2013年3月 7日 (木)

謎解きはアーツになりうるか

 少し思いついたことをメモしておく。

 推理小説における謎解きは事件をありありと再現してみせることだろう。謎解き=再現であるわけだ。同じことがアーツにも言えるのではないか。アーチストの表現はなにかしらの再現であるように見える。

 たとえば絵を描くとき、それを描かずにはおれない何かがアーチストのこころの内にある。その何かを動機と言い換えても良いが、その動機が表現を生む。表現することでアーチストは癒されるのだろう。もちろんそれを観るものは彼のこころ内など知らないわけだが、作品のヒーリング効果が観る者にも作用することがある。観るものも作者同様に癒されることがあるのだ。

 たとえばスケッチをするとき、それは風景を再現しようとしている。そうせずにはおれない動機が作者にはある。だからその風景には作者の動機がプラスされている。同じものをスケッチしても作者によって絵が異なるのはそのためだ。絵画にとって具象とか抽象とかは表現の本質とはあまり関係がないように見える。

 たとえば日記のような文芸作品も当然アーツになる。日記をアーツとして捉えるならば客観的とか主観的とかもあまり関係なくなる。そこに記録されたものが架空の事象であっても一向に差し支えない。それを書かずにはいられないという動機が切実なものであれば、作品のヒーリング効果は発動するであろう。つまり観る者は作品を追体験する。

 アーツ=再現であるとすれば、極端な話「年間の降雨量記録」のようなものも作品になる可能性がある。記録=再現であるからだ。あらゆる記録は何かを再現することを目的としている。だからそこに記録せずにはおれない切実な動機があれば降雨量記録だってアーツ作品になり得るわけだ。

 今和治郎(こんわじろう)が下町の人間の持ち物を全てスケッチしたような表現も当然アーツと考えて良い。彼はそれを考現学と名付け世間では社会学の一部と捉えられているが本当はアーツなのだ。彼は紙の上にアリを這わせ、その軌跡を記録するという作品も残している。これなど社会学とはまったく関係がないが、けっこうおもしろい現代アーツだろう。

 どうやら私はふたつのことを同時に考えているらしい。ここまではアーツの形式についての考えだが、もうひとつ考えていることがある。

 自閉症の特徴のひとつに遷延(せんえん)言語というのがある。壊れたレコーダーのように何かを延々と繰り返しつぶやく行為だが、これこそアーツなのではないか。本人にとっては表現することで癒されるものがあるように見える。オウム返しすることで何かを再現しようと試みているわけだ。懸命に繰り返すようすから動機が切実であることをうかがわせる。再現しようとする音や言葉を聞いたときのこころの動きが大きかったのだろう。遷延言語は環境音楽に似ていると思う。

 ブログで日記を書いていると途切れることへの恐れがある。恐れと言ってもそれほど強いものではないが、恐れがあることは事実だ。おそらく記録することを止めると自分が自分でなくなる気がするのだろう。記録すること、再現すること、表現すること、こうしたことは同じことで自分が自分であるために行うのではないか。

 そんなことを考えている。

|

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210270/56903884

この記事へのトラックバック一覧です: 謎解きはアーツになりうるか: