ゴミ箱を描き方を教えてくれと言われた
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
三朝制については吉田歓の「古代の都はどうつくられたか」(吉川弘文堂2011年)が分かりやすい。彼によれば周礼などに記載された古代都城設計法は「燕朝、治朝、外朝」もしくは「内朝、中朝、外朝」の三朝に分類できるという。
燕朝は皇帝が政治を内覧する場所、治朝は皇帝が臣下を謁見する場所、外朝とは皇帝を臣民を朝見する場所だという。
内朝は皇帝の居住する場所、中朝は燕朝、外朝は治朝だという。
三朝制にはこの二通りの解釈があり複雑で難解だとするが私はもっと平易な解釈で良いのではないかと思う。ようするに三朝とは天地人の三才の応用だろう。天は神々の天空の領域、地は地母神の領域、その間に人間の領域が広がるというのが古代中国の天地創造の神話の世界観だ。都城はその写しとなっているのだろう。風水的検討を加えれば、複雑と思われている事柄も案外簡単に解ける。
唐の大明宮の含元殿と平安京の応天門は同じものだ。左右の楼閣がともに鳥の名前となっているが、天の領域は火の世界だから鳥名はふさわしい。難波京前期の朝堂院が14堂だったとすれば、火の数字である7の2倍と言う意味なのかも知れない。それはともかく、含元殿や応天門は天を受け止める呪術装置であったろう。含元殿と応天門との類似は、日本の皇宮が唐の大明宮を下敷きにしている証拠だ。
こうやって比較してみれば朝堂院と大極殿はセットになっていて天地人の「人」を担当していることがよく分かる。平安京は平城京の写しだから、平城京建設の時点で大唐帝国の大明宮に表れている三才を応用することは既定の事実であったわけだ。これはやはり遣唐使の持ち帰った知識と考えるべきだろう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
第1次難波京では朝堂院が14もあったらしい。14は多すぎる。その後の都城は12か8の2種類しかない。藤原京、平城京第1期、平城京第2期、平安京が12で、第2次難波京、長岡京が8だ。近江京、紫香楽京、恭仁京の出土例が無いので、これしかないとは言えない。しかし12と8がセットであったことは河図で説明できる。結論だけ言えば12が陽気で8が陰気だ。副都制に陰陽を当てはめたというのが私の説である。
さて朝堂院12堂の場合、8省が8堂に納まることを前回見た。それでは朝堂院8堂の場合はどうなるかを考えてみた。おそらくこうなる。
タテはタテどうし、ヨコはヨコどうしを繋げただけだ。朝堂院の南北の棲み分けを優先すれば実務官僚は北側に押し込められているわけだからこうなるしかあるまい。
都城制の風水的検討は始まったばかりだ。風水で考えればいろんな謎が解ける。そして、たとえば民部卿や式部卿がどこに座ったのかが具体的に分かるのがおもしろい。研究と言いながら本当は妄想歴史小説の準備をしているようなものである。次回は三朝制の検討を行う。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
鎌倉時代の写本に残る朝堂院は平安時代のもので、いろいろ改変があった後の最終形態だろうと言われている。なぜそう分かるのかと言えば、陰陽が入り乱れているからだ。
上図(上)が写本に残された朝堂院の図で、そこへ八省の陰陽を書き添えてみた。もともと六部は陰陽に分かれていたので、それに学んだ八省も陰陽に分かれるだろう。大蔵や宮内など日本オリジナルの省庁の陰陽は分からない。この図を見れば乱れているのは陽気である式部が陰気側にあることの一点だ。これを正しく配置すると上図(下)となる。さらに式部配下の大学寮を消して、そこへ大蔵を移すと八省が八堂にぴったり当てはまる。これが朝堂院の当初の形であろう。
そうだとすれば朝堂院の変遷は次のようになる。
< 朝堂院の変遷 >
1.八省に合わせて八堂を設けた。八省を陰陽に分け、陽気は東、陰気は西に配した。
2.少納言、弁官のために一堂を当てた。そのため式部省が横へずれた。弁官とは八省の事務次官のことだ。
3.同様に大学寮のための一堂が設けられ、大蔵省が移動した。2と3は同時期かも知れない。こうして高級貴族の出世コースは大学寮>少納言・弁官>参議となった。朝堂院の名前で言えば(前項参照)永寧堂>暉章堂>含章堂
となる。
この移動は少納言・弁官の増加によって引き起こされたとも考えられる。しかし高級貴族の子弟を実務官僚と同席させるのはいかなものか、というような身分観による変更だったとわたしは考えている。そうでなければ朝堂院の陰陽を崩してまで配置転換を行わないだろう。日本の朝堂院は律令の合理性よりも高貴なものを分離させようとする世界観に支配されているように見える。
< なぜ朝堂院にタテとヨコがあるのか >
これは陰陽に分けられた4堂をさらに陰陽に分けたためだろう。こうすることで八省は陰陽の四象に分けられる。ヨコがタテの逆と読み替えればよい。変則的な読みだが、そうでも考えないとタテヨコの別のある意味が解けない。
老陽 中務省、治部省
少陰 民部省、式部省
少陽 大蔵省、兵部省
老陰 宮内省、刑部省
こうやって書いてみると兵部と宮内が入れ替わっているように見える。入れ替えたものが本来の形なのかも知れない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
朝堂院は都の意味を考える上でとても大事な施設だ。こんな風にタテに長い庁舎は隋唐には無い。都城制は隋唐から学んだことは間違いないが、中心となる朝堂院は極めて日本的だ。これは一体何なのか。そのことを考えるために、各朝堂に何が入っていたのかをチェックした。
鎌倉時代に写された別々の本2冊に平安宮の施設配置図が残っている。平安時代中期のものだと考えられている。その図から朝堂院を抜き出すと上図になる。陰陽を考えるために南を上として描いている。各朝堂に何が入っていたのか一目瞭然だ。この図からいろんなことが分かる。
4つに分かれること
12の朝堂は4つに分かれると私は思う。まず中心線から東西に分かれる。基本的には左が文官で右が武官だ。官僚を陰陽で分けることは隋唐から学んだのだろう。東側が陽気で西側が陰気だ。さらに東西の中門を結んだ軸の上下に分かれる。下は上級貴族エリアで上は八省を中心とする実務官僚のエリアとなっている。
おもしろいのは下部分の東側は参議や太政官など律令制の最高機関で、西側は実務に携わらない親王たちが占めていることだ。律令の枠外の皇族のために特別席が用意されているわけだ。行政監査を担当する弾正台が親王に追随するのも行政の頭を抑え親王の優位を保つための工夫のように見える。親王席を設けたことは朝堂院が隋唐の三省六部の丸写しではなく相当にオリジナリティあふれる施設であったことを示している。これは朝堂院の意味を解くうえで大事なカギとなるだろう。
三省はどこか
隋唐の行政機関は三省六部に分かれた。行政執行官たる太政官は尚書省に、法案審議担当の参議は門下省に当たる。おもしろいのは法案起草機関の中書省が日本では中務省なり太政官の下部組織に落とされていることだ。これは日本オリジナルだ。
六部はどうか
六部はこうなっている。
< 陽気側 >
礼部=治部省 外交、式典、仏教関係
式部省 教育(大学寮)
戸部=民部省 財政、戸籍、地方
大蔵省 国庫管理
吏部=式部省 文官人事
兵部=兵部省
< 陰気側 >
刑部=刑部省
工部=なし
※ 宮内省は六部に該当なし
日本の八省の特徴
隋唐の律令制を学びながら相当アレンジしている。特徴を列記すると次のとおり。
1.工部省がない。技術は仏教寺院が独占していたと思われる。隋唐では工部は軍制の重要な一部なのだが、日本では仏教の一部と理解されていたのだろう。公共工事の際には朝廷に造宮司など臨時の部局が置かれ仏教勢力から技術者が出向したと思われる。
2.教育関係は本来は治部省管轄だが、文官人事担当の式部省に移されている。役人を科挙によって公募するのではなく、貴族の子弟から集めるためだろう。
3.大蔵省と宮内省が独立している。大蔵は民部省管轄のはずだが、それが独立して陰気側に移されている。宮内省ともども皇族系を西側に集めたのが特徴だ。結果的に藤原系は東側に、皇族系は西側に対置されている。当時の政治状況を反映しているように見える。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
太極図と呼ばれる二つ巴の図は暦を表しているのだろう。巴のふたつの目のうち上が夏至で下が冬至だ。これを結んだ線が子午線だ。円周の一番下が子月(11月)で、そこから左まわりに牛月(12月)、寅月(1月)と進む。左右を反転させた太極図もあるが、これは暦を天球上に投影しただけのことで基本的には同じことだ。
暦とは天球上の太陽の運行を示したものだ。春分は天球上の真東で、そこに太陽が入るのは卯月(3月)となる。四季と東西南北の方角とは天球上で対応していることがよく分かる。太極図は天球図と対応させることで、その意味が明らかになる。
旧暦3月は桜の咲く季節だ。1~3月が春なので晩春である。3月最後の18日間は土用だ。土用は土気の作用で夏を準備する期間だ。桜の5枚の花弁は先端が裂けているため頂点は10となる。10は土用を表わす数字だから桜は土用を象徴する呪具となる。九星図で言えば白い花は八白土星を連想させるので、やはり土用の象徴だ。
花見は「見る」ことに意味があるのかも知れない。「明らかに見る」というように「見る」とは明るい火の作用だ。火は金気を剋して木気を助ける。花見は土用の期間に土用の呪具たる桜を「見る」ことで季節をまわす祭祀の名残りなのかも知れない。桜を見ながらそんなことを考えている。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント