壁の建物を見つけた。背が高いので材木倉庫かも知れない。土壁の黄色がとてもきれいだ。等間隔に立つ柱が壁を心地よく分割して端正な印象を作り出している。建築はもうこれだけで十分だと思う。理想的である。

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2016.08.04、京都市山科区東野

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2016年8月 3日 (水)

芸術配管 160801

 見事な配管ワークだ。排水管なのだが、きっちり自然勾配をとりながら見た目も美しい。1970年代後半はまだこうした職人技がかろうじて活きていた時代なのだろう。ただただうっとりするばかりである。

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2016.08.01、京都市山科区

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京都山科の東野湯

 8月に入ってからマンションの構造図を起こす調査で山科へ入っている。きのう周辺を探索したところ大型銭湯を発見。なかなかしっかりした伝統木構造だ。玄関をでかい木が突き抜けているのが特徴だ。プラスチック看板がシンプルで良い味を出している。今も営業なさっているのだろうか。調査は明日でほぼ終わりなので夕方行ってみよう。てぬぐい持っていかなくちゃ。

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2016.08.03、京都市山科区

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2016年8月 2日 (火)

錦水湯のタイル

 大阪旭区大宮の錦水湯(参照)のタイル。足元は釉薬がけの上品なスクラッチタイル、その上は目高さあたりまで見事な窯変50角タイルだった。いいなぁ、窯変タイル。こうした磁器質タイルは凍害に弱いなどと言って敬遠する向きもあるが、大阪あたりだと十分長持ちするじゃないか。

 

Img_7697 2016.07.14、大阪市旭区大宮「錦水湯」

 

 

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2016年8月 1日 (月)

土壁の小屋

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 京都府乙訓地方の竹林にこんな小屋が点々とある。タケノコ掘りの道具でも入っているのだろうか。土壁がとても美しい。単純な構造に土壁の美しさが加われば建築として無敵ではないか。住宅ならこれだけでもう十分だ。わたしの理想の建築である。

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2016.07.19、京都府長岡京市

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自家弁当

 時間が開いたのでコワーキングスペース「oinai karasuma」へ行ってみた。席でお弁当も食べても良いというのでさっそく広げた。脂をしっかり吸い込んだ白ネギがうまかった。割と空いていたので人目を気にせずいただけた。ここは駅から近いし向かいにコンビニもあるし1時間300円だし書斎代わりにいいかも。

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2016.07.28

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