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2015年3月

2015年3月31日 (火)

ワークワークファンタジア(63)

 大回廊は細長い白砂の中庭の前で終わった。左右に回廊が分かれ、左に主計寮、右は主税寮に繋がっていた。正面にはアーチ門があり、その中が民部卿の執務場所だった。

 オリは主計官の後について主計寮に入った。入る前から濃厚な墨の匂いが漂っていた。10段ほどの階段を上がると端が見えないほどの長堂に入った。そこで数百名の積算士が作業していた。10名ほどのグループごとに長机に座ってそろばんをはじいている。長机には丸い硯がいくつか置かれ、積算士たちはそろばんをはじきながら木簡の巻物を筆でチェックしている。

 そろばんの玉の音が高速ですれ合う音が五月雨のように長堂に響きわたっていた。オリはその異様なようすに足がすくんだ。帝国の心臓が今も息づいていることを強く感じた。主計官はせわしげに長机の間を通り抜けると中央の壇の上に座をしめた。オリもその横に控え、ザァーというそろばんの音の只中に身を置いた。

 遠くから正午の予鈴が聞こえた。同時に長堂のあちこちからリンという鈴の音が響いた。相変わらずものすごい勢いでそろばんがはじかれている。正午の第2予鈴が聞こえた。それに合わせるようにいくつもの鈴の音が鳴り渡った。鈴を鳴らした長机の積算士の主任はジャラジャラと木簡を巻いて、主計官の檀の前に届けた。見ている間に主計官の眼前に巻物は山積みになった。受け取る係官は計算の終わった地区名を大仰に述べ上げた。

 とうとう正午となった。遠い鼓楼から気の抜けたような太皷の音が響いてきた。それを聴くとほどなくそろばんの音は止んだ。係官の口上は続いていた。あれほど鳴り響いていたそろばんの音がほぼ止んだ。それでもまだパチパチと音のする地区がひとつあった。ワイ族の担当部署だった。ワイ族担当の作業が遅れるのはいつものことながら、居並ぶ積算士のあいだから舌打ちが聞こえる。すっきり終わってさっさと帰りたい気持ちにワイ族班がいつも水をさす。

「正午となりました。すべての計算が滞りなく終わりました。ご苦労さまでした」

 ワイ族班を無視して主計官が宣言した。ほっとした積算士たちが一斉に立ち上がって長堂を出ていった。ワイ族班だけは長机の前で硬直していた。正午までに計算が終わらないのは本来ならば重罪だった。しかしワイ国の多量の貢納品と消耗度の高さはみなが知っていたから、作業の遅延は黙認されていた。誰もいなくなった長堂で再びそろばんの音が響きはじめた。彼らはこれから数日にわたって計算を続けるのであった。

「赤い帯はワイ族の木簡だったのですね」
「赤帯は楽浪郡陥落後に加わった諸地域のものでワイ族固有ではありません。しかし亡くなった主計官がワイ族担当だったことは間違いありません」

 木簡はまとめられて主計寮の文書庫に運ばれていった。主計官はそれを見ながら思い出したようにオリに言った。

「そうそう、死んだ主計官の資料が残っていますから、あなたに渡しておきましょう」

 主計官はオリを伴って文書庫に入った。そこは細長い土蔵で中は3段に分かれ、各階に木簡類が充満していた。

「彼はなにか不正に気付いていたように思います。それが何か分かりませんが、実はワイ族班の主任が死ぬのは今回が初めてではありません。この10年のあいだに3名が亡くなっています。異例と言ってよいでしょう」

 主計官は3階まで上がると、その奥からひとつの袋を引き出した。中は積算中の木簡が詰まっている。

「あれが居なくなった後に残っていたものがこれです。なにを調べていたのか知りません。正直言って、わたしは怖くて中を見ておりません。オリ様の調べてらっしゃる事件と何か関係があるかも知れません。どうぞお持ちくださってお調べください」

 オリは差し出された袋を受け取った。主計官はほっとしたように微笑んだ。オリはまた面倒を押し付けられた気がして機嫌が悪くなった。

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ワークワークファンタジア(62)

 オリたちは中庭から民部省の中央を貫く回廊を進む。幅が15メートルほどある大回廊だ。天井からは吊り燭台が点々と下がっている。民部省は正午で閉庁となるが、実際には夜中まで仕事をしているのである。

 主計官とオリとすれ違うものはみな軽く会釈を交わすだけだ。本来ならば高級官僚であるオリや主計官の前ではひざまずいてあいさつせねばならないが、民部省内では儀礼を簡略化するのが通例となっていた。この大回廊を渡るものはみな一刻を争う政策上の重要案件をかかえたものたちばかりだからだ。

「オリさま。あのタエドン族の王子には悪いうわさが絶えませんぞ」

 主計官はオリを横眼で見ながら忠告した。

「さしでがましいようですが、もう主計寮では市場を相手にするものなどおりません。」
「そんなに評判が悪いのですか?」
「本当にご存じないのですか?」

 あきれたという風に主計官は立ち止まってオリを見た。オリはきょとんと主計官を見上げた。主計官はオリを回廊の隅にいざない声をひそめて告げた。

「謀反です」
「ムホン?」
「うわさです。本当かどうか分かりませんがね。ご承知にようにダエトン族は百済との辺境部諸族の有力豪族です。辺境部族たちは時宜を見極めて身を処する術にたけています。今はおとなしく高句麗の配下に納まっていますが、かつては百済軍の主力だったものたちです」
「まあ、それはそうですが」
「特にあの王子はよくありません。大蔵と結託して貢納品の横流しをしているともっぱらのうわさですよ」
「ええっ! 本当ですか」
「うわさです。ただ、今回うちの主計官が殺されたのもそのことと関わりがあると言うものもあります」
「・・・まさか」

 オリは呆然として中庭のほうを振り返った。もちろんもう東市司たちの姿は見えない。多くの官僚が行き交う大回廊は晋帝国当時のままだ。内乱の予兆などどこにも見当たらない。しかしここで公然のうわさになっているということは、民部省はすでに市場を見限ったということなのだろう。

 主計官はうろたえる若い陰陽師生を見下ろして鼻で笑った。彼は辺境諸族を日和見主義者と嘲笑ったが、実際日和見主義なのは彼ら帝国官僚のほうではなかったのか。帝国滅亡に殉じずこうして命脈を保っていること自体、日和見主義以外のなにものでもなかろう。しかし圧倒的な文明力の差は歴然としていたから、民部省が高句麗に寄生しているのではなく高句麗が民部省に寄生しているように誰の眼にも映っていたのである。

「分かりました。気を付けます。ご助言ありがとうございます」

 オリは主計官に頭を下げた。うまく恩を売ることができて主計官は満足げにほほえんだ。

「先を急ぎましょう。もうほどなく正午になります。わたしも配置につかねばなりません」

 大回廊は小走りのものたちであふれはじめた。それぞれ木簡の束を抱えている。帳や符が行き来する大回廊はまさに民部省の動脈であった。

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びわこ食堂「鶏やさい鍋」

 2年ぶりに琵琶湖の湖北にある「びわこ食堂」へ行った。この白菜の山が次第に下がってくる。ステンレス鍋には鶏肉と特製味噌が仕込んであり、白菜の水気で鍋ができあがる。ここは焼肉屋さんなので、味付けはニンニクとショウガとコショウだ。それが甘辛い合わせ味噌と鶏肉の旨みとよくなじんでうまい。これが二人前だが、他テーブルの4人前は鍋の直径がさらに大きく見事な白菜の山だった。この見た目のインパクトの強さも人気の一因なのだろう。

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2015.03.30、滋賀県長浜市高月町「びわこ食堂」

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これが朝露だ

 立っているだけで濡れそうな濃霧のなかでユキヤナギの葉が結露していた。ああこれが清少納言の言った朝露の美しさなのだと気付いた。少納言は続けてクモの巣にかかった朝露の美しさを言うから季節は秋なのだろう。今はクモの巣は無いのでユキヤナギでがまんするしかない。それでも見飽きぬ美しさだと思わないか。

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2015.03.30京都府向日市

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空の研究 150330

 きのうの朝、カーテンを開けると珍しく霧が出ていた。ワクワクしながら写真を撮りに外へ出た。地表を冷たく濃い水蒸気が流れていて肺がいっぺんに冷める。駅前の再開発ビルがうっすらと見えるから視界は1キロといったところか。この霧は日が高く昇っても消えず午後まで続いた。

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2015.03.30


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2015年3月30日 (月)

ワークワークファンタジア(61)

 オリたち一行は宮城の門前までやってきた。門の左側には軍司令部が廃墟となっていた。宮城と同様の見上げるばかりの城壁に囲まれ、メインストリートに面して3連アーチの門があった。城門は打ち砕かれ司令部内部は火災で燃えぬけていた。楽浪郡落城から数十年たった今でも誰も手をつけられず、落城その日のまま時間が止まったような廃墟となっている。民部省はその向かいに、まったく同じデザインで建っていた。こちらは往時のままだ。

 アーチ門の上は鼓楼となっており、2時間おきに太皷が鳴らされれる。律令制は1時間きざみで遂行されるのだ。かつては向かいの軍司令の門上に鐘があり、民部省の鼓と交互に1時間おきに時を告げていたのだった。

 オリたちは門衛に取次ぎを頼んだ。中庭に面した回廊に通されてそこで担当官の迎えを待つことになった。東市司は門を入ってからどこかオドオドしている。オリが尋ねた。

「どうしたんですか? 話しは通してあるのでしょう?」
「いやなに別に大したことではないんだが、俺はここへ来るとどうも落ち着かない。」
「・・・どうしてですか?」
「どうしてだろう? 自分でもよく分からないのだが、なんというか俺たちは市場育ちだろ。市場だったら何が起こっても何とかできる自信があるけど、ここは何が起こるか分からない不安というか居心地の悪さがあってな。まあ、別に何も起こるわけは無いんだけどな」
「・・・そんなものですかね」
「すまん! ここから先はお前に頼む! 連れてきておきながらこう言うのもなんだが、どうもここは性に合わない。頼む!」
「・・・別に構いませんけど、市場と民部省の関係ってそれほど悪いんですか」

 中庭には紅白のツバキの木があった。さきほど見た道観の梅の木と同じほど大きい。こちらは満開を過ぎそろそろ散り始めているところだった。それぞれの木の下に花びらがうずたかく降り積もっている。さきほどから巫女たちはその花びらの中で転げまわって遊んでいた。そのうち掻き集めた花びらを一斉に空高く放り投げて笑っていた。

 しばらくすると伴を連れた主計官がやってきた。小太りの中年男で衣冠は正しいが、とりあえずあわてて出てきたという風だった。

「おまたせしました。なにぶん正午前で取り込んでおりまして、さしてお相手もできないかと思いますがお許しください」

 主計官は最初から東市司を無視していた。東市司の代わりにオリが応えた。
 
「いえ、わたくしたちのほうが無理をお願いしております。城下で不審な事件が続いております。その正体を喫緊に調べる必要があることをご理解ください」
「いや存じております。陰陽寮が動くとなると相当のことでありましょう。民部卿からもオリ様をたすけるようにと言付かっております。なんなりとお尋ねください」

 主計官は東市司をうさん臭そうににらんでいた。民部省は晋朝由来の正統な役所だった。一方市場は晋朝に支配される側の辺境の民であった。市場は役職上は大蔵省の下部機関で、東市司はそれなりに身分もあったが、民部省役人から見れば下等な非文明人だったのだ。と、主計官は東市司の後ろに族長を認めて驚いた。

「これはポラン殿ではないですか。お久しぶりです」
「・・・ん、世話になる」
「いや、これは行き違いでした。民部卿はさきほど城外のワイ族宿舎へ向かわれたところです」
「・・・そうか。帳を出したいのだが」
「分かりました。担当を呼びますのでしばらくお待ちください」

 帳とは貢納品の目録である。主計官に指図されたとものものは回廊を走りさった。

「それじゃあ、まあ参りましょうか。お預かりしているものもあります」

 主計官はオリを伴って回廊を歩き出した。歩きながらオリが振り返ると東市司はほっとした表情で笑っていた。オリは面倒を押し付けられただけなのではないかと少し不機嫌になった。

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2015年3月28日 (土)

スケッチ教室で桜を描いた

 今回のスケッチ教室はみんなでオガミ神社境内の桜を描いた。うららかな日和で描いているうちに精神が弛緩して眠気がさしてきた。わたしの敬愛する建築家鈴木喜一は「スケッチは心を楽しませることが大事だ」と言ったが今日はまさしくそのとおりのスケッチ会ができた。わたしが鈴木の言葉を紹介したところ、そのとおりだと生徒さんたちも言ってくれた。年に一度しかない花見スケッチができてよかった。

 オガミ神社のかたが様子を見にきてくださったので、いろいろお話しをうかがうこともできた。桜はカワヅザクラが終わり、これからソメイヨシノが咲きさらに八重桜・山桜と続くそうだ。毎週スケッチに来てもよいわけだ。これまで街並みをテーマにしてきたが、これからは自然系を取り入れてもいいかも知れないと思った。

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2015.03.28、大阪府枚方市オガミ神社

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長岡京の白虎はこれだと思う

 この山の名前は地図に載っていない。わたしは勝手に虎伏山(とらふしやま)と呼んでいる。虎が伏せているような形に見えるからだ。実際ここに都があったときにはこの山が「白虎」に当たる。四神というのは概念的なものではなく見てすぐ分かることが肝心だったのではないかと私は思う。

 この山を白虎に見立てたのは長岡京より以前、ここに秦氏が拠点のひとつを築いたときだったろう。先に向日神社の謎を解いたが(参照)、このあたりは秦氏の拠点のひとつで「小畑」(おばた)と呼ばれていた。小畑は小秦だろう。一方、太秦はここから桂川をさかのぼった場所にある。太秦の「太」は「大」と同じでグレートという意味だろう。つまり桂川の上下で太秦(うずまさ)と小秦とが陰陽の対になっているのだ。

 ここからそう遠くない宇治川には木幡(こはた)という場所がある。禅宗の万福寺があるので有名なところだ。それもやはり小秦なのかも知れない。太秦はひとつだが小秦は複数あるというのはその後の都の複都制と似ている。陽気の都はひとつだが陰気の都は複数あってよかった。案外、都の原型は太秦や小畑や木幡のような秦氏の植民地制度にあるのかも知れない。

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2015.03.26、京都府長岡京市

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飛騨「DHA定食」

 二日続けての「飛騨」(参照)である。先日の宴会で2キロも太ったので、きょうは刺身定食だ。刺身定食は各種あるが、このDHA定食は3種が楽しめてお得感満載である。きょうはカンパチとハマチとブリだった(と思う)。新鮮なのでコリコリしていてうまかった。

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2015.03.28「飛騨」、大阪府枚方市駅前

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家ごはん オムレツのミートボール添え

 肉団子は小粒が良い。そのほうがソースとよくからむからだ。オムライスの中身のチキンライスはボールで混ぜているときは酸っぱい香りが充満するが食べるときはさほど酸味を感じない。かみさんによれば熱を加えると酸味が減るそうだ。フカフカの玉子とミートボールの肉汁の旨みがよくなじみ、そこへホワイトソースのシンプルな塩味が染み込んで滅法うまかった。

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2015.03.26

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家ごはん 再びスウェーデン式肉団子

 両親の家へ行くのでかみさんがスウェーデン式肉団子を作ってくれた。フィンランドでも同じものがあるようだ。ようするに寒いところで作る肉団子らしい。普通と違うところはミルクの代わりに生クリームを使うこと。ちょっとぜいたくだけど、そうすることでフカフカに仕上がる。そのおかげで暖かいスープをいっぱい吸い込んでホカホカになるわけだ。ミンチは普通の合挽きだけどちょっとぜいたくするだけで抜群にうまい。

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2015.03.25

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立ち呑み屋「にくまる」

 高槻駅前を探索していたところサントリーウイスキーを飲ませる立ち呑み屋「にくまる」(参照)を見つけたので入ってみた。まだ明るいのでお客が誰もおらず気兼ねなく飲めて良かった。あては塩ゆで落花生で、これもうまかった。水割りを頼んだら私には薄かったので次はロックで頼んだら量が少なかった。次は最初からダブルにしよう。

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2015.03.27、大阪府高槻市「にくまる」

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さくらさく

 各地から桜のたよりが聞こえてくる。きのうわたしも今年初めての桜を見ることができた。枚方駅前の府立団地の桜だ。薄い花びらに春の陽ざしを受けて半透明に輝いていた。ソメイヨシノは咲き始めの蒼白な感じがいい。

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2015.03.27、大阪府枚方市

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2015年3月27日 (金)

飛騨「かき土手鍋」

熱々の土鍋にプクプクのカキがいくつも入っていた。もうシーズンも明日も終わりだろうが、さわやかな苦みの中にカキ特有の甘みがあった。鍋全体にカキの旨みが染み渡っていてうまかった。

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2015.03.28

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明日のスケッチ教室のロケハンのため枚方の郊外を歩いていたが、どうも調子が出ないうえに自分がどこにいるのか分からなくなってきたので、途中であきらめて近くのバス停から戻ってきた。スケッチは現状を受け入れる勇気が必要だと思うが、放置された古民家やマンションが建った鎮守の森、拡幅工事中の計画道路や暗渠化された水路など見ていると、だんだん気分が沈んでしまった。明日はよく知っている枚方の宿場町でよく知っているものを描こう。
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2015年3月25日 (水)

ワークワークファンタジア(60)

 当時の役所は8省に分かれていた。それはあたかも軍隊のような構成で命令系統が明確にされていた。しかし、各省庁は執政官のいる宮城の外にまちまちに置かれていた。それは役務ごとに有力豪族が請け負っていたからだろう。当時の軍制が王の元に統一されていたわけではなく、豪族の連合軍のような形式をとっていたことと同じだ。もちろん王は軍隊や役所の司令部であるが、それは限定的な権力でしかなかったのだ。

 民部省は王険城の役所の心臓のような部署であった。元はここは中国本土から派遣された官僚が支配していた。民部省と楽浪郡の軍司令はこの都の根幹であり、宮城正門の左右に役所を構えていた。楽浪郡落城後は軍司令は無くなったが民部省は高句麗の豪族たちの共同管理となった。中国出身の律令官たちをまるごと温存させたのは民部卿と高句麗王だった。それ以来、民部卿は辺境出身の後ろ盾のない身でありながら高句麗の豪族たちと対等に渡り合ってきたのだ。

 オリたちは都の門から宮城めざして歩き始めた。柳が芽吹きはじめ春らしい日和だった。ここは都のメインストリートであるにもかかわらず閑散としている。この道は宮城で行き止まるので、ダエトン川で陸揚げされた大量の貢納品はサブのストリートを通って北側へ抜けていた。この道は主に軍隊パレードのためのものだったから、前線が膠着している今はほとんど出入りがなかった。柳並木の幅50メートルはある道路だったが、楽浪郡陥落後はほとんど整備もされず、排水不良により池のような水たまりがあちこちにできていた。さらに道路を不法占拠した建物や農地が広がりつつあった。民部卿ならこの状況を苦々しく感じたろうが、オリたちは街中の田園風景を楽しんでいた。

 前のほうを舞姫たちが楽しそうにあちこち走りながら行く。その後をオリと東市司が続き、最後を族長が歩いていた。族長は民部省に貢納品の手続きを教えてもらうと言い、舞姫たちはそれに便乗して役所を見るとついてきたのだ。

「なんでこの件はワイ族がらみなんだよ」

 東市司がぼやいた。本当にワイ族が苦手らしい。

「でもな、俺はワイの馬は好きだな。ああいう馬を乗りこなしたいと思うよ」
「ワイは馬の産地なんですか」
「なんだ知らないのかよ。ワイの馬は晋を滅ぼした騎馬の主力だぜ。まあ、あんな馬を自由にあやつれるのはワイ族くらいなもんだ。今は東晋の連中がみんな持っていってしまうがな。東晋であれを使える武将が本当にいるのかね」

 半分ほど進んだところに大きな道観の廃墟があった。道観とは道教の寺院のことで、道教とは陰陽道や風水思想を背景とした宗教だ。その門前に紅白の巨大な梅の木があった。それが見事に花を咲かせており、舞子たちは呆然とそれを見上げていた。

「ここは方士の本拠地だったところだろ。おまえの本拠地みたいなところじゃないのか」
「わたしは方士ではありません。陰陽師生です。でも確かに道観が今も続いておれば良かったとは思います。陰陽寮にはほとんど文献が残っておりませんでした。ここの書庫が健在であればどれほど世の中の役に立つことでしょう」
「・・・本がそんなに大切かねぇ」

 東市司も立ち止まって梅の木を見上げてそう言った。一陣の風が吹き紅白の花びらが青空に巻き上げられた。舞子たちはわぁーと言いながら空に両手を差し伸べた。東市司はのどかな春を満喫した。オリは散逸する文献を連想して感傷にふけった。族長はこれから起こる波乱を予感した。

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京都建築専門学校卒業設計展 感想メモ

 平成の京町家で京都建築専門学校の卒業設計展が開かれた。見せてもらってから半月たっているが来年のためにも感想をメモしておく。6日の午前中に3時間ほどかけて見せてもらった。午後の講評会でその場にいた方たちには感想を伝えた。円満字賞は講評会に参加してくれた方のなかから3つ出した。

 次々と作品が搬入されていたが、6日の午前中に無かった作品のコメントはないのであしからず。1年生の作品も混じっていたがそれもおもしろかったのでコメントに加えておいた(どれが1年生だったのか実はよく分かっていない)。

< 全体として >

 建築学校の卒業設計も様変わりしたと思う。昔なら認められなかったような建築論的作品が増えていてわたしは楽しかった。建築論的作品は完成が難しいので推奨はできないが、なにか今までとは違うものを創ってみたいと思う心情はよく分かる。最終的なプレゼンの方法をいかに早くつかむかが大事だろう。

 基本的な設計力が高いことにも驚いた。外観について全体イメージをもう少し明確にすればさらによくなったと思われる作品がいくつかあった全体イメージのつかみかたは人それぞれだが、わたしの場合は似た歴史的作品を参考にすることが多い。過去の作品をたくさん見ることが成長につながると思う。

 円形プランをわたしは推奨しない。行き詰まったときに円形プランが浮かび上がる心理的現象がある。出展された円形プランのすべてがそうだとは言わないが、円形にする必然性がない場合は自戒する必要があるだろう。

ちなみに過去の感想は次のとおり。
2013年度卒業設計展(参照
2009年度卒業設計展(参照

< 個別に >

「景色メインのリゾートホテル」
 琵琶湖を望む比良山頂に計画された小規模なホテルだ。赤い屋根が特徴的なヒュッテ(山小屋)と呼んだほうがよいだろう。琵琶湖に向かって弓なりに客室を並べたところや、レストラン用専用の入口を設けるなど工夫の跡が見られた。とくに敷地の段差を活かした設計には力がある。

「運動後の銭湯」
 大阪城近辺に計画されたスポール支援施設だ。タイトルにあるように風呂場やロッカー室、大阪城の見えるテラスとレストランがある。テラスからランニングコースやテニスコートへ下りる大階段があってデザインを特徴づけている。風呂場を2層吹き抜けの大浴場として建物のなかへ組み込んだあたりよくできていると思った。

「Play space」
 宝ヶ池のこども園に冒険のできる建物を計画した。プレイルームと図書館のふたつの円筒形の建物をホールでつなぎ、建物の周囲にはスロープ式の屋外通路がめぐらせていた。この作品は建築論的な試みだったとわたしは思う。こどもたちの秘密基地は日常風景をわくわくした魅力あるものに変えてくる。それは都市計画の原点でさえある。そんな不思議な魅力を再現しようとしたように見えた。

「一息プラネタリウム」
 これも建築論的な作品だと思った。四条通に面してドーム型のプラネタリウムカフェを設ける。ドームのまわりには杉が植えられていた。ルドゥの「ショーの製塩工場」を思わせる。ルドゥ建築の持つ独特の象徴性に通じるものが感じられて興味深かった。床をガラス張りにして完全球体のプラネタリウムにしても良かったなと思った。

「The accommodation of the rest」
 桂川河畔のバーベキュー広場と宿泊施設だ。馬蹄形の宿泊所プランはよくまとめられていた。おもしろかったのは、広場を囲んだ小さなロッジ群だ。わたしはこれはぜひ木造で作ってほしいと思った。円形古民家は四国のサトウキビの絞り小屋を見たが、とても魅力ある建物だった。小さな円形のものが円形に立ち並ぶ姿もおもしろい。サバンナの日干し煉瓦でできた集落にもこういうものがあるし、日本の竪穴式住居も円形に並んだ集落は多い。おそらく社会の形を建築化したときに円形集落になることが多いのだろう。そうしたことも考えさせてくれる楽しい設計だった。

「0-Dina cafe」
 賀茂大橋西詰に計画された犬カフェだ。パースが上手だと思った。テラスからは鴨川越しに大文字山が見える絶好のロケーションだ。卒業設計は敷地選びに成功すれば作品の半分はできていると思う。鴨川には犬を散歩させる人たちのゆるいコミュニティが存在する。犬は猫と違って人間の社会性と深く関わっているのだろう。そんなことも考えさせてくれる楽しい作品だった。

「和菓子屋カフェ輪菓子」
 宇治に建つカフェの計画だ。2階客席へあがる階段が露地風な造りになっていておもしろかった。木造であることも良かった。各室の展開図まで揃っていて驚いた。これだけ図面を描くのは大変だったろう。スケッチに独特の雰囲気があってとてもいいと思った。

「自分スタイルを見つけるカフェ」
 このひとも絵がうまい。ペンと水彩だろうか。いくつかの性格の違うコーナーがつながっていくプランだが、それをスケッチでよく描き分けていた。

「学習図書館」
 ハリストス正教会が中庭から見えるところがすばらしい。中2階にエントランスホールがあり広い階段をあがっていくのがおもしろい。円形の閲覧室があってアスプルンドのストックホルムの図書館を思わせる。円形プランはけっこう難しいのだが、うまく捌いて上質な設計となっていた。

「石炭記念館建て替え」
 宇部炭田のたて坑のシャフト塔が保存されて展望台になっているそうだ。それを再度リニューアルするという計画だ。歴史的建築物の保存に関わる作品は今回はこれだけだったが、なかなかよくできていた。タワーの形がおもしろいので資料館は別棟で建てる考えもあったかと思ったが、設計そのものはよくまとまっていたので良かった。古いものを再生するという精神がよい。

「子育ての学校」
 認定こども園の計画だ。木造でも良かったかと思ったがどうだろう。斜面に建てられており、段差の解消がたくみでなにげに設計がうまい人だと思った。設計をまとめるに当たって全体像を空想する力が加われば伸びる人だろう。

「○から△から□」
 今回見たなかでは一番おもしろかった。金沢の21世紀美術館が丸いので三角と四角の施設を続けて並べている。この作品のおもしろいところは、既存の美術館や博物館などの展示施設を回遊するコースを設定し、その中間に三角や四角平面の休憩所を設計したこと。建物自体を設計したというよりは、既存建物の「間」を設計したわけだ。これは建築にとってとても大事なことだが忘れられていることが多い。そこへ着目したことをもっとも評価したい。デザインも水を使うなど工夫されていて見ていて楽しかった。ちなみに風水では○は世界の最初の混沌を、△は天地人の世界の誕生を、□は世界が十分開かれて4つの季節がめぐることを象徴している。

「都市に生きる火葬」
 この作品もおおしろかった。船岡山に火葬場を作る計画で、木造の長い大屋根の下に参道をつくりその両脇に施設を並べた。建築論的な作品だがそれを見事に建築化しており、今回もっとも設計力を感じた作品だった。災害時に屋根を解体して火葬を続けるというダイナミックなアイデアもおもしろかった。わたしは木造の和小屋がとてもきれいなのでいいなと思った。

「歩み続ける意思」
 これは完全に建築論的な作品で具体的な形の提示は無かった。成長を続けるストゥーパをイメージしたのだそうだ。わたしはサグラダファミリアやPL塔を連想した。ある種の宗教施設として考えれば、また違った展開があったかも知れない。

「京都科学博物館」
 京都水族館に隣接して展示施設を設けるもの。円形ホールから各室へアプローチする計画になっている。バックヤードからの動線も確保されており、設計としてのレベルは高い。ホールのまんなかに大きな地球儀が回転しているのもおもしろいと思う。外観のイメージをもう少し明確にすればさらによくなる作品だと思った。

「社会復帰施設+道の駅」
 大津プリンスホテルに隣接して、障害者の作業所を計画した。農園のある修道院のようなたたずまいでおもしろいと思った。シンメトリーに計画されておりルドゥの新古典主義を思わせる。わたしはロマネスク風に左右非対称の中庭プランとする方法もあったかと思った。やはり外観イメージを明確にすればさらによくなる作品だと思う。

「琵琶湖福祉施設」
 堅田の湖畔の老人福祉施設だ。ホールを中心にロの字型の廊下をめぐらせ回遊型に居室を並べた。回遊型プランは痴呆症の徘徊にも対応し、また避難上も有効だ。なかなか難しいプランだがよくまとまっていたと思う。中央吹き抜けの食堂は天井からの採光なのだろうか。それもいいと思うが、半分中庭にしてテラスを設てもよかったかと思った。

「悪場所」
 今はなき五条楽園の地下に悪場所を設ける建築論的作品だ。悪場所とは賭場や遊郭のようなところだ。巣穴のような不定形なアンダーグランドが広がっていて、その出入り口が地上のところどころに開いている。ほこらの陰であったり墓地の亀甲墓であったりと、綿密なロケハンに基づいて計画されていることが分かる。日常と隣合わせで非日常のアングラが広がっているという構想力がすごい。唐十郎の「犬狼都市」を思い出した。

「老人学校」
 西陣大宮通りに敷地がある。図面がすべて揃っておりよく描いている。中庭がもう少し広がってそこへ縦動線をおく手もあったかと思った。やはり全体イメージがもう少し明確になればさらによくなる作品だと思う。

「海の中へようこそ」
 水中公園の計画だ。海のなかへ降りていく通路が出色だ。とても不思議な感じがするだろう。海中施設の最下層に到達し、そこから海面まで登っていく計画もおもしろい。海上へ出て潮風にあたったときどんな気持ちがするだろう。帰りはそこから連絡ボートでもよいかも知れない。なかなか素敵な建築論的な作品だと思う。構造的な制約から離れて海中の城のようなものを自由に想像してもよいのではないかと思った。

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2015年3月22日 (日)

中ノ畑窯のさかずき

 駅前のフリマに寄ったところ良い感じの陶芸家さんが出展してらっしゃった。大阪府高槻市の山のなかに窯(かま)を構えてらっしゃるようだ。わたしは小さな盃〈さかずき)をふたついただいた。ひとつは青い釉薬がけのもので、どことなくベトナムあたりの陶芸を思わせる。形も古い盃を踏襲していてわたしの好みだ。さてこれで何を飲もうか。考えるだけでわくわくする。

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2015.03.21

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ワークワークファンタジア(59)

 屋敷から数名の巫女と方士がようすを確かめにやってきた。天鼓はもう聞こえず幻影も去っていた。風はやみ微動だにしない松のシルエットの先にまぶしいような銀河が見えた。庭にいたものたちはまちまちな方向に倒れていた。方士たちはそれに見向きもせずまっすぐ産屋へ向かった。湯が沸いており巫女たちはそれを柄杓で水甕へ移した。

 産屋のなかも外と同じような状況だった。数名の巫女がヨリ姫の小さな身体にしがみついて気を失っていた。ヨリ姫はうなりながら首を振っているがまだ夢のなかだった。それを確かめると方士たちは産屋の内外に分かれて警護した。巫女たちは湯で姫の身体をぬぐい新しい産着に着替えさせた。そして姫の産み落とした小さな卵を拾い上げ絹の敷かれたカゴのなかへそっと移した。

 大巫が神を産を生むことは太古の東洋世界では広く信じられていたようだ。ヘビは人間の祖先であることは中国神話のアダムとイブである伏義(ふっき)と女媧(じょか)の下半身がヘビとして描かれることが多いことにも表れている。

 民俗学者の吉野裕子はヘビが神格化されたのは脱皮による再生のイメージが不老不死を連想させるからだと指摘した。それは単にひとりの人間の不老不死にとどまらず、毎年穀物を実らせる季節のめぐりが永遠に再生されるという信仰につながるとした。つまり冬至に死んだ太陽が春に生まれ変わることをヘビの脱皮は象徴したわけだ。ヘビに対する信仰は世界的に存在し、かのダニエル書補遺にも龍蛇神が登場する。有名なエデンの園のヘビや出エジプト記のモーセがブロンズ製のヘビを竿の先にさらした逸話なども、当時広くヘビが何らかの神格を得ていたことの証だろう。

 方士たちに守られて卵は屋敷の民部卿のもとへ運ばれた。屋敷は役所と同じような掘っ立て柱に板葺のもので、それが幾棟も建ち並び回廊で結ばれていた。平安時代の寝殿造りの原型である。建物は必ず庭とセットになっており回廊つづきの縁側に方士や巫女たちは控えていた。建物のなかには大掛かりな祭壇が設けられその前に大きな水盤があり湯が入れられていた。卵の入ったカゴは湯気のたつ水盤の上に祀られた。

 民部卿がジャラジャラと木簡を広げ低い声で歌うように神迎えの口上(こうじょう)を述べはじめた。ちょうど仏教の読経のような独特のリズムがあった。中国語だったのでその場にいたものには理解できなかったが、そのリズムがさきほどの幻影を律していた天鼓を再現しようとしていることは誰もが分かった。巫女や方士たちは身を低くして、できればあの幻影が再現されないことを願った。

 巫女たちは卵が冷めないように定期的に湯を入れ替えた。静寂のなかに民部卿の声が響いた。あの繊細な男のものとは思えない力強く野太い声だった。その声に同期するように再び天鼓が聞こえ始めた。そしてまぶしいような銀河が地表近くまで降りて屋敷を押しつぶしそうになった。

 パシッという梁にひびが入る音があちこちで鳴り始め方士や巫女たちは身をすくめた。民部卿だけはまったく動じず同じテンポで口上を続ける。読み終わった木簡を置く音と次の木簡を開く音が、最初とまったく同じ間隔で続いた。それに湯をそそぐ音が加わって何らかの音楽を奏しているようにも聞こえる。

 ゆっくりとした天鼓の響きに呼応して卵の表面にひびが入った。中の龍が外に出ようとしているのだ。単調ではあるが力強い口上に次第に熱がこもる。銀河はますます地表に下り屋敷の梁が割れる音が騒がしくなる。それに応じて卵のひびは増えとうとう龍のこどもが殻を破って外へ出た。

 民部卿は目を見開いて龍のこどもをつまみ出し床の上へ押さえつけた。そして口上をやめず傍らの銀の長い針をとって龍の左目を刺した。生まれたばかりの龍の子は悲鳴をあげたが、かまわず民部卿は針をつらぬき通した。民部卿はビクビクと跳ねる龍が逃げないよう手に力を込めた。龍の子の逃げようとする力は強く、前回はここで失敗してふたりが死んだのだ。民部卿は押し込んだ銀の針を一気に抜き取ると龍の子を青銅製の細首の壺へ押し込めてふたをした。

 口上は止まり民部卿の荒い息遣いだけが聞こえた。いつしか銀河は遠ざかっており梁の裂ける音もやんでいた。方士や巫女たちは死の恐怖からいまだ解放されず身動きできなかった。祭壇の前には龍の子をとじこめた壺がかすかに震えながらあかがね色に光っていた。

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2015年3月21日 (土)

建築探偵の写真帳 出町柳駅

 叡山電鉄は古い駅が多くて楽しい。とくに終着駅となる出町柳、八瀬、鞍馬の3駅は力が入っている。出町柳駅は鉄骨で和風の大屋根をかけている。以前は外からもこの大屋根が見えたが、今は心無い増築で隠されてしまった。元へ戻せばよいと思う。

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 内部の軽やかな鉄骨が美しい。L型の鉄材を4本を組み合わせた柱や柱上部のアーチ補強など見ごたえがある。

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 屋根は鉄板葺きだが鬼瓦が洋風のアーカンサスの葉に似ていてわたしのお気に入りだ。

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2015.03.20、京都市

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建築探偵の写真帳 戦後ビル編 出雲屋ビル

 よく知られたビルなのでどこかにデータがあるかも知れないが調べていない。鴨川に面して大きな窓を開け、夕方には赤い電球色の照明がともる。それが川面を照らしてとてもきれいだ。この風景そのものが設計者の意図なのだろう。

 

 夏になれば出雲屋ビルにも納涼床が出るが、ビル全体がすでに立体的な納涼床であるようにも見える。床のおもしろさは視線が交差することにある。たとえば芸妓さんが床へ出るとそこだけがパッと花やいでまわりの視線を集める。そうしたことが床では再々起こる。観るものと観られるものとが刻々と入れ替わるわけだ。そんな床のおもしろさをこのビルは受け継いでいる。

 

Img_3927 2015.03.20、京都市四条大橋西詰

 

 

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再生町家の事例

 どなたの作品なのか存じ上げないがよくできた修理だと思う。正面の赤壁がとてもきれいだ。こういう赤壁古民家は京都府北部で見かけることがある。わたしは赤壁が大好きだ。側面の焼杉や新潮した銅製トユもきれいだし、玄関格子戸を取り換えずに使った判断もいい。さりげなく玄関脇に吊られた祇園祭のチマキが町家にとてもよく似合っていて住みてのセンスの良さがうかがえた。わたしもこういう修理をしたいと思う。

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2015.03.19

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空の研究 150319

 朝から雨が降っていた。暖かいが湿気の多い一日だった。夕方には雨があがって風が吹いた。雲は3層に分かれていて、ごく低層を雨雲の切れ端が飛ぶように流れていく。中層は層積雲が筋状に伸びている。わたしはこれは空中の波なのだと思っている。上下で気温の違う2層に分かれていて、その境界面上に波がたっているのだ。その隙間から上空の青空と筋雲が見える。上空は乾燥しているのだろう。青味が濃くて美しい。

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2015.03.19、京都市四条大宮

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きょうも実測中

 次の修理の準備のために実測してきた。この現場は修理を始めてもう6年になる。建物のことはほぼ分かったと思っていたが、ほんの数時間ほど実測するだけでいろいろ発見があった。だから修理はおもしろい。

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2015.03.20

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家ごはん 玉ねぎスープ

 小さな玉ねぎをたくさん買ったので、かみさんがスープを作ってくれた。お椀のなかに玉ねぎがコロッと入っている見た目がおもしろい。玉ねぎの旨みが染み出して甘いスープに仕上がっている。玉ねぎは芯までトロトロに煮込まれていて箸で簡単に裂ける。半透明の玉ねぎの皮にスープのコクが溶け込んでうまい。

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2015.03.20

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2015年3月18日 (水)

ワークワークファンタジア(58)

「姫さまがまた孕まれたそうだ」

 民部卿の屋敷の奥に白砂が敷かれた庭があった。まわりを松林が取り囲んでいる。ワイ族は出産のとき砂浜に産屋(うぶや)と呼ばれる小屋をかける。産屋の砂には生まれたこどもを守護する特別な力があると信じられていた。それが産土神(うぶすながみ)だ。今、屋敷の奥の庭にはコモがけ(コモとはむしろのこと)の三角屋根の産屋が置かれ民部卿の末娘ヨリ姫がこもっていた。

「龍を生むなんてうわさはほんとかね」
「まさか大巫の時代でもなし、いまごろそんなことがあるわけないじゃないか」

 屋敷のものたちは小声でうわさした。ヨリ姫はまだ数えで6才ほどだが、数年前から本国の巫女たちに教育されていた。神降ろしの才があると言われていたが、実際にそれを見たものは限られていた。最近になって奥の庭に産屋が設けられ、定期的にこもるようになっていた。

 月の無い夜だった。産屋にはヨリ姫のほかに産婆役の黒衣の巫女が数人あった。むしろを垂らしただけの出入り口の外には祭壇がしつらえられ、その前にはさらに多くの巫女たちがひかえていた。火が焚かれ湯が沸かされている。幻覚作用のある薬草が火にくべられていた。夜半に風が出て松の枝があおられて大きな音をたてていた。出産の夜には必ず松が騒ぐ。居並ぶものたちは薬草のせいか、少し夢心地でそれを聞いていた。いずれ天の鼓動のようなリズムが聞こえてくるだろう。

 姫はさきほどから苦しんでいた。本当に妊娠しているわけではなかった。砂の上に敷かれた白い産着の上に巫女の衣装をまとって寝かされている。薬草を数日吸い続けるとこの疑似妊娠の現象が現れることは民部卿が古書を探って見つけ出したらしい。本来、大巫は薬など使わなくとも神の子を生むことができた。大巫の絶えた今は、こうやって人工的に大巫を仕立て上げるしか方法が無いのだという。

「ううぅ・・・」

 姫のうめき声が産屋に響く。それにつれて松のざわめきが大きくなった。

「あはははは!」

 苦しんでいながらときどき姫はけたたましく笑う。とても子供の声には聞こえない。この小さな身体のなかに別の何かが憑りついているふうにしか見えなかった。巫女たちはこの技が邪悪なものだということに気づいていたが誰ひとりとしてそのことに触れなかった。先日はこの儀式に失敗してふたりが死んだ。薬のせいか、誰もそのときのことをよく思い出せなかった。

「あはは!・・はぅ! はぅ!」

 姫の声が次第に獣じみてきた。松のざわめきの向こうから波の音の幻聴が聞こえ始めた。大風のときのように波は繰り返しととどろいた。それがゆっくりとした太鼓の音に変化しはじめる。姫は苦しみにのどをかきむしりながらのたうち回った。巫女たちがあわててそれを押さえ付けた。自由を奪われた姫は白目をむいて犬のように吠えた。ガクガクと首を大きく振るごとに長い黒髪がまるでヘビのようにズルズルと引きずり回された。巫女たちは目をつぶり泣きながら姫を押さえる手に力をこめた。もう少しだ、もう少しの辛抱だ。

 太鼓のリズムが次第に早く強くなっていく。本来であればここにいる巫女たちは天の鼓動を聴けばひとりでに楽しくなって自然と舞始めるものだが、この儀式では身体を固くしてやり過ごすのにせいいっぱいだった。人工的に作り出された天の鼓動とはこれほど暴力的なのか。

「・・・がっ!がっ!」

 姫は数度断末魔のごとき声をたてて気を失った。姫の身体からは力が抜け産着の上に死体のように転がっていた。巫女たちはもう手を放してもよいのだが誰も動けなかった。天の鼓動はさらに激しくとどろいた。巫女たちは恐怖に震え、姫を押さえているというよりも姫にしがみついているようなものだった。幻影が始まっていた。

 姫のまわりには裸の死体がいくつも湧き上がっていた。ときどき痙攣しながら死体は姫のまわりでズルズルとうごめいた。半分溶けた手足はちぎれ透明な泡のようなものに包まれながら死体と死体とがつながり始める。
第に死体の痙攣が天の鼓動に同期し始めた。その中心に姫の身体があった。

 幻影は産屋の外にあふれ出した。産屋はズルズルと動くおぞましい死体の塊に変化していた。そしてつながりあった元人間だったものたちはいつしか大きな白いヘビの姿となった。巨大すぎて頭も尾もわからない。それでもズルズルととぐろを巻くのが分かった。ヘビに押しつぶされて湯釜がひっくりかえり焚火が消えた。

「キャッ、キャッ!」

突然訪れた暗闇のなかでヘビの一部となった姫は赤い目をぎらつかせながら幼女の声で笑った。恐ろしさに巫女たちは地面に這いつくばりながら幻影が一刻も早く過ぎることを一心に祈った。

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京都府庁

時間が空いたのでスケッチしている。雲っているので形がよく見えない。
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関大シンフォニーホール

 関大でスケッチ会を開くことになってので気になっていたシンフォニーホールを描いてやった。描いてみるとシンプルでありながら、どこかとぼけた表情がますます気にいった。いろいろ分かったこともあるのでメモしておく。

 たまたま開いていたので中も見せてもらったところ、想像を超えた平面だったので驚いた。玄関ホールの上が舞台で、玄関から階段を上がるとホワイエなしにいきなり客席に出る。まるで甲子園球場の内野席のようだ。ひょっとして斜面に建っているのかも知れない。今度は裏のほうも見せてもらおうと思う。

 構造も不思議で、どうも両サイドに2本ずつある袖壁を柱とする大架構形式らしい。前のほうに柱をつなぐ大梁が屋根の上に見えているが、そこから屋根を吊っているように見える。なんと大胆な構造だろう。

 スケッチでは分からないが壁の一部が大きくへこんでいる。客席から見てもへこんだ壁がそのまま見えるので音響効果のためにわざわざそうしているらしい。へこんだコンクリート壁は構造的にどうなっているのか不思議だ。壁も吊っているのだろうか。こんど構造の先生に聞いてみる。

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2015.03.17/ワトソン紙(ハガキ)、4Bホルダー、透明水彩/関西大学

 

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2015年3月17日 (火)

関大スケッチ大会 シンフォニーホール

学生さん3人と校内のシンフォニーホールを描いてみた。3人それぞれ持ち味が違っていておもしろかった。終わった後、楽しかったと言ってもらえて良かった。
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途中下車スケッチ 上新庄の蔵

しばらく描いていなかったので、描きかたを忘れているのではないかと怖れたが、そんなことはなかった。今日は暖かくて絵の具の乾きも早い。そういえば2月のあまりの寒さにスケッチから遠ざかっていたことを思い出した。良い季節になった。
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旧質美(しちみ)小学校

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 廃校の再生利用事例だ。パン屋さんのカフェや絵本やさんがあり、家族連れでにぎわっていた。パン屋さんの「パンドーゾ」は食パンの宅配を始めており、北海道おこっぺ町「ノースプレインファーム」の牛乳配達を思い出した。食文化は地域再生のための最重要テーマだと思う。

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 校庭は古い桜が取り囲んでいた。子供たちの成長を願って桜を植えたのだろう。桜が美しいのはその親心のせいだと思う。

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 校庭正面は2階建ての本館と体育館が建っている。本館のガラスブロックの玄関もおもしろいが、ここで注意したいのは、その後ろに建つ平屋建ての2棟だ。教室のトップライトや水色のパーゴラは戦後木造モダニズムの典型として評価できる。ほぼすべて引き戸になっているのは子供たちの安全のための配慮だが、そうした合理的な設計思想もおもしろい。無垢材の床や壁など木材産地として地域性も見逃せない。すぐにでも登録文化財にすればよいと思う。

 

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家ごはん グラタン

 カブラを入れたので水気が増えてスープのようになっていたが野菜の旨みが染みわたったまろやかな味わいでうまかった。こういう場合のチーズの塩味と酸味は捨てがたいな。

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2015.03.16

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パンドーゾ「マルガリータピザ」

 京丹波町の廃小学校で営業しているパン屋さんのカフェだ。混むということだったので、別の場所でお昼ごはんを済まして行ってみた。国道からそれて15分くらいの山中に廃校になった時のままの姿でそれはあった。校舎内にはカフェのほかに絵本屋さんなどがあり家族連れでにぎわっていた。カフェは一番奥の元化学実験室にあった。ピザは小さな窯で目の前で焼いてくれる。あまりにおいしそうだったので私たちも1枚頼んだ。

 さまざまな種類がある。チーズが苦手な人のためにチーズの代わりに餅を載せたピザもあった。白味噌を使った「シロミーソ」というおやじギャグ的ピザもあった。ああそうか「パンドーゾ」の店名もパンをどーぞ食べてくださいというおやじギャグなのだろう。目の前でピザ生地を伸ばしている少し太めのおやじが店主だ。

 ピザと言えば練棒で伸ばした後指先で回転させながら伸ばすのを見たことがあるが、おやじはそれができないらしく丸く太った短い指でフニュフニュと生地の端を両手で伸ばしていた。その真剣なまなざしが微笑ましい。窯には一度に1枚しか入らないらしくひとつづつ丁寧に作っていた。焼くのはとても早くて窯に入れて1分ほどでできあがっていた。

 マルガリータは19世紀イタリア王妃の名前に由来するというが、チーズを伸ばしたようすがキク科のマーガレットに似ている。マルガリータ=マーガレットというわけだろう。パン生地の小麦粉の甘さの上にトマトの酸味とチーズの塩気がよくなじんでうまかった。今度はパスタも食べてみたい。

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2015.03.15

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咲家つる丸食堂「サバ丼」

 京丹波町へ行ったので評判の食堂「咲家つる丸」へ寄ってみた。国道沿いの普通のおソバ屋さんなのだが、地元の食材にこだわったメニューが魅力だ。わたしはネットで見た「サバ丼」を食べた。丹波風の甘辛く煮こまれたサバが豪快に載っていてうれしい。フワフワのサバの食感と出汁のよく染みわたったデブ寄りのあじわいが絶妙で、言葉もなく一気に完食した。かみさんの頼んだマクロビオテック定食も味見させてもらったがうまかった。また来るよ。

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2015.03.15

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日常力

 きょう久しぶりに自転車で1時間ほど走った。光明寺という大本山があってお参りをしてきた。なにか行事があったのか地域のお年寄りが集まり始めていた。なごやかにあいさつを交わすようすを眺めながらうらやましく思った。わたしのような棲家を転々とした根なし草にはこんな風なあいさつを交わす相手は無い。年をとっても健康で、こうやって信仰のために集まって、なごやかにあいさつできるなんてとても良いと思う。それぞれの家庭は見た目では分からないような不幸があるかも知れないし、あいさつを受ける相手もそのことをよく知っているのかも知れないけれど、それでも「きょうは暖かいですね」という何の意味もない単なるあいさつを笑顔で交わせることで救われることがどれだけあるだろうか。まあそんな風なあいさつは今の自分にだってできるはずだし、同じような日常に生きていることに変わりはないのだが、そんな簡単なことができずうらやましいとしか思うことのできない自分をあさましいと思った。

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家ごはん パスタ化したシチュー

 余った豆シチューをパスタにしてくれた。豆料理ってのはなんでこんなにコクがあるのだろう。舌に残る豆の粒子のひとつひとつに旨みがある。彩りも美しい。ごちそうさま。

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2015.03.13

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空の研究 150314

 急冷された空では雲の輪郭がはっきりするらしい。丸みを帯びた巨大な雲の向こうに澄んだ青空が見える。春と言えばぼんやりとかすんだ空を思いがちだが、実際は陰気から陽気へ季節が大きく展開していることを示すようにダイナミックな空になるようだ。

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京富庵「親子丼」

 四条堀川の京富庵へ久しぶりに行った。ここは鳥料理屋さんなので親子丼がおすすめ。さっと振りかけられた山椒の香りと薄い塩味とコクのある出汁の味わい。トロッとした玉子に包まれた鶏肉の旨みを散らされた三つ葉が引き立てる。シンプルだけど途方もなくうまい。この日のランチにはキナコ味のシャーベットが付いた。なんんというぜいたく。

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2015.30.14

 

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2015年3月14日 (土)

ワークワークファンタジア(57)

 東市司が市場に着いた時、龍の舞いのパフォーマンスが終わった直後だった。がやがやと崩れる人垣の真ん中に族長とオリとが呆然と座り、そのまわりで巫女たちがキャッキャと飛び跳ねていた。

「・・・おまえら、何をしている?」

 東市司があきれて尋ねた。巫女たちがペタッと座り、にっこり笑って東市司を視た。オリと族長もうつろな目を東市司に向けた。

「まあいい。もうひとりの身元が割れたぞ」

 東市司が座りながら言った。さきほどまでの熱狂がうそのように市場に騒がしい日常が戻っていた。族長もオリも夢から覚めたようにため息をついて東市司の言葉を待った。

「オリの言うとおり民部省の役人だった。主計寮らしい。いま大蔵を通して話をつけてある。今から行ってもいいか」

 東市司はオリを見ながらそう言った。オリはまだうまく言葉が出ないので眉をひそめながら深くうなずいた。巫女たちはやはりニコニコしながら東市司を眺めている。

「だからお前たちは何なんだ?」

 巫女たちは言葉が分からないという風に笑顔をくずさないまま同時に首をかしげた。

「ああだからワイ族は苦手なんだよ!」

 東市司は嘆息しながら空を見上げた。市場の日常の上に春の青空が広がっていた。

 大蔵省は諸国の貢物を納める部署で王険城の北側の倉庫群を管理していた。納められた貢納品は市場に払い下げられ、その売上が国の予算をまかなっていた。大蔵と市場とは一体の関係にあったわけだ。

 本来市場は都の北側に設けられたので、大蔵も都の北側にあった。ただし王険城は古代より城の南側のテドン川に市場があったので、北側倉庫群とは離れてしまっていた。市司の倉庫群はその不便を補うために設けられていた。荷揚げされた貢献品は一旦ここへ納められた後で都北の大蔵へ送られるが、実際は伝票が行き来するだけでここから直に払い下げられるものが多かった。ワイ族の貢献品はダエトン族の問屋に運び込まれているが、伝票は大蔵へ回っている。つまり東市司の借り上げた臨時の民間倉庫という体裁だったわけだ。

 書類上はどうあれ、古代より貢納品は市場を通して分配されていたことに変わりはない。律令国家が神祀りを唯一の権威として成立しても、市場は神祀りとは独立した存在だったので、今でも市場と王険城とは上下関係があいまいなままだった。逆に言えば市場は国家に匹敵する実力を持っていた。

 

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2015年3月13日 (金)

釣りに行きたい

 もう半年ほど釣りに行っていない。それまで小魚目当てのさびき釣りが中心だったが、もっと大きな魚を釣ろうと欲を出し釣り具の改造などしてみたもののさっぱり釣れないので飽きてしまったのだ。でも最近ときどき釣り場を思い出す。行くなら須磨の海釣り公園が良いと思う。あの下が透けて見える桟橋にディレクターズチェアを置いて陽に焼かれながら缶ビールを飲みたい。展望塔の食堂で少し焦げて味気がなく脂っこいだけの天丼を食べたい。ああそうか、釣りに行きたいんじゃなくて釣り公園に行きたいんだ。

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2015年3月12日 (木)

家ごはん エスカルゴバター

 かみさんがエスカルゴバターを作った。さっそくジャガイモとシャケに塗って焼いてもらった。ニンニクの香りは思ったより少なく、バターの塩気とパセリの清涼感とがある。あっさりとした味わいで素材の味を引き立ててうまい。

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2015.03.10

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珉珉四条新館店「麻婆豆腐」

 ぐつぐつ煮えたぎって出てくる。ひとくち食べると香草とラー油の香りが口のなかに広がった。カタクリのとろみに溶け込んだミンチの旨みが豆腐によくからんでうまい。トウガラシを少し辛めに利かしているところが好みだ。

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2015.03.09

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2015年3月11日 (水)

「風水学入門」「建築パース入門」4月より開講

京都建築探偵塾 第2期開講のお知らせ

 今年も「風水学入門」と「建築パース入門」の2講座を開く。今年は月1回に減らして6か月連続講座とした。どちらも初心者向けの入門講座なので気軽に応募してほしい。昨年は1回ずつの受講を認めていたが今年は6回連続受講を原則とした。そのほうが話がよく分かると思ったからだ。

 受講料も値上げして3万240円(税込)とした。世間の相場よりちょっと安いくらいに設定している。学生は半額とする。初回は「お試し版」として無料で開放する。どんな講座が興味あるかたは申し込んでほしい。

詳細はこちら
京都建築探偵塾ホームページ(参照

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探偵塾のマスコットキャラの「きすけ」 これでも女の子である

 今回は最低開講人数を3名とした。その人数を割り込むと経費が出ないからだ。さて本当に開講できるだろうか。

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近代建築ツアーのご案内

 久しぶりに「まいまい京都」でツアーガイドをする。今回は岡崎公園を2時間ほど散策する予定だ。先月東京上野へ行っておもしろかったので、同じ博覧会場跡地ということで選んでみた。いつものように素材や建築工法の紹介に徹すると思うので、そういうものに興味にある方に楽しんでもらえるツアーにしたい。

4月19日(日)14:00~16:00
【岡崎】建築探偵とめぐる岡崎公園、モダン建築の見方・表情・愛し方
(参照

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京都市美術館のステンドグラス

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2015年3月 9日 (月)

家ごはん ちらし寿司

 義母のちらし寿司はとてもおいしい。作るのが大変なのでそうそういつもあるわけではない。先日かみさんが実家からいただいてきた。親戚が無事退院したのでそのお祝いなのだと思う。タケノコとレンコンのシャクシャクした食感が楽しい。甘いシイタケが味わい深い。そして極小のチリメンジャコの香りがピカピカの米粒のひとつひとつに染みわたっていてうまい。

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2015.03.08

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2015年3月 7日 (土)

東京散歩(9)国会議事堂見学(1)

 国会議事堂の見学がこんなに簡単だとは知らなかった。本会議が無いときは毎日1時間ごとに見学ツアーが出る(参照)。裏側にある通用口の受付で申し込むだけだ。衆院と参院と別々にツアーが出ている。左右対称だからどちらでも良いが参院本会議場は天皇陛下がお言葉を下さる玉座が正面にあるのでお勧めだ。もし、本会議中ならば見学ではなく傍聴ができるようなので、結局ほぼ毎日見学できるようだ。

 早めについたので参院会館ロビーで待つ。ガラスごしに新しい議員会館が見える。なんというかブラジリアもかくやというようなモダニズムで、東京はこんなのが流行っているのかと特に感慨もなく眺めていた。参院会館は60年代くらいの建物で、これも結構そっけない。最近60年代のそっけなさの面白さに気づいた私としては、最新流行の議員会館よりもこっちのほうが好きだ。

 参院衛士(えじ)が迎えにきて見学が始まる。入り口で金属探知機を通るが特に問題はない。今回はちゃんと背広を着ていたせいではないかと思う。やはり近代建築見学マナーとしてちゃんとした格好は欠かせない(後で法務省で職質に合うのだが)。

 いよいよ中へ入る。期待が高まってキョロキョロしてしまう。挙動不審に見られないよう気を引き締めるのが大変だった。

 見学者用の待機ホールが地下にあった。このあたり10-20年くらいに増築されたらしい。わたしに断りもなく勝手にいじってもらっては困ると思ったが、まあよくできた増築だったので良かった。ホールには100名ほどの小学生がすでに待機していた。

「一般申込みのかたはここへ2列にお並びください」

 小学生は全員黄色い帽子をかぶって床に座らされていた。もちろんクラスごとに並んでいる。2つの小学校が来ているらしく、われわれはその真ん中に並ばされた。驚いたことに左右の小学生たちはひとこともしゃべらない。これが関西だったらこうはいかない。さすが関東の小学生はよく訓練されていると感心した。

「それでは見学に当たっての注意事項を申し上げます」

 太った若い衛士が慣れた口調で説明を始める。この警官のような制服を来た人たちが国会の職員なのだろうか。国会は行政からは独立しているから、この人たちが警備も担当するのだろう。わたしらとは違って命がけのお仕事だなぁと眺めていた。

 注意事項は簡単で、列から離れない。しゃべらない。写真は撮らない。くらいだったと思う。写真がダメなのは残念だった。太った衛士は、報道機関も国会議長の許可を得て撮影していると説明していた。議長が友達だったらよかったのにと思った。

 

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中華美食店中光園「天津飯定食」

 平成の京町家の隣にあるので以前利用したことがあった。麻婆豆腐がうまかった記憶があるが今回はメニューの玉子色に惹かれて天津飯(てんしんはん)にした。玉子焼きの軽い反発を押し破り、トロリとした甘酢あんかけごとすくいとる。不思議なことに一瞬のうちにあんかけのうまみがごはんに染み通っている。とてもおいしかったので、あっという間に完食した。ごちそうさまでした。

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2015.03.07、京都市七条河原町西入北側

 

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2015年3月 6日 (金)

東京散歩(8)地下鉄と地名のイメージ

 根津から地下鉄に乗ると次の駅は湯島だった。ここで降りれば湯島聖堂からニコライ堂へ行けると思うとワクワクする(次の御茶ノ水のほうが近いと思うが)。ただし今回は国会議事堂見学に行くのがまんだ。

 上野から根津まで歩いてみて、武田五一ら若い建築家たちの青春の舞台がよく分かった。でも上野から根津までの地下鉄は無い。一方、根津は上野との関係が強いにも関わらず隣りの駅は湯島だ。それは上野かいわいとはまた違う世界だ。地下鉄路線は都電やバスの経路を踏襲していると思うのだが、歴史的な土地の関係を無視したところがあるように思う。そのことがかえって新鮮で、むしろ土地性といったものを強調しているように感じる。

 明治政府は江戸の土地イメージを破壊しようとしたが成功せず結局元の土地性が残ってしまった。明治の東京大改造は都電沿いに進んだ。有楽町や銀座の土地イメージは江戸時代のものではなく明治以降のものに入れ替わっている。イメージの中の東京は都電沿いに新しいものに変換されて網の目のように都市全体を覆ったわけだ。しかし電車道から一歩路地へ入ると江戸時代の土地性が色濃く残っている。戦前の東京はそんな町だったのだろう。

 戦後の高度成長期に都電網は解体され地下鉄がそれに変った。街並みや建築が戦前のような重みを失うのは当然だったろう。街並みや建築は都電から四六時中眺められる存在ではなくなったからだ。逆かも知れない。都市イメージが力を失ったので地下鉄が抵抗なく受け入れられたのかも知れない。どちらにせよ、電車道沿いに連続していた都市イメージは分断され、その結果「湯島」とか「銀座」といった土地それぞれのイメージが浮かび上がってきた。その多くが江戸時代の土地イメージであるのがおもしろい。明治政府が解体しようとした江戸の土地のイメージは結局多くが今も生きているわけである。

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青い川・小畑川

 古代の都・長岡京を中央を流れるのが小畑川(おばたがわ)だ。現在の流路は細川宝斎が変えたものなので、当時は宮城前から桂川方面へ流れていた。

 この川底には青い粘土層がある。火山灰ではないかと思うがよく知らない。小畑川は有名なあばれ川で、昨年も下流であふれた。最近河川工事をしていて河底を掘り返している。そのため河底の粘土が水に混じって川が青い。まるで青い龍のように美しい。

 小畑川は西山丘陵沿いに流れるが、その丘の最南端に向日神社(むこうじんじゃ)がある。これは都のできる前の時代、このあたりを秦氏が開発したころの神社だ。現在の主神は大歳神(おおとしがみ)の御子神(みこがみ)でこれは当時からそうだったとされている。大歳神は木星の化身で暦を司り豊作をもたらす木気の神だ。御子神も同じ性格の神様だっと考えて差し支えない。以前からわたしは、なぜここに木気の神が祀られたのか不思議だったが、これはこの青い川のせいではないか。青は木気の色だから小畑川は木気の川となる。

 昔、向日神社は上下2社あったという。下社は火の雷の神(ほのいかづちのかみ)を祀る火雷神社で、上社は大歳神の御子神である向神(むこうがみ)を祀る向神社だった。鎌倉時代には下社を上社に合祀(ごうし、統合すること)したようだ。そのとき社名は向神社から向日神社に変ったらしいが「向日」の「日」は火の雷の神の「火」のことなのだろう。

 下社がどこにあったのかは不明とされている。上社が小畑川と関係があるなら下社は川のほとりにあったと考えるのが自然だろう。今も向日神社から川へ下りる参道があり、参道口に井戸を祀った小さな祠がある。このあたりに下社はあったと私は思う。

 さて、小畑川が青い木気の川だとすれば下社の位置が分かるだけではなく、なぜ上下2社に分けられたのか、その理由も分かる。これは易を応用した祈りの形式化だと私は思う。易は8つのイメージから2度取るカード占いのようなものだ。上社が青(碧)の木気なら「雷(らい)」のイメージとなり、下社は「雷」か「火(か)」となる。

 雷雷(らいらい)のセットだと易の形は「震(しん)」となる。これは妊娠の娠(しん)と同じで身ごもるという意味だ。万物が萌え出る春を象徴するめでたい形だ。一方、上が雷で下が火だと「豊(ほう)」となる。これは文字通り豊作を約束する形である。つまりふたつ合わせると春の芽生えと秋の収穫が順調に運ぶことを祈る形式となる。大歳神は暦を司るのだから、順調な季節の循環を祈るのにふさわしい。

 秦氏は小畑川流域を開発するに当たって、このあたりに井堰(いせき、農業用の取水場)を作ったのだろう。それを守るために神社を置いた。小畑川は青い川だから当然神格は雷となる。それを利用して上社に木気の神を呼んで「震」と「豊」の祈りの形式を当てはめた。すべては小畑川が青いという観察結果から始まっているように私は思う。

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2015.03.04 青くにごる小畑川

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家ごはん スープカレーとスコーン

 かみさんが余ったトマトスープをベースにスープカレーを作ってくれた。しかもソーセージ入りである。ダイエットを始めてからカレーを禁止したので久しぶりだ。スコーンはかみさんの手焼きだ。ナンのようにカレーをすくって食べる。ぱさっとした食感のナンにカレーがよく染み通ってうまい。

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2015.03.05

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2015年3月 4日 (水)

家ごはん ウニごはん

 高級ウニのビン詰めが家にあって「これは特別な日に開ける」とかみさんが言うので、きょうはひな祭りだからと特別な日だと言い張ってビンを開けさせた。錦糸玉子と菜の花とカブラ漬けとでひな祭りカラーになって特別な感じがかもし出されている。ウニをぜいたくに使ったのでうまさも特別だった。

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2015.03.03

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家ごはん サンマの塩焼き

 サンマが安かったので焼いてもらった。五穀米に近所の農家で買った日野菜漬がついた。サンマは身がコロッととれて熱々でうまかった。サンマ大好き。

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2015.03.03

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空の研究 150304

 きょうも良い雲が出ていた。低層を分厚い積雲が行進し、そのはるか上空に筋雲が流れている。それが高さ1万メートルだとすれば、そこは対流圏の最上部ですぐに成層圏となる。宇宙はその10倍の高さから始まる。濃い青空の部分は宇宙なのだ。

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2015年3月 3日 (火)

空の研究 150228

 2月末ぐらいから空のようすが変ってきた。この日はみごとなウロコ雲が出ていた。巻積雲(けんせきうん)というそうだ。薄く広がった雲が夕日に照らされて輝いている。うっとりする眺めだった。これは雨の前兆だとか。その通り翌日は雨になった。春の雨も気持ちが良い。

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2015.02.28、京都府向日市

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家ごはん ミートボールパスタ

 ミンチと玉子と生クリームを使ったそうだ。普通牛乳で練るところを生クリームを使うのがスウェーデン式だという。ふんわり柔らかく仕上がってシンプルな塩コショウ味がよく引き立ってうまかった。

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2015.03.02

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家ごはん 鶏肉のソテー

 日本人はけっこう昔から鳥肉を食べてきた。仏教で肉食はタブーとなっていたにも関わらず、なぜか鳥だけは大目に見られていた。それほどよく食べていたということだろう。ソテーはフライパンで炒める料理だからこれが家庭に普及したのは戦後だと思う。表面に焦げ目をつけることで旨みが逃げにくくなるのかも知れない。コショウとニンニクで香りをつけ、あっさりとした塩味がうまい。

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2015.02.28

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2015年3月 2日 (月)

家ごはん ブロッコリーとホウレン草のオムレツ

 ブロッコリーの茎の部分が入っている。向いの農業倉庫だと茎付きなのでこうしておいしくいただく。トマトソースは炒めたタマネギが甘く、ブロッコリーの香りとよくなじんでうまい。

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2015.02.27

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東京散歩(7)上野から根津へ

 寛永寺を出ればすぐ谷中(やなか)だった。森まゆみさんの言う「谷根千(やねせん、谷中+根津+千駄木)」は上野のすぐ後ろ側だと初めて知った。フラッと入りたくなる路地がたくさんあった。上野の台地の北西斜面なので坂道も多そうだ。国会議事堂の見学が無ければ迷わず突入したろう。

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2015.02.20 不思議な信号

 根津へ下りていくバス通り沿いには戦前の木造戸建て借家が多い。おしゃれカフェになっているところもあって、森さんたちの活動を実を結び始めているのだと思った。わたしより年上の団塊の世代は、こういう建築を汚い暗い危ないと否定的に見る人が圧倒的に多いが、今の20代くらいだと普通におもしろいと思う人が増えている気がする。

 森さんらの活動は風景を守ろうとしたのではなく、風景の中の暮らしを守ろうとしたのだと思っている。わたしも暮らしを守るためには風景を守らねばならないと思っている。だから古い建物を自分流に楽しむ人が増えることはうれしい。

 下見板張りのこのタイプの借家は関西では見たことがなかった。明治時代のころにまでさかのぼる風景がここに残っている。わたしは建築家の武田五一が好きで本も書いているが(だから国会議事堂を見にいくのだ)、彼もこんな借家に住んでいたのだろう。

 坂を下りると地下鉄の根津駅だった。このあたりは空襲で焼けたようで、戦後復興期のものに見える軽量鉄骨建ての店舗付き住宅が残っていた。東大工学部の道案内が出ている。武田は本当にここにいたのかとようやく気付いた。

 武田は建築学科の助教授となり同時に美術学校の助教授にもなっている。1900年のことだった。工学部から芸大なら歩いて行ける範囲じゃないか。絵の道具を入れた風呂敷をかかえて上野の森へ向かう長身の武田の姿が見えた気がした。これが今回の旅の大きな収穫だった。


 ちなみに武田のことを書いた本はこちら。大龍堂書店さんが小冊子にしてくださった。今はデータで読める。

 「木の葉天狗の世紀末」参照

 

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2015年3月 1日 (日)

東京散歩(6)再び上野の森の聖域へ

 なぜ博物館の隣に美術学校(現東京芸大)があるのか。それは美術学校が博物館収蔵品を修復できる人材を育てることを目的のひとつとしていたからだ。

 上野の森に彰義隊が立てこもり寛永寺が焼けたのが1868年だった。 その9年後(1877年)に焼跡を整備して第1回内国勧業博覧会が開かれた。国内では最大規模の博覧会だった。それは4年に1度開かれることとなり1881年に第2回内国勧業博が開かれた。そのメイン会場として建てられた初代の博物館を設計したのがコンドル先生だった。

 コンドルは国立で最初の建築家養成学校・工学省工部寮(後の東大建築学科)の初代教授だ。彼は博物館をインド様式で設計したが、それはさぞ華麗な建築だったろうと思う。残念ながら関東大震災で被災し現在のものに建て替えられている。

 内国博の翌年1982年に博物館は正式に発足する。動物園の開園もこのときだ。動物園は博物館の一部とみなされていたのだ。上野の森は古代の聖域から博物学全般、つまり現代科学の総合見本市会場に変っていた。

 1886年に博物館は農商務省から宮内省へ担当が変わる。それは国宝指定を始めるに当たってまず皇室財産に手をつけるためだったろう。翌年、国宝指定のための法律・古社寺保存法が制定され、同時に東京美術学校が開かれた。それは博物館へ集まってくる文化財の修復ができる人材を養成するためであり、また修復を通して新時代の日本美術を模索するためでもあった。

 こうした一連の文化政策を考えたのは文部省の岡倉天心である。彼の構想によって上野の森は現代科学の見本市会場から文化芸術のための教育施設へと変貌したのだった。岡倉は日本のジョン・ラスキンだと思う。ラスキンは工業化された現代社会を批判して中世こそ理想の世界だとした。岡倉は盲目的な西洋化を批判し日本美術の再発見をとなえた。

 なぜ博物館の隣に芸大があり、その隣に動物園があるのか。それは岡倉の考えた一大文教都市の重要なパーツであったからだ。そこに帝国図書館が来ることも彼の構想の内にあったろう。

 岡倉が文部省を追い出されたのが1898年、真水が図書館調査のためにアメリカへ渡った年である。文部省は岡倉を追い出して日本美術の再興から西洋技術の学習へ文化政策の舵を切った。真水が岡倉に心酔していたのなら居心地は悪くなったろうと思う。文部省営繕は自由な気風を保ち西洋流の建築を行いながら江戸時代以来の建築文化を継承するという仕事をしてきた。それが破たんしたのはこのころだったろう。

 わたしは岡倉の言うことはもっともだと思う。しかし現代でも西洋の科学技術への信仰は色濃く残っている。美術というものが、芸術というものが、役に立たないと思われていても日本人の精神を心の奥底で支えていることは否定できないと私も思う。

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2015.02.20

 寛永寺の根本中堂は図書館の先に残っていた。それは川越大師喜多院の本地堂という建物を移築したものだそうだ。彰義隊の戦争で寛永寺が焼けてから11年後、第1回内国勧業博の2年後の1879年のことだった。お堂の前に見事なブロンズ製の灯籠があった。これも川越から移してきまものだろう。どことなく南蛮風でけっこう古いものに見える。とてもきれなのでうっとりと見惚れてしまった。

 川越大師は天海の元居た寺で創建伝説は奈良時代にまでさかのぼる。古代からの天台の聖地だったから根本中堂の再興にはふさわしいと思う。寛永寺のご本尊は平安時代の薬師如来だから、やはり川越に伝わっていたものを使ったのかも知れない。

 江戸城の鬼門に当たる上野の森に比叡山をまねた寛永寺を建てたわけだから、寛永寺もまた鬼門の守りと言われるのはその通りだと思う。東北は土気だから寛永寺は土気の寺となる。さらに将軍の墓所が6つもあるのだから最強の土気だ。墓は字のなかに土がある通り土気なのだ。そして東北は九星図のなかのイメージの「山」に当たる。ひょっとすると根本中堂の南にある不忍池を「沢」と見て、八卦の「沢山咸(たくさんかん)」の形にしたのかも知れない。咸は結婚を象徴するとてもめでたい形だ。それはこの地が子安の聖地であったことのもうひとつの証拠なのかも知れない。

 

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