自家弁当
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灯籠の竿の部分に龍を彫るタイプはたまにあるが、これほど見事なものは少ない。渦を巻く雲のなかを泳ぐ龍が動き出しそうだ。台座に「當山、四十五世、眞空代」とある。帰って調べると眞空とは御影堂再建のころの貫主様のようだ。御影堂は1754年再建(参照)だから、この灯籠はとても古いことが分かる。もっと新しいものだと思っていたので驚きだ。
分からないのは御影堂の正面に龍の灯籠をなぜ置いたのかということだ。近くの桂昌院ゆかりの善峰寺(よしみねでら)に龍に見立てた松があることと何か関連があるのだろうか。とりあえず謎のままにしておく。
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久しぶりに個展を開きます。今回は近代建築を中心に30点ほどを展示します。会場は友人の小ワーキングスペース「ミンナノコミンカ」(参照)をお借りしました。相国寺の北側の静かな町の中にあります。散策がてらにお立ち寄りください。会期の3日間の毎日、午後2時にスケッチ会、午後5時にスライド会を開きます。良ければご参加ください。
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おもしろかった。上下2巻本の長編ファンタジーで読書の苦手な私に読めるだろうかと思っていたが、途中からどんどんおもしろくなって読み気ってしまった。楽しめたのはキャラが好みだったからだろう。主人公の図書館の魔女マツリカは典型的な内向思考型で、既存キャラで言えば「ゴシック」(2003)のビクトリカや「神様のメモ帳」(2007)のアリスあたりか。アニメ化してほしい。2010年講談社メフィスト賞受賞、2013年刊行。
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私は通りとの関係がよく分かる出窓や腰掛窓が大好きだ。これなどもとてもきれいでよくできていると思う。先に見た土蔵の雪囲い(参照)とよく似ている。関西ではあまり見ないこうした外付け窓はやはり雪囲いなのではないか。これなどは最初からこうなっているように見えるが、元々ガラス戸の無かった2階濡れ縁に後からガラス戸を立てるために工夫された形のように見える。また、光を多く取り入れたいという欲求も感じる。これなどは南側なので窓が出た分庇の陰から逃れて光を取り込みやすいだろう。雪と光が金沢独特の美しい建築様式を作っているように感じた。
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これは金沢の武家屋敷の野村家屋敷の石灯籠だ。これは朝鮮の灯籠ではないだろか。たまにこうした灯籠を見るが、なかなか柔らかくて自由な造形がすばらしい。
ここの庭はものすごかった。敷地のなかに人工的に2メートルほどの丘を作り、その上に2室のお茶室を作った。敷地脇を流れる用水から丘の上の茶室前に水を引き上げその下へ滝を作っている。ダイナミックな市中の山居を実現している。昨年訪れた中国の旧胡雪巌邸(参照)を思い出した。旧胡雪巌邸庭園は龍穴を示しているのだろうと思うが、ここは何を伝えようとしているのか。とても興味深い庭園だった。
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今回は家族旅行だったので建築めぐりをするつもりは無かった。でもこの建物を20年ぶりにもう一度じっくり眺めたいという希望はあった。そこで家族が21世紀美術館へ行っているあいだ私は別行動をとり、この建物を堪能することができた。本当に金沢まで来て良かった。
元はロの字プランだったと思うのだが、今は前面だけが残っている。貼り付け保存ではなく構造保存とした慧眼をほめたい。ただしファサードはだいぶ変わっている。私が見ていたころは当初のおもかげがもっと強かったはずだ。修復としてはとりあえずの形であり、今後の復元を望みたい。
こういうドイツ表現主義的な装飾がふんだんにあり見ていて飽きない。設計した建築家矢橋賢吉は国会議事堂の設計チーフとして知られているが、このふわっとした装飾を私は萌えデコと名付けてみた。矢橋の萌えデコは議事堂細部と通じる。この建築が竣工したとき議事堂の実施設計中だったから共通するのは当然だろう。私は見ていないが同時期に竣工した岐阜県庁もこれとそっくりのようだ。
これなどは明らかにライトの影響を受けている。県庁の竣工が1922年でライトの帝国ホテルが1923年だ。同時代だったわけだ。ライトこそ和風の装飾分解と再構成をデザインテーマとしていたから、矢橋たちが鋭く反応するのは当たり前だと言ってよい。当時の建築界は若手の新古典主義者たちがわんさか出てきたころだから、こうした装飾分解をこつこつと行うのは決して主流ではない。彼らが和風をテーマにしたのは、議事堂を設計せねばならないという責務だけではなく、もう少し自由で遠大な志があったのだろうと私は想像している。傍流こそおもしろい。
玄関ホールの柱頭部。萌えデコの典型としてふさわしいだろう。ある種の装飾の分解と再構成を同時に行うところに特徴がある。少し早い例として山口県庁の柱頭デザインをあげてもよい。あれは矢橋の3年後輩で国会議事堂のデザイナーのひとり武田五一の設計だった。矢橋のチームは議事堂設計の小手調べとして各地の県庁を手掛けていたとされるが、こういう実例を見ているとやっぱりそうだったのだと私も思う。
玄関扉に乳金物がついていて驚いた。このデザインは社寺建築のものだ。矢橋たちは議事堂のデザインを探るキーワードに和風の再構成があったことが分かる。詳しく見ていけばもっと和風の装飾分解を見つけることができるだろう。ちなみにこれは閂金物の裏留めの隠し金物だった。
左は外壁の萌えデコ。多分これは熨斗をイメージしていると思う。こうした江戸趣味的な洒落っ気がこの世代の特徴でもある。右は扉の萌えデコ。たしか熨斗型もあったと思ったのだが見つからなかった。無くなっちゃったのかなぁ。
みんな大好きなモザイクタイル。構造保存するとこうした細部がまるごと残るからありがたい。よく見ると9枚1組のシート貼りであることが分かる。けっこうずれているのはなぜだろう? このタイルは九谷焼なのだろうか。くすんでしまっているが、それはそれで良い味を出している。
見事な階段室だ。青いステンドグラスが鮮やかだ。装飾の分解と再構成を行いながら全体は表現主義的な混沌とは別次元の均整のとれた骨格と禁欲的で清楚な美しさを保っている。誤解されていることが多いが、国会議事堂も同様のデザインであり、全体は質素簡潔ながら部分は幻想的な萌えデコに覆われ、そして素材技法デザインの基調に和風があるという建築なのだ。それはここで展開されているデザインと全く同じだ。
階段室の萌えデコ。立ち上がる雲をモチーフとしているのだろう。なにか地元の神話のいわれがあるのかも知れない。これなどまったくの和風モチーフの解体再構成だ。左右の大判タイルが九谷焼の布目タイルで窯変のようすなどすばらしい。してやったりという陶工の自慢顔が目に浮かぶ。
正面最上階の貴賓室。照明器具は復元に見えるが、おそらく忠実な再現なのだろう。器具の吊元の左官模様がやはり萌えデコになっている。おもしろ過ぎるじゃないか。
この部屋の廊下側の窓のステンドグラス、青を多用するというのはやはり九谷焼のイメージだろうか。青は青竜の青、つまり春を言祝ぐ色だ。そこへ土気の黄色を注したのは風水を解したものが臨時議院建築局にいたということか? わたしは国会議事堂は風水にのっとっていると考えている。設計チームとは別にそうした判断をする部署があり、そことの交流を通して禁色などの知識を得たのだろうと思う。
20年前、雪のなか県庁に通ったころは分からなかったり気づかなかったことが随分あった。でも、この建築のおもしろさは当時十分感じ取っていたことも追体験できた。とんだセンチメンタルジャーニーである。また行きたい。
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武田五一の鳳凰閣を描いてみた。
まず作品集の写真を見ながら形をとる。寸法とか当たらずに感覚的に描いている。パースが狂っているときは裏側から透かしてみるとよく分かる。スケッチだとそんなこと気にしなくていいが、パースなので裏側から確認する。感覚的に描いているので厳密にはあちこち狂っているがそんなに気にしない。
わたしは色塗りは影から入れることが多い。影だけで完成させる画法をグリザイユとかいうそうだ。影のできる方向とか気にせず立体感がでればそれでよい。わたしは影にはインジコを使う。
次に窓を塗ることが多い。窓はカーテンがかかっていたり光っていたりしていろんな色になるが、私はニュートラルチントを使う。それはスケッチのときと同じだ。
ほかに多少の色をつけてできあがり。形を起こすのに1時間半、彩色に1時間半ほどかかった。水張りはしていない。
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壁面の陶板タイルは(2)で紹介したが、ほかにも見どころがたくさんあった。ひとつは床のタイルで、旧沢田医院と同じバリ土タイルだった。もともとこのタイルはちょっとくすんだ感じが特徴だが、100年近くたって古びた感じが加わってよい感じになっている。
門灯もふたつ残っていたが、よく似ているが少し違った。同じでいいようなところを、わざわざ買える芸の細かさがにくい。
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いくつかの建物がつながっているらしい。奥には木造2階建ての病棟も残っていた。こういう建物こそ学校のサテライト教室にすれば良いと思う。アトリエにしたりギャラリーにしたり、図書室やカフェなどさまざまな使い方ができると思う。賃料を積み立てれば修理もできるだろう。
玄関まわりのタイルが良かった。モザイクタイルが見事だった。バリ土タイル(参照)独特のくすんだ色がおもしろい。雪害を受ける地域なので、高温焼成のクリンカータイルの一種だろうと思う。
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大倉三郎の作品だ。スケッチをしようと回り込むと大きなバルコニーがあった。これは何だ? 南側をちゃんと見たことが無かったので今まで気づかなかったが、こちら側が建物の正面であることは明らかだ。今まで何を見ていたのか。
バルコニーは武田グループの共通言語なので、それが正面を飾ること自体は不思議ではない。しかし普通武田グループのバルコニーには屋根がない。建築教室しかり、旧毎日新聞京都支局しかり、京都市役所しかり。屋根のあるバルコニーは珍しいのだ。ではこれは何なのか。わたしはこれは演説台ではないかと思う。
演説台だから屋根が必要なわけではない。そうではなくて、このバルコニーの上下左右が囲まれることで、これが舞台のプロセミアムアーチのように見えるのだ。演壇としてふさわしいデザインと言える。ひょっとして大倉は他でも同じことをやっているのだろうか。今度同志社で調べてみよう。
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東町を歩いていて雨戸の戸袋が無いことに気づいた。雨戸を常に収納するための戸袋が無く、仮置き場のような雨戸受けが上下に付いている。東町茶街はだいたいこうなっていた。こういう形は関西では珍しい。なぜこうなっているのか。
考えられる理由は、光をできるだけ入れたいということではないか。雨戸にさえガラス窓がついているくらいだ。雨戸は不要のときは室内に格納して、戸袋の分まで窓として光を入れたいのではないか。
分からないのは、室内に格納するときと雨戸受けを使うときと、どう違うのかということだ。雨戸とは夜間の雨避けだから、雨期にはすぐ使えるように雨戸受けを使うのだろう。もしくは冬季は防寒のために雨戸を夜ごと閉めるのだろうか。それとも雪深い冬季は昼間でも雨戸を閉めているのだろうか。
鉄製の枠だけで雨戸受けを作るやりかたは初めて知った。下は木製の雨戸受けで、これなら関西でも見ることができる。鉄製の雨戸受けはなかなかおもしおりので機会があればわたしもやってみたい。
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照明器具は復元の場合、なるほどと感心する場合とがっかりする場合とがある。遠目には分からなくても近寄ってがっかりすることが多い。たぶん素材と塗装が違うのだろう。照明器具の復元は難しいのだ。これは中央ホールの天井にあるシャンデリアだがオリジナルに見える。天井が高いのでよく分からないのだが、チェーンにからませたコードが布巻きだったので元のままかなと思った。ちょうちんを下げたような和風テイストのもので、なかなかおもしろい。
特注の照明器具は今でももちろん作ることができる。わたしも今修理している建物で特注照明の計画を進めている。お楽しみに。
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主計町と書いて「かずえまち」と読む。主計はもともとこの土地に屋敷を構えた藩士の名前だそうだ。保存修景で有名な東町の対岸にあり、ここもお茶屋や料亭の並ぶ花町である。ここは路地がすばらしくおもしろい。がけ下の立地なので、路地の先に石段が見えたりするのがとても良い。
金沢では東町を中心に花町の修景が進んでいるのを目の当たりにした。京都とは比べ物にならないような細やかなデザインコードがあるらしく、雨戸や格子がほぼ同じもので復元されていた。でも復元されたお茶屋建築の中身はプレカット木材を金物で押さえたものがほとんどでがっかりした。なぜ伝統木構造で復元しないのか。
もともとベネティアで行われているような保存修景は、ガラリ戸ひとつも伝統工法で再現することで後進の養成を行っている。それは建築が文化の重要な一部であり、それが失われるのは市民にとって大きな損失だという認識があるからだ。つまり保存しているのは見栄えの良い景色ではなく、それを作っている建築文化のほうなのだ。
こうした伝統木造建築の集積地は貴重な教材だ。ここに建築学校を作って、修復や復元は先輩職人衆の下で学生たちが手掛けるのが良いだろう。大工職だけではなく、左官、建具、鍛冶、表具、瓦などあらゆる建築職人の養成場所にすればよいとわたしは思う。
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休館してもう何年にもなるが、今も収蔵庫として使われているようだった。久しぶりに来たが、なかなか良い建築だと思う。屋根の多い城郭建築を鉄筋コンクリートで再現する場合、木造のような細かい部分が作れず大味になることが多いが、これはとてもすっきりと細やかに作り込まれている。屋根の反りも琵琶湖の水平線に添うように伸びやかで観ていて気持ちが良い。これに匹敵する鉄筋コンクリート城は池田谷久吉設計の岸和田城くらいだろう。
こうやって見ると彦根城によく似ている。たしか彦根城天守閣は大津城からの移築だったから参考にしたのおかも知れない。水上建築のためか、耐震補強に悩んでいるという話も聞いた。1961年竣工、吉田工業株式会社(吉田森雄)設計、錢高組施工(参照)。
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