2015年6月14日 (日)

法隆寺の謎を解く(2)

 建築学校の遠足で行った法隆寺が興味深かったので、もう一度行ってきた。法隆寺の後、中宮寺、法起寺、法輪寺と回った。どの寺も飛鳥時代の仏像が多く、この時代のものをこれだけまとめて見たのは初めてだった。斑鳩(いかるが)という場所が少し分かった気がする。気づいたことをメモしておきたい。

 法起寺の塔は法隆寺と同じ形式だったので驚いた。建立年代も近いようだ。法輪寺の塔は戦後落雷で焼けたのを西岡棟梁が復元している。これも法隆寺と同じだった。従って現在斑鳩の地には同じ形式の塔が3つある。もし中宮寺の塔が残っておれば、それも同じだったろう。

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法起寺の雲肘木、2015.06.13

 同じなのは「肘木(ひじき)の形」と「地垂木を見せる屋根の作り方」のふたつだ。肘木とは屋根を支える腕木のことで、写真の軒下に見える曲線で構成された4つの部材がそれだ。曲線が雲に見えるので雲肘木と呼ぶ。

 地垂木は屋根を支える傘の骨のような構造材で普通は見せない。地垂木の下にはいろいろな構造補助材がくっつくことが多いが、軒天井を作ってそれらを隠してしまう。その軒天井は垂木風に作るので、下から見れば地垂木が見えているように錯覚する。しかしそれは本物ではないのだ。ところが法隆寺では軒天井がなく、構造材の地垂木がそのまま見えている。構造補助材もなく、まったく見たままのシンプルな作りだ。その構法は法起寺、法輪寺とも同じだった。

 さて、雲肘木や地垂木を見せる構法も古いタイプの様式だとされる。それがなんらかの理由で斑鳩だけに伝えられたというのだ。法隆寺は古代から中世にかけて建築技術集団の一大根拠地のひとつだったから、そういうこともあるかも知れない。しかし、それならばなぜ斑鳩だけでこれをやったのかという説明がほしい。

 まず年代の確認をしておきたい。各寺の塔の建築年代は次のとおり。

法隆寺 明確な建築年代は不詳だが670年の火災後の再建であることは間違いない。塔内の塑像は711年制作。若草伽藍は607年開創。
法起寺 露盤に706年作製の銘あり
法輪寺 713年元明天皇勅願により行基が建立(1944年落雷焼失、1975年再建)
(中宮寺 聖徳太子の母・穴穂部間人(622年没)の発願により開創)

 もっとも古いのは法隆寺の前身である若草伽藍で、中宮寺がそれに次ぐ。若草伽藍は塔と金堂が一直線に並ぶ四天王寺式、中宮寺もそうだった。ならばこのふたつは様式的に見て同じタイプだったのかも知れない。問題なのは法隆寺が若草伽藍の様式を引き継いだかどうかだ。

 この件について考古学的な結論は出ていないが、わたしは引き継いだろうと思う。なぜなら、その後の長い歴史を見ても再建時に古い形式を復元することは常習化しているからだ。だから雲肘木も地垂木を見せる構法も定説とおり古いタイプの様式と見てよいだろう。

 では、なぜこれが斑鳩だけに固定され他では行われなくなったのか。これは聖徳太子専用のスタイルと見なされたからではないか。法起寺と法輪寺の塔があいついで建てられた時期は平城京の建設時期と重なっている。律令と仏法に基づいた国の新しいかたちを作ろうとしていた時代だ。

 このころ藤原不比等によって歴史書が編まれ、律法も仏法もこの国で最初に始めたのが聖徳太子とされた。太子の国家創業の志を継ぐならば、まず斑鳩の寺々を再興する必要があったろう。そのとき古いタイプの様式は聖徳太子の関連寺院しか使えなくなったのだろうと思う。

 平城京には新しい大寺院次々と移ってきた。大官大寺、薬師寺、元興寺そして興福寺だ。それぞれが元の様式を踏襲したかどうかは分かっていない。いずれも元の規模を上回っていたから、最新式の様式を採用した可能性は高い。とくに地垂木を見せる構法では大きな軒は作れないので、規模を大きくするなら古式では無理があったろう。だから平城京は新しい構法と様式の博覧会場のようになっていたと私は思う。薬師寺東塔(730年)のような他では見たこともないような様式は、いかにも平城京らしい。

 710年前後の斑鳩再建と平城京建設とは同時並行で行われていたわけだ。特別斑鳩の建築が古いわけでもないし、工事を担当する技術集団が別物だったわけでもない。ふたつのプロジェクトは国家鎮護という共通理念の下で国家事業として取り組まれたのだ。

 法隆寺の謎は以前解いた(法隆寺の謎を解く)。法隆寺が風神鎮めの装置であるという考えは今でも変わらない。この場合の風神とは京都祇園社の牛頭天皇のような疫神である。ただそれはあくまで聖徳太子のころの話だった。それでは平城京建設と法隆寺は関係が無いのかと言えばそうでもない。なかなか密接に関わっている。

 ひとつは法隆寺が都の南西に当たること。先天図によれば南西は巽(そん)に当たり風の領域となる。いかにも風神龍田神にふさわしい。平城京の設計者は法隆寺を都の風の守りとして位置づけたと考えてよい。

 もうひとつは法隆寺の様式の特徴のひとつである卍崩しの勾欄だ。これは雷文(らいもん)だと言われているが私もそう思う。これとセットになっているのが雲肘木だろう。ここは風神の領域だから、建物の軒下でゆらめく雲は風を示すのだろう。もしそうだとすれば、法隆寺には「風」と「雷」が揃う。上が「風」で下が「雷」だと「益」という易のかたちとなる。

 「益」は「大川をわたるに利あり」という国家事業を起こすのに縁起のよい易掛だ。しかも64種の易掛のなかでこれだけが「国を遷すに利あり」と遷都に言及する。まさに平城京建設にうってつけなのだ。だからこの勾欄は平城京建設が決まってから取り付けられたのだと私は思う。

Kouran
2015.05.10、奈良県法隆寺

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