同志社クラーク記念館
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■ 京都のまちづくり(10) 2014.12.12
1.地図読みテスト、質問コーナー
2.宿題課題の講評
町角の動物彫刻の研究
1.なぜ町角にあるのか
考えられる理由はふたつ。ある個人がなんらかの願いのためにそこに置いたもの。個人宅の動物瓦などがそれに当たる。もうひとつは神仏への信仰のために神仏ゆかりの動物を境内に寄進したもの。これはこま犬が代表だ。ふたつめも個人の願いがきっかけなので、どちらも理由は同じだとも言える。問題なのは、それを隠さずに衆目にさらすのはなぜかということになろう。
2.見られることの意味
これは私の想像だが、おそらく見せることで願いを誓いに変えるのだと思う。絵馬はその代表で、公表することで願いは誓いに変る。おそらく誓いとは個人を超えて、公共性を獲得した願いになるのではないだろうか。
3.町角の動物彫刻と公共性
社寺の境内はそれぞれの所有地だが縁日が立つなど西洋の公共広場と似た機能を有している。そうした場所に動物彫刻が多いのは、そこが公共性を獲得した誓いの場所であることを示すのではないか。また、動物彫刻はそれぞれなんらかの信仰のシンボルとなっているが、それを登場させる祭りは臨時の公共場をつくり出し、多くのものがそれを見ることで誓いを新たにするのではないか。
よく出てくる動物彫刻
こま犬=神社全般(陰陽を象徴しその場所の気を調整する)、龍=社寺全般(気を象徴すると思われる)、こましし=まりし尊天(かげろうの化身、武家に信仰があった)、むかで=毘沙門天(四天王のひとつ多聞天)、鳩=八幡さま、カラス=熊野神、カメ=水の象徴(防火など)、ねずみ=大黒天、ウサギ=大黒天、波乗りウサギ=水の象徴? バク=平和の象徴(近江八幡のはな子など)、サイ=水の象徴
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最近クツシタがはきにくい。体が固くなったのかと思っていたらそうではなく、腹がつかえて体が曲がらないのだ。朝寒いので早くクツシタをはきたいのだが、手が足先に届かなくてウンウンうなっている。膝を折れば足先が近づくはずなのだが、こんどは足が腹につかえてひっくりかえりそうになる。ちょうどシロクマがぬいぐるみすわりをしてクツシタをはこうとしているところを想像してもらえばよい。いや、シロクマのほうが上手にクツシタをはくかもしれない。おすもうさんとか、どうやってクツシタをはいているのだろう。
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最近、ごはんのときに箸が持ちにくい。なにか悪い病気にでもかかったのではないかと悩んでいたが理由が分かった。指が太ったのだ。赤ん坊のような丸々とした指をしている。これじゃ箸もうまく持てないはずだ。
先日京都の地下鉄で写真家のKさんに声をかけられた。開口一番「太りましたね」と言われた。「円満字さんかどうか最初分かりませんでした」などと言って笑う。太り過ぎて人相が変ってしまったのだ。あまりにもあんまりな言われ方なのでダイエットの本気を出そうと決意した。
とりあえず「ラーメン」「カレー」「王将」の3種の外食は禁止だ。さらにコンビニにおけるチキンやポテチ類の買い食いも禁止する。現在82.5キロなので年内に80キロを割り込むことを目標としたい。
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■ 京都のまちづくり(9) 2014.12.05
1.地図読みテスト、質問コーナー
2.借家都市
2-1.マンション歴史紀行
マンションが建つ以前にそこに何があったのかを調べることで地域の歴史を調べることができる。壬生(みぶ)の場合ほとんど染工場(そめこうじょう)だ。中規模の染工場が多かったせいで、マンションも中規模のものが多い。マンションの規模を見ればその地域の産業規模を知ることができる。
2-2.ジェーン・ジェイコブスの経済都市論
ジェイコブスは「都市の経済学」(TBSブルタニカ1986年)で都市を富を生み出す装置とみなした。そして都市が経済装置である場合はそこで「輸入代替(インプロビゼーション)」と「技術革新(イノベーション)」が同時に進むと説いた。壬生ではたしかにそのふたつが同時進行した。
2-3.歴史的風景の展開
壬生は次のような順序で変化していった。
1.壬生村という壬生寺を中心とした近郊農村、1880年戸数170戸、人口569名
2.明治中ごろ、堀川沿いの京染業者が壬生から朱雀野にかけてスプロールする。
3.染業者たちが自前の学校を設立する。その卒業生たちのなかから数々の技術革新が生まれる。1886年茶染業組合が京都染工講習所を設立、1894年京都市染色学校に改組。
服部染工場 1890年卒、祖父藤七郎が紅染を発明、現在は綿布捺染、1907年菊月大島・尚美大島、1915年鶴舞銘仙、販路は国内・朝鮮・中国・インドなど>輸入代替が始まっている
横井染工場 1904年現地へ移転、輸入原料を用いた裏地染の最初>技術革新の一例
清水藤三郎染工場 1899年卒、裏地染、1904年染色機・再整機を導入し蚊帳染、1907年機械特許
安田熊合名会社 手染め、型染友禅250間、西九条に絹布捺染工場を新設、絹布捺染の最初
4.機械捺染はじまる。1898年五二会綿ネル操業、力織機300台の大規模工場、1899年英国アルザス社のローラー捺染機導入、大工場の立地と壬生の染工場地帯化が同時なのは、大工場からの下請け仕事が相当あったものと考えられる。
5.借家街の出現と都市計画道路の整備。1910年嵐電開通、1912年都市改造「三大事業」竣工し千本通りや四条通りを市電が走り、同時に電気と水道の整備も進む、1914-1918年第1次世界大戦による好景気、1916年服部染工場で機械捺染導入、1917年須原染工場で機械捺染導入、1918年壬生村を京都市へ編入、スプロールは隣接する西院へと拡大する。
大島 大島紬(つむぎ)鹿児島県産の絹織物のひとつ
銘仙 関東の秩父や伊勢崎が産地、太織り(太目の絹糸の織物、帯地などに使う)、茶地の紺の縞、天保期の倹約令の際に流行した琉球ツムギの輸入代替として始まる。
再整 Finishing、整理ともいい仕上げの工程、ノリ付けから乾燥給湿、幅直し、艶出しなど
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愛車のミニが走行中にエンジントラブルを起こし、あえなく搬送となった。この1年半ほどで3度目のエンストだ。今回はクラッチをはずすとエンジンの回転数が急上昇する現象で、こわかったのでエンジンを切って搬送依頼した。
昨年7月の最初のドナドナ http://www.tukitanu.net/2013/07/post-0148.html
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油性ペンを使い始めたのはほんの偶然だった。5月のスケッチ教室のとき説明用にノートと油性ペンを持っていった。その帰りに、このペンでスケッチできるのではないかと思いついて描いたのが始まりだった。かすれ具合がおもしろくて機嫌よく使っていたが、しばらくして本当にかすれて描けなくなった。今、油性ペンのキャップを開けっ放しにして2本目を作ろうとしているが、なかなかうまくいかない。かすれた感じのペンをどこかで売っていないだろうか。
2014.05.29/油性ペン(極細)、ワトソン紙(ハガキサイズ)、透明水彩/大阪市淡路
応募時の添付コメント
地蔵市場前のお地蔵さまはいつもきれいに掃除されていて真新しい花が供えられている。この風景はここが絶えず誰かによって守られていることを教えてくれる。この町の魅力の源泉だ。
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路地が複雑に入り組むのがこの町の魅力だ。歩いているうちになぜこうなったのか分かってくる。それは今は見えなくなっている水路のせいだ。小河川と農業用水の跡が道路になっている。さらに戦前の駅前開発部分が碁盤目状になので、その境界線上に変な形の敷地が生まれた。大規模な空襲には遭わなかったようで、戦前の建物が結構残っている。戦後の闇市で権利者が爆発的に増え、高度成長期に再開発できなかったことも複雑さを残す要因になったろう。この複雑さは歴史的な産物なのだ。
2014.05.28/油性ペン(極細)、ワトソン紙(ハガキサイズ)、透明水彩/大阪市淡路
応募時の添付コメント
淡路は路地が迷路のように入り組んだ魅力的な町だ。江戸時代の水路と街路の上に戦前の住宅地開発が行われてこうなったのだろう。各々の路地にある自家製キムチ屋やノコギリの目立て屋なども興味深い。
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