日銀大阪支店
ご承知のように辰野金吾は実施担当の弟子たちの裁量を広く認めていた。もちろんチェックはするだろうが、装飾の細部などはフリーにやらせることが多い。従って代表作と言われる東京駅でさえ当時若手のあいだで流行したウイーン分離派風の装飾分解の花盛りだ。これが日銀大阪支店(1902)を見る時の前提だ。
ところがこの建物は装飾分解が無い。まったく無いと思う。この当時装飾分解が無いというのはとても珍しい現象で、大阪では他に中之島図書館(1904)くらいしか思いつかない。大阪のメインストリートに新古典主義の銀行建築が立ち並ぶのは1920年代になってからなのだ。
これとよく似ているのは東京の日銀本店(1896)だ。ではこのふたつの実施担当が同じだったのか。大阪は辰野葛西建築事務所だから担当は葛西萬治でよいだろう。東京は辰野葛西事務所のできる前なので設計は辰野本人ということになっている。でも当時葛西は日銀技手だったから、やはり担当は葛西でよいのかも知れない。
葛西と言えば神戸の旧第一銀行(1908年、現地下鉄みなと元町駅)でも分かるとおり、相当やんちゃな装飾分解をする。そこが葛西のおもしろいところなのだが、それがふたつの日銀では鳴りを潜めている。なぜか? もっとも自然な推理は辰野本人がこのふたつの建物だけは装飾分解を封じたということだろう。何のために?
実は日銀の他の支店も新古典主義に統一されていて、当時流行の装飾分解は見当たらない。中央銀行の体裁を調えるためにアメリカ仕込みの新古典主義で固める戦略があったものと見える。ただし、この戦略に乗らない支店がひとつだけあった。それが京都支店(1906)だった。ここは放縦な装飾分解を施した中世主義建築なのだが、なぜ京都だけ違うのか説明できない。国策を解除するほどの理由が思いつかない。それとも日銀を新古典主義で固めたのは結果的にそうなっただけで、ことさら国策でも無かったのだろうか? さらに、京都の実施担当者が長野宇平次だったことも解せない。彼は曲がったことの大嫌いな新古典主義者だったからだ。ここは葛西の一択ではないのか。
人通りの絶えない御堂筋の歩道に立ちながらそんなことをとりとめもなく考えていた。
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