関大
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先日法隆寺を訪れてから考えたことをメモしておく。ごく自然で順当な推理だと思うがいかがだろう。連載にするつもりは無かったが第3話となった。過去エントリーを下にリンクしておくので興味あるかたはどうぞ。
五重塔になぜ維摩居士がいるのか
塔は釈迦の墓とされる。だから多くの場合、塔の中には釈迦の像を置く。塔が釈迦の墓だという意識は仏教渡来直後が強くて、それ以後薄れていくようだ。なぜなら渡来直後は塔を中心とした四天王寺式の伽藍配置が支配的なのに対し、奈良時代以降は金堂の左右に塔をはべらせる形式が主流となるからだ。ここ法隆寺は、渡来直後の塔中心の伽藍配置である。
ところが塔の中には仏教に関する4つの場面を写した塑像群が置かれている。同様の塑像群をわたしは見たことがないし、それが塔の中であるということも異例だ。法隆寺最大の謎と言ってもよいだろう。しかし、なぜそうなっているのかは4つの場面が何なのかを見ればおぼろげながら見えてくる。
それをメモしたのが上の図だ。東側は維摩居士と文殊菩薩との問答の場面だ。維摩居士は在家信者でありながら菩薩となった知恵者とされる。彼と問答できたのは文殊菩薩くらいしかいなかったらしい。この場面は聖徳太子の著書「三経義疏」から発想だとされている。三経義疏は3つの仏典の解説書だが、それは女性の解脱を説いた「勝鬘経」、在家でも解脱できるという「維摩経」、そして仏教の中心経典「法華経」を扱っている。塔のなかに維摩居士が出てくるのは、彼に在家の仏教者であった聖徳太子をなぞらえているからだというのが大方の見方で私もその通りだと思う。
北側には釈迦の涅槃図、西側には釈迦の骨が分配された仏舎利がある。これについての通説は無いが、東側が聖徳太子をなぞらえたのなら、この2場面も聖徳太子がらみの場面であると考えるのが自然だろう。つまり聖徳太子は釈迦の生まれ変わりであって、その死と仏舎利(墓)は釈迦のそれとパラレルだというわけだ。
南側には弥勒浄土が作られている。弥勒は遠い未来にやってくる救世主で、釈迦の生まれ変わりとされる。つまり聖徳太子はいずれは弥勒となって日本を幸福な世界へと導くだろうという予言だ。
この塑像群は聖徳太子が釈迦であるということを主張する。つまり聖徳太子信仰の始まりを告げているわけだ。この塑像群の作られた711年ころには、そうした信仰があったということになる。または、こうした塑像を作ることで聖徳太子を神格化しようとする政治的な動きがあったということになる。わたしは遷都と歴史書の編纂によってこの国を安泰足らしめようとした藤原不比等による思想誘導の重要な部分に聖徳太子の神格化があったのではないかと思っている。
おもしろいのは物語の進行が東>北>西>南となっており季節の運行と逆になっていることだ。これは涅槃と仏舎利という死にまつわる画面を陰気側に、問答と未来世界を陽気側に配置したからだろうと私は思う。さらにこれは参拝の順路をも示す。つまり門右側>金堂右側>金堂左側>塔東側>塔北・西・南>門左側という一筆書きだ。後世の付加だとされる裳階(もこし)はこの順路を前提として作られているように見える。江戸期と言われる裳階だが、実際はもっと古いのかも知れない。
金堂の仏像配置から読み解く太子信仰の歴史的推移
上図は金堂内の仏像の配置図だ。それぞれの仏像の製作年代を見れば法隆寺が疫病封じの寺から太子信仰の寺へ遷り変っていったようすがよく分かる。
中央の釈迦三尊は刻文から若草伽藍当時のものとされる。わたしにもこれは飛鳥時代のものに見える。若草伽藍が落雷で燃えたとき、ご本尊は火炎のなかから救いだされたのだろう。
普通、釈迦三尊は釈迦・文殊・普賢の3つになるが、ここでは釈迦・薬上菩薩・薬上菩薩の3つとなっている。小さくて見えないが左右の菩薩は丸薬をつまんでいるそうだ。2菩薩はやはり在家信者で、薬を使って庶民を救済した。釈迦如来である風神龍田神を鎮めることで疫病から逃れられる秘薬を手に入れることができることを表しているのだろう。
釈迦三尊の東には薬師如来、西には阿弥陀如来が鎮座する。薬師浄土は東方で阿弥陀浄土は西方だから、それに基づいた正しい配置だ。阿弥陀像は盗難により失われ、これは鎌倉時代の再築だそうだ。おそらく残った薬師如来をモデルに再築したのだろう。阿弥陀と薬師は東西世界を象徴し、陰陽を正しく配置することが役目だったのだろう。
興味深いのは釈迦の刻文がこの仏像が太子の似姿であることを明記することだ。刻文は仏像が造られたときではなく、もっと後の時代に刻まれたとされる。わたしもそう思う。これが聖徳太子の造った仏像なら、そこに釈迦像が自分であるなどと刻むわけがない。この刻文は奈良時代直前の太子神格化のための追記だろう。
刻文は薬師如来にもある。この仏像は太子の父・用明天皇の病気平癒を願って太子が造ったと書かれている。そのことから薬師は太子の父親、阿弥陀は太子の母親だとされてきた。おそらく失われた阿弥陀像にも同様の刻文があったのだろう。ただしその刻文は釈迦像のものとは違って文章も短く刻み方も簡単だ。わたしはこの刻文は平安時代のものだろうと思う。なぜなら、釈迦如来の左右に吉祥天と毘沙門天が添えられたのが1078年だとされるからだ。
吉祥天は毘沙門天の妹とも妻ともされる。これは太子の父母である用明天皇と穴穂部間人皇女の関係をなぞっているのは明らかだ。ふたりは欽明天皇の異母兄妹であった。このふたつの像が添えられたのは薬師と阿弥陀が太子の父母であり、中央の釈迦が太子そのものであることを示したかったからだろう。太子信仰は平安時代の白川院政の始まるころに盛大になったのかも知れない。
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古いビルの再生事例として評判の良いココンカラスマだが、私は不満がふたつある。最初に断っておくがデザインは上手いと思っている。その手際のよさは同じ烏丸通の新風館と同レベルだ。ここで言う不満とはデザインの良し悪しとは関係がない。
ひとつは建物の見せ場を引き継がなかったことだ。この建物は黒御影石とステンレス製格子で飾られた玄関まわりに特徴があったた。上層部のそっけなさと玄関まわりの密度の高さとがうまく調和した建築だった。玄関ホールも古い部分がよく残っていたように思う。それを壊してしまったら建物の良さは台なしだろう。廊下のパーケットブロックやトイレのクリンカータイルをわざわざ残しているのもチグハグな感じがする。床材よりも正面玄関を残してほしかった。
この建物は進駐軍の本部が置かれたことでも知られている。たとえば当時の映画を作るとすれば、この建物はそのままロケに使えたわけだ。玄関まわりはその意味でも失いたくない風景だった。おこがましい言い方だが、この改造には建物の歴史に対する敬意が感じられない。
ふたつ目はこの改造が建物を痛めたのではないかということ。窓の大きさの違いから正面の柱間は3つになると考えられる。ならばこの建物は上図のような中央のコアと外周の壁のセットの構造なのだろう。そうであるなら正面1階の壁を取り払ったことで構造上のバランスがくずれているように見える。地震時には壁の無い正面側が左右にぶれる動きをするだろう。その点は補強すれば大丈夫なのだろうが、わたしは構造上重要なところは触らないほうが良いと思う。
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ワークワークファンタジア http://takeda51.cocolog-nifty.com/novel/
妄想歴史小説用の新しいブログを立てた。古墳時代を舞台とした冒険歴史ファンタジー。2011年8月からだらだら書いてきたが1から書きなおそうと思う。8月までには書き上げたいが無理かも知れない。ラノベやアニメやマンガなら読むのは楽なのに、自分で書くとなればこのうえも無くめんどくさくなるのはなぜか。しかも懸命に書いても、所詮これまで読んだものの劣化コピーにしか見えないのはなぜか。
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建築学校の遠足で行った法隆寺が興味深かったので、もう一度行ってきた。法隆寺の後、中宮寺、法起寺、法輪寺と回った。どの寺も飛鳥時代の仏像が多く、この時代のものをこれだけまとめて見たのは初めてだった。斑鳩(いかるが)という場所が少し分かった気がする。気づいたことをメモしておきたい。
法起寺の塔は法隆寺と同じ形式だったので驚いた。建立年代も近いようだ。法輪寺の塔は戦後落雷で焼けたのを西岡棟梁が復元している。これも法隆寺と同じだった。従って現在斑鳩の地には同じ形式の塔が3つある。もし中宮寺の塔が残っておれば、それも同じだったろう。
同じなのは「肘木(ひじき)の形」と「地垂木を見せる屋根の作り方」のふたつだ。肘木とは屋根を支える腕木のことで、写真の軒下に見える曲線で構成された4つの部材がそれだ。曲線が雲に見えるので雲肘木と呼ぶ。
地垂木は屋根を支える傘の骨のような構造材で普通は見せない。地垂木の下にはいろいろな構造補助材がくっつくことが多いが、軒天井を作ってそれらを隠してしまう。その軒天井は垂木風に作るので、下から見れば地垂木が見えているように錯覚する。しかしそれは本物ではないのだ。ところが法隆寺では軒天井がなく、構造材の地垂木がそのまま見えている。構造補助材もなく、まったく見たままのシンプルな作りだ。その構法は法起寺、法輪寺とも同じだった。
さて、雲肘木や地垂木を見せる構法も古いタイプの様式だとされる。それがなんらかの理由で斑鳩だけに伝えられたというのだ。法隆寺は古代から中世にかけて建築技術集団の一大根拠地のひとつだったから、そういうこともあるかも知れない。しかし、それならばなぜ斑鳩だけでこれをやったのかという説明がほしい。
まず年代の確認をしておきたい。各寺の塔の建築年代は次のとおり。
法隆寺 明確な建築年代は不詳だが670年の火災後の再建であることは間違いない。塔内の塑像は711年制作。若草伽藍は607年開創。
法起寺 露盤に706年作製の銘あり
法輪寺 713年元明天皇勅願により行基が建立(1944年落雷焼失、1975年再建)
(中宮寺 聖徳太子の母・穴穂部間人(622年没)の発願により開創)
もっとも古いのは法隆寺の前身である若草伽藍で、中宮寺がそれに次ぐ。若草伽藍は塔と金堂が一直線に並ぶ四天王寺式、中宮寺もそうだった。ならばこのふたつは様式的に見て同じタイプだったのかも知れない。問題なのは法隆寺が若草伽藍の様式を引き継いだかどうかだ。
この件について考古学的な結論は出ていないが、わたしは引き継いだろうと思う。なぜなら、その後の長い歴史を見ても再建時に古い形式を復元することは常習化しているからだ。だから雲肘木も地垂木を見せる構法も定説とおり古いタイプの様式と見てよいだろう。
では、なぜこれが斑鳩だけに固定され他では行われなくなったのか。これは聖徳太子専用のスタイルと見なされたからではないか。法起寺と法輪寺の塔があいついで建てられた時期は平城京の建設時期と重なっている。律令と仏法に基づいた国の新しいかたちを作ろうとしていた時代だ。
このころ藤原不比等によって歴史書が編まれ、律法も仏法もこの国で最初に始めたのが聖徳太子とされた。太子の国家創業の志を継ぐならば、まず斑鳩の寺々を再興する必要があったろう。そのとき古いタイプの様式は聖徳太子の関連寺院しか使えなくなったのだろうと思う。
平城京には新しい大寺院次々と移ってきた。大官大寺、薬師寺、元興寺そして興福寺だ。それぞれが元の様式を踏襲したかどうかは分かっていない。いずれも元の規模を上回っていたから、最新式の様式を採用した可能性は高い。とくに地垂木を見せる構法では大きな軒は作れないので、規模を大きくするなら古式では無理があったろう。だから平城京は新しい構法と様式の博覧会場のようになっていたと私は思う。薬師寺東塔(730年)のような他では見たこともないような様式は、いかにも平城京らしい。
710年前後の斑鳩再建と平城京建設とは同時並行で行われていたわけだ。特別斑鳩の建築が古いわけでもないし、工事を担当する技術集団が別物だったわけでもない。ふたつのプロジェクトは国家鎮護という共通理念の下で国家事業として取り組まれたのだ。
法隆寺の謎は以前解いた(法隆寺の謎を解く)。法隆寺が風神鎮めの装置であるという考えは今でも変わらない。この場合の風神とは京都祇園社の牛頭天皇のような疫神である。ただそれはあくまで聖徳太子のころの話だった。それでは平城京建設と法隆寺は関係が無いのかと言えばそうでもない。なかなか密接に関わっている。
ひとつは法隆寺が都の南西に当たること。先天図によれば南西は巽(そん)に当たり風の領域となる。いかにも風神龍田神にふさわしい。平城京の設計者は法隆寺を都の風の守りとして位置づけたと考えてよい。
もうひとつは法隆寺の様式の特徴のひとつである卍崩しの勾欄だ。これは雷文(らいもん)だと言われているが私もそう思う。これとセットになっているのが雲肘木だろう。ここは風神の領域だから、建物の軒下でゆらめく雲は風を示すのだろう。もしそうだとすれば、法隆寺には「風」と「雷」が揃う。上が「風」で下が「雷」だと「益」という易のかたちとなる。
「益」は「大川をわたるに利あり」という国家事業を起こすのに縁起のよい易掛だ。しかも64種の易掛のなかでこれだけが「国を遷すに利あり」と遷都に言及する。まさに平城京建設にうってつけなのだ。だからこの勾欄は平城京建設が決まってから取り付けられたのだと私は思う。
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ココログの仕様が変ってからツイッターとうまく連携できなくなった。ココログ投稿時に自動的にツイッターに通知が流れる設定にしているのだが、うまく流れるのは投稿の半分以下だ。FBへは100%で流れているので、そこからツイッターへ再通知するようにしたほうが良いかも知れない。まわりくどいこと極まりない。
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さわやかな酸味がある。優しくまろやかな甘味が奥行のある味わいを作っている。さっぱりとした飲みやすい酒だ。
北国街道木之本宿で開かれた古民家再生協会の会合でお土産にいただいた。良いものを頂戴した。酒名は木之本宿からほど近い古戦場・賤ヶ岳の戦いで名を上げた賤ヶ岳の七本槍にちなむ。
冨田酒造 http://www.7yari.co.jp/index2.html
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滋賀県長浜市にある北国街道木之本宿のハーブ酒。旅の疲れをいやす薬酒だ。甘くて少し苦味があってさわやかな味わい。桑の葉の香りがよろしい。原材料は餅米、米麹、桑葉。
桑酒 山路酒造 http://www.hokkokukaidou.com/
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ネットに書き続けている。ブログに移って4年、その前はホームページで8年。ずっと読んでくれているかみさんによれば、文章がうまくなったと言う。うまいかどうかは自分では分からないが書くスピードは確かに上がった。1986年に建築文化懸賞論文で佳作をいただいた小説「サーチライトタウンメモリーズ」は、原稿用紙たった30枚なのに書くのに4日もかかった。今は1日で20枚くらい書く。
おそらく速さが文体を整えるのだろう。それはスケッチと似ている。スケッチの場合は余分なものを描かなくなって速くなった。私は空を描かないし、窓もいくつか描いたら後は省略する。そうやって省略の多い今のスタイルができあがった。結果的に、線が少ない分だけ描くスピードが上がったわけである。同じことが文章にも言える気がする。自分にとっていらないものを削ることでスピードが上がり自分の文体ができあがるのだろう。そのためにはたくさん書くほうが良いし、忙しいときに時間を気にしながら書くブログは良い練習になるだろう。
「サーチライトタウンメモリーズ」を読ませろと先日後輩に言われた。ネット上には存在しないので書き起こすしかなかろう。スキャンの自動読み取りソフトでも探してみるか。
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朝一番の授業の後、講師控室で次回の予習をしながらレジュメを書く。授業はインテリアデザイン論でテキストは「宮脇檀の住宅デザインの教科書」だ。絵がいっぱいあるので見ていて楽しい。授業では本文はほとんど読まず、絵や図面をひたすら説明している。ほかに図面読みクイズもやっている。名作住宅の写真を見て、その写真が建物のどこに立ってどこを撮ったものなのか図面に記入してもらう。最初は難しいけど、だんだん分かるようになってくるようだ。レジュメはなかなか書きあがらないので、いつも早目のお昼にする。茹で玉子、野菜シチュー、ソーセージ、アスパラのベーコン巻、きんぴらごぼうと梅干。ごちそうさま。
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