98式戦車「ガールズアンドパンツァー」第9話
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2014.08.14、大阪府岬町小島漁港、正面の島の上に小島住吉神社がある
小島と書いて「こしま」と読むらしい。「こじま」と濁音になる地名より「こしま」と濁らないほうが地名としては古い。今は地続きになっているが湾内に小さな島がありその頂上に小島住吉神社がある。小島がこの神社のある島を指していることは明らかだ。小島とは何だろうか。
検索してみてもっとも近いと思ったのは博多湾の能古島(のこのしま)だ。金印出土で有名な志賀島の手前に浮かぶ小島だ。能古島は残島とも書き、神功皇后が三韓征伐の際に住吉神社を残したからだという伝承があるという。ほかに残島(のこしま)という地名はあるようで、高潮でも頂上が海面に残るからだというような地名伝承もあった。創世神話で有名な大阪湾のおのころ島も残島だろう。
私は「こしま」は墓場だと思う。海民は島の洞窟などに遺体を置いたのではないか。京都の鳥野辺は古代からの墓場だったが、山の中腹に葬ることにより、死者を山へ送るという観念があったらしい。同じように小島に葬ることで死者を海へ送るのだろう。沖縄では海の果ての先祖霊の国をニライカナイと呼んだが、その死生観は日本海側や太平洋側など海つながりで広範に残っている。
神功皇后は応神天皇を腹に宿したまま三韓征伐に赴き勝利を得た軍神だ。彼女は出産をコントロールできたと言う。軍神と出産とがどう繋がるのかよく分からないが、神功皇后は子安信仰によく出てくる。だから先祖霊の帰る小島に住吉神社が祀られていることは辻褄が合う。
鳥野辺へ続く清水坂が死者を送ると同時に、子供を授かる子安の聖地でもあることは以前にも書いた(参照)。命は死ねば山へ送るし、山からもらってくれば子供が生まれる。墓場と子安とが隣合わせなのは、古代人が命というものをそう考えていたからだろう。だから私は小島の「小」は「子」なのだろうと思う。「こ」とか「のこ」とは命もしくは誕生を示す言葉なのではないか。
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ようやく休みが取れたので小島漁港へ釣りに出た。南海特急を降りて単線に乗り換え、終点から1時間に1本のコミュニティバスに乗り換える。ちょっとした旅行気分だ。自宅から3時間かかるが、交通費が往復で4000円と和歌山へ行くより安い。透明度は和歌山と同じくらいで期待通りだった。よい釣り場を見つけた。
9時半から3時間ほどサビキ釣りをした。強風だったがスズメダイなど小物ばかり33尾の釣果だった。本当に小物ばかりなので途中で飽きてしまった。釣りに来て釣りに飽きたらすることがないな。仕方がないのであたりを散策してみた。古くからの風待ち港であることがよく分かる。幕末の石鳥居と難波型こま犬のいる住吉神社があった。イナ待ち漁でにぎわった地域であるらしく、階段状造成の漁師住宅が並んでいた。よいところだ。
大工さんから竿をいろいろもらったので、その中で一番長い5.4メートルの竿を試してみた。これまで3メートル台の短い竿しか使ったことがなかったので、長竿に慣れることが今回の釣行の目的のひとつだ。実際伸ばしてみるとものすごく長くて重い。足場の悪い磯で使うのだろうが、よくこれだけ重い竿を振り回すことができるものだ。それでもしばらく使っていると片手で持てるようになった。でも竿を立てると風にあおられてひっくりかえりそうになる。風が強いと釣りにくい。
釣果はスズメダイ9~12センチ17尾、イサキの稚魚8~9センチ13尾、木端グレ9センチ3尾の39尾だった。サビキ釣りにもそろそろ飽きてきたので、次回はカゴ釣りか団子釣りに挑戦したい。
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あさっての釣行計画を立てている。お天気は良さそう。須磨海づり公園は近くて便利だが海がまっくろで魚影が見えないのがさみしい。今回は魚の見たい。以前強風で退散した由良海釣り公園は透明度抜群で申し分ないが電車で3時間もかかる上、交通費が往復で8000円ほどかかる。和歌山方面は透明度は高いが交通費の点で躊躇せざるを得ない。そこで大阪府南部の釣り場を検索してみた。岬町のとっとパーク小島は3時間弱かかるが交通費は往復で3000円ほどと手ごろだ。問題は魚が見えるかどうか。この先に小島漁港があり釣具店もある。魚が見たいなら漁港のほうが確実だろう。今回はサビキのほかカゴ釣りもやってみたい。
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生活スタイルの消失についてメモを書いたが、建築計画的なことでいくつか気になることがあるのでメモしておく。とくに考えがまとまっているわけではない。
前回のメモで散らかっている住宅に共通項が無いと言ったが、実はいくつか思い当たることがある。それが絶対的な理由ではないので改善されたからと言って状況が変わるわけではない。ただ、生活スタイル獲得のヒントになるかも知れない。
ひとつは庭がないことだ。庭と住宅との関係が絶たれていて部屋だけが孤立している。外部と内部の関係が消失していると言ってもよい。これは機能上は問題ないが、スタイル形成には大きく影響するだろう。人と自然との関係が無いことは想像以上に人を傷つけるのではないか。その代償行為として門前の花壇化が始まるように見える。ペットを飼うこともそうだろう。花壇化やペット飼育はうまくいけば混乱の収束へ向かうが、多くの場合混沌を深める結果になっている。
もうひとつは家事室の不在だ。とくに洗濯物動線が切れ切れになっている。もしユーティリティがあれば、そこが仮置き場になって他室が混乱するのを防ぐバリアになったろう。戦後の間取りは住宅公団の64年型あたりが典型だと思うが、洗面所が脱衣室件家事室になっていて、実際には家事室は不在だ。当時の一般的な借家の場合、洗濯機は玄関脇に置かれて洗濯物も玄関横の道路で干していた。一般市民が家事室の必要性をあまり感じていなかったことが家事室不在の原因だと思う。
あとテレビの置き場が決まらなかったこと。LDK内であることは決まっているが置き場所が難しい。窓際の角に置かれることが多いが、それは他の壁が家具で占領されているからだろう。しかたなくそのあたりに置かれることになるわけだが、実際の生活はテレビ中心となる。たとえば食事時に家族全員からテレビが見える位置に食卓が置かれる。ソファーがテレビに面して置かれ、ティッシュや新聞やリモコン類がそのまわりに散らばる。テレビ位置の不適正が部屋の混乱を増大させているように見える。
こうしたことがスタイルの消失化と関係があることは明らかだろう。しかし個々の事例を建築計画的に解決しても部屋の混乱がおさまるとは思えない。むしろ「庭」「洗濯」「テレビ」と言ったキーワードが新しい生活スタイルの理念とどう関わり、それを取り戻すのかそれとも排除するのかを考えるときが来ているように思う。ただし本当に新しい生活スタイルを獲得する必要があるのかどうかさえ私にはまだ分からない。
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少し考えたことをメモしておく。とくに考えがまとまっているわけではない。日頃、修理の相談などで他人の家に上がり込む機会が多い。それで気づいたのだが、訪問する住宅の十中八九が足の踏み場もない。それらの家に共通点があるわけではなく、広さや家族構成もまちまちだ。それでもほぼ8割の確率で足の踏み場もないほど散らかっている。これはどういうことか。
収納不足が理由でないことは明らかだ。そうした住宅はたいがいどこか一部屋が物置状態になっており、収納スペースとしては十分確保されている。たとえばそこへ棚を入れて完全な納戸として改修し収納力を倍増しても散らかった状態は改善しないだろう。なぜなら部屋にまき散らされているものは、家事途中の仮置きが大部分を占めるからだ。少し観察してみればすぐ分かることだが、そこにあるのはティッシュの買い置き、古新聞、各種リモコン類、洗濯物のカゴ、食材の買い置きなど手の届く範囲にあって初めて役立つものが多い。
収納万能派はそれじゃあ手の届く範囲に小さな収納をたくさん作れば改善されるだろうと言うかもしれない。それも少し考えれば分かることだが、それほど事は簡単ではない。たとえばティッシュや洗濯カゴを収納しては役に立つまい。たとえばゴミ箱を収納してしまえば使いづらいだろう。新聞ラックのような収納を作っても、わざわざそこへ置くだろうか。
一歩譲ってこの問題はよりよい収納計画によって改善されると認めたとしても、わたしはこの現象の原因を除去しない限りいたちごっこになると思う。いや少し違うか。わたしは収納問題には興味がない。この現象そのものの善悪にも興味がない。散らかっていることが特に悪いことだとも思っていない。わたしの興味はなぜ日本の住宅環境はこれほど散らかっているのかという理由にある。これはまっとうな建築学的なテーマだと思うが、このことに関する研究を見たことがない。日本の学者は日本の住宅環境を見たことがないのか。
とりあえず現象に「スタイルの消失」と名前を付けてみた。この場合のスタイルとは生活スタイルを指す。一般の日本人には生活スタイルが希薄だ。だから設計者の予想した使われ方がされない。普段こうしたスタイルの無い生活を送りながらすっきりと片付いたモデルルームを見て住宅を選んでいる。そして自分が住宅を上手に使いこなせていないことにあまり気づかない。ここまでがこの話の前提だ。前提そのものへの異論もあるだろうが、わたしはその先を考えたい。
スタイルの消失は日本だけの現象ではなかろうと思う。ニューヨークの下町へ行っても同じようになっているのではないか。それはロンドンでもパリでも似たりよったりではないかと思う。アジアでもアフリカでも似たような現象が起きていると思う。消費社会共通の現象ととらえることもできるかも知れない。都市の貧困が現象に関わっていることは否定しない。しかしわたしはもっと別のことを考えたいのだ。この現象は心の深層に関わっているのではないか。深層心理学のユング風に言えば、この現象は個人の意識や無意識を超えた社会全体の集合的無意識の表現であるようにわたしには見える。
それではなにを表現しているのか。それは「バラバラになっている」ということしか無いのではないか。ものや行為をまとめ上げるスタイルが消失している。たとえばティッシュと古新聞、水筒と洗剤、もしくはテレビを見る行為と食事をする行為などそれぞれの関連性が失われてバラバラになっている。古典的な文明批判はそれを人間疎外と名付けて批判するわけだが、そう言い切ってしまうのはもったいない。この表現にはもっと肯定的ななにかが含まれているように思うからだ。それが何なのか考えているところである(こういう話は誰に聞けばよいのだろう)。
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