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2011年8月

2011年8月31日 (水)

古墳時代(6)

 今朝は時間が無いので手短に。空白の4世紀と言ってもまったく史料が無いわけではありません。百済本記などの三国史記、広開王陵碑、日本書紀など残っています。日本による朝鮮支配の根拠のひとつに上げられた広開王陵碑は日本軍が改ざんしたという説もあり、各史料の信憑性をめぐって定説があるわけではありません。三国史記は高麗が1145年に完成させた史書で、朝鮮で現存する最古の歴史書です。日本でも大きな図書館ならあると思う。梅原猛が史書と日本書紀とをつき合わせて復元した古代史はわくわくするようなおもしろさでした。

 以前は三国史記を使った年表はあまり無かったように思いますが、今は普通に使われています。わたしが今使っている「日本史年表」(東京芸大日本史研究室編、1996増補2版)も、4世紀は空白でもなんでもない。100年のあいだに10項目上げられています。それを読みながら物語を進めてみましょう。

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2011年8月30日 (火)

古墳時代(5)

 古墳時代がいつ始まったのかはそれほど明確ではありません。通説では4世紀が始まるころとされています。卑弥呼が3世紀半ばですが、魏志倭人伝には卑弥呼の墓は円墳のように書かれています。考古学的には4世紀はじめごろには前方後円墳が増える。ですから3世紀後半から4世紀はじめにかけて、古墳時代つまり大規模開発の時代が始まったと考えて良いでしょう。

 さて、中国で帝国が成立すると東アジア情勢は安定するようです。唐と平安朝、宋と鎌倉幕府、明と江戸幕府という具合です。では4世紀ころの中国はどうだったかと言えばバラバラになっている。卑弥呼のころは三国時代と言って、魏呉蜀に分かれている。3世紀後半には晋が統一をはたし久しぶりの帝国が出現しますが、4世紀に入ってほどなく破綻し五胡十六国時代となる。三国よりもバラバラになってしまう。その結果中国は朝鮮半島から撤退しました。極東アジアは、半島北部の高句麗(こうくり)、東部の新羅(しらぎ)、西部の百済(くだら)、そして半島南部の伽耶諸国と日本列島の倭(わ)に分かれるわけです。

 帝国の分裂と古墳時代の始まりとは関係があるように見えます。大規模な開発が可能になるとは、農業土木の分野で技術革新が行われたことを示しますが、その技術は帝国の分裂によって技術者とともに周辺諸国へ拡散したのでしょう。技術というか文明は、統合されないと意味がない。技術が大きければ大きいほど、蛍光灯1本足りないだけで機能不全に陥ります。おそらく帝国の分裂によって、晋の植民諸都市の機能が緊急停止したのでしょう。そこで地元の酋長たちとの合同で生き残ろうとした。それは暫定的な措置であって、中央が復活すればまたそこへ統合すれば良い。そういう危機管理のできた植民都市は生き残り、そうでない都市は滅んだと思われます。

 半島南部はもともと、馬韓、辰韓、弁韓の3国に分かれていました。中国勢力が撤退して馬韓が百済に辰韓が新羅になったのですが、弁韓地方にはそれを統合する王朝が表れなかった。これはどういうことか。わたしは豊富な鉄資源があったからだと思う。帝国のシステムのうち鉄を扱う部分が生き残っていたと思われます。資源の採掘技術は文明の基礎ですが、農耕技術と違って秘匿性が高い。山師という言葉が今では詐欺師まがいに使われますが、もともとは鉱山技師のことでした。その技は一子相伝される秘密だったがゆえに、外から見ればうさんくさく見えたわけです。そんな帝国の技術が弁韓には生きていた。それを担当する現地部族が金官伽耶と呼ばれる小国でした。

 金官伽耶というのは、金氏の治める伽耶という意味です。金氏の先祖は金の卵から生まれたとする出生譚があります。卵は6つあって、それぞれ伽耶諸国の王となったが、そのうちのひとつが金官伽耶というわけです。この場合の「6」は「六白金星の天」の6に合わせように見えます。易では大地を示す数字もまた6ですから、大地の採掘に関わる金官伽耶にちょうど良い。採掘する者の名前が「金」というのもちょうど良い。いろいろそういった易的な、というか道教的な呪いがこの小国には加えられているようです。

 話がそれました。金官伽耶という小国はその特殊な技術のゆえに、どの国も手が出せなかった。まさに金の卵を産むニワトリのような扱いだったわけです。もしここが停止すると、せっかく始まった大規模開発が進められなくなる。でも他国に独占させるわけにはいかない。帝国の置き土産をいったいどうすれば良いのか。4世紀の極東アジア情勢はこの小国をめぐって混乱していくのでした。

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2011年8月29日 (月)

古墳時代(4)

 米が最初赤かったというのも都合が良い。なぜなら天神に供えるものものが易の8枚のカードの内の「沢」だとすれば、それは九星図では「七赤金星の沢」であって赤いからです。「天沢履」という易の形は、稲作の農耕システムに最初から組み込まれていたように見えます。

 さて、弥生時代は後期に入って米の収量が拡大したと考えられています。そうした遺跡ばかり出て来る。大規模な集落跡と巨大な穀倉、そして水田そのものの遺跡も出てきている。有名な登呂遺跡は、水田と集落とがセットで出土しました。当時の水田は、緩勾配の扇状地を開いて作られたもので、畦が今より細かく畳2枚分ほどのものでした。勾配がありますから細かく区切って水を溜めやすくしているわけです。ですから水の入る側の畦はなかった。まあ、風景としては今の水田とさほど変わりません。一面の青い穂が風にたなびく風景は美しいものです。穂先が色づくころ雷が鳴る。それは大地との交接だという説がありますが、むしろ易の「雷地豫(らいちよ)」の形だと思う。豫というのは音楽で喜び楽しむかたちです。五穀豊穣への言祝ぎです。弥生人は雷神に言祝がれた雷人でありました。この場合の音楽は銅鑼や太鼓でしょう。今でも秋祭りの主役が太鼓であるのはここから来ているのだと思います。

 原野を切り拓いて水田を作るというイメージもあるでしょうが、実際は焼き畑農地の水田転用だったでしょう。大規模と言っても奈良時代のそれよりは小さい。ひとつの谷地を水田化するといったものです。拓かれた田は雷神に捧げられ、秋には雷神に言祝がれた黄金色に輝く穂がたなびいた。雷神たちは平和を愛する人たちだったはずです。歴史では経済の成長が生み出す余剰をめぐる争いの結果、ムラが統合されてクニができるとするのですが、それはマルクス流の経済モデルであってイメージとしては受け入れがたい。当時はまだ、集落なり部族単位で雷神を祭り、相互の交流は平和的な交易によったと考えるほうが自然です。

 その開発が弥生時代の終末に当たって段違いに大きくなりました。おそらく奈良時代並の規模になる。焼き畑転用のレベルではなく、堤防を立て巨大なため池を作るようになった。時代は弥生時代から古墳時代へと移ります。わたしは古墳は水田とセットだったように見えます。古墳が水田を見下ろすような場所や水路の分岐点などに立地することが多いからです。つまり、古墳は専用墳墓ではなく、雷神信仰と関わりの深い祭祀場として構想されているのでしょう。

 さて、米の収量が増えたのは鉄器が増えたからと考えられています。スキやクワが増えて大規模な開墾が行われたと言う。でも本当は逆かもしれない。大規模な開墾を行うために大量の鉄資源を消費した。いったいその大量の鉄資源はどこから来ていたのか。それが朝鮮半島南部、慶尚南道にあったとされる伽耶(かや)の国でした。こうして泥沼の戦争が始まる。今も昔も戦争が始まるのは必ず資源がらみです。

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2011年8月28日 (日)

古墳時代(3)

 イメージ中心に語っていこうと思いますのでそのつもりで。まず米とはなにかということ。ここはあまり語られませんが重要だと思う。結論から言えば、米は人間のものではなかったでしょう。米は世界的に見ても不思議な食べ物です。今のような1粒で100人が養えるというのは大げさとしても、小麦よりは、カロリーベースで10倍ほどの差はあったでしょう。驚くべき作物です。

 米は天神のものだった思う。収穫された米はまず天神に供えられ、人間はそのお下がりをいただくものだった。米は他の食物とは違って、それを食べる行為も神事として行われたと思います。弥生時代、食事はもっとも初源的な宗教行為であったことでしょう。米を神聖視する考えは現代にも生きているように見えます。

 ですから水田は神田であったことでしょう。稲作技術は最初から天神信仰とセットであったように見えます。天神は雨をつかさどり米を実らせる水神であり雷神でした。それを祀る巫女は少女であったはずです。少女が天神を祀るというのは易経の天沢履(てんたくり)の形です。弥生時代の文化は、それまでの蛇神と巫女が結婚するというようなものから道教的なものへと変化したように思います。

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2011年8月27日 (土)

古墳時代(2)

 この話がどこへ落ちていくかを言うのを忘れていました。これは大化の改新って分かりにくいよね、というのが考え始めるきっかけです。もっと簡単に分かりやすい説明はないのか。そう考えると、その前の聖徳太子の物部討伐も分かりにくい。事象としては似ているのですが、そのとき討伐側だった蘇我氏が大化の改新では討伐される側になっている。いったいどうしたわけでしょうか。

 蘇我氏が消えて藤原氏が出て来る。そして急に都城という巨大な呪具が出て来る。そうしたことも一連の出来事だったのではないか。藤原氏が歴史を書いた時点で、いろんなことが抜け落ちているのではないか。このへんが連載の落ちていく先です。そこでまず前提となる世界観を考えてみた。それはおそらく終末的なものだろう。過去の栄光が消え、文明の残滓のなかでかろうじて生きている人と国の物語として語り始めたわけです。

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2011年8月26日 (金)

古墳時代(1)

 この夏に考えたことをメモしておきます。ある種の物語の背景もしくは世界観のようなものですが、物語にするには時代が長すぎます。というか、これ自体が物語なのかも知れない。

 弥生時代がいつ始まったのかは現在ものすごく動いています。わたしは紀元前3-4世紀に始まったと習いましたが、ウイッキでは前10世紀からとしている。炭素同位体測定もどこまで当てになるのやら。時代区分と同時に文明の順序も揺れています。昔は縄文時代は非農耕文化と当たり前のように言われていましたが、有名な三内丸山遺跡で豆類が見つかるなど焼畑農耕を行っていた節がある。わたしもそうだと思う。もともと狩猟オンリーの文化なんてマルクスの考えた経済モデルであって、実在するかどうかはあやしい。

 弥生時代になってから鉄器と稲作が入ってきた、というのもアウトになった。稲作は鉄器より前に入っているらしいことが分かってきている。いわゆる赤米で小規模栽培の呪的な作物だったようです。ただし、稲作が大規模化するのはそれほど古くないと思う。登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡が拡大するのが弥生時代後期です。2-3世紀あたりで爆発的に大きくなる。このころに稲作の技術革新があったと見るべきでしょう。

 稲作の収量拡大によってムラからクニへ拡大する、というのもあやしくなっている。それもやはりひとつの経済モデルであって、実際とは違うでしょう。わたしは収穫の爆発的な増大の後、米が採れなくなるのではないかと思う。なぜなら弥生時代後期から、泥沼の内戦状態へ突入するからです。それが古墳時代でした。

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