2013年2月 9日 (土)

五行説メモ 正倉院の謎

 正倉院は現在屋根の葺き替え工事中で一般の見学は行われていない。先日、京都府建築士事務所協会の工事見学会があり、わたしは初めて正倉院を見た。想像していた以上にかっこ良くてうれしくなった。その感動とは別に風水的に気づいたことがあるのでメモしておく。写真公開は許されないので今回は写真抜きで書く。

 正倉院は東大寺の宝物庫で聖武天皇ゆかりの御物が納められていることで有名だ。年表は次のとおり。

 740 聖武天皇が行基の河内寺を参詣し大仏建立を発願する
 742 当時の金鐘山寺(現東大寺)で華厳経の講説完了
 743 大仏建立の詔、信楽で大仏鋳造を始める
 745 信楽の大仏鋳造を断念し現在地で東大寺着工
 752 大仏開眼供養
 756 聖武天皇崩御、正倉院に御物が納められる(このころには竣工していたと言われる)
 758 大仏殿竣工

 正倉院は東に向いて建っている
 正倉院は南北に建っていて入り口は東側にある。そんな基本的なことも知らなかったとは迂闊だった。

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 なぜ南北に建っているのか問題にする人が無いのが不思議だ。普通なら南面させて建てるだろうに。それとは別に正倉院の謎として取り上げられることが多いのは、なぜ中倉だけ校倉づくりで無いのかということだ。外観を見ればすぐ分かるが、校倉造りなのは北倉南倉の両端だけで中倉は板壁なのだ。
 
 通説では建設当初中倉には壁が無かったとされる。中央が作業スペースで、そこから南北両倉へ搬入するというのなら分かるが、入り口は最初から東側だったらしい。それなら中倉部分はデッドスペースだったのか?というわけで正倉院最大の謎となっている。

 正倉院を易経で読む
 わたしは南北に建っているのは易の爻(こう)であるように見える。というかそれ以外に説明できない。易の八卦は3本の陰陽の組み合わせで示すが、それは上下(南北)に並べて示す。たとえばこんな感じだ。
 
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 直線が陽気で、真ん中に切れ目が有るのが陰気だ。3段に並べて上から天人地と呼ぶ。世界が天界、人界、地界に分かれているからだ。正倉院が南北になっていて3つの倉があるとすれば、それは天倉、人倉、地倉の3つなのだろう。それは少しでも易経を知っている奈良時代の知識人ならすぐに分かることだ。

 では、易経で読めば正倉院は何になるのか。聖武天皇御物が納められた北倉は陽気であろう。同じく校倉づくりの南倉も陽気だと考えるのが妥当だ。納められていたのは何か分からないが、天人地の天に当たるわけだから仏教関係の宝物だったに違いない。わたしは華厳経が納められたのだと思う。

 洛書後天図との一致
 もともと寺院の正倉にはお経と仏具を納めた2棟があるという。この場合、聖武天皇の御物の大半は大仏開眼供養関係の仏具なので、正倉2棟の構成と同じだ。では他に類を見ない中倉には何を納めたのか。わたしはそこには「人」が入ったと思う。

 お経と仏具はどちらも陽気のものだろう。つまり中倉が陰陽のどちらになるかでふたとおりの意味に分かれる。つまり陽陽陽なら「天」だし、陽陰陽なら「火」だ。宝物を納める正倉院が危ない「火」であることはあり得ないと思う。だからここは「天」なのだろう。

 そう考えると説明のつくことがある。それは正倉院の位置が大仏殿の乾(いぬい)の方角にあることだ。洛書後天図(九星図)によれば乾は八卦のうちの「天」に相当するのである。

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 正倉院最大の謎を解く
 ここまでは普通に考えて分かることだと思うが、ここからは私見だ。わたしは中倉に配置された人間とは道鏡ではないかと思う。こうすると仏法僧が3倉でそろう。そろうことで正倉院は「天」の意味を発動させる。中倉がほかの2倉と違って校倉造りで無いのは、そこが倉ではなく儀式の場所であることを示しているのだろう。

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 大仏殿竣工以後の年表はこうなる。

761 道鏡が少僧都になる。
764 仲麻呂の乱、道鏡が太政大臣禅師になる、孝謙上皇西大寺を発願、孝謙上皇が重祚し称徳天皇となる
765 西大寺建立
766 道鏡が法王となる
769 和気清麻呂事件
770 称徳天皇崩御

 わたしは正倉院が現状のような形になったのはこのころだと思う。当時の中倉は倉ではなく蔀戸の入った寺院の形式だったように思う。これも行ってみて初めて気づいたことだが、正倉院は西を望む崖の上に建っている。そこからは平城宮が一望できる。わたしはそこで行われた仏教儀礼とは平城宮の安寧を祈るものだったように思う。

 東大寺と平城宮は東西一直線に並んでいるが、その延長線上に西大寺ができた。平城宮は東西軸で護られたわけだ。その軸に気を送る祈祷所がこの場所だったのだろう。正倉院はただの倉庫ではなく、東西の大寺をつないで平城宮を守護するための呪具として構想されていたように私には見える。

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 東大寺は最初から東大寺と呼ばれていたわけではない。西大寺ができたときに金光明寺(きんこうみょうじ)から東大寺に呼び名が変わった。それを仕掛けたのは称徳天皇なのだから、最初に正倉院へ父親の形見を納めたのも彼女だったのだろう。母親が無くなるとその形見も追加している。御物を天ではなく地へ配置したのは肉体が大地から生まれるという考えからきているのだろう。先祖霊礼拝の手法である。

 道鏡が追放されて中倉の祈祷所は閉鎖されたろう。板張りになったのはそのときのように思う。同時に祈祷所としての記録も廃棄されたのだろう。道鏡がらみの記録を消したために正倉院の創建事情も不明になってしまった。中倉は再び祈祷所として使われることも無く、その後都は移り西大寺は荒廃した。今では御物は正倉院から取り出され空調完備した収蔵庫に移されている。正倉院には謎だけが残った。

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