2015年6月26日 (金)

法隆寺の謎を解く(3)

 先日法隆寺を訪れてから考えたことをメモしておく。ごく自然で順当な推理だと思うがいかがだろう。連載にするつもりは無かったが第3話となった。過去エントリーを下にリンクしておくので興味あるかたはどうぞ。

法隆寺の謎を解く(1)
法隆寺の謎を解く(2)


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 五重塔になぜ維摩居士がいるのか

 塔は釈迦の墓とされる。だから多くの場合、塔の中には釈迦の像を置く。塔が釈迦の墓だという意識は仏教渡来直後が強くて、それ以後薄れていくようだ。なぜなら渡来直後は塔を中心とした四天王寺式の伽藍配置が支配的なのに対し、奈良時代以降は金堂の左右に塔をはべらせる形式が主流となるからだ。ここ法隆寺は、渡来直後の塔中心の伽藍配置である。

 ところが塔の中には仏教に関する4つの場面を写した塑像群が置かれている。同様の塑像群をわたしは見たことがないし、それが塔の中であるということも異例だ。法隆寺最大の謎と言ってもよいだろう。しかし、なぜそうなっているのかは4つの場面が何なのかを見ればおぼろげながら見えてくる。

 それをメモしたのが上の図だ。東側は維摩居士と文殊菩薩との問答の場面だ。維摩居士は在家信者でありながら菩薩となった知恵者とされる。彼と問答できたのは文殊菩薩くらいしかいなかったらしい。この場面は聖徳太子の著書「三経義疏」から発想だとされている。三経義疏は3つの仏典の解説書だが、それは女性の解脱を説いた「勝鬘経」、在家でも解脱できるという「維摩経」、そして仏教の中心経典「法華経」を扱っている。塔のなかに維摩居士が出てくるのは、彼に在家の仏教者であった聖徳太子をなぞらえているからだというのが大方の見方で私もその通りだと思う。

 北側には釈迦の涅槃図、西側には釈迦の骨が分配された仏舎利がある。これについての通説は無いが、東側が聖徳太子をなぞらえたのなら、この2場面も聖徳太子がらみの場面であると考えるのが自然だろう。つまり聖徳太子は釈迦の生まれ変わりであって、その死と仏舎利(墓)は釈迦のそれとパラレルだというわけだ。

 南側には弥勒浄土が作られている。弥勒は遠い未来にやってくる救世主で、釈迦の生まれ変わりとされる。つまり聖徳太子はいずれは弥勒となって日本を幸福な世界へと導くだろうという予言だ。

 この塑像群は聖徳太子が釈迦であるということを主張する。つまり聖徳太子信仰の始まりを告げているわけだ。この塑像群の作られた711年ころには、そうした信仰があったということになる。または、こうした塑像を作ることで聖徳太子を神格化しようとする政治的な動きがあったということになる。わたしは遷都と歴史書の編纂によってこの国を安泰足らしめようとした藤原不比等による思想誘導の重要な部分に聖徳太子の神格化があったのではないかと思っている。

 おもしろいのは物語の進行が東>北>西>南となっており季節の運行と逆になっていることだ。これは涅槃と仏舎利という死にまつわる画面を陰気側に、問答と未来世界を陽気側に配置したからだろうと私は思う。さらにこれは参拝の順路をも示す。つまり門右側>金堂右側>金堂左側>塔東側>塔北・西・南>門左側という一筆書きだ。後世の付加だとされる裳階(もこし)はこの順路を前提として作られているように見える。江戸期と言われる裳階だが、実際はもっと古いのかも知れない。

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 金堂の仏像配置から読み解く太子信仰の歴史的推移

 上図は金堂内の仏像の配置図だ。それぞれの仏像の製作年代を見れば法隆寺が疫病封じの寺から太子信仰の寺へ遷り変っていったようすがよく分かる。

 中央の釈迦三尊は刻文から若草伽藍当時のものとされる。わたしにもこれは飛鳥時代のものに見える。若草伽藍が落雷で燃えたとき、ご本尊は火炎のなかから救いだされたのだろう。

 普通、釈迦三尊は釈迦・文殊・普賢の3つになるが、ここでは釈迦・薬上菩薩・薬上菩薩の3つとなっている。小さくて見えないが左右の菩薩は丸薬をつまんでいるそうだ。2菩薩はやはり在家信者で、薬を使って庶民を救済した。釈迦如来である風神龍田神を鎮めることで疫病から逃れられる秘薬を手に入れることができることを表しているのだろう。

 釈迦三尊の東には薬師如来、西には阿弥陀如来が鎮座する。薬師浄土は東方で阿弥陀浄土は西方だから、それに基づいた正しい配置だ。阿弥陀像は盗難により失われ、これは鎌倉時代の再築だそうだ。おそらく残った薬師如来をモデルに再築したのだろう。阿弥陀と薬師は東西世界を象徴し、陰陽を正しく配置することが役目だったのだろう。

 興味深いのは釈迦の刻文がこの仏像が太子の似姿であることを明記することだ。刻文は仏像が造られたときではなく、もっと後の時代に刻まれたとされる。わたしもそう思う。これが聖徳太子の造った仏像なら、そこに釈迦像が自分であるなどと刻むわけがない。この刻文は奈良時代直前の太子神格化のための追記だろう。

 刻文は薬師如来にもある。この仏像は太子の父・用明天皇の病気平癒を願って太子が造ったと書かれている。そのことから薬師は太子の父親、阿弥陀は太子の母親だとされてきた。おそらく失われた阿弥陀像にも同様の刻文があったのだろう。ただしその刻文は釈迦像のものとは違って文章も短く刻み方も簡単だ。わたしはこの刻文は平安時代のものだろうと思う。なぜなら、釈迦如来の左右に吉祥天と毘沙門天が添えられたのが1078年だとされるからだ。

 吉祥天は毘沙門天の妹とも妻ともされる。これは太子の父母である用明天皇と穴穂部間人皇女の関係をなぞっているのは明らかだ。ふたりは欽明天皇の異母兄妹であった。このふたつの像が添えられたのは薬師と阿弥陀が太子の父母であり、中央の釈迦が太子そのものであることを示したかったからだろう。太子信仰は平安時代の白川院政の始まるころに盛大になったのかも知れない。

 


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