4月開講「近代建築の見方」「動物彫刻の風水」
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4階は増築であることはすぐ分かるだろう。3階と4階のあいだに横線があるからだ。増築する場合、どうしても上下の境界線が出てしまうことが多い。で、増築されているということは新ビルではないということだ。ひょっとして古いのではないかと思って近づいてみると、やっぱり古かった。
基礎が石張りになっており、もうこれだけでグレートサバイバーであることが認定できる。しかも地下室のガラスブロックまである。まあ1950年代の建物だと思うが、ひょっとして戦前のものかも知れない。
もっと驚いたのは、その奥にさらに古い建物が残っていたことだ。
扉の感じから戦前のものであることは確かだろう。裏へまわると3階の窓がアーチになっている。レンガ造だと言われても納得してしまう姿だ。まあ鉄筋コンクリートだろうから昭和初期と言ったところか。
このあたりは阪神大震災で古いものは無くなったように言われるが、少し歩いただけでも結構古いものが残っていることを確かめることができた。特に戦後ビルについては今後よく検証していきたいと思っている。グレートサバイバーに敬意をこめて神戸散歩連載を終えよう。ありがとう。
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これもグレートサバイバーだ。ただ覆面化が激しくて古いものとは気づきにくいかも知れない。この場合は4階までは新建材で覆われているが、上層部が昔のままなので古いものだと気付く。帰ってから調べると1954年竣工だそうだ。
電電は日本の建築デザインを引っ張ってきた設計組織だ。戦後もやはりトップランナーであったことを、この建物を教えてくれる。この場合は安井武雄を彷彿とさせるモダンデザインだ。特に北側の搬入用バルコニーの扱いがかっこいい。
屋外消火栓、よい味出している。クリンカータイルの塗装も剥がしてやりたいとも思うが、タイルの上塗りもまた別の味わいがあってこれはこれで良いとも思う。
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阪神大震災に耐えたグレートサバオバーであることは確かだ。さて、いつごろの建物か分かりにくい覆面ビルの事例だ。こういうとき私は裏へまわる。正面は覆面されても、裏側は元のままであることが多いからだ。ここの場合はスティールサッシュが残っていた。その見た感じから1960年代の竣工ではないかと想像している。元の姿は西海岸に似合いそうなカジュアルなアールデコビルだろう。わたしが担当すればこうはしないだろう。なかなか良いビルだと思う。
なぜ1960年代だと分かるのか説明しよう。窓回りの枠取りが大阪天保山の商船三井築港ビル〈1933年)と似ている。だからこれが戦前の建物だと言われても納得するだろう。でも各種の近代建築リストに載っていないので、戦後である可能性が高い。そうすると建築ラッシュの始まる1960年代初頭かと想像したわけだ。今回このあたりを歩いてみて結構古いものが残っていることが分かったので、ひょっとすると1950年代までさかのぼるかも知れない。
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改修によって歴史的建造物であることが分からなくなることがある。とりあえずそれを「覆面ビル」と名付けよう。これは比較的分かりやすい覆面ビルの事例だと思う。見た感じでは1960年代の形であることがすぐ分かるからだ。ガルバリューム鋼板(アルミ入りのカラー鉄板)の外装材の下には古い壁面がそのまま残っているだろう。こういうものを見ると私は外装材を剥がしたくてウズウズする。
この建物は阪神大震災に耐えた建物だ。こういう建物を「グレートサバイバー」と言う。グレートサバイバーとは偉大な生き残りという意味だ。元々は激戦地からの帰還兵のことを言ったのではなかろうか。大震災の激震地での生き残りだからこの称号はふさわしいと思う。震災直後に元のまま建っている建物を見ることは、どれだけ被災者を励ますことか。だから改修するときは元の姿をできるだけ残すべきだと私は思う。
三宮京町ビル(旧神戸パナソニックビル)、1961年竣工(不動産情報より)
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前回のつづきを始める。いくつかのことを同時に考えているので整理してみた。3つある。
ひとつは博物館の隣になぜ東京美術学校があるのかということ。ふたつめは山本治兵衛が江戸の建築文化を明治へ架け渡したこと。三つめは宮内省営繕が国会議事堂の準備をはじめていたこと。3つめはすでに述べた。2つ目は前回触れたが多少補足しておく。
当時の文部省営繕はおもしろい。トップは工部大学校(現東大建築学科)の出身ではなくフランスで建築を学んだ山口半六、その下に工部大学校出身(まだ工学寮工学校の時代)の久留正道、その下に江戸立川流の流れを汲む山本治兵衛とバラバラだ。出自も経歴もバラバラなものたちが集まってチームを組んでいるのがおもしろい。まだ若いので内にひそめた矛盾より情熱のほうが勝っていたのだろう。
国際こども図書館(旧帝国図書館)、1906年、久留正道・真水英夫・岡田時太郎設計
黒田記念館の隣で大掛かりな工事をしていて覗きに行ったところ華麗な図書館があり驚いた。朝から驚いてばかりだが、さすが東京はすごいと正直思った。岡田時太郎のこともよく知らなかったが、この人も山本治兵衛と似た経歴らしい。大学出ではなく現場たたきあげの建築家だ。工部大学校の本館建築を山口半六の下で担当し、その後辰野金吾に引き抜かれて日銀本店の現場を担当したそうだ。この図書館を担当したときには独立していた。
真水(まみず)のこともよく知らなかった。1896年工部大学校卒の若手で1896年に文部省営繕に入った。上野には文部省の所有する広大な敷地があったようだ。そこへアジア最大の図書館を建設する話が持ち上がり真水が担当することになった。彼は1898‐99年にアメリカへ渡り最新の図書館事情を調べている。
大阪の中之島図書館が1904年竣工だから、ほぼ同時に東西で同じような計画が進んでいたことになる。大阪は住友家の寄付で、住友の営繕担当だった野口孫一がやはり渡米して現地調査を行っていた。ただの文書館ではなく近代的な図書館というシステムを理解するためにはそれぐらいしないとだめだったのだろう。
大阪は万事うまく行ってめでたく完成したが、東京は計画が一旦とん挫したらしい。予算縮小のため規模が計画よりも小さくなった。もともとはロの字型プランだったらしいが建ったのは右の翼部だけだった。正面玄関は着工されず未完の図書館に終わったわけだ。道理で入り口が分かりにくいと思った。
こども図書館のサイトでは和風要素を入れたかった真水の希望が入れられなくて工事途中で辞任したように書いてあるがそうだろうか(参照)図書館の着工が1900年、辞任が1902年だから間が開きすぎているだろう。辞任の理由は日露開戦を前にしたさらなる予算縮小によって現場が混乱したためと考えるのが自然だと思う。普通なら工事が終わってからやめればよいのに、それができないくらい文部省営繕そのものが混乱したのだろう。もともとバラバラだった組織が本当にバラバラになってしまったように私には見える。
その混乱を収拾したのが岡田時太郎と山本治兵衛だった。それまでこの計画と何のかかわりもなかった二人が工事途中の現場に着任してどうやって工事を立て直したのだろうか。とても興味深い。
また話が長くなったので続きは次回に。
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国立博物館の隣が東京芸大だった。今まで上野という場所を知らなかったので、なぜそうなっているのかすぐには理解できなかった。建物を順に見ていくことでそれに気づく。
角には国会議事堂に似た駅が残っている。先日ツイッターに友人がアップしたときは駅だと思わず銅像台座だと思った。近寄ってもしばらく駅と気づかず説明書きをよんで驚いた。地下鉄線の地上出入り口だそうで2004年に廃止になったとある。中村俊二については知らない。ウイッキによれば博物館の敷地に当たるので中村が設計したように書いてある。だったら中村って宮内省関係じゃないのか。宮内省営繕は国会議事堂設計で活躍するから、これが国会議事堂に似ているのは偶然ではないのかも知れない。
駅の前には黒田記念館がある。黒田は東京芸大(当時東京美術学校)の先生だった画家だ。校舎の転用かと思ったら最初から美術館として建てられたそうだ。帰って調べると設計は岡田だった。岡田は東京芸大の先生だった建築家だ。記念館は見てのとおりの新古典主義だが、列柱まで同じ色のタイルで巻いているのはすごい。こういう柱は初めて見る。全体に同色でまとめている。新古典主義らしい押し出しの強さが無いのはこのカラーリングのせいだろう。当時の博物館は宮内省が管理していたから、悪目立ちしないデザインにして皇室への尊崇の念を表したのだろう。地味な古典主義もかわいい。中に入ってみたい。
記念館の向いに木造の奏楽堂がある。元からここにあると思ったら大間違いで「上野公園内の西四軒寺跡」からの移築だそうだ。それがどこなのかは知らない。
山口半六は兵庫県庁舎の設計で知られる。彼は東大出ではなく苦学した後、文部省の公費留学生としてパリで建築を学んだ。帰朝後は文部省の仕事を多く残したが42歳で亡くなっている。わたしは山口のことをあまり知らない。御堂筋の計画をしたというから多彩な方だったのだろうぐらいの認識だ。ただ奏楽堂を見たとき山本治兵衛を思い出した。山本の設計だと言われてもそうだと思うだろう。
山本は奈良女子大記念館(1909年)で有名だが、わたしは京大医学部旧解剖学教室講堂(1901年)が好きだ。階段型教室をじょうずにはめこんだ木造2階建てで、とてもきっちりできていて見ていて気持ちがいい。山本は銀座レンガ街建設のときに旧幕府系の棟梁立川知方に建築を学んだそうだ。大学でではない叩き上げの建築家だ。文部省に来たのは1897年だから山口の元で働いたわけだ。彼の堅実さは山口ゆずりかも知れない。
久留を「くる」と読むのも初めて知った。説明書きに英文もあったので分かった。彼はシカゴ博の日本パビリオン「鳳凰閣」(1893年)の設計者だ。文部省営繕の建築家として紹介されることが多いが、わたしは鳳凰閣の印象のほうが強い。それを見てライトは日本建築に興味を持ち帝国ホテルの原型ともなったと言われている。久留は1897年に文部省に入っているから、それまでシカゴ博のような農商務省関係の仕事をしていたのだろう。博覧会場である上野に似つかわしい建築家というわけだ。
長くなりすぎた。書きながら考えているのでしかたない。つづきは次回。
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長谷部鋭吉設計だそうだ。誰だろうと思っていたがウイッキに載っていた。竣工は1951年とあるが定礎石は1950年だった。外装は窓が入れ替わっているように見える。ていねいな改修なので元の印象は残されているのではないか。
列柱を並べるが柱の角をとって細く見せ、白いトラバーチン(サンゴ石灰岩)を使って軽やかに見せている。1,2階が垂直、3,4階が水平をそれぞれ強調したデザインなのにきれいにまとまって見えるのはさすがだ。
通りがそれほど広くないので丸窓のある角がよく見える。円は目を引くのでそこが建物を見る起点となる。3階が丸窓ふたつなのでまずそこへ目が行き、そのまま正面の連窓へ視線を誘導してくれる。そんな風なことを考えて設計したのではなかろうかと思った。
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不忍の池を過ぎても上野大仏、五条天神社、花園稲荷と上野の聖域性は今も健在で驚いた。そのあたりで、ここは江戸でも最大の聖地だったと気づいた。そして動物園の入り口の前に出る。突き当りには巨大な東京国立博物館が見えた。
動物園も博物館も上野が博覧会場だった名残りだ。維新政府は上野の聖域性をぶちこわそうと博覧会場を作ったが、150年経った今でも上野は聖地であり続けている。けっこう不思議な場所だ。江戸で最後まで維新政府に反抗した彰義隊が上野の森に立てこもったのも象徴的な意味があったのかも知れない。
あたりはもうすっかり明るくてたくさんの人が歩いている。通勤の近道をしている人が半分、ジョギングや太極拳をしている人が半分だ。たぶんこの瞬間で2000人くらい上野公園にいるだろう。ニューヨークのセントラルパークの日常風景と似ているのではないか。
東京国立博物館はやっぱり中に入りたい。門扉に鼻をこすらせながら覗きこむ。本館もいいが左の表慶館がかわいい。片山東熊かと思ったらそうだった。さすが片山だ。でも斜めに覗くのでよく見えない。どうしてもっとよく見えるようにしてくれないのか。右の東洋館もモダニズムで良い。前川国男かと思ったら谷口吉郎だった。ああもっとよく見たいよ。
通報されてもいけないので(実は3時間後に職質された)離脱した。ここはまた何年か先に東京へ来ることがあれば訪れよう。本館階段室のモザイクはぜひ見てみたい。
隣にとてもかっこいい門があった。柱の上部に雷文(らいもん)がついている。こんな門は見たことがない。なんと江戸らしい「けれんみ」に満ちたデザインだろう。因州池田藩邸の門を東宮御所のために移築したと説明書きがあった。因州(いんしゅう)ってどこかと思ったら因幡(いなば)の国だった。ここに東宮御所があったから表慶館が宮内省の片山が設計したわけだ。なるほどね。
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修復が終わってから初めて来た。古いものを上手に残した再生だ。古いものをよく分かった人の再生は見ていて気持ちが良い。
館内を自由に歩けるようになったのでようやく全体を理解できた。南側にトラックの進入口があり、その先にプラットフォームのような荷降ろし場がある。その奥に体育館のような部屋があり、そこが荷解き場だそうだ。どういう流れで作業されていたのかが分かればもう少し全体像が分かるだろう。資料室をちゃんと見ておくべきだった。
1932年置塩章(おしおあきら)設計だ。置塩は神戸高校(1938)のヨーロッパ城郭風のデザインが有名で、わたしのなぜこうなるのか不思議に思っていた。保存工学の西澤英和さんによれば、戦時に司令部となる公共建築に城郭風デザインが多いのだそうだ。それもあるだろうが、やはりわたしは置塩がこういうデザインが好きだったのだろうと思う。置塩の好きな「これ」とは中世でもヨーロッパでもなく結構正統な分離派様式ではなかったかと今回思った。それは正面階段室に如実に表れている。
ソフトクリームもしくは聖火のような階段親柱。トップのキャベツのようなモチーフが唐突でおもしろい。装飾分解もここまで来るとモチーフの意味など霧散している。その独自の世界観は童話的な象徴世界に達しているように見える。
ここで注目したいのは色使いだ。赤とグレーの大理石の色の対比がとても美しい。この対比が正面玄関ホールの明るく軽やかな印象を作り上げている。
さらに形に角張ったところがなく優しく包み込むような印象も与えてくれる。玄関ホールから見上げると階段の上げ裏がゆるくカーブを描いているのが分かる。よく見るとそれは3次元曲面なのだ。このとてつもなく難しい左官仕事が優しいデザインを支えている。
3次元曲面は図面化できないのでデザインできるものは少ない。またそれを実現化する高等な左官技術もいつも手に入るとは限らない。彼の不思議なデザインは神戸の優れた建築職人の技能に支えられて実現しているわけだ。この建築技術と建築家の構想力との融合が彼の特徴なのだと思う。
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上野は地名のとおり台地状の地形をしている。東側に上野駅があり西側に不忍池(しのばずのいけ)がある。私は南からこの台地に上った。
不忍(しのばず)という地名の由来はよく分からないらしい。不思議な名前だと思う。その池のなかほどに島があり弁天様が祀られていた。それと向き合うように台地上の崖上に清水観音堂があり小さな舞台を張り出している。その前に枝をくるりと輪にした松があり「月の松」と説明があった。水ー月ー観音だから月待ち信仰があったのかも知れない)。月待ち信仰については前に調べたことがある(参照)。
江戸時代はじめに天海が弁天堂を建てたそうだ。謡曲「竹生島」には波乗りウサギが登場するから、弁財天はウサギを使うのだろう。ウサギは大地の穴に棲むものだから金気ではなく土気だと思う。土気の作用つまり土用が観音の木気に働いて安産につながると考えるのがよさそうだ。天海は徳川家の子孫繁栄をここに祈ったわけだ。
弁天堂の北側に上野東照宮がある。上野の森は江戸を代表する太古からの聖域だったのだろう。徳川家はそこへ寛永寺を建てて聖域を独占した。明治維新になって徳川家や仏教のイメージを落とすために新政府はここを造成して博覧会場にした。そういう話だったのではなかったか。
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初めて中へ入った。中に税関の展示室があって受付で記帳すればいつでも入れるようだ。写真は撮ってよいと言われた。
設計者の大熊喜邦(おおくまきほう)は、建築学生の時代に武田五一に教わっている。それで武田の一番弟子みたいなものになっている。だからデザインも武田に通じるものが多い。
玄関ホールの吹き抜けがとてもいい。手すりは復元だろうが分離派風でとてもきれいだ。柱頭もあっさりしたもので、このへんのセンスは武田ゆずりと言うか武田好みとだ。床は本物のモザイクタイルで、うっとりするほど美しい。
ロの字に配置された建物の中央は天井の高い執務室になっていたが、今そこは中庭になっている。おもしろい設計だと思うが、もう少し古いところを残してほしかった。
多少残っている内部装飾を見ると、相当に装飾分解が進んでいることが分かる。これも分離派風の手法だ。武田好みというより、当時の若い人はみんなこんな感じだ。今から見ると分けわからないが、当時はこれがかっこよかったと感じられたのだろう。風変りだけどドイツロマン主義的なおとぎの世界に通じる装飾でわたしはおもしろいと思う。
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東京へ行ってきた。金が無いので夜行バスだ。着いたのは上野だった。上野は初めてだった。まだ朝の6時で真っ暗だ。9時には国会議事堂見学のつもりだったのでそれまで少しだけ時間がある。とりあえず上野駅がまだあるかどうか確かめておこうと思った。それが歩き始めたきっかけだ。そのまま2時間歩くとは思わなかった。おかげで上野のことがよく分かったのでメモしておく。
上野駅はちゃんとあったのでうれしかった。内部の修復は終わっていて今は外部の修復工事中だった。シルエットは神戸駅とよく似ている。これに大連駅を加えてわたしは駅舎の3姉妹だと思っている。驚いたのは正面出入り口が2段になっていたこと。普通に使う入り口は2階のもので、その下にもうひとつの入り口があった。なぜこうなっているのだろう。斜面に建っているのかも知れない。
上野駅の壁画も健在だった。端に猪熊弦一郎とあった。後で気づいたが香川県庁舎の壁画がそうだった。丸亀出身で東京芸大卒業らしい。人がいっぱい描かれていて力のある絵だと思った。
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2期生の卒業設計展を見てきた。全部見るのに3時間かかったがどれも興味深かった。設計の分だけ感想をメモしておく。ちなみに昨年のメモはこちら(参照)。
< 全体として >
今年の傾向はふたつある。ひとつは敷地の選択がとてもよいこと。鶴橋、曽根崎、加賀屋、香里園、正雀など都心からはずれた普通の町が多かった。そうした日常的な風景のなかに建築をはめ込むことによって、全く違う世界が見えてくる。そうしたワクワクした楽しさがあった。
もうひとつは緑化や農地、農村を扱った作品が揃ったこと。これは環境学と建築学の融合という住環境デザイン学科の目的に沿うもので歓迎すべき傾向だ。緑化という工学的なテーマを具体的な都市や集落のデザインとして提示してくれると思いもよらない風景が現れる。見ごたえのあるものが多かった。
卒計は自分で課題を出して自分で回答する自作自演だ。課題が難し過ぎると回答が覚束ないし簡単すぎると物足りない。だからこそ自分の力量を計るよい機会となる。わたしは課題を設定して回答を探すより、回答を用意してから課題を考えたほうがよいのではないかと思う。
年末に見せてもらったときは間に合わないのではないかと危惧したが、それがほぼ形になっていたことに驚いた。実によく努力したと思う。この1ヶ月の体験はそれぞれにとってかけがいのないものとなるだろう。楽しい作品をみせてくれてありがとう。そして卒業おめでとう。
< 個別に >
「天井川景観創生プロジェクト」
廃川となった草津川の一部を再利用する計画だ。断面模型やパースがとても分かりやすかった。川を挟んで旧市街と新市街に分かれており、それをこの施設がつなぐという街の読み筋も的確だ。土手をそのまま活かし、外見上ほとんど付加物がないところが良い。断面模型で示されたように土手は何層にも積み重ねられている。その地層の重なりはこの町の歴史そのものだ。付加物が少ないことは歴史的風景を尊重してそれを引き継ぐ覚悟がうかがえる。結びつけるものは新旧市街だけではなく新旧の歴史そのものだったのだろう。
「都会の中の懐かしい懐かしい田舎空間」
大阪の都心にバラック建築のような街路を作る計画だ。細街路を立体化するというアクロバティックでワクワクする楽しさがある。この計画はハワードの田園都市論の延長にある。田園都市はまるごとひとつのニュータウンだったが、この計画のおもしろさは既存の都心部に雑草がはびこるように細街路がつながっていくところだ。ダウンスケーリングによる共同建て替え事業の設計モデルと捉えることもできよう。円満字賞を贈る。
「ふと気づけば図書空間」
溜池を使った図書館計画だ。堤防側に図書館本体を建て、公園化された湖上に点在するパーゴラが閲覧室だ。本体は水引のように幾本かの筋を真ん中でギュッとつまんだ形をしている。この形は「結ぶ」ことを象徴しているだろう。湖上の島はいくつもの橋によってネット状につながる。これも「結ぶ」形だ。大きな本体を筋に分節して小さく見せ、湖上のパーゴラをネットでつないで大きく見せた。双方のスケールの違いを感じさせないよう上手くまとめ、その上で人と人とを「結ぶ」建築を表現した構想力を評価したい。
「まちの空間、まちの記憶」
造船所の去った元造船町がテーマだ。廃墟となった造船所に静止立体画像のようにかつての造船工と船とが現れる。町の一角は日常風景のまま凍結保存される。さまざまな記憶はコンテナに詰められてドックにストックされる。生きているのは年老いた造船工の小さなアトリエだけだ。この計画案には壮絶な喪失感がただよっていて私はどう評価したものか思い悩んだ。すでに各地で始まっている地域消失は生半可な再生策で押しとどめようがない。喪失感が切実であるほど成す術もなく立ち尽くしてしまうのかも知れない。その喪失感そのものを作品化したように私には見えた。街を考える上でこうした感性は大切だと思う。
「愛」
海上結婚式場の計画だ。円形式場の天井が動き自然に合わせて外光を変化させる工夫がおもしろい。式場に至る通路や小部屋も光の入れ方をさまざまに考えている。わたしは白井晟一の原爆堂計画案を思い出した。「祈り」の建築化は建築の原点だ。そのことに気づいているものは少ない。プレゼンが全部揃えばさらによくなる作品だと思う。
「SUBTLE POROJECT」
立体を積み上げて陰影を楽しむ装置だ。立体の各面の陰影が光線の当たり具合によって変わる。それが見る位置によって微妙に変化するのがおもしろい。わたしは光や陰を愛でる細やかな感性に驚き、同時に谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を思い出した。陰影が文化の深みを作るという谷崎の言説を我々はもっと真剣に考えたほうがよいだろう。小さな作品だが提議していることは大きい。
「ひっそりとした図書館」
図書館の庭園化がテーマに見える。本体を春夏秋冬の4棟に分けそれぞれを清水の舞台のように斜面に張り出させている。ほかに小さな読書室やパーゴラが星座のように散在しまるで天球図を見るようだ。山奥の密教寺院は建物配置がマンダラを表現しているが、それと似た操作をこの作品は行っている。大きなテーマを抱えながら、これ見よがしなところがなくあっさりとまとめた手腕を評価したい。
「独立起業を志す若者のためのシェアエリア」
人工地盤の上に卵型のシェルターが散在する計画だ。作品が大きな蜘蛛の巣もしくはカイコのマユのように見えるのは「孵化」をイメージしたからだろう。この場合の人工地盤は現実から浮き上がった非現実世界の象徴にも見える。孵化を前にした静かだが緊張感のある作品に仕上がったと思う。
「道へと続くスポーツ施設」
正方形平面の体育館とサーキットのような歩廊と組み合わせが美しい。ランニングコースである歩廊は敷地を超えて町のなかへ伸びていく。その先の普通の街路もコースの一部に組み込まれる。この作品には走ることを通して町を再構築しようとするおもしろさがある。元来街路は人が走ったり練り歩いたりできるものだった。都市祭礼やカーニバルでは都市を再生させるために街路を走ったり踊ったりした。しかし現代では街路を自由に使うことはできない。この作品はそれを取り戻そうとする試みに見える。
「香里ケ丘バス停コミュニティネットワーク計画」
ニュータウンのバス停をコミュニティ拠点に活用しようとする作品だ。カフェやギャラリー、自習スペースなどの小さな建築をバス路線がつなぐ。施設は魚、ビールジョッキ、サンドイッチなど直接的な形態模写が行われていている。ポストモダン建築を思わせておもしろい。ポストモダンには既成概念に対する反骨精神が底にあったが、ニュータウンという統制された都市にこうした造形が案外違和感が無く納まっているのがおもしろい。
「移住体験計画」
道の駅とバンガロー的な分散宿舎を組み合わせた作品だ。全体のまとまりが弱いのは、道の駅という機能と移住体験の関係があいまいだからではないか。また住まいを既存集落に割り込ませたほうが体験的な施設になった気もする。それはさておき地形に合わせて低層のおだやかなデザインにまとめたところは良かった。地形と環境の読み筋は確かなものがあると感じた。
「都心×食育×地産地消」
都心の野菜畑計画だ。畑は何層かの棚になっていて、それがロの字型のビルになっている。アーチを連ねたローマのコロッセウムのような外観が素敵だ。わたしはピラネージの空想建築を思い出した。植物に覆われる廃墟のイメージは「天空の城ラピュタ」がそうだったように文明の終焉を意味する。その終末的なイメージのなかに農業再生という真面目なテーマを仕組んだのがよい。大阪梅田の曽根崎小学校跡という戦後闇市の風景が今も活きる場所を敷地に選んだのも的確だ。円満字賞を贈る。
「都市の生態系ネットワークを育む」
都心に大規模なビオトープを作る計画だ。河川の再生、高速道の緑化など手法ひとつひとつは目新しくないが、それを一気に集約してイメージ化すると圧倒的なおもしろさになることを示してくれた。出入橋の埋め立て運河を復活させるアイデアもよい。高速道が植物に侵食され、それが都市全体に蔓延するようすはゾクゾクするおもしろさがある。
「街中にセカンドルーム」
京都は早くから管理組合運動の盛んな地域として知られてきた。共用部分として3団地共同の施設を作るこの計画もあながちありえない話ではない。施設内容を地域の祭りや防災などとからめれば別の展開もあったかも知れない。分散型のデザインは雑多なおもしろさがあり、トップダウン方式ではない住民自治の精神にもかなっているだろう。
「ツドイツナガル」
大阪のコリアタウンの一角に交流のための施設を作る計画だ。多機能を分節して庭と建物とが交互に連なる見通しと風通しのよいデザインにまとめている。それをポシャギという色布のパッチワークが彩り楽しい計画になった。陽を透かした色布はさぞかし美しかろう。地道な現地調査の報告もよくまとまっており、きっちりと手順を踏んだ設計であることも評価できる。
「介護の分散×商店街=開放」
下町の商店街に介護施設を分散配置した計画だ。大災害時に商店街が防災拠点となりうるのは、商店街組合がよく訓練された組織だからだ。それは都市の潜在力のひとつだ。その商店街が中核となり介護事業を再編することはさまざまな可能性を秘めているだろう。綿密な現地調査により商店街の連続立面を作りそこへ施設をはめ込み、さらにペーブメントとアーケードを夫している。地道な作業が結実して楽しい計画になった。
「Rhythm in Life」
プレゼンが間に合わず全体像が分かりづらいのが惜しい。大阪鶴橋の高架下をうまく使った大型ライブハウス計画だ。鶴橋を計画地に選んだ目の付け所がよい。ここは韓国系食材市場や焼肉店が密集する下町だが、そこへ大きな建築を差し込むと息をのむ迫力が出る。建物本体のどてっぱらを環状線が走り抜けるのもおもしろい。おそらく建物の外装は昔の芝居小屋を彷彿とさせるものだろう。もし完成しておれば迷いなく円満字賞を贈っただろう。
「生きる集落」
人工地盤を利用した集落修景計画だ。昨今東アジアで流行している風水建築の流れと見てよかろう。気の流れを復元し地域の再生を果たすという考え方は東アジアでは共通認識となりつつある。計画地の木造校舎の見事な石垣は土石流避けのように見える。地域の災害履歴を調べれば多少異なったデザインになったかも知れない。修景による集落再生の取り組みとして評価したい。
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辰野金吾はたいがい弟子の誰かと仕事をしている。だから同じ辰野作品でもものによって結構違う。それは担当した弟子の個性が強く出るからだろう。これは葛西萬司が担当〈1902年竣工)した。わたしはこの端正な日銀大阪支店が好きだ。当時の若手はヨーロッパの流行に敏感だった。後に葛西の担当した旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅、1918年竣工)などは相当おもしろいことになっている。1902年だとまだ弟子の個性が表に出ないのかも知れない。
多少付け加えると左右対称の新古典主義建築でありながら尊大なところがまったく無い。ほぼ同規模の中之島図書館と比べるとそれがよく分かるだろう。玄関ポーチは小さいし、それを支える柱はわざわざ2本に分けて1本を細く見せている。まるで避暑地の離宮のようなたたずまいだ。これは辰野がベネティアが大好きな中世主義者だったからに他ならない。中世主義とは中世のゴシック時代を理想とする考えで統制よりも連携を重んじる。列柱を立て並べるようなルネサンス以降の新古典主義の真反対の考え方だ。この建物は新古典主義のくせに地味なので総じて評価は低い。でもそこがこの建物のいいところじゃないかと私は思う。
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オリに呼び出された東市司は役所を出るところで大領と鉢合わせした。大領は百済との国境沿いの部族をまとめる族長のひとりだ。昔は武勲の誉れ高い英雄だったが、今はでっぷりと太り頭の薄いただのおじさんに見える。東市司は会釈をしてやり過ごそうとしたが後ろ手に捕まえられた。こうなったら逃げられない。太っていても体の切れは良いのだろうか。
「ちょっと待て」
「ああこれは親父殿」
大領は若いものから親父(おやじ)と呼ばれている。
「どこへ行く。民部卿がお見えになるぞ」
「いやその、例の目無し死体の件で」
大領はちょっと不思議な顔をした。
「おまえ、いつからそんな働き者になったんだ?」
東市司は何か言い返そうとしたが、日頃の働きぶりを知られているのであきらめた。
「まあいい。後で話があるからな」
「分かったよ!」
東市司はそう言うと、もう市場の人ごみに紛れた。大領は東市司が見えなくなってもしばらく市場のようすを眺めていた。百済攻めになったとして、若いものたちにいつ知らせてやればよいのやら。市場の奥から黒衣の一団が現れてこちらへ向かってくる。大領はため息をひとつ落とすと、気を取り直して民部卿を出迎えた。
民部卿の訪問は自国の宿営へ向かう途中に立ち寄った体裁をとっていた。だから誰もそれを怪しむものは無かった。しかし本当の目的は百済攻めの密談にあった。
高句麗と百済のあいだの辺境部族たちには姻戚関係があり複雑な利害関係を有していたが、大国への帰属については連携して柔軟に対応してきた。市場のネットワークを使ってそのときどきの情勢をいち早くつかみ、有利なほうへ自分たちを高く売ることに長けていたのだ。
晋帝国時代は百済方だったが今は高句麗側と百済側とに分かれていた。けんか別れしたわけではなく、そのほうが商売をするうえで都合がよいからそうしているだけだ。国家忠誠の気持ちが薄く、高句麗側からは節操がないと蔑まされてきた。民部卿は自らも辺境部族の出身であったためか、そうした偏見がなく市場への配慮も忘れなかったので大領たちの信頼を得ていた。
百済へ攻め込むのは彼ら大領たちの部族連合の役割だった。高句麗は表向きは動かず裏から援助する手はずだ。攻めると言っても百済本国の攻略ではなく、分かれている百済側の部族領域を接収するのが目的だった。つまり百済と高句麗とのあいだに新しい国が生まれるわけだ。
もちろんそれは高句麗の傀儡で百済攻めの拠点となる。そして新国の都はここ王険城が当てられるという。それは大領たち辺境部族にとって魅力ある作戦だった。燕は講和に本気らしいという情報が市場のネットワークからもたらされたことにより、大領たちは高句麗側と百済側諸族の盟約を一気に作り上げた。あとは開戦の合図を待つばかりだった。
合図は百済使の入城だった。折りよく来航している東晋の使いと合わせて謀殺し両国へ敵対姿勢を表明する。同時に大領らが百済側へ侵攻する。燕はそれを確かめて高句麗と講和し対東晋戦のための軍事同盟を結ぶのだ。しかしこの計略を知っているのは大領ら長老衆レベルのものたちだけで、東市司のような若いものたちにはまだ知らせていなかった。
「ではこちらへ」
大領は民部卿を迎えて一通りの儀礼を終えた後、役所背後の高床倉庫へ案内した。そのうちのいくつかが開錠されており民部卿はそのひとつに通された。藁で作られた土嚢のような袋が積み上げられている。大領がそのひとつを開けると、そこには幾束かの矢が詰まっていた。今、東市の高倉には百済攻めのための武器の一部が納められているのだった。
民部卿の側近の黒衣衆たちはいくつもある高倉を検分し、正しい量の武器が調達されていることを確認した。民部卿は高倉を降りながら大領に尋ねた。
「それで馬はいずこに」
「すでに50頭ほど。テドン川上流の牧に放しております。相当よい馬ばかりです」
「それは良かった」
「・・・ただ」
「どうしました? なにか不都合でも?」
民部卿は大領を振り返った。大領は言いにくそうに頭をかきながら言った。
「馬が早すぎて乗り手がおりません」
民部卿はあきれてものが言えなかった。言うべき言葉も作戦のどこを修正せなばならないかも思いつかず天を見上げた。春の青い空が広がっている。その深みから楽の音が舞い降りてきた。彼は今の状況を忘れて耳を澄ませた。市場のほうから楽に応じた太鼓が響き始めた。市場と天とは連動しているのだろうか。市場は律令制の下部組織であったが、ひょっとするとこいつらの方が天に近い存在なのかも知れない。
「そういえば、新羅の内偵はどうなりましたか?」
「倭人の巫女のことですな。それはわしの息子が探っております。もう戻るころかと」
「そうですか。ありがとうございます。まあ新羅に情勢を動かす力があるとも思えませんが」
「倭人が龍の柱を立てたといううわさは本当ですか?」
「まぼろしの類だと聞いております。まさか大巫も絶えたこの時代にそんな古代の術が復活するわけがありませんよ」
民部卿は大領とこまごまと打ち合わせをした後、黒衣衆を連れて役所を出ていった。それを見送りながら大領はかたわらの宿老に告げた。
「さて忙しくなるぞ。後であのボンクラを俺のところへ連れてきてくれ」
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昨秋、省エネ基準が新しくなった。5年ほど後にはこの基準が新築住宅すべてに義務化される。古民家再生は新築ではないので規制されるわけではない。しかし古民家の断熱改修がどの程度可能なのか気になっていた。そこで簡単なもモデルを考えて試算してみた。結果から言えば断熱材を使えばクリアできる。
< モデル古民家 >
小さな古民家を断熱改修するとして想定した。モデルは68㎡の古民家で茅葺を鉄板で覆っている。
< 断熱仕様の設定 >
仕様は計算しやすいよう選んだだけで、特にこれがよいと思っているわけではない。
天井 : 高性能グラスウール48K・100ミリ
外壁 : 土壁80ミリ、妻側と北側の3面はウレタンフォーム吹き付け50ミリ
床下 : 外壁を土壁で密閉して屋内扱いとし床断熱はしない。
窓 : 2重サッシュ、木またはプラスチックと金属建具、ガラスは単板ガラス+Low-E複層、障子付きとする。
ドア : 金属枠に木製建具(引き戸でできるかは要検討)とする。
< 計算結果 >
25年度基準は3つの指標で省エネ性能を評価する。それぞれの結果は次のとおりだ。
1.外皮平均熱貫流率
これはいわゆる断熱性能のことだ。基準値以下となりオッケー。
0.76 < 0.87(w/㎡K、京都市域の基準値)
2.冷房時の平均日射取得量
これは夏場にどれだけ熱が入るかの計算だ。基準値以下となりオッケー。
2.71 < 3.0(単位なし、京都市域の基準値)
3.1次エネルギー消費量
これは設備選択のことなので計算はしていない。特に問題なくクリアできるだろう。
< 課題 > まず、新建材を使わなければ改修できないということに抵抗感がある。プラスチック系は火に弱いし、ガラス繊維系は水に弱いのも問題だ。ケイソウドのような熱抵抗の大きい断熱左官材料をうまく使えればありがたい。
茅葺を計算に入れることができれば小屋裏で断熱ができて吹き抜けを残すことができる。茅の熱伝導率はどこかに資料があるのだろうか。
気密性をどう考えるか。基準は高気密を前提としているが、中気密程度でもよしとするような弾力的な運用が必要だ。
町家の場合は両隣が立て込んでいるので、このモデルのような外断熱ができない。計算はしていないが厳しい結果になると思う。実際は立て込んでいるので両壁からの熱の出入りは少ないはずなので、実状に応じた特例が必要だ。
今回は古民家の断熱改修を試算したが、伝統工法による新築の場合も同じような結果になるだろう。古民家の断熱改修については先駆事例もあるようなのでこれから調べてみたいと思っている。
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民部卿の一行が通るのをオリと族長は市場の雑踏から眺めていた。輿はワイ族の宿舎ではなく東市司へ向かったようだった。オリと族長のほかにワイ族の巫女が数人座っていた。そこは先日の問屋の店先で、きょうも荷の受け渡しをしている最中だった。オリは質問を続けた。
「この薬袋はたしかにあなた方のものなのですね。それで行方の分からないという方はどこで何をなさっていたのですか」
「それは姫様のお産の手伝いに」
「そうそう急に呼ばれて」
「わたしたちじゃだめなんです。ちゃんと方術の使えるものでないと」
死んだ巫女はワイ族のものだったことは確かだった。それにしても方術とお産とはどういう関係があるのだろう。巫女たちは言って良かったのだろうかと族長を見上げた。彼は話しを続けるようにとうなずいて見せた。
「お産と言っても本当のお産じゃないんです。モドキだそうです」
「そうそう、姫様はときどきそうやってお祀りをなさると聞いてます」
「お屋敷に上がった姉さまたちはめったに帰って来ませんからよく分かりません」
口々に話すので要領を得ない。オリはワイ族の言葉が分かるからかろうじて会話が続いていた。このものたちがあの静寂な舞を舞っていたとは到底思えなかった。
「モドキってなんですか」
「そうそう、モドキってなに」
「ホドキじゃなかったっけ」
「いや、それはモドキでしょう。ホドキは解くという意味です。モドキはものまねをするということです」
「へぇ!」
3人が同じ声、同じ動作で驚いた。方術は使えなくても相当に訓練された巫女集団であることは分かる。
「それであなたがたの言う方術とはどのようなものですか」
「龍を使うよね」
「そうそう、小さな龍だよね」
「ひとつ目の龍だって聞いたよ」
「ひとつ眼なのですか」
「そう!」
今度もそろった。そして巫女たちとオリは族長を見上げた。族長は片目だったからだ。それは古い戦傷だと聞いていた。でもなんとなく関係があるように思ったのだ。
「わしも龍の術のことは聞いたことがある。詳しくは知らん」
「そうですか。龍を使う方術は古代に絶えたと聞いております。さきごろ伽耶国のテグに龍の柱が立ったと聞きましたが、それもまぼろしの類で数日で消えたとか」
「方士さまは龍が出せますか」
「都の方士さまは龍が使えると聞いております」
「わたしたちも姉さまのように龍を見たい!」
「いや私は方士ではなく陰陽師生ですよ。でも少しぐらいなら似たことはできますが」
「ほんとうですか!」
こうも揃うと気持ちがよい。こうやって少しずつ巫女たちに乗せられているような気もする。
「それではお話しくださったお礼に私のつたない術をご覧にいれます。小さすぎて驚かないようお願いしますよ」
オリはふっと肩の力を抜くと眼前に指を立てた。そして目を天にあげた。指先を注視していた巫女たちも空を見上げた。まわりの雑踏の喧騒が一瞬遠くなった。そこには青い春の空が見えた。どこからか太鼓の音が聞こえてくる。それは市場のどこかで誰かが叩いているものなのか。遠雷のように空のかなたで響いているようにも聞こえる。巫女たちはそれをうっとりと聞いていた。
ほどなくオリは目線を指に戻した。そのとたん指の先から1匹の透明な龍が湧いた。それは数センチほどの小さな龍で角や手足も不分明なヘビのようなかたちをしていた。透明な胴体のなかで雷のような青い火がビリビリと火花を散らしている。龍は虚空を這うようにゆっくりうねりながら宙に浮かんだ。
族長は驚いて目をみはっていたが、巫女たちは目を輝かせて龍の動きを見ていた。遠く響くリズムが龍と巫女とを同期するのが分かった。いきなり巫女のひとりが立ち上がるとオリの手から龍をさらってくるっと舞った。残りのふたりも次々と立ち上がって旋舞が始まった。小さな龍はにこやかに回る巫女たちの手や肩を乗り移った。龍が笑っている。
「驚きました。ワイ族の舞がこれほどとは」
「わしも今まで知らなんだ」
巫女と龍との舞はまたたく間に人垣を作った。龍は巫女たちのあいだを飛び回るごとに少しづつ大きくなった。形もはっきりとして全体に青い色を帯び始めていた。
市場では往々にしてこうしたパフォーマンスが起こることがある。国柄も言葉も違うものたちが集中すると突然言葉を超えたなにかが発生するのであろう。今もまた突然の舞に各国のものたちが楽を付け始めた。太鼓や笛や弦楽器などめいめい持ち合わせていた楽器が天から響く龍の律を奏で始める。このパフォーマンスは龍が消えるまでのひととき市場を魅了したのだった。
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漆喰協会の鳥越さんから楽しい質問をいただいた。漆喰の材料は「消石灰・のり・麻すさ」の3種だが、この取り合わせに風水的な意味があるのかというものだ。消石灰は石灰岩を焼いてくだいた後で水分と反応させたもの、のりは海藻を煮詰めて濾したもの、麻すさは麻の繊維を細かくしたものだ。さてどんな意味があるのか。少し考えたことをメモしておく。
五行説は木>火>土>金>水と別の気を次々生み出していくと考える。また木>土>水>火>金の順で相手を滅ぼしていくと考える。このふたつの循環で世界を読み解こうとする考えだ。五行説は西洋の錬金術とよく似ていて、ある種のものを混ぜ合わせると別の新しいものが生まれると考える。この場合も何か新しいものが生まれた可能性はある。そこでまず3種の材料がそれぞれ何の気に属しているかを確かめておきたい。
まず消石灰だが、これは土気だろう。岩の状態なら金気だが、それを火で滅ぼしたので土気に分解してしまっている。そもそも「灰」は土気を代表する呪具だ。わざわざ「石灰」と名付けているので土気以外は考えられない。分解するとひとつ手前の気に戻ることは今まで考えたことが無かった。たいへん興味深い。
のりは木気でよいと思う。海藻の状態だと当然木気だし、それは金気の作用が無ければ分解できない。煮ただけでは木気のままと考えて良いだろう。麻すさは土気だと思う。ほこりのようなものは土気の呪具として用いられる。「すす」がそうで、年末のすす払いも春を呼ぶ祭事だと言われている。
そうすると漆喰の材料は土気と木気だということになる。実際は水でこねるので、ここへ水気を加えてもよいだろう。水気・土気・木気だと水気が木気を生み出す形になる。この場合の土気は土用と言って別の何者かを生み出すための触媒の働きをする。木気は春や生命の誕生を意味するからおめでたくて縁起がよい。
この取り合わせにはそうした意味があるのかも知れない。しかしわたしは単純に漆喰は土気で良いのではないかと思う。水気や木気よりも土気の量が圧倒的に大きいからだ。すさやのりが無くても漆喰は成立するのではないか。
土気の作用はふたつある。ひとつは金気を生むこと。漆喰の使われる土蔵は金蔵や米蔵だろう。わたしは米は金気だと考えているが、土気を使えばそうしたお宝を増やす呪術になる。また金気は水気を生むので防火の意味もあるだろう。漆喰の白は金気を、黒は水気を表すので漆喰を塗ることで土蔵の防火効果を高めようとしたのだろう。
もうひとつは水気を防ぐことだ。高倉であれば湿気を防ぐことができるが火に弱い。土蔵なら火には強いが湿気を寄せてしまう。そこで漆喰を使って防湿をはかったのではないか。ある種の防水シールとしての使いかただが、漆喰の用途は防火よりも防湿のほうに重点があったようにも見える。五行説は紀元前5世紀ごろに現在の形になったと言われるが、そのころに防水用の漆喰はすでにあったのかも知れない。
漆喰を易で読めばどうなるか。これはまた別の話なのでお望みがあれば書いてみたい。
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スケッチ教室で水彩絵の具の色見本を作った。絵の具は使ってみないとどんな色なのか捉えにくい。色見本を作れば自分が欲しい色を見つけてくれるだろうと考えた。私の持っている84色パレットを提供したのだが、自分でも忘れている色があって新鮮だった。ちなみにスケッチで使っているのは39色である。多少入れ替えてもよいかもしれない。
ホルベインの絵の具はずっとイギリス製だと思っていた。去年の忘年会で恩師に話したら、それは日本製だと笑われた。明治33年の創業で本社は大阪らしい(参照)。勘違いしていてごめんなさい。とても良い絵の具です。
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庭園から出た民部卿は門前で輿(こし)に乗った。4人でかつぐ神輿(みこし)のような乗り物だ。王険城の豪族たちは華美な輿を使ったが、民部卿のものは濃いグレーに金色という配色だった。伴のものたちも黒装束だったから、見ようによっては原色使いよりも派手かも知れない。
「東市へ行きます。話をしながらなのでゆっくり行ってください」
民部卿はそう言って御簾を下げた。左右に側近たちが随行する。それぞれ薄墨色の烏帽子をかぶっている。そのうちのひとりが輿に寄り添って報告した。
「燕へ送った使者はまだ帰りません。王宮に留め置かれているようです。随伴の監視役によれば首尾は良いようですがこちらの真意を疑うものが多いとのこと。こちらの決起を待つとの報告です」
「まあそうでしょう。わたしが王でもそう言いますよ。分かりました」
次の側近が報告を始める。
「百済使はまだ街道の途中です。周辺部族の饗宴を受けているようですが、数日後には王険城へ到着する見込みです」
「まだ時間が足りません。後何日か時間稼ぎしてください。百済使の入城は5~6日後にしましょう」
高句麗王は百済使と会うのを嫌がっていたから遅れる分には構わないだろう。その前にやらなくてはならないことが多すぎた。次の側近が報告した。
「百済密使はすでに東市に到着しており東市の内大臣と会見した模様です」
民部卿はふふっと含み笑いをした。
「おもしろくなってきましたね。内大臣が百済と通じていることを王の耳に入れてください」
輿は朱雀大街へ出た。幅60メートルほどの大通りだ。まっすぐ南へ続いており、南大門の先にテドン川がある。東市はそのほとりだ。4人目の側近が報告を始めた。
「伽耶への使いはまだ帰りません。監視役も不明です。露見して処分されたのかと」
「・・・失敗しましたか。使いと監視役それぞれの部族に弔意を。・・・丁重にお願いします」
民部卿の深いため息を側近たちは聞いた。外交は命がけだ。使いに出るものはそれなりの部族の若いものたちだった。戦時であるから失敗すれば命が無いこともある。そのこと自体大きな損失だが、それ以上に部族間の信頼関係を損なうわけにはいかなかった。民部卿は高句麗王よりも部族間の信望はあつかったのだ。
「倭国の巫女の居所はいまだ不明です。新羅軍に随行したのかも知れません」
5人目が報告した。
「金城へですか。大巫に会いにいくというのは筋が通ります。金城は内大臣が調べていますからいずれ分かるでしょう。・・・あれだけの怪異を引き起こす魔物ですからどこにいてもいずれ分かるでしょう。」
輿は南大門の前に至った。民部卿の一行と察した門衛たちが勢ぞろいして出迎えた。輿は止まり御簾を上げた民部卿は衛兵たちを見渡してうなずいた。王都の正門である南大門を守るのは辺境の民・ワイ族であった。ワイ族に限らず律令官は地方の弱小豪族出身者が多かった。中央豪族からは一段低く見られる彼らにとって民部卿の存在は心強かった。中央豪族たちが自分の部族のことしか気に掛けなかったが、民部卿はワイ族以外の辺境諸部族をも重用した。今の高句麗王が王位継承できたのも辺境諸部族の支持をとりつけたことが大きい。もちろんそれは民部卿の功績だ。
門は城壁の一部にうがたれた穴で日干しレンガの大きなアーチになっている、その上に2層屋根の楼閣が載っていた。民部卿を乗せた輿がその門をくぐるとき6人目の側近が報告を始めた。
「陰陽寮のオリ博士はすでに我が国のキャラバンと接触しました」
民部卿は輿の上から門衛たちを笑顔で閲兵しながらしばらく返事をしなかった。南大門が背後に遠ざかるころようやく民部卿はためらいがちに言った。
「ちょっと不思議です。オリの監視は続けてください」
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前からおもしろいと思っていた。これは保育所を併設する社会福祉団体の会館だ。書道教室などを開いている。法人HPには開設が1967年とある(参照)。香里団地が1958年だから既存の施設を引き受けたのかも知れない。
おもしろいと思うのは屋根だ。上の写真を見れば薄いひし形になっているのがお分かりだろう。ひし形は屋根が鉄骨トラスであることを示す。本当に鉄骨トラスなのか、それともそういう風を装ったデザインなのかは分からない。少なくとも当時、鉄骨トラスはかっこいいと思われていたことは確かだ。それは今見てもかっこいい。
何度か改修されている。どこが余分余分なにかは写真を見て考えてほしい。私の思う正解は次のとおり。
上部の赤い看板、2階東端(ふたつめ写真の手前階段の上)の張り出し増築、2階バルコニーのパネル。
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D37棟からD40棟までの4棟がポインテッド型、いわゆる星形平面の集合住宅だ。南に突き出した棟と北西、北東に突き出した2棟を階段室で連結している。各階3戸というわけだが、こうすれば各戸南面バルコニーを有するだけではなく3面に窓が採れるので採光通風に優れた理想的な集合住宅と言えよう。
これが長続きしなかったのは四方八方が窓だらけであるためだろう。プライバシー確保のため隣棟間隔を大きくせざるを得ない。したがって敷地当たりの人口密度は低くなる。それは下の案内板を見ればよく分かる。もっとも効率が良いのはD31棟からD36棟のように長方形プランを南面させるものなのだ。これはお天気の良い日にはフトンを干したいという欲求の優先順位が高かったせいだろうと思う。今の集合住宅は高層化しフトン乾燥機も普及しているから再び星形平面が登場してもいいのではないかと私は思う。2方向避難を確保するために連星型になるのかも知れない。
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