2016年7月 9日 (土)

スケッチする行為を分析してみた

 スケッチは見て描くというふたつの行為で成り立っている。おもしろいのは見ることと描くことを同時にできないことだ。見ているときは手は止まっており、描いているときは風景を見ていない。ひょっしたらキーボードのブラインドタッチのようなことができるかも知れないが、普通は風景と紙の上とを視線が行き来する。

 注意したいのは、描いているときに風景を見ていないということだ。つまり紙の上に再生されるイメージは頭の中に記憶された風景だということだ。つまりスケッチという行為は見る・覚える・描くという3つの行為で成り立っている。

 ここで問題はふたつある。ひとつは記憶するとはどういう行為なのかということ。もうひとつは記憶されたものはどこまで具体的なのかということ。

 記憶することは構造を理解することではないかと思う。風景を線に置き換える時点で何らかの変換が行われているわけだが、それは風景の構造を模式的に示したものではないか。風景の全部を見ることは普通はできない。理解されたものだけが記憶に残る。どれほど重要な構造であっても理解されなければ無かったことになる。100名ほどのスケッチを講評する時それがよく分かる。ひとりひとりの理解の仕方と深さの違いがスケッチに如実に表れる。同じものを描いているはずなのに個別化する。そこがスケッチのおもしろさだ。

 頭の中に記憶されたイメージはさほど具体的ではないように思う。何度も線を描き直すのは、描かれたものが正確ではないということが本人には分かるからだろう。頭の中のイメージが鮮明であればこうした齟齬は生まれない。結論から言えば、頭の中のイメージとは漠然とした方向付けようなものでまだ形を得ていない。つまりイメージは描かれることによって初めて生まれる。

 スケッチのもっとも重要な部分は手を動かし続けることにあるのではないか。手を動かすことで形が生まれイメージが完成する。手の動きはスケッチの最終段階にあるわけだが、実際は手が動くことで初めてすべてが始まる。紙の上にイメージが生れることで風景は理解され、そしてようやく世界観が誕生する。そんな気がする。

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